「日本の良心」石川三四郎(1)

石川三四郎は、日本が生んだ代表的なアナーキストである。それなのに彼の名前は幸徳秋水や大杉栄にくらべて,あまり知られていない。これには幸徳秋水が大逆事件で死刑になり、大杉栄が憲兵隊で虐殺されるという悲劇的な最期を遂げたのに対し、石川の方は、80歳の天寿を全うしたという事情もあるかもしれない。

ところで、石川の評判は、一部の知識人の間で大変にいいのである。家永三郎は石川三四郎を「国宝的人間」といっているし、師匠や先輩を「さん」付けでしか呼ばない鶴見俊輔も、石川だけは「先生」と呼んで特別扱いしている。秋田雨雀などは、彼を「日本の良心」とまでいっている。

私はこうした評判にひかれて、筑摩書房刊行の近代日本思想体系中の一冊「石川三四郎集」を手に入れて読んでみたが、一読して失望を禁じ得なかった。同書の冒頭には石川哲学の骨格を表現しているとされる「虚無の霊光」という論文が載っている。この題名には私自身の個人的な思い入れを強く刺激する面もあって、期待に胸を躍らせて読んでみたが、文中に聖書・中庸・論語・老子・王陽明からの引用句が雑然と並んでいるのが目につくだけで、彼の肉声を感じ取ることが出来なかった。

幸徳秋水や大杉栄は、どう書けば読者の心をとらえうるのかという文章を書くコツを心得ていた。即興的に書き流しているように見えても、彼等の書くものには確かな計算があったが、石川の書くものときたら、愚直で一本調子で、しかも文章には黴くさい古色があり、本を開いても直ぐに文章の中に入って行けないのだ。本人は段階を踏んで議論を進めているつもりでも、ところどころに論理を無視した漢学式の飛躍があって落胆せざるを得なくなる。

最初の期待が大きかっただけに失望も大きく、私は「虚無の霊光」を途中まで読んだだけで「石川三四郎集」を放り出してしまった。

話の中身はいいのに、話の進め方がまずいという石川論文の特長は、彼がさまざまな試験に連戦連敗だったということと関係しているかもしれない。英語を自在に使いこなし、漢学の素養も十分だったにもかかわらず、彼は中等教員検定試験・弁護士試験・司法試験・高等文官試験を受けて、このすべてに失敗しているのだ。読者の期待するようなパンチのきいた文章を書けなかった石川は、試験官の注文するような壺にはまった答案を書くこともできなかったのである。

ということになれば、石川が多くの識者を感動させたのは、その人格や生き方ということになる。私はその辺を探ってみたいと思ったが、手持ちの資料は三巻本「石川三四郎の生涯と思想」(北沢文武)中の一冊(上巻)だけだったから、どうにも手の施しようがなかった。

そんなときに、私のHPを読んだ亀田博さんが、石川に関する資料が欲しかったらインターネットの「日本の古本屋」で検索したらどうかと、石川の著作目録まで添えて助言してくれたのである。亀田博さんは日本における初期社会主義の研究者で、その方面の業績も多い方なのだ。

私は亀田さんの教示に従って、インターネット古書店を通して石川の著書を何冊か購入し、それらを通読してようやく彼の経歴と人柄の概要をつかむことが出来た。すると抵抗があって読めないでいた彼の論文集も、ちゃんと読めるようになった。以下に記すのは、目下石川三四郎を読みつつある私の、彼に関する中間報告といったようなものである。

 石川三四郎

石川三四郎は、明治9年に埼玉県児玉郡山王堂村の豪家五十嵐家に生まれている。
利根川の川べりにあったこの生家は、代々幕府特許の船着問屋を営み、独占的な利益を得ていた。石川は、自分の実家についてこう語っている。


村中の者がほとんど全部といってよいほど私の家で働く船乗りか、またはそれに連なる職業を渡世にしていました。

こういう豪家だったから、石川の父は維新後に戸長(村長)になり、自宅を村役場にして並ぶ者なき勢威を誇っていた。その三男坊に生まれた石川も、お坊ちゃん育ちの癇癪持ちという点では、人後に落ちなかった。彼は「食事のとき、お給仕の仕方が気にくわないと言っては、茶碗などを放り出したりして、女中を手こずらせた」と打ち明けている。

しかし石川の運命は少しずつ、暗転して行くのである。

彼は4才になったときに、徴兵を回避するために村内の石川半五郎の養子になった。徴兵制が敷かれた当座、一家の嫡男は徴兵を免除するという規定があったので、兵役を逃れるために次男三男が他家の養子になる風習が広く行われていたのだ。ところが義父の半五郎は、同年に死亡したため、彼は養子になった途端に戸主になった。そして、義母もその5年後に死去したから、石川は実質を伴わない戸主という肩書きを身につけたまま実家で暮らすことになる。

そのころ、実家は左前になり始めていた。
石川が義母を亡くす前年に、東京から高崎まで鉄道が開通し、利根川水運の船着き場で栄えていた村は、全村が失業状態になったのである。実家の受けた経済的打撃は最も大きく、後年、兄の代になると、家も屋敷も人手に渡ってしまっている。

実家が苦境に立てば立つほど、石川の立場は難しくなった。彼は、「三男に生まれた上、生まれると間もなく、形式的ながら他家の養子にされた私は、いわば一家の余分者でした」と苦々しげに述懐している。

余計者だった彼は、兄の犬三が大学進学のために上京し、母と弟も兄の世話をするという名目でそろって上京したときにも、石川だけが田舎に残されるのである。

そんな石川に手をさしのべる男があらわれた。

石川が14才になった晩夏のある日、洋行帰りの茂木虎次郎という青年が山王堂村の五十嵐家を訪ねてきたのだ。茂木は同郷の自由党員で、当時、廃刊になっていた「自由新聞」を復刊させる資金の調達に走り回っていた。五十嵐家を訪問したのも資金援助を依頼するためだった。石川の父は、板垣退助の崇拝者として知られていたのである。

来訪した茂木と応対したのが、石川三四郎だった。
茂木は石川と話をしているうちに、この少年が向学の志を持ち、上京することを強く望んでいることを知って、自分が世話をしてやるから東京に出てこないかと説得しはじめた。いかにも純情そうな石川が気に入ったということもあるけれども、国会議員選挙に打って出ようと目論んでいた茂木は、石川の面倒を見ることで名門五十嵐家との間にパイプを作ろうと考えたのだ。

こうして上京した石川は、茂木が留学仲間の橋本義三と共同で借りている東京の借家で玄関番をすることになった。

橋本義三も同じ埼玉県出身の自由党員で、将来国会議員になる夢を持っていた。二人のところには血気盛んな自由党員が次々に押しかけてきて連日連夜激論を交わし、これを見聞きしているうちに、石川も何時しか自由民権論者になっていた。

だが、茂木・橋本との同居は一年とはつづかなかった。「自由新聞」をめぐる内紛に巻き込まれた茂木と橋本は、地方に戻って再起を図るために、東京の借家を引き払うことになったのだ。東京を退去するに際して、茂木虎次郎は石川を友人の福田友作に預けた。彼は、田舎から石川を引っ張り出した手前、この少年を放置できなかったのである。

栃木県都賀郡の豪農の長男に生まれた福田友作は、茂木や橋本と一緒に渡米してミシガン大学で青春を共にした仲間だった。彼が郷里に帰れば洋行帰りの新知識として何不自由のない暮らしができるのに東京に残っているのには、理由があった。親に押しつけられて従妹と意に染まぬ結婚をさせられた彼は、この結婚生活から逃げるために渡米を思い立ち、帰国した後も中村敬宇の私塾で講師をして自活していたのだった。

福田は、茂木から頼まれると直ぐに石川を自分の借家に引き取った。茂木への友情から出た行動というよりも、彼が何事につけ大ざっぱでルーズな性格だったからだ。

石川にとって福田宅での居候生活は快適だったが、その福田友作も勤務していた塾が閉鎖になったために郷里に引き上げることになり、彼は新しい住まいを探さなければならなくなった。福田も責任を感じ、石川を友人の吉沢弁護士に預けてくれた。けれども、吉沢弁護士も程なく仕事の関係で朝鮮に引っ越してしまう。保護者を失った石川はこの段階になってようやく、東京で下宿屋を開いて二人の息子の面倒を見ていた母のところに転がり込むことになる。

石川の実父母は、石川を愛していなかった訳ではない。だから、窮地に立った三男坊の三四郎が頼ってくれば、母親は喜んでその身柄を引き受けたのである。だが、母は、石川の兄犬三が大学を卒業すると、下宿屋をたたみ17才の石川一人を東京に残して埼玉の郷里に引き上げてしまう。生みの親である彼女にしても、やはり石川を余計者と見る気持ちに変わりはなかったのである。

独り東京に残された石川は、占部喜太郎宅の厄介になる。誰ともうまくやって来た彼も占部とだけは合わなかった。

その頃、郷里に引き上げた福田友作は田舎の空気に我慢できなくなり、再度上京してきていた。占部の家を飛び出した石川が福田のところへ訪ねていって見ると、彼は大阪事件で全国にその名をはせた景山英子と同棲していた。石川の窮境を知った福田が例の無頓着な調子で、「うちに来いよ」と誘ってくれたので、石川は再び彼の厄介になることになる。

当時、福田夫妻の家には、二人の間に生まれたばかりの男の子がおり、そのほかに、英子が生んだ大井健太郎の子がいた。その上に福田が知人から預かった18才の女学生まで同居していたから狭い借家はすし詰め状態にあった。

福田宅に同居して分かったのは、福田と英子が絶え間なしに喧嘩していることだった。景山英子は明治18年の大阪事件に唯一の女性として参加し、獄中で3年を過ごしている。大阪事件は、自由党左派の大井健太郎が、清朝の支配下にあった朝鮮の独立運動を助けるために、同志と共に爆弾を調達して朝鮮に渡ろうとした事件であった。この事件の関係者には廣く国民の同情が集まった。事件が民権論と国権論をないまぜにした立場から起こされ、民権論者だけでなく朝鮮への進出を狙っていた国権論者の共感も呼んでいたからだった。

特に、爆弾運搬の役割を担った20才の景山英子に対する民衆の関心は異常なほどだった。彼女を主役にした芝居は各地で上演され、どこでも満員の客を集めた。彼女は、自分たちが釈放されたときの民衆の熱狂的な歓迎ぶりを自伝「妾の半生涯」のなかに事細かに綴っている。


大阪梅田停車場に着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同士の無事出獄を祝して万歳の声天地も震うばかりなり・・・・・・

翌日、・・・・・東雲新聞社に至らんとせるに、数万の見物人及び出迎え人にて、さしも廣き梅田停車場もほとんど立錐の地を余さず、・・・・・・花火は上がる剣舞ははじまる、中江(兆民)先生は今日は女尊男卑なり、君をば万緑叢中紅一点とも云いつべく、男子に交わりての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子(テーブル)の上に座せしめ、そこにて種々の饗応あり。

英子が故郷の岡山に帰ると、家々は戸ごとに紅灯をかかげて彼女を歓迎し、その様子はまるで祭礼の夜のようだったというから、その人気の程が知れる。

 景山英子

しかし、その後の彼女の生活は不運続きだった。
英子は、大井健太郎の熱心な求愛に負けてその内縁の妻になり、男児までもうけながら、結局、大井に捨てられる。そして、岡山にいる親兄弟を東京に呼び寄せて女子実業学校を設立したものの、これにも失敗に終わるのだ。この時、彼女の前に現れたのが福田友作だったのである。英子は、妻と離婚した福田と正式に結婚したが、ルーズな夫の行動に苛立つことが多く、そこに大井健太郎の子どもをめぐる争いが加わり、夫婦喧嘩が絶えなくなったのだ。福田友作は、怒りにまかせて英子を殴ったり蹴ったりした。

福田夫妻の生活は、窮迫の度を加えて行く一方だった。そこへ追い打ちをかけるように二人の間に生まれた長男が、毛細気管支炎という難病にかかってしまう。石川三四郎は学業に専念するどころではなくなった。福田夫妻のために質屋通いをしたり、金策のために足を棒にしてあちこちを走り回らねばならなかった。

そして遂に福田家は、一家離散のやむなきにいたるのである。
二進も三進も行かなくなった友作は、難病の長男を連れて故郷に帰ることになった。哲学館(東洋大学)に入学して福田の家から通学していた石川も、福田にならって埼玉に引き上げることになる。福田の二番目の子どもを身ごもり、大井健太郎との間に生まれた三歳の男児を抱えた英子だけが東京に残り、夫と合流する日を待つことになった。

景山改め福田英子は、この後、石川三四郎と複雑な関係を持つことになる。それで、ここに平塚らいてうと相馬黒光の英子評を紹介しておきたい。

平塚らいてうは、「青鞜」誌への原稿を依頼したことから英子を知るようになった。


『青鞜』の原稿を依頼した当時、福田さんは、石川三四郎さんといっしょに横浜の根岸に住んでいました。・・・・・はじめてお会いした福田さんの印象は、率直にいってあまり親しめるものではありませんでした。

・・・・・見るからに生活苦を刻んだような険しい人相が、まだ二十代の若さのわたくしには、ちょっとたじろぐ思いでした。・・・・・福田さんが、社の事務所や辻さんの家にしばしば出入りするようになったころ、『青鞜』に載せた福田さんのあの論文は、石川三四郎さんの書いたものだと、断定的にいい出した人があって、いつの間にか社の内部ではそれが通説になりました」(『元始、女性は太陽であった』下)

平塚らいてうは、更に踏み込んで後に石川が海外に亡命したのも、福田英子から逃げるためではなかったかと推測している。


もちろん当時の官憲のひどい弾圧によるものですけれど、それとともに福田さんからの脱出であったことはあまり知られていないようです。石川さんへの福田さんの執心は深いものであったらしく、とくに男性に裏切られた過去の不幸な結婚生活の経験から、そうもなったものでしょうが、たいへん疑いぶかく、石川さんの身辺への監視はきびしかったことを高田真琴、(注=青鞜社同人、横浜で英子・三四郎同居の家の近くに住む)さんからもきいています」(同前)

相馬黒光も、昔あこがれていた景山英子への幻滅を語っている。


大正の初め頃、故木下尚江さんの紹介で、錦紗縮緬の白生地を行商に来た、昔の理想の人景山英子女史に会いました。当時は福田姓で境遇も全く変り、これに昔の夢をもとめるのほ無理であったかも知れませんが、まさに幻滅の悲哀を味わいました。会わなかったならば、若き日の女丈夫としての映像を、永久に失わずにいられたものをと残念でなりません(『広瀬川の畔』)

哲学館での学業を放棄して郷里に戻った石川は、19才になっていた。
生家に扶養されることに遠慮があったので、彼は群馬県の室田高等小学校の代用教員になった。ここで二年間を過ごした彼は、教職を生涯の仕事にしようと中等教員検定試験を受けるけれども、見事に失敗する。晩年に石川が、「足かけ二年の教員奉職中、私の生活はかなり放蕩をきわめた」と告白しているところを見ると、彼はこの期間、前途に希望を失い鬱々とした気分で過ごしていたのである。

そんな彼のところに福田友作から便りが届いた。
難病の長男を抱えて帰郷した福田は、身辺が落ち着いてきたところで、東京に残してきた英子を呼び寄せた。が、英子はたちまち夫の両親と衝突し、家内のいざこざが絶えなくなる。それで、病気の長男を親元に押しつけ、夫婦でまた東京に舞い戻って来たのだった。福田の手紙は、石川に上京を促し、再び自分たちと暮らさないかという勧誘の書状だった。

誘いに応じて上京した石川は、福田夫妻と生活を共にすることになったが、今度は夫妻と長く暮らすつもりはなかった。借金に追い回され夫婦喧嘩の絶えない福田家にいては、落ち着いて勉強ができないからだった。彼は東京法学院(中央大学)に入学し、併せて神田錦町の英語専修学校への入学手続きを終えると、福田夫妻のもとを去って従兄弟の下宿に移った。

従兄弟の下宿に移ってからも、福田夫妻との腐れ縁は続いた。
夫から殴る蹴るの暴行を受けて、英子が髪を振り乱して石川のところへ逃げてくる。その度に彼は福田に詫びを入れ、英子を送り返すのである。石川は11才年長の英子を「英子姉」と呼んでいたけれども、実際のところ、彼は兄のように英子の面倒を見てやっていたのだ。

14才で上京し、茂木・橋本の借家で玄関番をしてから、石川三四郎は一種不思議な人柄を具えるようになっていた。子どもの頃から生家に遠慮のあった彼は、上京後も次々に未知の人間の間でたらい回しされた。彼は19才で帰郷するまでに、何と7回も住居を変えているのである。こういう境遇は、彼を年齢以上に大人びた若者にしていた。

戦前の日本人は家に縛られていたから、わが国独特の「私小説」の多くは、主人公=作者がいかにしてこの重い家のくびきから逃れるかをテーマにしている。たが、石川のような立場に身を置いてみると、伝統的な家もかなり異なった側面を見せてくるのだ。家に縛られている人間は、反面では家に守られているのである。家族は家の制約を受けながら、閉鎖的な家の内部で無際限に親兄弟に甘えることを許されていたのだ。

石川は生家にとって「余分者」だったから、無条件で親兄弟に狎れ親しむことは出来なかった。だが、彼は自分が親兄弟から冷酷に見捨てられることはないという信頼感だけは持っていた。だから彼は、他人の世話になっても、必要以上に卑屈になることがなかった。上京前に培われた、このつかず離れず家族と接する「対人態度」が、その後の居候生活において更に磨きをかけられ、石川三四郎独特のパーソナリティーを作り上げていったのだった。

彼は見知らぬ人間の手から手へと渡されながら、新しい環境にすぐに馴染んだ。自分を扶養してくれる相手のために骨身を惜しまず働きながら、自分の要求は要求としてキチンと相手に伝えている。まわりの人間が竪穴のような家にとじこもり、家族的エゴイズムに呪縛されているとき、彼はより廣い社会を生きる場にして、「脱家族」の心情で生きていたのである。

他人のために汗を流す反面、遠慮なく他者の援助を求める、これが石川の終生変わらぬ行動様式だった。彼は再度上京して東京法学院・英語専修学校に入学するにあたって、ためらうことなく先輩や親戚の助力を求め、学資の一切を彼等からのカンパによってまかなっている。

石川独自のパーソナリティーを、同志だった幸徳秋水のそれと比較してみればハッキリする。

石川より4歳半年長だった幸徳の経歴は、石川のそれとかなり似ている。幸徳も高知県中村市きっての豪商の家に生まれたが、生家は一族が共同出資して発足させた会社の失敗によって急速に零落している点も石川と似ているし、幸徳が幼少時に虚弱で多病だったところも石川によく似ている。幸徳は何時も腹を下していて、何歳になってもタライにおむつの山を築いていた。そのせいか、幼児の頃の幸徳は、家にこもりがちの無口で陰気な子だった。石川も子どもの頃、非社交的で、無口な子だったといわれる。

しかし決定的に違うところがあるのである。
幸徳は三人兄姉の末っ子だったけれども、長兄が親戚間の約束で早くから他家の養子になっていたため、酒造業と薬種商を兼ねていた父が急死したとき、彼はわずか3才で戸主になっているのだ。石川は生家では余計者だったが、幸徳は幼少期から押しも押されぬ家長だったのである。

幸徳は11才で地元の中村中学校に入校する。が、程なくこれが廃校になったため、高知中学に転校することになった。転校して間もなく急性肋膜炎になって死にかけたので、彼は中村市の生家に戻って療養につとめた。自宅で半年療養した後、高知に帰り進級試験に臨んだところ、成績不振で落第してしまう。これまでどこに行ってもトップクラスの成績を取り、周囲から神童扱いされてきた幸徳にとって、これは顔に烙印を押されたような屈辱に感じられた。

彼は新学年になっても、登校する気になれなかった。そこでぐずぐず、「無届け欠席」をつづけているうちに、とうとう学校から除名処分を受けてしまう。

放校されて中村に戻ってきた幸徳は、家業を継ぐ気にもなれず、悶々として日を送っていた。そして、17才になったある日、第一回の家出を決行するのである。「これから高知に行ってくる」と云って母親をだまし、東京に高飛びしたのだ。この時は、幸運にも途中で知り合いになった高知県人の手引きで自由党幹部の林有造の書生になることが出来た。

だが、彼は伊藤博文内閣が公布した「保安条例」によって在京四ヶ月で東京を追放されてしまう。保安条例は東京から自由民権運動の関係者を一掃するために施行されたが、高知県人は特に危険視され、上京してきたばかりの幸徳も追放処分を受ける羽目になったのである。

故郷に戻った幸徳がおとなしくしていたのは、僅かに半年に過ぎなかった。彼は二回目の家出について、「無聊に苦しみて、二三の失意書生とともに、家を出たり」と説明している。仲間と一緒に放浪の旅に出た幸徳は、あてどもなく近県をうろついた後に長崎まで足を伸ばし、上海への渡航を企てている。これに失敗したときには路銀もつきていたので、一行は解散し、彼も家に戻った。

三回目の家出は、かなり明瞭な目的意識をもって実行された。保安条例で東京を追放され、大阪曾根崎に移り住んだ中江兆民の書生になろうと思ったのである。伝手を頼って中江兆民に頼み込んだ幸徳は、許されて兆民の「学僕」になった。

幸徳は、その頃の中江家の様子を次のように記している。


曾根崎の寓居は、わずかに四室にして、先生夫妻・令嬢・下婢四人、および予ら書生、多きは四五人、少なきも二三人、つねに玄関に群居せり。しかのみならず、日夜訪客堂に満つ。政客来たり、商人来たり、書生来たり、壮士来たり、飲む者、論ずる者、文を求むる者、銭を乞う者、じょうじょうとして絶えざりき(「兆民先生」)

開放的な性格の兆民は、飯時になると丸いちゃぶ台のまわりに家族、女中、書生を集め、みんな一緒に食事をした。女中や書生を家族とは別に台所で食事させるのが慣例だったこの時代に、兆民は彼等を家族同様に扱っていたのである。

幸徳は来客の取り次ぎや雑用をすませてしまうと、玄関にこもって兆民宅に送られてくる夥しい新聞・雑誌を熟読した。これらを読むために毎日6時間を使ったと幸徳は語っているから、彼の多読癖はこの頃に養われたのである。その興味は多方面に及び、しまいには彼は論説ばかりか小説まで書くようになった。

明治22年、憲法発布の恩赦で中江兆民は東京に戻ることが許された。この時、兆民一家に随行したのは、女中一人と幸徳だけだった。幸徳19才の秋のことで、兆民は数ある書生や寄食者のうちで、幸徳秋水に最も期待をかけていたのである。

上京後、数年の間に色々なことが起きている。兆民は第一回衆議院選挙に立候補し、大阪の部落民の支持を受け選挙費用を一文も使わずに当選している。幸徳の方は耳病をこじらせ、病気療養のため高知県に帰っている。再度上京した彼は、やや余裕の出来た生家から毎月7円の仕送りを得て、兆民宅を出て下宿住まいをするようになる。

下宿暮らしをはじめたのを機に、幸徳は英語を本格的に学ぶことになる。保安条例で東京を追放される前に、彼は神田猿楽町の英学館に通い始めたが、追放によって英語の学習は中断されたままになっていたのだ。中学を中退した彼は、語学については無知に近く、ローマ字を何とか読める程度の力しかなかった。

幸徳は、神田駿河台の国民英学会に入学し、翌年に英学会の正課を卒業した。
22才で英学会を卒業した幸徳は、中江兆民の口利きで自由党の機関紙「自由新聞」の翻訳係に採用される。兆民は弟子の語学力を買いかぶっていたのである。

時事英語の知識がなかった幸徳は、「予がはじめて兆民先生の玄関番より一躍して、自由新聞の翻訳係になったのは、23歳の時であった。・・・・・わずか三行か四行ずつの電報に、毎日四苦八苦の思いをして訳しだしたが、翌朝他の新聞とくらべてみると、むろん誤訳だらけである。面目ないやら苦しいやらで、ほとんど泣き出したくなることが、しばしばであった」と回顧している。

だが、「自由新聞」につづいて「広島新聞」「中央新聞」と渡り歩いているうちに、収入も安定し、英語も身に付いて来たので、彼は故郷の母を東京に呼び寄せた。家出を繰り返し、人生の落伍者になるかと思われていた幸徳が、一流記者への道を確実に歩み始めたのである。

石川三四郎と幸徳秋水のここまでのコースを比較してみると、石川が帰属すべき場所としての家を持たなかったのに対し、幸徳の方は帰属する家(母)を持っていた。石川が生家から余計者扱いされていたとき、一家の主である幸徳は高知で病気になれば、直ぐ母が駆けつけて病院に泊まり込みで看病してくれ、家出をすれば、母だけでなく一族親戚が八方手を回して探してくれた。母は家出をした息子を叱ることもなかったのである。

幸徳秋水は親思いの孝行息子として知られている。けれども、彼は実は母親の愛情に甘え、何をしても親は許してくれるという安心感から、その後も放埒な行動を繰り返していたのだ。頼るべき家を持たず、世俗と折り合って生きて行かねばならなかった石川には、幸徳のような羽目を外した生き方は許されなかった。

その石川三四郎も女性問題では、他聞をはばかるような失敗をし、そして、それが彼をキリスト教に導いて行くのである。

明治32年の正月、23才になった石川三四郎は従兄弟と一緒にカルタ会に出かけた。
下宿のばあさんに、親戚の家でカルタ会が開かれるから行ってみないかと勧められたのである。その親戚筋の家の当主というのは、いくつもの鉱山を持ち、上野公園でパノラマ館を経営し、近々銀行を設立しようとしている事業家だった。

カルタ会の後で、その事業家は石川に養子になってくれないかと申し入れてきた。
相手は、石川が養子としてこれ以上はない人柄を具えていることを見抜いたのである。老齢の彼には頼りになる男の子がなかった。それで、彼は、石川にとりあえず自分の後継者になって事業を手伝ってくれないか懇願したのだった。そして長女は15才になったばかりで結婚するには早すぎるから、挙式するのは後回しにするということになった。

養子になった石川は、学校の勉強も英語の学習もそっちのけにして義父のために奮闘することになる。外国の商人と取引するために鉱石見本を持って横浜に飛んだり、東北地方に出張して鉱山の試掘権を押さえたり、義父の手足になって連日走り回ったのだ。彼は福田友作を説得して、義父の銀行のために一万円を出資させるようなこともしている。

福田が義父の協力者になったので、石川が福田宅を訪ねる機会も増えた。福田は彼がやってくると必ず酒を出して歓待し、泊まっていけと引き留める。そして、福田夫妻は奥の間に引っ込み、石川を四畳半に寝かせた。ところが、その四畳半には英子が生んだ10才になる大井健太郎の息子と、19才の若い娘が寝ているのである。娘は婚約者がアメリカに行っている間、福田が自宅で預かっている女性だった。

四畳半の部屋は夏になって蚊帳を吊るといよいよ狭くなり、三人はほとんどくっつき合って寝ることになる。やがて、娘は妊娠した。次に、「石川三四郎の生涯と思想」(北沢文武)から村上信彦の著書の一節を孫引きして引用する。


福田友作は放蕩のはてに梅毒になり、間もなく狂死するような男だったから、男女関係などは意に留めなかったのかも知れないが、英子は女の身であり、しかも久しく女子教育者をもって任じてきた女性であった。血の気の多い二十三歳の青年と十八歳の娘とを、狭い四畳半の一つ蚊帳の中に寝かせて平然としていた神経は、とうてい理解することができない。

ましてその娘は婚約者の帰朝を待つ身で、それを承知の上で預かっていたのだから、英子の責任は重大なはずであった。もし石川を泊めるのに二部屋しかなければ、当然じぶんたち夫婦の部屋に娘を寝かせるか、英子と子どもと娘が奥に寝て、友作と石川が四畳半に寝るべきであった。

どんな無知な庶民の家庭でも、この程度の配慮は常識として心得ている。英子のやったことはまるで無茶で、結果的にみれば淫売宿の女主人に等しい。過ちを犯したのは明らかに石川であるが、犯させたのは福田夫妻であった。(「明治女性史」)

その年の暮れに発狂する福田が石川を歓待したのは、石川が資産家の嗣子になったからだった。英子がわざと石川に同居している娘をあてがったのは、石川を手放したくなかったためだろう。彼女は石川に夫婦喧嘩の仲裁をして貰った頃から、石川に執着するようになっていた。石川を手元に置くためには、何でもするような心境になっていたのだ。

発狂した福田は座敷牢に入れられ、四ヶ月後には死亡する。このどさくさにまぎれて妊娠した娘は福田家から姿を消し、石川をやきもきさせる。その娘が見つかったときに、入院から出産まで、すべての面倒を見てくれたのは英子だった。福田友作が狂死するまで献身的に英子を支えたのは石川だったが、娘の問題を巧みに処理したのは英子だったのである。

娘が慈恵病院で産み落とした女児は、兄の犬三が引き取って長女として育ててくれることになったからこの「不祥事」は表沙汰にならずにすんだ。だから石川は口をぬぐって養家に留まっていることも出来たはずである。だが、彼は気がとがめてどうしてもそうすることができなかった。

石川が養子縁組を解消したいと申し出ると、義父は驚いて必死になって引き留めにかかった。義父は親戚まで動員して石川を翻意させようとしている。石川の許婚になっていた17才の娘は、それまで特に彼に関心を示すこともなかったが、養子解消問題が浮上してから、急におとなびて石川の下宿を訪ねてくるようになった。その愛らしくも痛ましい表情を見て、彼はすべてを打ち明けて許しを乞いたくなったが、生来「気の弱い、偽善者」だった彼にはそれも出来なかった。

後年、石川は亡命先で世話になっていたマダムにこの話をして、マダムから、「婚約者がありながら、他の娘さんに関係するなんて、たちがわるいですね。そしてまた、その双方と別れてしまう、そんな馬鹿げたことがありますか」となじられ、「けれどもその当時の私としては、こうした失敗の生活を一切精算したかったのです」と答えている。

そして彼は「自叙伝」に、こう記すのである。

しかし、いかに堕落し悪化しても、心が静まると、また激しい良心の声が身に迫ってくるのでした。悩みに耐えきれず、いつとはなしにキリスト教会に足を運ぶようになりました。はっきり意識したわけではないのですが、「救い」を求めに行ったのです。そして、かつて経験したことのない光明と元気とを与えられたのが、本郷教会の海老名弾正先生の説教でありました。私は全我を傾けて海老名先生に没頭しました。

彼は又、別のところでこうも書いている。


 今を去ること四年前、予は種々なる事情により、つくづく人生の無常を思い、慰めを求むるに道なく、うつうつとして苦悩すること一年有余、たまたま本郷会堂は、予をして海老名先生に接せしめき。予は、実に先生の説教に激励せしめられ、端なくも一すじの光明に接したるなり。

石川は東京法学院を卒業するにあたり、海老原弾正から洗礼を受け、以後篤信のクリスチャンとして生きることになる。

女性問題では懲りているはずの、そして更生のためにクリスチャンになったはずの石川が、養子縁組を解消して間もなく、またもや「女色に迷う」ことになるのだ。相手は、彼が心機一転下宿を変えた、その下宿屋の娘だった。

下宿屋の女主人には小学校の教員をしている娘と、その下にお茶の水女子高等師範学校に学んでいる娘がいた。女主人は、石川が国会議員をしている粕谷(橋本)義三から毎月10円ずつ学資の援助を受けていることや、有名な景山英子と交流があることで一目置いていた。そして彼が東京法学院の弁論大会で二等賞を取ると、わがことのように喜んでくれた。

次女の清水しげは学校の寄宿舎にいて、日曜に帰ってくるだけだったが、母の口から石川を賞賛する言葉を聞いているうちに、次第に彼に関心を寄せるようになった。

25才で石川が東京法学院を卒業したとき、女主人は尾頭付きの鯛を用意し、赤飯を炊いて祝ってくれた。彼女が、「これはしげの志です」と告げたときに、台所で黙って働いていた清水しげが石川の前に出てきて、「おめでとうございます」と頭を下げた。

これを機会に二人は急速に接近し、愛を語り合う仲になる。そんな中で、清水しげは石川に、「高等文官か弁護士になって下さい。そうでないと親に打ち明けることも出来ないから」と頼んだ。

石川も彼女との結婚を熱望していたから、十分に準備をして試験に臨み、結果に自信もあったのだが、高等文官試験にも弁護士試験にも失敗してしまう。やがて下宿屋では長女に婿を取ることになり、部屋が足りなくなったので、石川は後ろ髪を引かれるような思いで下宿を去ることになるのだ。石川としげは会うこともなくなった。が、石川にとって清水しげは永遠の女性となり、彼は海外に亡命するときにも、しげの写真と手紙を肌身離さず携えている。

傷心の石川三四郎が下宿を去った頃、「万朝報」の記者になった幸徳秋水は二度目の妻と結婚生活を送っていた。最初の妻朝子は福島県三春の士族の娘で、おとなしくて素直な女だった。朝子は、まず幸徳の母に気に入られ結婚することになったが、幸徳は朝子が不器量で無学だという理由で当初からこの結婚に乗り気ではなかった。それなら、結婚しなければよかったではないかと思うのは現代人の考え方で、当時、親や周囲の取り決めた縁談を黙って受け入れるのは当たり前のことだったのだ。

幸徳は結婚式の当日、床入りの後で、「口直し」をすると称して吉原に登楼している。そして結婚の三ヶ月後、朝子がいそいそと里帰りした後から、問答無用の離縁状を送りつけて彼女を離別するという残酷な行為に出ている。

最初の妻が無学なため失敗したというので、母親は中江兆民に仲介を頼んで国学者の娘師岡千代子を妻に迎えた。彼女は国文も漢文も読みこなし、英語・フランス語にも通暁しているというふれこみだった。見合いの時に千代子はうつむいてばかりいたので、幸徳は彼女が立ち上がって部屋を出て行く姿しか目に入らなかった。その後ろ姿がほっそりしていたから、彼は相手が美しい女だと思いこんでしまった。

結婚式当日、改めて見直した千代子の器量は、あまりよくなかった。幸徳はお嬢さん育ちの千代子を自家から逃げ出させようとたくらみ、披露宴の途中で姿を消して、一座を騒然とさせる。千代子の話によると、幸徳は翌朝ぶらりと吉原から帰ってきて、「悪友に誘われて遊んできた」と打ち明けたという。

幸徳秋水のやり方は極端だが、明治期には家の取り決めた結婚を不承不承受け入れ、後になって反旗を翻し親に迷惑をかける例が多々あった。やはり親孝行で知られている森鴎外も、親が取り決めた縁談を受け入れて結婚したけれども、間もなく一方的に離婚して親の面目を失わせている。幸徳も鴎外も、後は親が何とかしてくれるはずだとばかり、非道なやり方で妻を捨てているのである。

石川三四郎の行動は、こと女性問題に関する限り幸徳や鴎外に比べてずっと純情だった。家というものに縛られることがなかっただけに、彼は周囲から不本意な結婚を強いられることがなかったのである。(つづく)

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