丘の上

天竜川を望むのとは反対側の窓(東側の窓)からは、打ち続く段丘崖が目に入る。伊那の地は天竜川を底面とする雛壇型の地形をしていて、川の両側には底面より一段高い段丘が並んでいる。段丘の高さは、50メートル内外で、その崖の部分は常緑樹で覆われている。だから、天竜川の流域地帯は、長々と続く高さ50メートルの青垣で守られているような印象を与える。

上図は雪の日の段丘崖を撮したものである。図中の住宅は段丘崖の中腹に位置していて、崖はこの下に更に続いている。

上の写真は、秋口に崖の頂上を撮したものだ。まるで崖の上から転げ落ちそうな突端に家が建っているが、地盤は意外に堅固で長雨の季節になっても崖が崩壊する危険はほとんどない。

台地は赤土で出来ている

どうして崖崩れが起きないかといえば、段丘が緻密な赤土で出来ているからだろう。

崖を削り取ってみると、上図にみるような赤土の層が現れる。これは各地から飛来した火山灰で形成された地層なのだ。鹿児島では桜島火山の降灰で出来たシラス台地が土石流の被害をもたらしている。左図の赤土の相当部分も、遠く桜島から飛来した火山灰が作ったものだそうだが、容易に水を通さないほど堅く引き締まっているので雨水が浸透することはないのである。

段丘崖を上ると、広々とした台地がひらける。しかし赤土で地味がやせているし、水利の便が悪いため、段丘上は長い間、森林と原野の入り交じった荒れ地として放置されていた。史料によると、ここは「林葬」の場として利用され、人間の遺骸・家畜の死体が捨てられていたらしい。そのため、この地は「六道ノ森」とか「六道原」とか呼ばれてきた。

その段丘上が姿を変えるのは、戦争の末期である。本土決戦を覚悟した軍部は最後の抵抗線としてここに飛行場を作ろうとしたのである。伊那地方の各学校から多数の生徒を動員し、雑木を切り払い、高所の土を削って窪地を埋め、突貫工事で滑走路を造ろうとしたのだ。

佐藤愛子の自伝小説を読むと、彼女はこの飛行場に勤務することになった夫と共に伊那市にやってきて、天竜川沿いの借家で新婚生活を送っている。飛行場建設は敗戦によって中止になったが、この工事のおかげで台地は平らにならされ、畑として利用する道が開けた。

段丘がもう一度変貌するのは、戦後、三峰川をせき止めて美和ダムが建設されたからだった。このダムから、灌漑用水が運ばれて来て、畑地と原っぱが、一挙に水田に変わってしまったのだ。水利の便を得たことで、台地上に工場や住宅も進出し始め、今や荒れ地として放置されていた戦前の面影はなくなってしまっている。

住宅も続々造られているが、目を引くのは精密工業の工場だ。NECがあり、ロジテックがあり、三協精機がある。各工場とも、敷地に余裕があるので、従業員全員の駐車場を用意しているほかに、テニスコートなども備えている。

            

上図は県が造成した住宅団地で、瀟洒な住宅が並んでいる。この団地は森林を切り開いて作ったものだから、境界を越えると、そこはもう林になっている。

       墓地から仙丈岳を望む

住宅が増えてくれば、、墓地の需要も増えてくる。段丘上の一角には、新たに墓地も作られるようになった。墓地からは仙丈岳が正面に見える。この写真を撮るために三脚を据えている地点は我が家の墓所であって、私はいずれここに骨を埋めることになるのである。

      

段丘も場所によっては高低の差があり、高さも形状も一様ではない。左図は水田地帯に突き出ている段丘で、高さは精々15メートル程度だ。

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