自転車からバイクへ
私は長いこと、通勤にも買い物にも自転車を利用してきた。中年になって、バードヲッチングのために山野を駆けめぐるようになっても、乗るのは自転車だけだった。しかし、自転車ではどうしても行動半径が小さくなるので、バイクに移行して、今では何処にゆくにもバイクを利用している。
目的もなく、漫然とバイクを走らせるのも悪くない。ポケットには小型カメラを忍ばせていて、時々、バイクを止めてはシャッターを切るのだから、全く無目的だとは言えない。しかし撮影された写真は、行き当たりばったりに撮るられたものなので、そこには方針もなければ、原則もない。ただ、撮りたくなったから、撮ったというだけのことだ。
例えば上図を見ていただきたい。これは人気のない静かな山裾を走っているときに目に入った洋館で、かなり古びてペンキの色も薄くなっている。だが、こんな僻地にこんな洋風の住宅があるとは信じられなかったから、シャッターを切ったのだ。
こうしたわけだから、写真を眺めれば、そのときどんな気持ちでシャッターを押したのか思い出すことが出来る。次の二枚は、何処で撮ったのか正確に思い出せない。だが、こんなところに家を建てて暮らしてみたいものだな、と思って撮った写真だということは覚えている。
次の写真は、雪山の見える写真で、これも我が家からこんな具合に雪の山が見えたらいいのになあ、と思いながら撮った写真なのである。
風景の一角に、氷砂糖のような雪山があるというのはいいものだ。それが風景全体を引き締める焦点のような役割を果たすからだ。雪山は初冬の頃から晩春にかけて、一年の三分の一は変わらぬ姿を見せてくれる。
地方紙の短歌欄を見ていたら、「雪の山岳を望む書斎を二階に持ち得たことを至福とする」という意味の作品が乗っていた。メモしておかなかったので、原作を紹介できないのが残念だが、雪山に視線を向けて読書に疲れた目を休めるというような日常を送れたら言うことはないのである。