中島敦の青春

          

私は中島敦について、長い間誤解していたのだった。
彼は33歳の若さで死んだ病弱の作家だから、「かめれおん日記」や「狼疾記」に出てくる腺病質の女学校教師は中島敦自身を描いた自画像だろうと思っていたのだ。

「かめれおん日記」は、横浜の私立女学校に勤務する生物教師の日常を描いた作品で、これに描かれている生物教師は、「うぢうぢと、内攻し、くすぶり、、我と我が身を噛み、いぢけ果て、それで猶、うすっぺらな犬儒主義だけは残している」と、自分を自嘲しつつ生きているような男だ。

この教師が.「山月記」に出てくる詩人とひどく似ているのである。傲慢なくせに臆病なこの男が自己分析をするとしたら、きっと虎になった詩人の告白に似てくるに違いない。事実、その通りなのだ。教師の自己分析は以下の通り。


「・・・・・(自分は)失望しないために、初めから希望をもつまいと決心するようになった。落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの予見から、てんで努力しようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないために人中に出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。

外へ向かって展らかれた器官を凡て閉じ、まるで堀上げられた冬の球根類のようになろうとした。それに触れると、どのような外からの愛情も、途端に冷たい氷滴となって凍りつくような石となろうと私は思った」

生物教師は、生徒から託されたカメレオンをアパートの自室で飼っている。カメレオンは日本の寒さにやられて次第に弱っていくのだが、彼はこのカメレオンを自分と重ね合わせて眺める。

作者が生物教師とカメレオンを等置して描く以上は、生物教師を弱らせている外社会の圧力について触れなければならないだろう。しかし、中島敦は、この点についてほとんど触れていないのである。

成る程、教員社会に対するカリカチュアは描かれている。
中島敦は、女学校に勤める女教師について「男とも女とも付かない・・・・男の悪いところと女の悪いところを兼ね備えた怪物、しかも自分では、男の良い所と女の良い所をふたつながらもっていると自惚れている怪物に成り上がってしまう」と書いたりする。

ほかにも、こんな叙述もある。


教師という職業が不知不識の間に身につけさせる固さ。ボロを出さないことを最高善と信じる習慣から生まれる卑屈な倫理観。進歩的なものに対する不感症。そういうものが水垢のようにいつの間にか溜まってくるのだ。

しかし、中島敦は私立女学校がいかなる経済的基盤の上に築かれているか、学校管理機構はどうなっているか、さらに時局の圧力が学校社会をどう変えているか、などの問題に全く触れていない。漱石の「坊ちゃん」には校長・教頭が登場するが、「かめれおん日記」にはそれら管理職の人間は一人も出てこない。職員室が対等なメンバーからなるクラブの休憩室みたいに描かれているのである。

作者は、主人公が外圧によってではなく、内部にある生得の毒によって衰弱して行くさまを描きたかったのかも知れない。としたら、なおさら、「外」を描く必要があるのだ。内部の毒を浮かび上がらせるためには、それを「外圧」と対照させて、そこから何ら影響を受けない自我について叙述する必要があるからだ。

「狼疾記」になると、こうした弱点がさらに際だってくる。
博物教師の三造は、子供の頃から形而上学的不安にとりつかれ、自嘲に明け暮れる日々を送っている。だが、その不安や懊悩が精密に描かれれば描かれるほど、叙述はいたずらに空転する印象を与えるのだ。三造が置かれている学校社会がリアルに描かれていないためである。

三造は、女生徒を皮肉な目で眺めている。彼はスピノザに倣って女学生の性行に関する幾何学書を作ろうとして「定理18.女学生は公平を最も忌み嫌うものなり。証明。彼女らは常に己に有利なる不公平のみを愛すればなり」などとノートに書き込む。

三造は、「一人一人に見れば、醜くもあり卑しくもあり愚かでもある」少女たちに「心優しき軽蔑」を感じている。だが彼の触れうる唯一の実在はこれら女生徒達であって、実際彼女らを教えることが彼の生きがいになっているのである。にもかかわらず、生徒達は概念的解説的にしか描かれていない。そのナマな生態は、全くとらえられていないのだ。

彼の思考は、学校社会の現実から遊離していたずらに空転する。思考は巡り巡って「オレは世俗を超越した孤高の人間だなどと自惚れているが、世俗的な活動力がないというだけではないか」という苦い自嘲に落ち着く。そして、自身に向かって、次のように言い聞かせる。

                   
世俗的な活動力が無いということは、それに、決して世俗的な慾望
迄が無いといふことではないんだからな。卑俗な慾望で一杯のくせに
それを獲得するだけの実行力がないからとて、いやに上品がるなんざ
あ、悪い趣味だ。

作品は、三造が「何故もっと率直にすなおに振る舞えないんだ」と自分を叱咤激励し、「悲しいときには泣き,口惜しいときには地団太を踏み、どんな下品なをかしさでもいいから、をかしいと思ったら、大きな口を開けて笑うんだ」と説得するところで終わっている。

(この時期に大岡昇平も、自意識過剰な「壁の花」的青年をテーマに作品を書いていたという。大戦を控えたこの時期に、知的な青年たちは、時代の前途にも自己の未来にも、何ら希望を見いだせず、冬を前にしたカメレオンのように萎縮して生きていたのかも知れない)

          

「かめれおん日記」「狼疾記」を通して負け犬的な中島敦のイメージを思い描いていた私は、筑摩書房版「中島敦全集」に収録されている彼の知友の回想記を読んで驚かされた。中島敦は、寒さにやられて衰弱したカメレオンのような男ではなかったのである。女学校時代の同僚の言によると、中島敦は、職員室では最も存在感のある教師で、陽性で活発なリーダーだったというのだ。


職員室に於ける敦は、同僚達の人気を一身に集めている。才能と言い、知識と言い、何事も忽せにしない誠実さ、温かい友情、明朗な性格、卓越した弁舌と言い、何一つとして私の羨望に価しないものはなかったが、只一つの解せない点は、彼の歯の浮く様な気障っぽさである。

例えば、敦の笑いは歌舞伎役者のような笑い方であった。取って付けた様な彼の笑いが、「ワッハッハ」と始まると、私は思わず彼の顔を見直さざるを得なかった。はじめは冗談かと思った。

この同僚は、また中島敦について「彼はいかなる場合でも赤面することがない。はにかむなどと言うことを知らないのであろう」と語り、彼が妻帯者であることがばれたときの中島敦の恬然とした様子を次のように記している。


 彼が妻帯者で、大きな子供迄ある、という事実が知れた
 時、職員室中の驚きは、全く、滑稽の一語に尽きる。
 「まあ、中島先生がパパさんですって!」
 「へえ、あきれた!」
 「どんないい奥さんでしょうね?」
 敦は澄ました顔でつぶやいた。
 「でも、俺は、一度も独身だと言った覚えはないよ。」

 中島敦

ことの意外さに驚き、注意して「中島敦全集」を読んでみると、やはり女学校教師時代を題材にした「無題」という作品があって、それに職員室のリーダー格だった彼を思わせる人物が出てくるのだ。

「無題」の中心人物は、数学教師の吉川だが、作品の中で吉川と同等の比重で取り上げられている同僚がいる。それが国語教師の中山で、この中山が中島敦を思わせるのである。

吉川と中山は、職員室で隣り合わせて座っている。吉川は中山と親しくしているけれども、女学校教師を侮蔑する彼の態度が納得できないでいる。

中山は、「軽蔑的な女性観」を持っていて、「人形の中身は鋸屑だが、それでも美しい玩具だ」とことあるごとに口にしている。そういう中山を、吉川は次のように見ている。


 国語の教師のくせに外国語の書物ばかり読んでゐる中山を、吉川は、妙な人間だと思ふ。若くして、妻と妻を養う義務とを有ち、そのために、恐らく彼が一生の仕事としたいに違いない、文学から離れて、女学校の教師をしなければならない、中山の身の上を憐れに思ふ。

又、読書の遅い自分に引き較べて、中山の旺盛な読書力には感心もしてゐる。併し、中山が、ひそかにラテン語の動詞の変化を暗記しょうと努めてゐること迄を、無条件に買ふ訳には行かない。ラテン語の習得は実際彼の言ふやうに、パスカルなどを読む上に必要ではあったのであらうが、しかしそれ以外に、何か、果敢ない、亡び行くものの最後の哀しき誇といつたやうなものを吉川に感じさせる。

自分は決して尋常一様の女学校教師ではないぞ、といふことを自分自身に納得させる為に、彼ほラテン語やギリシャ語を習ってゐるのではないか、と時々吉川は(四分の軽蔑と、六分の憐憫とを以って)考へた。

吉川は、又、中山の、例の軽蔑的な女性観の中にも、この哀しい自慰に似たものを感じる。自分の素質と傾向とに全然反した職業と生活の下に、自らの才能をいぢめてゐる点は、気の毒に思ふけれども、しかし、中山が、その不満を、衒学的な会話や、ラテン語の習得や、殊には、自分の職業(及び、その対象である少女達)に対する侮蔑的な態度に於て、洩らさうとする点に就いては、どうしても是認出来ないのである。殊に、最後の 「自己の職業に対する軽蔑」は、吉川にとって、許し難い軽浮と思はれた。才能のいたはり方は、ほかに幾らでもあると、彼は思ふ。

吉川から手厳しく批判されている中山は、女学校教師時代の中島敦そのものなのだ。彼は、「若くして妻と妻を養う義務」に縛られていたし、この頃、パスカルに惹かれて原書でその著書を読もうとしてもいた。だから、吉川が中山を批判する部分は、中島敦による自己批判と見ていいのである。

では、批判者の吉川が何者かと言えば、作中で語られるさまざまの感懐から見て、これも中島敦の分身なのである。

吉川は、中山を批判した後で、言葉を転じて


「たゞ中山にとるべきは、そのディスインタレステッドネスでもあらうか。事実、中山には、純粋に、超利害的に、美や、学問や、抽象的な理論に熱中できる性質があるやうに思はれた。これが、吉川に、中山を、そのあらゆる欠点にも拘らず、友人として選ばせたものに違ひない」

と肯定的な言辞ももらしている。この部分は、中島敦による自己肯定論で、彼の自負していたものが何であったかを物語っている。

「無題」は、職員室のリーダー格になっている軽佻浮薄な自分を中島敦が自虐的に描いた作品なのである。そして中山を批判的に眺める吉川は、内省的な中島敦を現している。作者は、吉川と中山によって自己の人格を構成する内向的側面と外向的側面を書き分けたのだった。

             


中島敦の二面性は、その友人知人の回想記にもよくあらわれている。


学生時代の彼は、ダンスや麻雀・将棋に熱中し、さかんに旅行もしていたと、その外向的性格を語る友人がいるかと思えば(彼の中学校時代の友人伊東高麗夫は「(中島敦は)私の家にも遊びに来たことがあるが、一寸した交際家であった」と語っている)、彼と最も親しかった氷上英広は、「中島敦は人を容れない孤独な青年だった」と言っている。氷上には、中島敦の沈黙が深成岩のように見えたという。

中学校時代の同窓生湯浅克衛は、「家庭の、継母の事情だったからか、敦は明るい顔ではなかった。むしろ極度の近視眼と相俟って沈痛な表情の方が哲学者めいて、敦らしくあった」といっている。

中島敦の暗さは、俗物への嫌悪からきていると説くのは釘本久春である。


中島は、いうまでもなく俗物が大嫌いであった。また、立身出世欲は、こと文学者、芸術家に関しても、彼の最も軽蔑していたところである。

内向的で孤独の影が深かった中島敦は、心を許した相手には見違えるほどの明るさを見せる。中島敦が兄事していた深田久弥の妻は、彼が訪ねてくると姪も女中たちも家中が集まって、その明るい座談に聞き惚れたという。そのため、彼に供する食膳は取って置きのものだったが、手のかからぬように大急ぎで調理された。

こういう彼の二面性は、南洋に出かけてからも見られる。
中島敦は8年間の女学校教師の後に、文部省に勤めていた釘本久春の斡旋で日本の委任統治下にあった南洋諸島に赴き、現地の子弟のための教科書編集事業に携わっている。

この南洋での活動中、船待ちのために彼はサイパン島に一ヶ月ほど足止めを食ったことがある。時代は太平洋戦争が始まる直前だったから、宿舎の手当が付かず、彼は現地の学校の教師をしている田辺秀穂の家に厄介になった。田辺は、家族を本土に帰して一人暮らしをしていた。

田辺の思い出によると、中島敦はこの一ヶ月の間、ほとんど口をきかなかったという。男二人が一ヶ月同じ家に暮らしながら、ろくに話もしなかったというのは尋常ではない。翌年、二人は内地で再会するが、この時にも中島敦は黙しがちだった。彼は自宅に訪ねてきた田辺を二階の四畳半に迎え入れたが、目を伏せて畳ばかりを見つめていた。夫人が運んできた紅茶にも手をつけなかった。

こういう中島敦が、現地で民俗学者土方久功と知り合うや、打ってかわって明朗快活になるのだ。彼は10才年長の土方の小屋を毎日のように訪ねて歓談に耽った。中島敦の博識と強記に感心していた土方は、その思い出を次のように書いている。


トンがあの可愛い声でおかしなことを言って、よく人を笑わせ、人を笑わせる前に自分が笑ってしまう明るさと人なつっこさを思い出します。

                 

我が身の二面性を自覚していた中島敦は、習作の「北方行」では自分を二人の人物に書き分ける手法をより徹底させている。この作品には大学生の黒木三造と、東亜同文書院を中退した折毛伝吉が出てくるが、この二人が中島敦に生き写しなのである。一方がノーマルで内省的な中島敦を、他方がニヒルで行動的な中島敦を現している。

黒木三造が、作者の自画像であることに疑いないだろう。
彼は自伝的作品を書くときには、必ずといっていいほど自分に三造という名前を与えている。

三造の風貌は、「強度の近眼鏡の奥から光ってゐる細い気の弱さうな眼、げつそりこけた頬から眼立って突出して、猿に似た口許を見せてゐる上下の顎骨。反抗心を以て常に結ばれている厚い唇。最後に胃弱者らしい青黄色い艶のない顔色」ということになっている。これは容貌にコンプレックスを持っていた中島敦が、自分の顔立ちについて説明するときの定型的な文章なのである。

三造が中島敦の分身であることは、三造が「自分は作家になるように生まれついている。誰が何といおうと、それは決まっているのだ」と確信しているところや、「自分は今まで生きて行く真似ばかりしていた。決して直接に生きたことはない」と内省するところなどによっても明らかである。(三造は英国人の語学教師をしてかなりの収入を得ているけれども、中島敦も学生時代に英国人に日本語を教えるアルバイトをしている)

さて、この三造が従姉を訪ねて中国大陸にわたり、そこで折毛伝吉と親しくなるのだ。三造の従姉は、中国人の資産家と結婚して、今は未亡人になっている。その従姉の愛人になっているのが伝吉なのである。

伝吉が中島敦のニヒルな側面を代弁していることも、疑いを入れないところだ。

作品では、伝吉の素性は「中流家庭の善良な、但し母親を知らぬ少年。中学校の秀才。人生観上の幼稚な疑惑。継母」となっているが、これは中島敦の生い立ちと全く同じであるし、伝吉が中学4年で早くも私娼窟に出かけて女を買っている点も、中島敦と共通している。

伝吉は2,3年前に、上海で日本人ダンサーと同棲していたが、このへんの描写にも中島敦の影が落ちている。このダンサーは前の男との間に生まれた2才の幼児を育てている。伝吉はこの子に自分でも説明のつかないほどの強い愛情を感じる。彼の可愛がり方は、母親であるダンサーが嫉妬を感じるほどだった。

伝吉は、偏執的に愛していた幼児が流感で死ぬと、もう女には興味を失って、相手と別れてしまう。

中島敦はどうかといえば、中学4年の頃、老いぼれの黒猫を偏執的に愛していた。「プウルの傍で」という自伝的作品から、そのくだりを引用してみよう。


中学4年生の彼は、偏執的に彼の黒猫を愛してゐた。彼は、彼の噛んだものを口移しに猫に与えるのであった。一週間ばかり、その黒猫が失踪した時ほど、純粋な不安と絶望とに彼が陥ったのを、彼の家人達は見たことがなかった。

それは、もう老猫で、かつては美しかった真っ黒な毛も、薄汚れて艶を失っていた。それによく風邪をひいて、くしゃみをしたり、洟を垂らしたりした。それ故、家の者は皆、彼女をひどく嫌った。それがまた彼には、猫をいとほしく思わせる一つの理由になるのである。

彼が学校から帰る時分には、黒猫はいつも犬のやうに門の所に出迎へて待ってゐた。彼が抱上げると、彼女ほ、寒天質の中に植物の種子を入れたやうな、草入水晶に似た瞳をむけて、甘えた声で訴へるのであった。

中島敦は本当に猫を溺愛していたのである。彼を死に至らしめた喘息は、毎晩猫を抱いて寝ていたからではないかと近親者が語っているほどに、老猫を溺愛していた。

こうした常軌を逸した愛し方は、どこから来ているのだろうか。どうやら絶望的なまで深かった彼の孤独癖から来ているらしいのである。

                     

中島敦は中学校の漢文教師中島田人の長男として生まれた。
父の田人は女運の悪い男で、34才でようやく東京女子師範学校卒業の小学校教員千代子と結婚し、その翌年に中島敦をもうけたものの、たちまち妻に逃げられてしまっている。

母の千代子は大変な才媛で、中島敦の明敏な頭脳もこの母からの遺伝ではないかと言われているほどだ。写真から推察するかぎり、彼女はかなり美貌にも恵まれていた。こうした才色兼備の千代子にとって、新婚の夫はあらゆる意味で物足りなかったのである。だから、結婚の翌年、中島敦を生むと、子供には何の未練も残すことなくさっさと離婚してしまったのだ。

 父田人と母千代子

父田人は地方回りの中学校教員として一生を終えた。
彼の経歴を眺めていて気になるのは、その転勤の多さで、退職するまでに8校を歴任している。それも東京から千葉県へ、千葉から奈良県へ、奈良から静岡県へというふうに、ところ定めず転々としているのである。老境に近づいてから朝鮮の中学校に移り、さらに大連の中学校に転じて、そこで退職している。戦前、公立の学校教員が外地の学校に飛ばされるというのは、決して名誉なことではなかった。

田人は、最初の妻千代子と協議離婚した後に、相次いで二人の妻と再婚している。この二人はいずれも粗野な女で、才媛の妻を御しかねた田人は、今度は無教養な妻に振り回されることになった。二番目の妻は女の子を出産した直後に亡くなり、三番目の妻も三つ子を生んだものの、やがて病死している(三つ子は3人とも育たなかった)。

職業人としても、家庭人としても不本意な人生を送った田人は、その人柄のなかに他人の侮りを受けるような弱いところがあったのかもしれない。彼は息子の死を悼んで、漢文で弔文を書いている。やたらに息子をほめあげた型通りの美文で、漢文科教師として生涯を過ごしたにしては、お粗末な出来である。

赤ん坊を残して最初の妻に去られた田人は、息子を埼玉県久喜市に住んでいる祖父母に預けて、奈良県郡山中学校に転勤する。田人の父中島撫山は、利根川べりの久喜に私塾的な学校を開いていた高名な漢学者だったが、彼は敦を引き取った翌年に死去しているため、孫には全く影響を与えることなく終わった。

中島敦は、この久喜で学齢に達するまで過ごしたのだった。
祖父中島撫山は、田人を含めて10人の子供を持つ「子福者」だったから、祖父なきあとも、祖母の所にはこれらの子供たちが絶えず訪ねてきていた。それに長男の中島斗南は父の開いた私塾の教師をしていたから、多くの伯父叔母に囲まれて敦は何不足なく育った。

6才になった中島敦は、小学校に入学するため父の任地の郡山に移ることになる。父はその前年に第二の妻カツと再婚していた。敦は6才から14才まであしかけ9年間を、このカツに育てられることになる。

カツの敦に対する態度は、過酷なものだったらしい。虚栄心が強く締まり屋だったカツは、お八つとして彼にキャラメル一粒しか与えなかったり、気に入らないことがあると彼を木に縛り付けて折檻したりした。

この継母について、中島敦は旧友の釘本久春にこう語っている。

 
いじめられるのが辛いというばかりじゃない。むしろ
、若いその母が、自分につらく当るのは、子どもなが
ら、同情できたくらいだ。

ただ自分をいじめるとき、そ
 の母が、ヒステリーで滅茶苦茶になるのを見るのが、と
 ても辛かった。その人間喪失ぶりを見るのが、こたえ
 た。

幼い敦は、継母の行動に反発することはなかった。むしろ、冷静に相手の行動を眺めていた。しかし、カツが妹の澄子を出産後に急死し、その翌年に父が三番目の妻飯尾コウを迎えると、中島敦は新しい継母にも父にも強い嫌悪を感じるようになる。以下は、「プウルの傍で」からの引用である。


 三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終り頃に、生れたばかりの女の児を残して死んだ。十七になつたその年の春、第二の継母が彼のところに来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさとを感じてゐた。

が、やがて、その女の大阪弁を、また若く作ってゐるために、なほさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。

その頃五つ位になってゐた腹異ひの妹に対しては、彼自身に似た、彼女の醜い顔立の故に、之を憎んでゐた。最後に、彼は、彼自身を−−その醜い容貌を−−最も憎み嫌った。近眼でショボショボして、つぶれさうな眼や、低くて、さきの方ばかり申しわけのやうに上を向いてゐる小さな鼻や、鼻より突出してゐる大きな口や、黄色い大きな乱杭歯や、それらの一つ一つを、彼は毎日鏡を見ながら呪った。

それに、その青黒いがさがさした顔には到る処に面皰が吹出してゐた。時々、腹を立てた彼は、まだ若い面皰を無理につぶして血膿を出させたりした。


ある朝、父が、新しい母のこしらへたおみおつけを賞めるのを開いて、三造は顔色を変へた。今まで、父はおみおつけなどを少しも好まなかったことを三造は良く知ってゐた。彼は自分が恥づかしい目に逢ったやうに感じて、急に箸をおくと、お茶も飲まないで、鞄をさげて、外へ飛出した。もう家の奴なんかとロはきくまい、と彼は考へてゐた。家族と口をきいて、後で後悔か羞恥かを感じなかったためしはない、と彼は思った。

そしてある夜、中島敦は父にあからさまな反抗を示してしまう。


 ある日、三造が妹と女中とで夕飯をたべてゐると、父と新しい母とが外から帰ってきた。彼等は一緒に何か物を見に行って、帰りに飯もすませて来たといった。それを聞きながら、彼は妙に気持がとがって来るのを感じた。何故妹を連れて行ってやらないんだ、と、彼は妹を愛してゐなかったにも係はらず、とっさにさう思った。明かに嫉妬であると彼は自分でも気がつき、気がついただけ余計に腹が立った。

彼等はみやげだといって蒲焼のをりを三造に与えた。それがまた理由もなく彼の気特に反撥した。彼は苦い額をして一口それを喰べた。それから、その残りを卓子の下にゐた猫に与えた。突然、父が黙って立ち上った。そして咽喉を鳴らしながら喰べてゐる猫を蹴とばし、三造の着物の襟を左手でつかむと、右手で続けざまに彼の頭を三つ四つ殴った。

それから、はじめて、父は、怒りにふるへた声で、どもりながら叫んだ。
「何といふことをするんだ。折角、買ってきてやったのに。」
三造は黙ってゐた。父ほもう一度繰返した。息子はみにくゝ顔をゆがめながら強ひて笑った。
「一度貰った以上、それからはどう処分しょうと、僕の勝手ぢやありませんか。」
             
 激怒が再び彼の父を執へた。父は、その拳がいたくなる位、はげしく息子の頭を打った。打ってゐる中に次第に病的な兇暴さが加ってくるのが、打たれてゐる三造にまで感じられた。彼は、しかし、少しも防がうとほしなかった。むしろ打たれるのを楽しむやうな気持さへ何処かにあった。彼は、それよりも、父が、彼の猫を蹴とはしたことに憤りを感じてゐた。明らかに、これは猫の関係したことではないのだ。

新しい母は、あっけにとられて、止めるのも忘れてゐた。老いた女中も同様であった。猫は庭に逃出し、妹は涙を浮かべてふるへてゐた。
               
 やがて、彼の父は、その手を止めた。そしてしばらく茫然と、三造を見下して立ってゐた。丁度夢からさめたやうな恰好であった。三造は、わざと冷然と、父の顔を見上げた。その視線にあふと、父ほあきらか狼狽の色を見せて、眼を外らした。今や、彼の父こそ、完全に敗北者であった。息子は息子で意地悪く考へてゐた。これでも、父はいつものやうに、「親が子を叱るのは、子を愛するからだ。」といへる積りであらうか。自分の感情にまけて子を打つのではない、と、いへる積りであらうか。
              
 そして、それから、大分経って、やっと彼の心の中に、「親子といふ関係の前には、如何なる人格も無視される」といふ事実に対する純粋な憤りが徐々に湧いてくるのであった。

この蒲焼き事件は、一家が朝鮮のソウルで暮らしていた頃の出来事で、当時、敦は中学校4年生だったと思われる。その一年後には、敦は中学4年修了で一高に合格して東京に去り、父も一家を引き連れて中国の大連に転勤している。

氷上英広は、一高生時代の中島敦について、次のようなエピソードを伝えている。ある日、彼が敦の下宿を訪ねたら、机上に「着」とだけ大きな文字で書いてある葉書がのっていた。それは、数日前に大連の親元が衣類やら何やら、こころをこめた小包を届けてくれたことにたいする敦の返事だった。

小包を送ってやっても、何時も返事をよこさない敦に腹を立てた父が、今度はきっと出せと言ってきたので、敦はこの葉書を投函することにしたのである。彼はこの返事のために、また、父に叱られたという。

それから、また5,6年たって、中島敦は大連の中学校を退職して東京に落ち着いた父たちと再び同居することになる。この頃に敦が書き記した日記体の手記が残っている。


 十二日。二三日来の続きをやるつもりでゐた所、起きる
とすぐ、オフクロの咆哮によって気持が目茶苦茶にされて
了ふ。全く意味もない。喧嘩のためにけんくわを売ってく
るんだから、とても敵はない。

全く、事を好むこと、かれ
が如きも少なからう。何しろむやみと乱暴で気が強くて、
少し自分の気に入らないことがあると直ちに噛みついてく
るのだから、どうにもやりきれない。

・・・・・それでやっとのことで、それが自分の誤解であ
ることが分ると、こんどは引込みがつかなくなったものら
しく、父のわる口なぞをはぢめる。

「父の悪口だけは止してくれ。このこととどういふ関係が
あるんです」といふと、「これは悪口ではない。愚痴だ」
といふ。

とにかく僕として、毎日々々、父のわる口を聞かされるの
は、不愉快なことだ。この不愉快に感じる気持が即ち、ひ
がみなのであるか。

オフクロの賎劣な心性、その厭味な、悪意に充ちた、あら
ゆる温かい女らしさとは、およそかけはなれた、汚ない言
葉−−さういふものを相手にすることによって、次第に僕
自身までがいやしくなる。

いや、かうして、オフク
ロに関することを書いてゐるだけでも自分の心の中に、
いやしいものが滞ってくるやうな気がする。さればこそ、
自分はなるべく、相手にならないやうに、努めてゐたのだ
が、それを、今朝のやうに、根も葉もないことから猛りた
って、喰ってかゝるんだから、全く、どうにも、かうにも
しようがない。

しかも話の果は、父と別れる、別れないになって、結局は
出る所へでれば、金の話となって、つまり手切金をとって、
別れることになるんだらうからなどと、(僕をおどすつも
りででもあるのか)云ひ出す。

「父を困らせてやらうなどといふ気をもたずに、別れる
ならアツサリと、別れたらどうです」といふと、「こちら
は、野合の夫婦ではないから、さうはいかぬ」と、たかと
僕のことにあてつけて嗤ってゐる。

外のことは何をいはれ
ても、いゝが、自分が一生を賭けて、(僕にほ全く珍らし
い)真面目な気持ちからしたことを、そんな、いやみな嘲
笑的な言辞で、何の関係もない場合に、たゞ単なる、悪口
のための悪口として、云われるといふことは、相当にいや
なことだ。

継母コウは、世間体を気にする夫の気持ちを見透かして、ことあるごとに別れ話を持ち出して夫を脅迫していた。彼女はすでに一度離婚している夫が、世評を気にして二度目の離婚には踏み切れまいと見越していたのだった。

彼女は継子の敦に対しても、その弱点と思われるところを容赦なく突いてきた。中島敦はまだ学生の身で麻雀荘の店員をしていた「たか」という娘を妊娠させていたのである。

                       
祖母の手を離れ父のもとに引き取られてから、中島敦は家庭の中で寒々とした孤独を感じ続けてきた。無教養な継母はヒステリックに敦に当たり散らし、父はいじめられている息子を見ても救いの手をさしのべようとはしない。こういう環境にあったから、彼は小学校の教師から聞かされた「地球の運命」に関する話にほとんど原始的なまでの恐怖を感じてしまったのである。

                                        
小学校教師による「地球の運命」の話は、「狼疾記」によると、こうである。


小学校の四年の時だったらうか。肺病やみのやうに痩せた・髪の長い・受持の教師が、或日何かの拍子で、地球の運命といふものに就いて話したことがあった。如何にして地球が冷却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるかを、其の教師は、意地の悪い執拗さを以て繰返し繰返し、幼い三造達に説いたのだ。

後に考えてみても、それは明らかに、幼い心に恐怖を与えようとする嗜虐的な目的で、その毒液を、その後に何等の抵抗素も緩和剤をも補給することなしに、注射したものであった。三造は怖かった。恐らく蒼くなって聞いてゐたに達ひない。

地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。所が、そのあとでは太陽までも消えて了ふといふ。太陽も冷えて、消えて、眞暗な空間をただぐるくと誰にも見られずに黒い冷たい星共が廻ってゐるだけになって了ふ。それを考へると彼は堪らなかった。それでは自分達は何のために生きてゐるんだ。

自分は死んでも地球や宇宙は此の儘に続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。
                
それから暫く、彼は・・・・ 十一歳の三造は、神経衰弱のやうになって了った。

彼にとって、之は自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何萬年後のことだからとて、笑ってはゐられなかったのだ。其の頃彼は一匹の犬を可愛がってゐた。地球が冷えて了ふ時に、仮に自分が遭遇するものとすれば、最後に氷の張り詰めた大地に坑を掘って、其の犬と一緒に其虞にはひって抱合って死ぬことにするんだが、と、その有様を寝床へ入ってから、よく想像してみたりした。

すると、不思議に恐怖が消えて、犬のいとしさとその体温とが、ほのぼのと想い浮かべられるのであった。しかし大抵は、夜、床についてからぢっと眼を閉じて、人類が無くなった後の・無意義な・真っ黒な・無限の時の流れを想像して、恐ろしさに堪えられず、アッと大きな声を出して跳び上がったりすることが多かった。

小学校時代に呼び覚まされた宇宙イメージはよほど強烈だったと見えて、中島敦は「北方行」でも、問題の小学校教師を「憎むべき悪漢」と呼んでこの話を繰り返している。「北方行」でも、このエピソードの重点は、小学生の彼が「人間と宇宙に対する信頼」を失ってしまったことに置かれている。


                                  
「それから当分僕はこの問題ばかり考へてゐた。その頃僕ほ家の犬を可愛がってゐてね、地球が冷えちまふ時に自分が遭遇するものとすれば、最後に氷の張りつめた大地に坑を掘って、この犬と一緒にそこへはひって抱合って死ぬことにするんだが、と、その有様を、よく寝床にはひってから想像したもんだよ。


僕あ、オフクロを知らないんでね、オヤヂは嫌いだし、兄弟は腹がちがふし、友達はなし、結局犬と一緒に死にたかったんだね。それから、やっぱり、夜寝てゐてね、人類が無くなったあとの無意義な眞暗な無限の時の流れを想像して、その恐しさに堪へられずに、アツと大きな声を出して跳上ったりして、オヤヂに叱られたことも何度かあったね。

夜、電車通りなんか歩いてゐて、ひよいと此の恐怖が起ってくる。すると今迄聞えてゐた電車の響も聞えなくなり、すれちがふ人波も目に入らなくなって、ヂインと静まりかへった世界の真中に一人でゐるやうな気がしてくる。その時僕の踏んでゐる大地はもはや何時もの平らに見える地面ではなく、人々の死に絶えて了った冷え切った固い遊星の表面なんだ。僕は『みんな亡びる、みんな冷える、みんな無意味だ』と考えながら、ほんとに、恐ろしさに冷汗の出る思いで、しばらく其処に立ち止まってしまう。・・・・こんなことがしょっちゅうだったよ」

折毛伝吉が三造にこの話をしたのは、自らのニヒリズムが何に由来するか説明するためだった。


 「今だつて、殊に昼寝から覚めた時なんか、よくこの気持・・・・・ いやな、どうにもならない恐しさ、詰まらなさ、が暫く続くんでね。つまり人類や地球に対する不信が観念としてでなく、感情や感覚として、染み込んでしまったんだね。子供の時のその気持ちに、今は、生活への実際的な軽蔑が加わっているわけなんだな」

幼い中島敦が抱いた恐怖の根にあるのは、パスカル的な不安(実存的な不安といってもいい)である。小学校教師の話がいかに真に迫っていたとしても、小学校4年の身で、彼がかくも激しく反応したのは、飼い犬以外に味方がいなかったという寒々とした家庭に原因の一半があった。                                               

「人間と宇宙に対する信頼の喪失」は、一方では彼の内部にニヒリズムを育て、他方ではそれとは裏腹な平凡な愛情関係に対する憧れを育てた。少年期の彼の心に芽生えた「地球の運命」に対する恐怖は、成長してからも彼の内部に癌のように居座り、折毛伝吉的自我と黒木三造的自我の分裂、ニヒリズムと愛情飢餓の対立という分裂を引き起こしたのである。

中島敦のエネルギーは、外に向かってはニヒリスティックな活動性となり、内にこもっては愛情で結ばれた二者関係を求める自閉行動となって現れている。中学4年生の彼が、「魔窟」に出かけて女を買うかと思えば、老猫との間に閉鎖的な愛情世界を作り上げた矛盾のなかに、彼の人格の矛盾、その二面性を読み取ることができる。

               
                  
                

中島敦は、単身で東京に出てから、かなり奔放な生活を送ったらしい。麻雀荘に入り浸り、ダンスホールに日参し、浅草の踊り子を組織して台湾で興業する計画を立てたりした。

彼が入り浸りになっていた雀荘には、パン子という女がいて、彼はこの女性と深い関係になった。同じ店に愛知県から出てきた橋本たかという娘もいた。彼は、この娘にも目をつけて関係を迫ったが、彼女は敦が同僚のパン子と寝ているところを見てしまっていた。従って、たかを手に入れるために、彼は半ば暴力をふるわなければならなかった。              

中島敦とたかの関係がどのように推移したのか、全集に添えられた年譜や書簡集を見ただけではハッキリしない。彼がたかに出した手紙には、雀荘に通っていた頃の思い出を綴ったものがある。


三人で仲よく過した時のことを思ひ出す。僕がパソ子をつ
れて、「サムラヒ・ニッポン」を見、お前が、伊庭と「ミ
ス・ニッボン」を見たことがあったっけね。もうあの時か        
ら、半歳以上も経ってるんだね。早いものだと思ふ。

三人
でアパートに泊ったことや、あまりお前達が笑って、イバ
の姉さんに叱られたことや、杉本なんかと四人で、クラブ
の御飯をたべたことや、地震のあった晩、甘辛ホールで、
二人にヒヨツコリ逢ったことや、パン子がお腹をこわした
時のことや、いろいろなことがあったネ。

これで見ると、中島敦は雀荘で知り合った仲間を交えて、男女入り交じって雑魚寝をしたり、パートナーを取り替えてデートしたりしている。彼は、この頃の自分の女性に対するシニックな態度を、自伝物の断片のなかに率直に記している。


女との交渉を彼は何度となくもった。併し恋愛
などといふ気持は一度だって分ったことがない。それはた
ゞ、衝動とそれに拍車をかける好奇心と、生来の芝
居気との合成物でしかなかった。

最初、衝動・好奇心・芝居気の合成物から始めた橋本たかとの関係は、少しずつ変化し、やがて中島敦は、彼女との結婚を考えるようになった。だが、親戚の思惑を気にする父は、まだ学生の息子が氏素性も定かでない女と結婚することに難色を示した。それで、たかは一旦故郷の実家に戻って、話がまとまるまで待機することになったらしい。

田舎で肩身の狭い毎日を送っているたかに、敦はこまめに手紙を出している。

 たか。別に君の心を疑って居るわけではないが、

 もう一度聞くよ。怒らないでおくれ。たか。お前、ほんとに、ど
んなことがあっても、僕と一生、一緒に居る積りかい?

僕が、ダラシない人間で、意志の弱い、身体迄弱い人間だ
といふこと。従って、お前と結婚してからも、お前にどん
なにか迷惑をかけるかも知れないこと。(経済的にも) そ
れも、承知で、一生、僕の面倒を見てくれるかい? ほん      
とによく考へて、お前自身の損得も考へてから、ハツキリ
答へておくれ。

 別に、僕、お前の僕に対する愛を疑ってるのでほないが
何だか、近頃僕、淋しくて、色々自分の将来のことなど考
へると、どうもお前にこれから、難儀ばかりさせさうな気
がするものだから、つひ、こんなことも聞くんだ。

お前も、
自分自身の利害を考へるんだよ。僕、勿論、お前を愛して
居るよ。それだけは信じておいで。そして、お前さえよけ
れば、どんなことがあっても結婚する気で居るよ。・・・

何だか、今晩、あまり淋しいので、つい、変なことを書い
たが、では、これで、サヨナラ

この手紙に対して、たかは愛を誓う返事を出したようである。それを読んで中島敦は、まるで中学生のような懺悔の手紙を書くのだ。


 手紙見た。お前の気持は、ほんとに嬉しいと思ふ。僕な
んかには、もったいない位な気がする。お前はまだ知らな
いんだ。僕が、どんな悪い人間かといふことを。僕は今迄
全く、悪い人間だった。(みんな僕の弱さから来て居るこ
とだが) 

お前に話したこともあるけれど、話さないことも
ある。全く、僕には、お前の僕に対する愛が、もったいな
いと思はれるんだ。それは、僕もお前を愛しては居た。

けれど、愛して居ながら、やっぱり、お前にすまないことば
かりして居たんだ。いづれ、お前に逢ってから、お前にみ
んな話して、詫びをしよう。そして、その時、もし、お前が
許してくれたら、僕達は結婚しよう。

そのうちに父も、しぶしぶ息子とたかの結婚を受け入れるようになったが、すると新しい問題が発生した。たかを自分の息子の嫁にしよう思って彼女を育てていた叔母が、中島家に乗り込んできて慰謝料を請求するという事件が起きたのである。たかの兄も、敦との結婚には絶対反対だった。

中島敦は、まだ大学在学中の昭和7年に、24才でたかと結婚している。だが、この時には、彼はたかを入籍していない。

その翌年に彼は東大を卒業し、私立女学校に職を得て横浜に移っている。この段階になっても、彼はたかを呼び寄せようとしていない。たかは挙式後も依然として田舎に留め置かれて、そこで長男を出産しなければならなかった。

結婚後も妻を呼び寄せなかった理由を、彼は「父が世間体を気にしているから」と弁解している。とはいっても、たかの身になれば、子連れで何時までも実家のやっかいになっている訳にはいかない。就職した中島敦は、すでに家族を養うだけの収入を得ているのである。

しびれを切らしたたかは、その年の11月、赤ん坊を抱いて上京する。母子を迎えて、敦はやっと二人を自分の籍に入れたものの、妻子と同居するすることは拒んだ。たかは一年半にもわたって、東京市内を転々と間借りをして暮らさなければならなかった。この間、敦は同僚や生徒たちに独身だと思わせていたのである。敦を信じていたたかも、この時には「夫の冷たさを感じた」と語っている。

こうした中島敦の行動にも、その分裂した人格をうかがうことができる。
彼がはじめ橋本たかを自分のものにしたのは遊戯的な気持ちからだった。そのうちに無口だが「腹が据わっていた」といわれるたかに惹かれるようになって、万難を排して彼女と結婚する。が、相手が完全に自分のものになってしまうと再びニヒルな気分になって、子持ちのたかに間借り暮らしを強制して平然としているのである。

その中島敦も、妻子を横浜の借家に迎えてからは打って変わって子煩悩ぶりを発揮するようになった。妻子に対する愛も深くなり、家が安らぎの場と感じられるようになる。

彼は妻が実家に帰ったりすると、それを追いかけるように妻宛の手紙を書いている。興味深いのは、「たか」と呼び捨てにしている普段の手紙と違って、妻に留守をされたときの手紙の呼び方は大抵「おたかさん」となっていることだ。そして「今ヒビスカスが咲いている。早く帰ってこないと散っちゃうぞ」などと書いて帰宅をうながしている。

家族に対する愛情の深さは、南洋に赴任中の手紙によく現れている。森鴎外も、日露戦争中に戦地から妻子宛の手紙をたくさん書いているが、年齢のせいか妻への手紙は幼児をあやすような調子の文面になっていた。だが、中島敦の手紙からは、妻子を恋うる彼の気持ちが、ストレートに伝わってくる。彼は、はばかることなく留守宅の様子を想像していると「何だか涙が出てくるよ。おたかさん」などと書くのだ。

なかでも、昭和16年9月20日の日付のある長文の手紙は印象的である。


彼は家族と別れて、南洋まで来てしまったことを悔いて「全く大莫迦野郎だなあ、俺は。・・・・・もう愚痴はよそう、お前を泣かせるだけだからね」と心境を綴っている。身体に自信のある人間なら、家族と別れて2,3年過ごすことくらい、後で取り返せるから何でもない。「しかし僕には、将来どれだけ生きられるやら、まるで自信がない。それを思うと見栄も意地もない、ただただ、お前達との平和な生活を静かにたのしみたいというだけの気持になる」と切々と訴えるのだ。

中島敦は、「もう愚痴はよそう、お前を泣かせるだけだからね」と書いた後でこうつづける。


それから、何も云わなくたって、お前には俺の苦しみが判っていてくれる筈だからね。何時だか、お前は、おれに言ったことがある。「私には、貴方が一番良く判ってゐます」って。その時オレは「さあ、どうだかなあ!」って言ったが、それや、お前にだってオレの全部が解ってるとは思へないけれど、併し、他の誰よりもオレを判ってくれてゐることはタシカだね。今、ハツキリとそれを認めるよ。

この日付の手紙には、こんな一節もある。


 今年の七月以来、おれはオレでなくなった。本当にそうなんだよ。昔のオレとは、まるで違う、ヘンなものになっちまった。昔の誇も自尊心も、昔の歓びもおしやべりも滑稽さも、笑ひも、今迄勉強してきた色々な修業も、みんな失くして了ったんだ。ホントにオレはオレでない。

お前たちのよく知ってゐる中島敦(おとうちゃん)ぢやない。ヘソなオカシナ、何時も沈んだ、イヤな野郎になり果てた。(また、こんな事を書いて了った。女みたいな愚痴を。これは、誰でも心のスミッコにフタをして置くべきゴミタメみたいなもんだ。心のゴミダメを見せるのは、お前にだけだ、)

独立不羈で他人に弱みを見せなかった彼が、妻にだけは脆いところをあからさまに見せている。妻のたかには、さほのど教養はなかった。台所で仕事をしながら「イエ、イエ、それは可哀そう!」と流行歌を歌ったり、敦が何か冗談を言うと「いやらしい」と怒ったり、そうかと思うと何でもないことをくよくよ心配して涙ぐんだりする女だったが、中島敦はこの「教育のない」妻の人柄の中に母性的な温かいものを感じていたのである。

遠い南洋の地で、彼は日に何度も妻や子供の名前を、声に出して呼んでいる。そして、(幼子の名を千度呼んだとて、もはやどうにもならぬ)と自嘲する。中島敦が家族をしきりに恋しがるのには、理由があった。教師時代の彼が、ちょっと近くに出かけて帰ってきたときにも、妻をはじめ小学生になった長男・ようやく歩き始めた次男まで、家中総出で玄関に迎えに出てくれたのだった。

妻のたかは、中島敦を信じ、愛していた。妻に宛てた手紙には、こんな言葉も見える。


所で、タカ助は、まあ、なんと、オレをひいきにすることよ!だ。あんまりオレびいきになり過ぎるから、色々と神経質になるんだ。もうオレも身体の具合が大変に良くなったんだから安心しろ。今迄は随分、かなしい知らせばかりやってお前を泣かせすぎたようだな。カンベンしろよ。

南洋群島の群の字を郡とまちがえてはダメ。郡だよ。

中島敦の気持も、妻のそれに劣らなかった。二人は強い絆で結ばれた夫婦だったのである。

             

中島敦は、女学校の世界をシニックな目で眺めながら、そこでの日常を温室のなかにいるようなものだとも考えていた。父に宛てた手紙で、彼は教師時代を振り返って、「肉体的にも、精神的にも、甘やかされすぎていた」と書き送っている。

家庭も彼にとって温室のようなものだった。以前に、ダンスホールに出かけたり、雀荘に入り浸っていた彼が、横浜の借家では庭に草花を育てることに熱中し、夜、妻に命じて電気の明かりを庭に向けさせて、苗の植え替えをしたりするようになっていた。

こうした恵まれた環境にあって、彼が自らの体をいたわっていたら、持病の喘息も徐々に快方に向かったかもしれない。だが、彼は生活が安定して、後顧の憂いがなくなると、図に乗って活動的になり、外に向かって突き進むようになるのだ。

喘息で一年中薬を手放せない中島敦が、白馬や富士山に登り、夏になればプールに通って水泳をする。妻が子供を連れて父の家に行っている留守中、中島敦は羽を伸ばして大いに遊んだらしく、それを耳にした妻たかは夫に自重を求める手紙を出している。これに対する中島敦の返事。


○水泳はするなといふが、俺の生きてゐるのは一年中で 
夏だけみたいなものぢやないか。せめて夏だけでも楽しみ
 たいのは仕方がないぢやないか。そんなに無理はしない
 さ。             
  あんまり、みんなで 俺を縛らうとすると、俺は自殺
 しちまふよ、

○俺のことをどんなに疑はうと勝手だが、俺が死んでから、
 杉本にでも誰にでも俺のことを聞いて見るがいゝ。さう
 すれば判るだらう。

○桓にあんまりひどい事をするなよ。

 今〔日〕朝、写真が 来てゐ〔る〕た。
 お前の悲しさうな顔はどうだ。
 もうこんな顔をするなよ。頼むから。
 
手紙見た。あまり悲しそうなことばかり云うな。

 左から妻、長男、中島敦

二番目の段落は、たかが夫の女性関係に関する噂を気にしていることに対するものだろう(この時、中島敦は28才、妻たかは長女正子を妊娠中だった)。たかの悲しそうな顔は、このことに関係していたかもしれない。

「無理をしないでくれ」という妻の懇望にもかかわらず、この返事を書いた後で中島敦は夏休みを利用して中国への旅行を敢行している。生涯を漂泊の旅に過ごした伯父中島斗南に似ていると自ら告白しているように、中島敦の体内には放浪の血が流れていたのである。

彼が病弱の身でこれだけの活動ができたのは、旺盛な生命力に支えられていたからだった。その盛んな活力は、旺盛な食欲によることが多かったと思われる。彼の健啖ぶりについては近親者の証言がある。彼が口の両端に白い爛れをこしらえていたのは、大食いのためだったと説明する友人もある。彼は、強力なエンジンを積み込んだボロ自動車のような男だった。馬力が強すぎて、車体が持たなかった自動車。

彼は、登山・水泳・旅行などで体力を消耗させただけではない。
彼が最大量のエネルギーを投入したのは、原稿書きだった。異腹の妹澄子の回想記に注目すべき一節がある。妻たかが二人の子供(長女正子は夭折)を連れて里帰り中に、中島敦が書き損じの原稿を焼いてくれと彼女に頼んだというのだ。


ある日、書き損じの原稿などを行李一ぱい出して、「今日これを燃してくれ」といわれた。「はい」と答えてパラパラめくっていると、「だまって燃しちまえ」とえらい剣幕。仕方なく風呂のたきつけにして燃してしまった。

真夏とはいえ、風呂の水が相当にぬるむほどの量であった。「燃しましたよ、兄さん」と報告すると、「たかがいると、うるさいから」と一言いった。

義姉ならばたぶんた泣いても止めたのだろう。私もとんでもないことをしたのかと、このことは義姉にもだまっていたように思う。兄にとっては不本意な原稿だったのだろうが、今にして思えば勿体ないことをしてしまった。

注目点の第一は、書き損じの原稿が行李いっぱいあったということである。行李の大きさを知らない向きもあるかもしれないけれども、これは大変な量なのだ。夜ごと机に向かって、せっせとペンを走らせなければ、到底これだけの嵩にはならない。

第二の注目点は、作家志望の夫を妻が全力で支えていたことだ。寸刻を惜しんで机に向かう夫を、妻のたかは背後から見守り、夫が書き損じた原稿も大事にとっておいた。彼女はそれが断簡零墨だったとしても、夫が心血を注いだ原稿を捨てる気にはならなかったのである。

世に出る以前、彼が書き続けたおびただしい原稿のうちで、今日、形をなして残っているのは、「かめれおん日記」「狼疾記」「無題」「プウルの傍で」「虎狩」などである。これらの多くは、作品が平板に流れることを警戒して、内省的な主人公に配するに、病的な人物をもってするという構成を取っている。

例えば、「かめれおん日記」には、羞恥や懐疑とは無縁の悪魔的エネルギーの持ち主吉田が出てくる。吉田は同僚全員の給料表を手に入れて、自分より月給の高い女教師をこき下ろし、同僚一人一人の経歴やら家庭事情を調べ上げて他人の秘密を手に入れることに、この上ない満足を貪っている。この人物は「無題」の中山と同様に国語教師ということになっており、中島敦を思わせる特徴がいくつか付与されている。

「狼疾記」には、女房の名前が「日本名婦伝」に載っていることを誇りとしている「事務のM氏」が登場するし、「虎狩」にはプライドの高い、しかし酷薄な性格を持った朝鮮人の学友趙大煥が登場する。いずれも、うちに毒をたたえた病的な人物である。

しかし、南洋に赴任する前に、彼が深田久弥に託していった「古譚」「光と風と夢」は、内容ががらりと一変している。史書や外国の文献に材を取り、自分離れした歴史小説・伝奇小説を書くようになっているのだ。深田の手で雑誌に掲載された「古譚」は読書家の注意を集め、「光と風と夢」は芥川賞の候補にもなり、中島敦は、一躍、脚光を浴びるようになる。

南洋から帰国した彼は、文部省を辞し作家活動に専念するようになった。
念願の作家になってからの彼の作品、なかでも中国に題材を得た「李陵」「牛人」などは、文壇関係者にボディブローのような重い衝撃を与えている。これまでの日本文学に例のなかったような悲劇性の強い作品だったからだ。

今度、筑摩書房版「中島敦全集」中の一冊、「中島敦研究」を読み返してみたら、中村光夫をはじめ多くの作家評論家が、異口同音に彼の作品を「悪意」という言葉で説明していた。


世界のきびしい悪意に対する懼れ(武田泰淳)

造物主の悪意の表現のような人物達(武田泰淳)

外界は主人公に対して悪意を持つもの、主人公の不確かな意志に対して確実な意志を持つもの、つまり運命そのものにまで還元できるような、冷酷で、無慈悲で、不条理な外界でなければならぬ(福永武彦)

外界の盲目的な、野蛮な圧力を主題として(福永武彦)

大きく聳え立つ世界の酷薄な悪意と小さく屈服する無防備な人間との対比(菅野昭正)

彼は「かめれおん日記」「狼疾記」などで個人の悪意を描いてみたが、彼が感じている巨大な不安を表現できなかった。そこで不安を表現するのに、悪意を秘めた宇宙・世界というものを持ってきて、微少な個人はその前で押しつぶされるという風に書き換えてみたら、「李陵」「牛人」のような普遍性を持った作品になったのである。

しかし、悪意の主体を個人から、外界に置き換えるという技術的な操作によって「李陵」などの傑作が生まれたのではない。彼の内部に小学生時代の「地球の運命」への恐怖、そこから発した宇宙に対する畏怖と不信の念がまずあり、それが歴史の暗さ重さに結びついていったと理解するとき、はじめて「李陵」のような作品の生まれた背景が理解される。彼の意識の根底にあるのは、歴史の「悪意」というようなものよりも、もっと大きなコスモスに対する不安だったのである。

         

南洋から帰国後、彼は本格的な執筆活動を開始した。しかしそれは数ヶ月しか続かなかった。過労のため喘息が悪化し、いくら麻痺剤を注射しても効かなくなったのだ。

中島敦は、病院で妻の腕に抱かれながら、息を引き取っている。妻のたかが背中をさすっているうちに、どっと彼女の胸に倒れこんで息を引き取ったのだ。たかは、すっかりやせて軽くなった夫を「生きた人のように膝に抱きかかえて」人力車に乗って帰宅した。

敦の義妹澄子の語るところでは、たかは夫の傍で「かわいそうに、かわいそうに」と言って泣き伏していたそうである。途上で倒れた夫の無念さを一番よく知っていたのは妻のたかだったのである。

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