有島武郎の生と死(2)

これまで森本厚吉と二人だけで行動し、彼からキリスト教への入信を強要されていた有島武郎は、入信によって、森本と二人だけの息の詰まるような世界から抜け出て、より広い世界に浮上することが出来た。武郎は、まず、内村鑑三を指導者とする札幌独立教会に加入して、森本以外の多くの信者たちと交わることになったのである。そして、従来から関係していた遠友夜学校での活動に一層熱力を入れるようになった。遠友夜学校は、新渡戸稲造の米国人妻が私財を投じて創立した未就学者のための私塾的学校であった。

教会の日曜学校や遠友夜学校の教壇に立った武郎は、直ぐに生徒や父母たちの尊敬を集めた。教会の仲間たちからも一目置かれ、彼はいつの間にか学生グループのまとめ役になっていた。たびたび札幌を訪れていた内村鑑三も、武郎の人柄を見込んで彼を将来の自分の後継者と目するようになった。武郎は、自分が周囲から敬重される存在になったのは、何か優れたところがあるからではなく、平均的な人間である自分に取り立てて欠点がなかったからだろうと解説している。


僕の人物は感心によく平均されて出来てゐる。智能も感能も誠によく揃って出来てゐる。容貌も体格も実によく釣り合って出来てゐる。而してその総てが十人並みに。

そこで僕は幼年時代にはさるやむごとなきお方のお学友と云ふものに選ばれた。中学校を卒業して或る田舎の学校に行く時、僕等の畏敬した友人は僕に「送〇〇君序」を書いて 「君資性穏厚篤実」とやった。大学では友人が僕に話しかける時は大抵改まつた敬語をつかった、──君はあまり円満だから同輩のやうな気がしないと云って。

教会に出入する頃は日曜学校の教師にされた。教員をすると校長附主事と云ふ三太夫の役を仰附かった。(「平凡人の手紙」)

有島武郎が周囲の尊敬を集めるようになると、森本厚吉との関係も変化しはじめる。それまでの武郎は、森本の従順な弟子という関係にあり、入信後の有島日記には、森本に対する愛慕の情といってもいいような書き込みすらしていたのだった。


忠愛ナル森本兄ハ我ヲ抱イテ我ガ身既ニ潔マレリト云イクレヌ。我ハ之レヲ力(ちから)ニ進ミ行カン。嗚呼野モ来タレ山モ来タレ、我ハ悪魔ト戦フテ、戦イ休メル時ハ森本兄ノ懐ニ入リテ共ニ神ノ膝下ニ息ハンノミ。

・・・・・森本兄ト神トアリ。余又他ニ何ノ要スル処ゾ。

二人だけの関係では、森本の下位にあった武郎が、教会の集まりに顔を出すと、我の強い森本は敬遠され、武郎が皆に選ばれてリーダーの地位につくのである。こうしたことが続けば、武郎の内部で森本の存在が次第に軽くなって行くのはやむを得ないことだった。

明治33年11月には、武郎はカーライルの「衣装哲学」研究会を立ち上げるが、この会には森本のほかに木村徳蔵・足助素一・末光績・河内完治が参加している。武郎はこのメンバーと共に思い出深い定山渓に出かけ、集団で新年を迎えている。森本厚吉との閉鎖的な交友関係がほぼ終わったことを象徴するような出来事だった。

実際、森本と武郎の立場は、逆転していた。二人の周辺に集まってくる同輩・後輩が指導を仰ぐのは、森本ではなくて武郎の方だった。武郎は、足助素一たちから信仰上の悩みを打ち明けられるだけでなく、個人的な人生問題についても助言を求められるようになった。

有島武郎は、彼を敬愛する多くの人々に囲まれながら札幌農学校を卒業した。そして、東京に戻って麻生歩兵第三連隊に入隊する。五年間の札幌生活で心身共に健康になっていた武郎は、徴兵義務を逃れることが出来ないのなら、一年志願兵になって兵役を短期間で終えようと思ったのである。入隊後の彼は、大学卒業者に与えられた特典によって見習士官になった。


 彼が属した部隊の中隊長は老功な大尉だったが、熱心な法華宗信者で、武郎がキリスト教信者であるのを知ると、機会あるどとに彼を側に呼んで宗教上の議論をしかけた。武郎も負けてはいなかった。

行軍などの時、隊の先頭に二人並んで小むずかしい議論を大声でやりながら歩くのを、他の兵隊たちが怪訝な顔をして見る時もあった。彼はこの中隊長の議論から特別の影響は受けなかったが、軍人の間にもこれだけ虚心に、はるかに年下の者と意見を戦わそうとする人もあるのかと、好感を抱いた(「有島武郎」安川定男)

武郎の体験した軍隊生活は、他の入隊者のそれよりはるかに恵まれたものだったが、日露戦争を一年半後に控えた兵営の日常は、彼の国家観を変えてしまうほどの不快な印象を残した。キリスト教に入信してから、彼は世の中を悪魔に支配されている汚濁の世界と見るようになっていた。しかし、こうした見方は実体験に基づくものではなく、無信仰の社会と縁を切るために人為的に頭の中で形成されたものだった。

軍隊生活を体験した武郎は、無信仰の社会を漠然と否定するといった従来の立場から一歩も二歩も踏み出して、日本社会の内実そのものを否定するようになったのである。

除隊後の武郎は、反軍・反国家の思想を鮮明にする日記を書いている。


我国家を何に譬へんや。糞桶の蓋の如し。・・・・・又我国家を何に譬へんや。白く塗りたる墓の如し。我等その外を見て荘厳と威厳とに打たれ、これを発(あば)きて唯白骨と死灰と不浄とを見る。

国家を糞桶を覆い隠す蓋にたとえるという猛烈な日記を書いた武郎は、「国家とは何ぞや」という文章を書いている。虚栄心と利己心によって成立した国家なるものは、いまもなお恐怖すべき鞭を具えている。国家が一度その気になれば、家族や友人に愛され、心に神を有する人類は、まるで刈り取られた稲のように死の淵に投げ込まれる、と述べた後で、国家を「悪魔」と呼ぶのだ。


人ト人ト相争フ、世ハ之ヲ責ム。・・・・・国家ト国家ト相争フ、世ハ謹ンデ沈黙ヲ守ル。何ノ権威国家ニアレバヨク此ノ如クナルヲ得ルヤ。退キ去レ悪魔!

武郎は考える──殺人を何よりも美徳とする軍隊が存立するのは、その背後に黒幕として国家があるからだ。国家は「無」として意識され、その真実の姿は国民の目に映ってこない。けれども、人々の忌み嫌う軍隊を軍隊たらしめているのは国家なのである。

実家に戻った武郎のところには、皇太子の補導役にならないかとか、有力政治家の秘書にならないかという勧誘があったけれども、彼はそれらを謝絶して渡米の準備にとりかかった。だが、渡米を実現するまでに10ヶ月近い時間がかかっている。武郎はこの間に多くの世事を体験しなければならなかった。

彼は父に命じられて、自家の邸宅を増築する仕事、月末ごとの家計費決済、、島津公爵家との社交、園遊会への出席、狩太農場の収支計算など処理した。武郎の父は、彼に長男として果たさなければならない義務と仕事を教え込んだのである。

有島武郎は渡米の二ヶ月前に、父に指示されて北海道の狩太農場を視察している。この農場は父が薩摩閥出身者であることを利用して国から払い下げを受けたもので、135万坪の広さを持っていた。もともと、これは武郎が札幌農学校に在学中に、父が息子の将来を思って取得したものだったから、武郎としても軽く見ることは出来なかったのだ。

だが、彼は自分の前に平身低頭する管理人や小作人を見て、暗然とする。彼は日記に、「余は彼等の丁寧に余に礼するを見て殆ど逃げんとするに至りぬ」と書いている。農場に関する事務は帰京してからも続き、彼は、「余は殆ど嘔吐を以てこれに対す」と記している。

こうした雑務のほかに、渡米前の武郎は初めての恋愛も体験した。相手の河野信子は、新渡戸稲造の姉の娘だから、新渡戸にとっては姪になる。武郎は、旧知の仲だった信子の母が四谷の病院に入院したと聞いて、見舞いに通い看病につとめた。無論、信子も母親を看病していたから、二人は介護の仕事を通して親しくなったのである。

武郎は自分が信子を愛していること、そして信子の方でも自分を愛していることを知りながら、それ以上に関係を深めようとはしなかった。


願わくは余の心に彼女を忘れしめ給え。彼女の心に余を忘れしめ給え。彼女に祝福あれ。彼女によき夫あれ。・・・・・余は彼女を愛せず。彼女は依然として余の愛らしき妹なり。愚者よ何の涙ぞ

河野信子

武郎は宗教的生活に専念するために、信子に対する愛を断念しながらも、人知れず熱い涙を流している。だが、信子との関係はこれで終わったのではなかった。

約4年に及ぶ留学を終えて日本に帰ってきた武郎は、河野信子がまだ独身でいることを知って驚いた。美貌の彼女には降るほどの縁談があったが、信子はそれらを皆断って独身を守って来たのである。信子は二人だけになったある日、武郎に対して愛を打ち明ける。このときも、武郎は彼女の申し出を断ってしまうのだ。武郎はこの間の事情について、ヨーロッパの女友達に手紙を書いている。


私が米国へ行く前の知己に一人の少女がありました。其の人は随分気の毒な身分だったので、私は心から同情を捧げていました。年も若く、また無邪気な人でした。

私はその少女を自分の愛する妹のように思っていたのでした。今度帰国して見るとその人はもう一人前の若い婦人となって、人柄も確かりとし、文学の知識も相当に心得ていました。

(彼女には)方々から縁談の申込もあったのですが、不思議な事には、もっと勉強したいという口実の下に、皆断って終いました。或日のこと、偶々私と二人で腹蔵のない話の折柄、もしやと危んでいたことながら、私にその意中を打ち明けてくれました。然し私はそれを断ったのです。

武郎に拒否された信子は、見も知らぬ男性と婚約する。すると、それを知ってか知らずか、武郎は両親に向かって信子と結婚したいと言い出すのである。だが、父は、許さなかった。信子の実家が、有島家の家格に相応しくないという理由からだった。

武郎が自分との結婚を望んでいることを伝え聞いた信子は激しく動揺し、男性との婚約を破棄しようとした。武郎がこの時点で自分の意志を押し通せば、確実に信子と結ばれたのである。だが、結局彼は父に屈服し、信子との結婚を諦めてしまう。武郎のハッキリしない態度によって問題はこじれ、信子は深く傷つくことになった。

信子を傷つけたことに自責を感じた武郎は、逃げるように東北帝国大学農科大学に昇格した母校札幌農学校の教師になって赴任する。その3ヶ月後に信子が結婚したというニュースが届くのだ。すると、彼は授業も何も手につかなくなり、あたふたと小樽付近の赤岩温泉にこもって、苦悶の数日間を過ごすのである。そして、痛恨の思いを込めて、「我は未だ此の如く愛したることなく、此の如く愛されたることなし」と日記にしたためるのだ。

本多秋五は、こういう有島武郎について、「本心がどこにあるのかはっきりしない」人間だと評している。


彼は、心のなかのあちらの極とこちらの極との間をたえず揺れ動く、動揺常なき人物であった。男性的な決断というものがなく、「超自然に愚図」といわれても仕方のない人物であった。

センチメンタルな空想に涙ぐむ男でもあった。そういう自分を、自分には確乎たる自我がないと切歯し、自我を確立せねば、と焦慮しながら、つねに自分に裏切られていた。彼のなかには、どうすることもできない深い不調和があった。

      

武郎の優柔不断は、彼の動揺する信仰から来ていた。彼は滞米中にキリスト教に疑問を感じ、半ば棄教していたにもかかわらず、こと性の問題に関する限り確たる態度を打ち出せないでいたのだ。彼は、ホイットマンの影響を受けて本能的欲求を肯定しながら、依然としてピュリタン風の禁欲主義に縛られていたのである。

米国留学の話が持ち上がったのは、武郎の除隊後一ヶ月ほどして森本厚吉と顔を合わせたときだった。札幌農学校卒業というだけでは、大学の教師になるには実績が不十分だったし、教会の牧師になって人々を導こうと思っても、肝心の信仰そのものがまだ未熟だった。二人とも研究の面でも信仰の面でも、もう一段の研鑽を必要としていたから留学することで意見が一致したのである。特に武郎は、両親の圧力から逃れるためにも、父の支配の及ばない外国に逃避する必要に迫られていた。

武郎と森本は、まず、内村鑑三に会って意見を求めた。しかし内村は二人の留学には反対だった。次に新渡戸稲造に相談すると、彼は留学に賛成し、武郎にはハバフォード大学、森本にはコーネル大学を推薦してくれた。これで留学の件は確定し、武郎は父の指示に従って家事を処理しながら、英会話を学ぶために新渡戸夫人のもとに通うことになったのである。

明治36年9月、武郎は森本厚吉とともにアメリカに向けて旅立った。
アメリカに到着し、森本と別れた武郎はハバフォード大学の寄宿舎に入り、大学院の学生としての生活を開始する。彼は与えられた個室にこもって猛烈に勉強し、一年後には卒業論文を提出して、マスター・オブ・アーツの学位を得ている。日本人が在学僅か一年でこの学位を獲得する例は、ほとんどなかった。

同じ大学にアーサー・クロオウエルという学生がいた。彼は、遠いアジアからやって来て、脇目もふらずに勉強する日本人学生に関心を抱き、感謝祭の休暇を自分の家で過ごさないかと武郎を誘ってくれた。アーサーはフィラデルフィア近郊にある農場の息子で、兄弟姉妹が7人もいた。

アーサー一家は武郎を歓待してくれた。農場で一番楽しかったのは、ファニーと呼ばれる13才の少女と、ベビーと呼ばれる6才の少女の手を引いて晩秋の田舎道を散歩することだった。武郎はファニーに魅入られ、「ああファニー、余が生の清き導者」「ファニーの思出は余に生命を与う・・・・彼女は実に余を不純より遠からしむる天使なり」と日記に記した。ハヴァフォード大学の大学院を出た後も、武郎はファニーを忘れることが出来ず、アーサーの農場を訪ねて三週間を過ごしている。

 ファニー

武郎は、もう一勉強しようと考えて、ハーヴァート大学の選科に入学する計画を立てた。そのために少しでも留学費を自力で稼せごうと、彼は精神病院の看護人になった。野卑で粗暴な看護人たちは、病院を「虫の巣」と名付け、患者を「虫けら」と呼び、患者の顔を平手で殴ったりしていた。そんな中で武郎は、仲間から「ジャップ」と蔑まれながら、彼等が押しつけてくる仕事を黙って引き受け、誠実に義務を果たしていった。

看護人をしている間に、武郎は15才の少女リリーに対する愛を育てている。
病院の事務長の娘リリーを見たときの印象を彼は、「余の眼は直ちに彼女の面となよなかなる身に注がれぬ。美しき乙女なり。齢十五なる可し。余の心は躍りぬ」と記し、「余はさながら恋にある若人の如し」と書いている。有島武郎の少女病が始まったのである。「迷路」には、「病的と云いたいほど童女に対して執着の強い僕」と告白した一節がある。武郎が毎朝のようにリリーのために百合の花をその戸口に置いていたことは、日記にも、そしてまた滞米中の彼自身を素材にした小説「迷路」にも描かれている。

武郎の少女偏愛病には、理解しがたい面がある。彼は31才で結婚するまで童貞を守っている。成人の女性に対して信仰から来る禁忌が働くため、彼は少女を愛することで代償的な満足を得ようとしていたという推測もなりたつ。アメリカの少女には、少女であると同時に女を感じさせる二重性があるからだ。

しかし、彼は日本に帰ってからも、現代ならスキャンダルになりかねないようなことをしているのである。帰国後、狩太農場に視察に出かけた時の日記に、こんな記事があるのだ。

・・・・・狩太行きの汽車に乗り遅れ、停車場の傍の宿屋で十二時まで待たなくてはならなかった。その宿屋には十五歳位の少女がいた。余はその少女を大変に可愛いいと思い、遂に彼女を捕らえて、接吻した。

彼女は余に抗う所か、明かに余にすがって来た。自由な自然児となって、彼女にしたいだけのことが出来たらどんなにいいだろう。ああ!余は何と云う変な訳のわからぬ者であろう。

精神病院で過ごした二ヶ月間に、有島武郎はキリスト教に疑問を感じるようになった。
軍隊生活を通して反軍思想を身につけた彼は、日露戦争が始まったときトルストイの発表した反戦論を、強い感激をもって読んだ。ところが、欧米のキリスト教徒はトルストイに嘲笑を浴びせるだけで、その主張に同感するものは僅かしかいなかった。それにアメリカ人は日露戦争を闘犬か何かを見物するように、おもしろがって見ていた。彼等には戦場の悲惨を傷む気持ちが一片もないように見えた。

精神病院で武郎が担当した患者の運命も、キリスト教への疑念をかき立てた。その患者はスコットという博士号を持った開業医で、彼には農場経営に失敗して苦しんでいる弟がいた。博士が弟のことを気にかけながら放置しているうちに、弟が自殺してしまったのである。自責の念に駆られている彼をさらに打ちのめしたのは、カルバン派の牧師の説く、「神に救済されるか否かは、生まれながらに決まっている」という救済予定説だった。(自分は神によって選ばれていない)という絶望に打ちのめされた彼は、やがて、「お前はカインと同じように永遠に呪われた霊魂だぞ」という悪魔の声をありありと聞くようになった。彼は発狂してしまったのである。

武郎は病院を辞めてから、新聞でスコット博士が自殺したという記事を読んだ。人を狂気に追い込み、自殺させる信仰とは何だろうか。この瞬間から、彼は離教に向かうコースを人知れず歩み始めたのである。

ハーヴアード大学に学ぶためにフィラデルフィアからボストンに移った武郎は、学資稼ぎの為にピーボディという弁護士の家に住み込んで家事を手伝うことになった。ピーボディ弁護士は、武郎がこれまでに見たことのないような不可思議な人物だった。彼には妻と二人の女の子がいたが、家族とは別居して一人暮らしをしており、時折、得体の知れない女を連れてきて一夜を明かしていた。

武郎がピーボディについて書いた文章がある。

彼れは四十恰好の弁護士で、妙に善い事と悪い事とをちやんぽんにやる男だった。家賃
だとか出入商人の月末払いとかは平気で踏み倒して置きながら、貧乏な人が訴訟沙汰で も起しに田舎から出て来ると、幾日でも家に逗留させておいて、費用も取らずに世話してやつたりした。

私はよく其の人と勝手な議論をした。彼れは亦私にホヰットマンを具体的に紹介してくれた一人だった。私は其の前からこの詩人に就いて多少聞かされてはゐたが、其の頃から始めてこの稀有な詩人に本当に親しむやうになった。

私は今でも彼れに二つの事で感謝しなければならぬ。一つはホヰットマンの紹介者として。一つは善行悪行の通俗的な見方から私を解放してくれた事に於て。彼れに接してから、人は善人とか悪人とかに片付けて見ないで、人として見るやうになつたから。(「リビングストン伝」序)

ピーボディは女を連れて帰宅しない夜は、夕食後、武郎とランプを隔てて向かい合って座り、書架から取り出したホイットマンの詩集を朗読した。それを聞いていると、武郎は決まって涙ぐんだ。


私は何時でも涙を溜めてでなくては聞くことが出来なかった。彼も涙を頬に伝わらせながら恥ずかしげもなく読み続けた。・・・・・何時でも彼がこの魔法のような本を閉じるときには、彼と私とは同じ人になっていた。ホヰットマンになっていた。(「リビングストン伝」序)

ホイットマンは、「ローファー」(放浪者)として生涯を過ごした詩人だった。小学校すら途中退学した彼は、教育らしい教育をほとんど受けず、新聞社の見習い植字工をしながら本を読む習慣を身につけた。やがて彼は宇宙万物は同根であるという思想を抱くようになる。これもその教養同様に自学自習で獲得した思想だった。

武郎はホイットマンの生き方や詩に接すると、砂漠の中でオアシスに出会ったような気がした。ホイットマンは、模範生として生きてきた彼の過去を裏返したような生き方をしていた。武郎は、「ローファーとは怠けもののことだ。約束の出来ない人間、誓うことをしない人間だ。主義と節度を所有しない人間だ」と注釈している。それにホイットマンの詩には、ピュリタン信仰に押しつぶされて窒息しそうになっていた武郎の心を解き放つ野放図な楽天性があった。

ホイットマンは、「私は万物であり、万物は私だ」と歌っている。

そして、彼はいう、「私は魂が肉体以上のものでないといった/そして私は云う、肉体も亦魂以上のものではないと」

彼は現在を肯定して、未来を夢見るようなことをしなかった。「今にまさった発端はどこにもありはしない/今に優って完全なものは将来にも来ないだろう/今のほかには天国も地獄もありはしない」

彼はキリスト教社会を風刺するこんな詩も作っている。


私は動物たらの仲間になっていっしょに暮すことができたらと思う。
 動物たちはあんなに静かで満ち足りているのだ
私はたたずんで長い長い間、彼らを見まもる
彼らは自分の境遇にうめいたりこぼしたりしない
不満を持つものもなく、所有欲につかれて狂いまわるものもいない
他の者の前にひざまずくものも、数千年前に生きた同類に向って
 ひざまずくものもいない
全地上のどこにも、身分のよいものも、不幸なものもいはしない

 ホイットマン

有島武郎は、これまで家庭にあっては穏和な長男、学校に行けば優等生・模範生として誰からも褒められ愛されてきた。彼は周囲の期待の応えるために、自分を殺し、外部規範に忠実に従って生きて来たのだ。

外圧を逃れて札幌農学校に移り、キリスト教に入信してからは、外部規範・社会規範を相対化することが出来た。だが、外部規範代わって彼の内部にキリスト教の禁欲的な倫理が入ってきて、やはり本来の自分を殺すことになった。武郎は文学に惹かれていたが、小説は霊と肉のうち肉と結びついたものだからという理由で、文学書を読むのを止めてしまった。

愛と謙遜を説くピュリタン倫理は、以前にも増して彼に自分を無にした生き方を強いるのだ。森本厚吉が見舞いに来てくれなかったといって武郎を、「声涙共に下る」勢いで難詰したとき、武郎はおのれの「無情」に罪悪感を抱き、「只一死以て君に謝するの外なし」と「泣いて君が居を辞し」、厳寒の神社に出かけ堂下に座り尽くして一夜を明かしている。彼は凍死してもいいと覚悟をきめ神社に赴いたのである。

こうした愚かしいまでに一生懸命な気持ちが、ホイットマンの詩に触れることで溶け失せて行ったのだ。彼は考えた──自分の本体はローファーであるのに、これまでの自分は本体にメッキをかぶせて義人・善人として振る舞っていた。札幌の定山渓で、森本と、「我等が今なすべき事は世と絶つにあり」と誓い合ったが、この世にあるものは人間も動物も植物もすべて一列平等の兄弟なのだ。これからは、全存在を受け入れ、肯定しなければならない。

これからは、自己の内的欲求のみに従って行動するローファーになるのだ。そして、万物と交歓し、焦らず、あわてず、ゆっくり生きていこう。神は急がないのに、人だけは何を苦しんであせり急ぐのだ。

総てを肯定した武郎は、死をも肯定した。


私は、はじめて生の喜びの如何なるものであるかを知った。生とは押しなべての人の言ひ草のやうに死の対照ではない。生の大きな海原から遁れ出得る如何なる泡沫があり得よう。

死──死も亦生に貢(みつ)ぎする一つの流れに過ぎないのだ。劫初から劫末に、人の耳には余りに高い音楽を奏でつゝ、滔々と流れ漂ふ生の海原は、今の私の眼の前にほのぼのと開け渡る。

総ての魂はこの海原にそびえ立つ五百重の波である。その美しさと勇ましさとを見ないか。この晴れやかな光に照らされると、死も亦美しい。ー人の保護女神だ。死を讃美しょう。

ホイットマンと接触する前後に、武郎は無政府主義とも接触している。彼はハーヴァート大学に聴講に来ていた社会主義者の金子喜一と知り合い、金子から社会主義や無政府主義に関する知識を与えられた。武郎は金子に誘われて社会主義の集会に顔を出し、金子が壇上で熱弁をふるうのを聞いた。社会主義の文献を読んでいるうちに、彼の関心はエンゲルスやカウッキーから、クロポトキンに移り、アナーキズムを支持するようになった。

ローファーとして、アナーキストとして生きることを考え始めた有島武郎は、アカデミックな学問に興味を失い、ハーヴァード大学に通うことも希になり、遂に在学9ヶ月で大学を止めてしまう。

アメリカ滞在の最後の一年間を、有島武郎はワシントンの国会図書館に通って読書に没頭している。これまで文学書を読むことをタブーにしてきた彼が、心機一転、欧米の小説を手当たり次第に借り出して読みはじめたのだ。この時の気分を、彼は「一種絶望的な気分」と表現したり、「破戒僧のような捨て鉢な心持ち」と表現したりしている。

文学に触れていると、信仰によって分散しバラバラになっていた自我が収斂され統一されるような気がした。


私は忽ちにして自分といふものが──是れまで外界の因縁の為めに四分五裂してゐた自分といふものが寄せ集められて自分に帰って来るものを感じ出した。芸術に対する私の観念が見る見る変って来た。

神の信仰の中に見出し得なかった本当の自分の姿を人間らしく文豪の作物の中に見出すのを知った。殊にトルストイは私に真実な人間性とその生活を啓示してくれた。(「リビングストン伝」序)

武郎は自分の未来が見えて来たように思った。彼は、「一人の文学愛好家として、教員でもして一生を過ごそう」と考えはじめた。

約3年の留学期間を終えた武郎は、絵画修練のためにイタリアに留学している弟の生馬と合流してヨーロッパ旅行に出発している。ほぼ一年間に及ぶ旅を済ませて日本に戻ってきたときには、武郎は29才になっていた。彼の修業時代は終わったのである。思えば長い青春だった。

大人になるには、何か職業を持ち、結婚しなければならない。
武郎が両親から結婚の話を次々に持ち出されたのは、帰国後、予備士官として麻生3連隊に3ヶ月間入隊していた頃だった。彼は前に述べたように、見も知らぬ娘と結婚するくらいならと、河野信子と結婚したいと両親に申し出た。彼は、暫く前に信子の求愛を断ったばかりだったにもかかわらず、その信子と結婚したいと言い出したのである。

だが、武郎は両親の反対にあうと、簡単に信子のことを諦め、逃げるように札幌に赴任した。折よく、母校の東北大農科部から教員として招聘されていたのである。札幌には、一足早く帰朝した森本厚吉が同じ母校の教授になっていた。森本は昔のことは全部忘れたような顔で妻帯し、現状にすっかり満足している風だった。

武郎は札幌に着任直後、しばらく森本の家に厄介になっている。武郎には森本が、「心の奥底では、全勢力を世俗的幸福に向けたいと願っている」かのように見えた。彼が森本に信仰の問題、人生の問題を話題として持ち出しても、相手は取り合おうとしないばかりか、「あまり考えすぎてはいけない」などと訓戒がましいことを言うのである。河野信子のことで苦しんだ武郎が、ピストルを買ったと打ち明け、それとなく自殺を匂わせても、森本は知らん顔をして聞き流すだけだった。すっかり俗物になった森本は、いまだに求道的な姿勢を崩さない武郎を心の中で哀れんでいるのである。

武郎は森本の妻にも失望した。彼は夫人の日常を眺めながら、英文で女性というものは、獣的で、虚栄と依頼心の結晶のようで、忌まわしい存在だと書いている。

武郎の父は、息子と同期の森本厚吉が大学本科の教授になっているのに、武郎が予科の講師に過ぎないことに不満を持っていた。だが、父は知らなかったが、予科講師としての武郎は、至る所で人々の尊敬を集めていたのである。

学長主事になった彼は徳育面で学長を補佐することになり、講堂に学生たちを集めて定期的に講話をしていた。講堂は学生で何時も満員になり、その講話はすこぶる好評だった。彼はまた、学生・教員の有志からなる「社会主義研究会」を結成して、そのリーダーになった。と思うと、新渡戸夫人が創設した遠友夜学校の校長にもなっている。武郎の行くところ、何処でも、彼は周囲から推されて集団の中心人物になるのだ。

しかし、何処に行っても周囲から敬重されるという、そのことが武郎に苦い思いをさせた。彼はアメリカで棄教しているのに、依然として札幌独立教会の有力会員として留まっていた。一歩大学を出れば篤信のクリスチャンとして信者たちにかこまれ、彼等の人生相談に応じているのである。内面的欲求のみに基づいて行動するローファーたろうとしていた武郎が、学生たちの道徳上の指導者になり、日々モラルについて説いているのだ。

そんな時に、彼は河野信子が結婚したという知らせを受ける。何も手に着かなくなった彼は赤岩温泉にこもって、来し方行く末を想い、自分が coward(臆病者)でしかなかったことを肝に銘じて確認する。そして、絶望のあまり自殺を考えるようになるのだ。彼は、赤岩温泉に滞在中に、次のような日記を書いている。


余ハ生レテヨリ今二至ルマデ、嘗テ中心ノ要求ノ為メニ動キタル事ナカリキ。余ハ世間体ノ為メニ働キタリ。若シクハ人ニヨク思ハレンガ為メニ動キタリ。余ハ或ル点二於テ人二嘗(な)メラレ、人二尊敬セラレタリ。

サレドモ彼等ハ余ヲ嘗メ余ヲ尊敬スル間ニ、余ヲ軽蔑セリ。此ノ如キ尊敬卜栄誉トヲカチエタル人ハ呪ハル可キニアラズヤ。

札幌に帰った武郎はピストルを購入して、危うく自殺を実行しようとしている。彼が実行を思い止まったのは、父親が河野信子問題での自分の行動を反省し、絶望した武郎が何かするのではないかと心配のあまり病気になったと聞かされたからだった。

その有島武郎が夏休みに東京に戻って、陸軍中将(後に大将)神尾光臣の二女神尾安子と見合いをするのである。武郎は安子の清純そうな感じが気に入り、婚約を取り決めて任地の札幌に帰った。

筆まめな武郎は札幌から毎日のように手紙を書き、安子も同じように毎日返事をよこした。婚約期間中、武郎は、安子に性的な欲望を抱いたことはなかった。ひたすら彼女に純粋透明な愛を注いでいたのである。彼は今までに、これほど霊的な気持ちで人に対したことはなかった。それでも、彼は日記に英文で次のようなことを書いている。


白状スルガ、私ハ批判力ヲ失ツテヰル。安子ハ今ヤアラユル徳卜美トヲ具へタ少女ニ思ワレダシタ。彼女ノタメナラ、イツデモ生命ヲ投ゲダシテカマハヌホドニイトシイ。

シカシ同時ニ、白状スルガ、私ハ彼女ガ私二求メル以上ノ愛ヲ、彼女ニモトメル。愛トハコンナニ利己的ナ性質ヲモツテヰルノダラウカ、ソレトモ私ダケガコンナニ利己的ナ男ダラウカ。変ナ奴!私ハコレホド昂奮シテヰル時デモ、コレホド冷静デアル。

モシ私ガ天才ダトシタラ、冷ヤヤカナ公平ナ眼デ、自分自身ノ感情ヲ見マモリ、リッパナ作品ヲ創リダセヨウ。

 左より、父・母・武郎・安子

安子に対して完全に近い愛情を抱きながら、彼はその気持ちの底にひそむ利己的な感情も見落としていない。

こうして結婚したにもかかわらず、彼は安子に失望し、自分は結婚すべきではなかったと考え始める。「結婚は凡てを見事に破壊してしまった」と彼は苦々しげにノートに書きこむのである。

責任は安子の側にあったのではない。
これまで童貞を守ってきた武郎が、憑かれたように安子の体を貪ったたことが原因だった。彼は安子との暮らしの中で、「夫婦とは天下晴れて肉の楽しみを漁るものだ」という結論に達し、そうした状態に自分を追い込んだ妻に密かな恨みを抱くようになったのだ。

これが有島武郎特有の思考パターンなのである。
彼は心惹かれる思想や人間にめぐりあうと、自分をそのものへの愛一色で塗りつぶしてしまう。対象になったものは彼によって聖化され、絶対化される。だが、それは長続きしない。本多秋五が指摘したように、彼の感情は一方の極から反対の極へと移り動くのである。そして、その原因は当の思想や個人にあるのではなく、彼自身の側にあり、当該対象との交渉によって内面の均衡が崩れたときに感情は反対の極に移ってしまうのだ。

婚約時代にあれほど純粋な愛で結ばれていた武郎と安子は、互いに離婚を口にするようになった。安子が夫に抱いた不満は、武郎のそれとは違っていた。彼女は立て続けに三人の子供を産まされながら、そのことで夫を恨んではいない。

安子との関係を戯曲化した「死と其前後」には、安子が、「あの方さえあなたの奥様になっていらっしゃれば、あなたもこんなにお淋しくはないでしょうのにね」という場面がある。彼女は夫と河野信子の関係を知っていたのである。外にも、彼女は夫が人妻に想いを寄せていることも、家庭生活を負担に感じていることも、すべて知っていた。なぜなら、彼女は夫の日記を読んでいたからだ。

英文で書かれた次の日記も、安子に読まれていた。


吹田(順助)ガ「妻卜云フモノヲ書イテ見タイ、妻ガ天才ヲ引ズリオロサウトスル所ヲ書イテ見タイト云ウテ居タ。十時頃ニ吹田ノ所ヲ辞シテ豊平ノ左岸ヲ通ツテ家二帰ツタ。

考へガ付タカト聞クト、僕ヲ愛シテ僕ノ心ハ疑ハナイガ、自分ガ居テハ皆サンニ御迷惑ヲカケル計リダカラ、何処カニ行ツテ仕舞ツタ方ガイイト云フ。

「未ダ考ガ足リナイ、モウ一度考ヘルガイイ」ト言ツタケレドモ、安子ガ二十二ダト思ウテ夫レツキリニシタ。

 何時デモ弱イ器ヲヒドク取アツカッタ様ナ気ガシテ、delicacyヲ害ヒハシマイカト可哀想デタマラナクナル。

これを読んだ安子は、冒頭の、「妻ガ天才ヲ引ズリオロサウトスル」という部分に鉛筆で傍線を引き、欄外に、「お気のどく様」と書き入れている。外にも、「タマニ日記ヲオツケニナルト人ノ悪イコトバカリオカキニナッテ。ドーセワルイトコロバカリノ人ナノデスカラ」という書き入れがある。

武郎は自分たちの夫婦関係をどうすべきか考えておくように課題を出して外出し、帰宅してから「結論が出たか」とでも訊ねたのだろう。そして、そのあとで彼は、壊れやすいうつわを手荒に扱ったような後悔を感じ、妻が可哀想でたまらなくなるのだ。

武郎自筆の年表によると、明治44年は危機の年だった。


44年に長男が生まれた。結婚生活の危機が来た。夫婦共に屡々離婚を真面目に考えた。独立教会を去り従来の信仰を捨てた(注:独立教会を退会したのは、明治43年)。危険人物として北海道庁から監視を受けた。

この年、学習院時代に遊び相手を仰せつかった皇太子が大学にやって来たが、武郎は官憲によって皇太子に拝謁することを拒絶されている。社会主義者の武郎が、皇太子に危害を加えるのではないかと警戒されたのである。(つづく)

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