有島武郎の生と死 はじめに 有島武郎に関心を持つようになったのは、小島信夫の「私の作家評伝」を読んで以来だから、もう随分長いことになる。小島信夫の有島武郎論は、小論と呼んだ方がいいような短いものだが、これには武郎に関する妙に気になる二つの挿話が載っているのである。
その一つは、武郎の少年時代に関する挿話で、これを原文に当たるとこうなっている。
まだ幼年時代、横浜でアメリカ人の夫人のところへ預けられたとき、ある日勉強が出来なくて、愛子は罰として菓子をもらえなかった。武郎は愛子の分を口に含み、愛子にくれてやった、というのである。
小島信夫は、この記事を全集月報に記載された藤森成吉の回想記をネタにして書いている。そこで次にその典拠となっている藤森成吉の文章を紹介すれば、
「これは、有島さんの親友の足助君から直接聞いたことですが、有島さんの幼時に、実に面白いエピソオドがあります、何でもまだ有島さんが小学校へ行く前、西洋人に就いてゐた時分のことだそうですが、何かの御馳走日に、有島さんの妹さんが先生に叱られてみんなの貰ふお菓子を貰へずに、一人どこか部屋の中へとぢ込められてゐたそうです、
ところが有島さんは、その妹さんが可哀そうでならなく、どうかして自分の菓子を妹さんにもやりたいと思ふけれども、やったりすれば先生に叱られる、で考へて、自分のお菓子の一部分を口の中へ隠して、先生に知れないやうに、そっと妹さんのとぢ込められてゐる部屋へ忍んで行って、口の中から出してわけてやったと云ふ話です、
もう大人になつた今も、妹さんは折りにふれてその事を話して、あの事だけは忘れられないと云ってゐられるそうです、」
口の中に菓子を隠して妹の所に運ぶというようなことが、果たして可能かどうか疑問も残る。だが、これが武郎の行動だとすると、いかににもありそうな話なのだ。この話のポイントは、罰を受ける危険を冒してまで彼が菓子を妹に届けたというところにあるのではなく、口の中に菓子を隠して届けたというところにある。このへんが、何とも武郎らしいのである。
小島の伝えた挿話のうちで、もう一つ印象に残ったのは、有島武郎が波多野秋子と軽井沢の別荘で心中したとき、首を吊るのに秋子の伊達巻きを使用したというくだりだった。妹に菓子を与えた話がいかにも武郎らしいとすれば、こちらの方は逆にあまり武郎らしくないのだ。
小島信夫は、こう書いている。
汽車の中で手紙を書き、雨の中を目的地へ着くと宿で一泊したあと、山荘の食堂で、秋子は腰紐で、武郎は伊達巻を梁に通して抱き合ったまま首を吊った。
私の知るかぎり、この文章には二カ所の誤りがある。武郎と秋子は宿屋で一泊などしないで、深夜直ちに別荘に入り、交合の後にそのまま心中したのだし、死ぬとき二人は別に抱き合って死んだわけではなく、一メートルの距離を取って首を吊っているのだ。だが、彼が首を吊る時に秋子の伊達巻きを使用したというのは、間違いないらしいのである。
この点をとらえて小島信夫は、さも厭わしげに次のように記している。
伊達巻を首にかけて、女と抱き合って死んだ有島武郎の女々しさはどこからくるのだろうか。この何かイヤラシイものは、何だろうか。
確かに、まだ女の体温が残っているような伊達巻きを首に巻いて死ぬのは、誠実で謹厳だったという有島武郎に似合わしくない。しかし、だからこそ、このエピソードは刺激的で、妙に私どもの印象に残るのである。
菓子運搬の話と伊達巻きの話は、事に臨んで思い切った行動に出るのを常とした武郎にとって、格別、驚くべきことではないかもしれない。何しろ彼は、宗教上の疑問にとりつかれた友人を救うために自殺しようとしたり、父が遺してくれた135万坪の大農場をある日突然、無償で小作人に贈与したりする男なのである。
とにかく、私は有島武郎に深甚な興味を感じたのだった。それで、ぽつぽつ彼に関する本を読むようになり、そこで有島武郎に関する研究が戦後急速に進み、有島武郎論が山ほどあることを知ったのである。武郎研究が盛んになった理由は、武郎が47才で死ぬまでに膨大な量の日記を遺しているからでもあった。これを彼の人生と作品に重ね合わせながら読んで行くと、各人各様の有島武郎像を描くことが出来るのである。
彼の本格的な作家活動は40才から始まり、僅か数年の後に早くもスランプに陥っているから、その作品はたいして多くない。そのため研究者の注意は、武郎が作家になるまでの準備期に向けられる。つまり40才になるまでの彼の人生行路に向けられるのである。日記と照合しながら作家になるまでの武郎の人生をたどっていくと興味が尽きず、誰もが彼の人間像を自分なりに再構築してみたくなるのだ。
私は有島武郎の人間像を再構成するほどの知識を持っていないし、その能力もない。けれども、武郎は以下に見るような蕪雑な文を書いて見たくなるほど、不思議な魅力を持った作家なのである。
1 有島武郎は、何はともあれ資産家の長男であった。
麹町の一等地に建てられた有島家の敷地面積は、1200坪もあった。家族の誰かが外出するときには、人力車を呼ぶのが常だった。薩摩出身の父は、大蔵省に入省してから藩閥政府の手で厚遇され、関税局長に昇進している。官を辞してからは、松方正義の推挙で第15銀行、日本郵船、日本鉄道の重役になり、そのそれぞれから高額の収入を得ていた。
しかし、この父は病的な性格の持ち主だった。麹町に邸宅を構えるまでは常軌を逸した引っ越魔で、数え切れないほどの転居を繰り返しているし、結婚にも二度失敗している。何かに熱中すると、頭はその事でいっぱいになり、対座している相手の言葉が全く耳に入らなくなった。武郎はアメリカに留学するまでに、父が完全な狂気に陥った場面を二回見ている。
母も二度の離婚歴があり、感情に激したりすると意識を失い、その場に卒倒するという持病を持っていた。
有島武郎の身に襲いかかった最初の重圧は、この両親からのものだった。彼には6人の弟妹がいたが、両親は長男の武郎だけに手厳しい特訓を課したのだ。彼は父母を回顧した文章にこんなことを書いている。
小さい時から父の前で膝を崩すことは許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらされたり、馬に乗せられたりした。
母も厳しいことでは父親に負けていなかった。
母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読まされた。
そして父母から課せられた特訓を消化できないと、お灸をすえる罰や禁錮刑が待っていた。武郎は、こうした罰への恐怖から自分の性格がすっかりいじけてしまったと述懐している。武郎があまり父を恐れて戦々恐々としているので、父は、「是児為スナシ」と嘆くようになった。この子は、将来、無能力者になるのではないかというのだ。
父は武郎に、「峻酷な教育」を施す一方で、明治の実務派官僚らしく、彼に洋風の生活・言語を学ばせようと考えた。そこで横浜の税関長に就任したのを機に、5才の武郎と3才の妹愛子を米国人牧師の家庭に預けた。米人宅を私設託児所にして、兄妹の躾を任せたのだ。その翌年には武郎の語学を更にのばすために、ミッションスクール横浜英和学校に入学させた。彼はここで、現在の学制で小学校3年次まで過ごしている。
洋風教育はこれで十分と考えた父は、長男を学習院に転校させることにして、まず、「自牧学校」という私塾に入れた。自国語の学習に遅れをとっていた彼に、国語を学ばせるためだった。こうした遠回りの末に、彼は10才になってようやく学習院予備科3級に入学するのである。生まれつき内向的だった武郎は、新しい環境に投げ入れられるたびに、「場」の要求に従うため必死になった。
他人に強く言われると、自分を捨ててまで、相手の意に従ってしまう武郎の性癖は、この頃に養われたものと思われる。
学習院に入学してからも、父は「峻酷な方針」をいささかも弛めず、武郎を寄宿舎に入れてしまった。集団生活の中で長男のひ弱な性格を叩き直そうとしたのである。だが、寄宿舎には男色の風習がはびこっていたから、眉目秀麗な武郎はたちまち上級生の餌食になる。彼は学習院を出てからも、男色の被害者になっている。
自分を捨ててまで、環境の規範に従うことに慣らされた武郎は、学習院でも模範的な生徒になった。彼が学習院に転入した翌年に、早くも皇太子時代の大正天皇の学友に選ばれたのもこのためだった。武郎は毎週土曜日に皇太子の住む吹上御苑に伺候し、1才年下の皇太子の相手(主として遊び相手)をしている。
絵に描いてような模範生だった武郎も、中等部の2,3年生頃に反逆の気配をちらりと示すようになった。周囲の期待に応えることだけを願っていた彼が、隠されていた堕落願望をかいま見せたのである。これには、彼が中年の未亡人に激しく挑まれたという事件も関係しているかも知れない。
中等部に進んだある日、武郎は横浜に住む旧友を訪ねていってこの「女難」にあうのだが、相手の女性は友人の母親だったと思われる。彼は危うく危機を逃れたけれども、有島武郎の死後間もなく有島の評伝を書いた井東憲は、「この性的な一事件は、青春期に向かう彼に、非常に悪い色々な影響を与えた」と書いている。
武郎は、この時期の自身について、こう分析する。
余が十四五歳の頃、少しは級中に頭角を顕し居りしを以て、何のかんのとおだてられしより、乃公の念勃々として起こり、高慢自ら許して漫りに他人を蔑視せるより、遂に高慢はひくつとなり、卑屈は無頼となりて、悪少年に拉せられて其の伍に入り、冗費を用いて衣服をかざり、煙草を喫し、得々として力足らざるものを圧制して得たりとなせし・・・・学習院中等科卒業当時の有島武郎
この頃から健康面でも異常を生じ、チブス、肺炎、脚気、心臓病を次々に病んでいるから、武郎は心身共にピンチに立っていたのである。彼は当時の自分が、「文学書を耽読し、汚い空想に耽り、良友に青山原に連れ去られて激しい忠告を与えられた」りしていたと語り、「善良の少年と不良少年との間に自分の位置を定めかねていた。若し羞恥の念さえなかったら、自分は恐らく後者に属しているだろう」とも書いている。
一度は堕落の方向に傾きかけた有島武郎は、体調が戻ると再び模範生に戻り、級友の多くが高等部を経て東京帝大や京都帝大への進学を目指しているときに、札幌農学校に入ることを決断するのだ。
その頃の札幌は市街地建設が始まって20数年たったばかりで、戸数5000、人口3万余の新開地だったことを銘記しなければならない。東京から見れば、札幌は寒々とした過疎地のようなところだったのである。
武郎は父からの圧力と、息が詰まるような特権階級の生活から逃避する場として、北海道の新開地を選んだのだった。父母の要求、皇太子の学友としての生活が求める行動規範に出来るだけ誠実に応えようとして来た武郎は、その必要もない責任を自分から背負い込んで苦しんだり、他者の不幸を黙ってみていることが出来ず、それに引きずられて自分も悲嘆の底に沈むような傷つきやすい性格になっていた。彼はそんな自分にやりきれなくなって、誰も知る者のいない新天地を求めたのである。
彼にとって、生きるということは苦しむことだった。こういう人間にとって現実から脱出するための最終手段は、自死しかあり得ない。有島武郎は、霊肉の二元対立に苦しんだ作家ということになっている。もし彼が二元的世界に苦しんでいたとしたら、それは霊と肉、精神と情熱の対立に苦しんだのではなく、生と死の狭間で苦しんだのである。
武郎の父が、大事な長男の北海道行きを許したのは、札幌農学校教授として新渡戸稲造がいたからだった。新渡戸は武郎の母と同郷で、共に盛岡藩士の家に生まれていた。加えて、武郎の両親は新渡戸の養父を媒酌人にして結婚している。武郎の父は、親戚同様の新渡戸の家に長男を預ければ、安心できると思ったのだ。
19才になった有島武郎は、明治29年の9月に札幌に到着し、新渡戸稲造の官舎に落ち着いた。そして新渡戸の尽力で札幌農学校の予科5年に編入を許され、新渡戸宅から学校に通うことになった。新渡戸の妻はアメリカ人だったが、武郎を大変に愛してくれた。武郎について書かれた大抵の本は、彼が新渡戸夫人から「殊寵」を受けたと記している。
武郎にとって札幌での最大の事件は、森本厚吉と親しくなったことだった。
札幌農学校の学生たちの目には、学習院から転入してきた武郎はひどく垢抜けた存在に映り、あえ彼に近づいてくる者はなかった。それで、最初の一年間はこれといって親しい友人もなく、彼は一年上級の伊藤清蔵をあこがれの目で見ていただけだった。伊藤は学年で首席の成績を収めている秀才だったが、いささかも驕るところがなかった。武郎は伊藤を見かけるたびに、「何トハナキ恭謙ノ貴容ニ打タレ唯慕ワシキ心地」になっている。そんなところに、森本厚吉が積極的に近づいてきたのだ。森本厚吉も武郎が入学する一年前に予科4年へ編入された転校生であり、境遇に似たところがあったから武郎に親しみを感じていたのだが、彼が武郎にひかれた本当の理由は別の所にあった。クリスチャンだった森本は、武郎が求道の志に燃えて禅寺に通っていることに惹かれ、そして又武郎が貴公子のような端麗な容姿をしている点に惹かれたのだった。
森本厚吉は、武郎の尊敬している伊藤清蔵とは反対の学生だった。森本は、成績が学年で最下位だった癖に、傲然と周囲を睥睨していた。武郎から見れば、彼は、「偏癖なる一驕児」と呼ぶしかない男だった。しかし、森本厚吉が、「以前から君に目をつけていた」と武郎に告白し、強く交際を迫ると、武郎は結局相手を受け入れてしまうのである。
札幌農学校に転入して一年がたち、二人が本科に進んだある日のこと、武郎は森本厚吉に誘われて農場の糧秣小屋に忍び込んだ。二人が牧草の上に寝て話し合っているうちに、突然、森本厚吉は姿勢を正して切り出した。有島日記によれば、森本はまず、「我、今君に襟を正しうして乞わんと欲するものあり」と断ってから、次のように訴えたのだ。
自分はキリスト教に入信し、かねて神のあかしを得ようと努力してきたが、いまだに神に一歩も近づけないでいる。今や、身も心も疲れ切ってしまった。だが、同情を表してくれる友だちもいない。自分は以前から君に眼をつけ期待していた。君にもし一片の真心があるならば、どうか自分と手を携えて真理探求に向かって進むと約束をしてくれないか。
森本があまりにも思い詰めた表情をして懇願するので、それに気押されるような形で武郎は彼と共に宗教的真理の探究に邁進することを約束する。そして、二人は「真理探究盟約」なる物々しい契約を結び、一致して行動することを誓い合った。
森本は自らの信仰に動揺を感じながら、武郎にキリスト教への入信を強要し、武郎は訳が分からないままに盟約を結んで真理探究に乗り出す。当人たちが真面目になればなるほど、事はいよいよ喜劇的様相を呈し、彼等の交友は児戯に類するものになって行くのである。
例えば、明治31年3月の有島日記に、次のような記述がある。
此日ハ余ニトリテ実に記念スベキ日ナリ
なぜ記念すべき日であるかといえば、森本厚吉に「一大秘密」を告白されたからだった。では、その秘密とは何か。
森本の説明によれば、彼は神の存在を確信して、「日々夜々煩苦心労」してきたけれども、いまだに「神の音容」に接することが出来ない。そのために、銃を取って自殺したくなるほど苦しんでいる。今となっては、方法は一つしかない。学校を退学して、神の音容に接することだけを目的にした生活をはじめることが、それだ。それでも神を見ることが出来ないなら、いさぎよく死ぬしかない・・・・。
聖書には、「いまだかつて、神を見た者はいない」という言葉がある。森本厚吉は、その神と生身の人間に接するように対面したいというのだ。こんなロマンティックな夢を実現できないといって悩む森本も森本なら、それを聞いて衝撃を受け、「今日は実に記念すべき日なり」と日記に書き付ける武郎も武郎である。
しかし、こんな稚気に充ちた交友を続けながら、森本と武郎の閉鎖的な友情は日に日に深くなって行った。森本と武郎は、たえず行動を共にするようになった。二人は最早クラスの親睦会に顔を出すことをしないで、豊平川、丸山というような人のいない場所を選んで歩き回り、札幌近郊の軽川に出かけ、そこの宿屋に二人だけで6日間泊まりこむこともあった。
右が森本厚吉・左が有島武郎
2 森本厚吉は、東京にいた頃、ミッションスクール東洋英和学校に学んでキリスト教の洗礼を受けていた。彼は、すべての欲望を捨てない限り神に近づくことは出来ないという内村鑑三に心酔して精進を続けたが、どうしても性的欲求を押さえることが出来なかった。内村鑑三はまた、キリスト教徒は罪の意識を通じて神につながることが出来るとも説いていた。この点でも、森本は、原罪意識の希薄な自分に絶望していた。
森本と武郎の間の閉鎖的な関係が一年近く続くうちに、二人の交友は次第に危機的な様相を呈し始める。罪の意識を喚起しようと努めていた森本が、実際に「罪人(つみびと)」意識にとらわれ、食欲不振と睡眠不足のため、やせ衰えるようになったのだ。
武郎が心配して親友を力づけようとすると、森本は武郎を自分と同じ罪人意識に追い込もうとして、武郎の生き方の生ぬるさを責めたてる。
その年の暮れに、冬休みを利用して、二人は札幌近郊の定山渓という温泉場に泊まりこんだ。徹底的に罪の問題を突き詰めるためだった。明治31年12月29日、夜を徹した討論の末に、それまで躊躇していた武郎は、遂にキリスト教への入信を決意し、森本の祈祷に唱和して祈りの言葉を発するようになる。その夜、武郎を、「落とした」ことに興奮した森本は、武郎を強要して身体の関係にまで突き進んでしまうのである。
12月30日の武郎の日記。
・・・・・余は其時の出来事を日記に載するを厭うなり。嗚呼若し余にして平生毅然たる丈夫の心あらしめば、森本君をしてかかる挙動に出でしむる事は夢之なかりしなり。・・・・悲しきものは、悪に誘われ易き人の心かな。
男色関係に陥った翌日、武郎はショックのためか、一日中涙ぐんでいた。関係は年を越えて翌年にも続けられた。明治32年1月5日の有島日記。
余は昨夜又大いなる過失に陥りぬ。余の兄弟が毎夜の如く或る好ましからざる情にからるるを見て、余は屡々之に忠告して大いに制限するところありたり。
二人の関係は札幌に戻ってからも続き、武郎は森本との関係に苦しんで自殺を考えるようになる。
森本の方も苦悩していた。彼の苦悩は、相変わらずどうしても「神の音容」に接し得ない自分の無力に向けられ、絶望のあまり彼は強度なノイローゼの徴候を示し始めた。そして、彼は「思想的総崩れ」の状態になり、「神の存在を否定しない代わりに、その実在を肯定も出来ず、心は地獄をさまよう」までになってしまった。
悶々としている森本を見て、武郎は自分が自殺することで彼を救うことが出来るのではないかと考えるようになる。その辺のいきさつを安川定男は次のように説明している。
(武郎は)森本を救う道は自分が真に神を知ることができ、神からわき出る愛を分かってやる以外にないと考えた。しかしそうすべき自分は、薄志弱行に加うるに、むらがり起こる悪念を断つこともできない愚物に過ぎない。こんな絶望的な自分などは死んだ方がましである。しかし「人の将に死なんとするや、その声やよし」という諺がある。だから自分が死を決心し、同時に死を前に真剣に考えたならば、神の存在を心の中に感得することができるかもしれない。そうなればこれを遺品として森本に捧げよう。それによって有為多望な森本を絶望から救い、真理の道に進ませることができれば、自分は無駄死にどころか大義のために犠牲になったことになる。
またそれでも神の存在が否定されたとするなら、この世は暗黒で生きながらえる価値はない。いずれにしても死を決意する以外にない。
自殺を決意した武郎は、遺書代わりに自らの心境を日記に書き記している。栗田広美はこの日記を俎上に、武郎の自殺企図は次の六つの内容から成り立っていると分析する。
1,自分が神を知れば森本を救えるかもしれない。
2,だが、自分は神を知らぬので、何も出来ない。
3,もともと自分の存在価値は疑問だ。
4,ならば、死を前提に考えてみよう。
5,死ぬ際に神を知れば、森本への遺品としよう。
6,それでも神を知ることが出来なければ、死ぬのはさらに当然だ。
親友の身をいかに案じたからとはいえ、これほど途方もない考え方があるだろうか。「愚物」を自称する武郎が、死を決意したところで、簡単に神を感得できるはずはない。仮に神を把握したとしても、どうしてその内容を正しく森本に伝えることが出来るというのか。
武郎は俗説を念頭に、息絶える直前に彷彿として真理が見えてくるのではないかという幻想にとりつかれ、すべてを一発勝負に賭けたのだ。誰もが考え及ばないこうした計画を武郎が実行しようとしたのは、彼の意識の底に自死願望が潜んでいたからだった。
そのことは、栗田広美が要約した日記の、「4」と「6」を見れば、明らかだろう。武郎の意識は、何かと言えば死に吸い寄せられ、困難な問題に逢着するたびに死によって決着しようとする志向が強いのである。
武郎は2月17日の日記に自殺する決意を書き記した。その翌日に友人から鉄砲(猟銃と思われる)を借り受けて森本を訪ねた。森本は話を聞いて、「君を犠牲にして自分だけ生き残ることはできない」と反対し、「それより自分がまず死ぬから、君は残って僕の分までやってくれ」という。「自分が死ぬ」「いや、僕が死ぬ」と言い争っているうちに、何時しか二人は一緒に死のうと言うことで合意していた。心中する場所を思い出深い定山渓にすることも自然に決った。
次の日、朝に出発することになっていたが、森本が札幌病院へ診察を受けに出かけたために遅刻し、出発は午後になった。これから自殺しようとする人間が、受診のため病院に出かけたのである。すでに、この時点で森本は死ぬ気持ちを翻していたのである。
二人は大雪を踏み越えて定山渓に夜に到着した。温泉宿の薄汚れた部屋に落ち着くと、森本は銃が一挺しかないことを問題にし始めた。そして、「事情を書き留めて後世にに残そうではないか」と提案したため、その夜は自炊の食事を済ませ、さっさと寝てしまっている。狩猟が好きだった森本は、学生の身でレミントン12号の猟銃を持っていたにもかかわらず、当日これを持参しなかったのだ。
土壇場になって森本が躊躇しているのを見て、武郎の心にも迷いが生じた。翌日、彼は、「もう一度やり直してみようではないか」と説いて、森本の同意を得た。ところが、その次の日になると、森本が「やはり自殺しよう」と言いだし、武郎も「おめおめと生きている訳にはいかない」と同調する。しかし結局、再度、自殺を取りやめてしまう。
こうして最終的に二人は自殺を中止したが、自分を単なる臆病者としないためには、わが身に過大な任務と義務を負わせる必要があった。武郎は森本の同意を得た上で、次のようなことを誓い合い、その内容を日記に記した。
・・・・・我等は先ず世と相去り専心神を求め又我が良心を赤裸々と為すに必要なる知識を得るに努め、後初めて世と相接して何処までも世と相闘わざるべからず。・・・・・然らば我等が今為すべき事は世と絶つにあり。
自殺を中止して、すっかり気楽になった二人は、定山渓からの帰途、持参した猟銃で小鳥を撃っている。有島日記には、その年の末に二人して登別に出かけ、小鳥打ちをして三、四羽の獲物を得たという記事もある。
森本厚吉は、武郎と肉体関係を持ち、心中の一歩手前まで行ったことで、いよいよ武郎への要求を強めていった。抵抗する力を失った武郎は、森本のいいなりになるしかなかった。森本は、武郎がキリスト教信仰から退転することを防ぐために、実家の両親に宛ててキリスト教徒になったことを宣言する手紙を書かせ、自分の添書と共にポストに投函させている。
さらに彼は武郎を旧友たちから切り離し完全に独占するために、昔の友人たちへの絶交状を書かせた。それで武郎は、学習院時代の無二の親友増田英一にも絶交の手紙を書かねばならなかった。
武郎の手紙は両親を激怒させ、武郎を愛していた祖母を深く悲しませることになった。武郎の父は、添書を書いた森本にも怒りを爆発させ、「一面識もない他家の父親にむかって、あれこれ忠告するなど、思い上がりも甚だしいと伝えよ」と武郎に命じている。
祖母は間もなく重い病に臥すことになる。武郎のキリスト教入信を聞かされて、二日間、部屋にとじこもり、飲まず食わずで悲しんだ祖母は、見舞いに駆けつけた武郎に告げた。「生きているうちはお前を改めさせることも出来まいが、死んだらきっと改めさせてみせるよ」と。彼女は篤信の仏教徒で、札幌に移った武郎が禅寺に通ったのも祖母に勧められたからだった。
森本は、武郎に対して横暴な恋人のように振る舞い始める。
森本は病気になっても見舞いに来なかった武郎を激しく責めた。その時の森本厚吉の言葉を武郎は日記に、「病中嘗て見舞だに来たらざりしを責めて声涙共に下る」と記している。武郎は平謝りに謝るしかなかった。だが、森本厚吉との関係は、武郎の入信によって次第に変わって行くのである。(つづく)