芥川龍之介の死
松本清張の「昭和史発掘」を読んでいたら、「朴烈大逆事件」につづいて「芥川龍之介の死」という章があった。芥川龍之介についても、私は自分のHPにかなり長い記事を書いている。それで、何か自分の知らない新しいことが記載されているのではないかと、松本清張の文章を注意して読んだ。
私にとって収穫だったのは、芥川が帝国ホテルで実行したとされる「自殺未遂事件」の真相を知ることが出来たことだった。私がこれまで読んだ本によると、芥川龍之介は平松麻素子と心中しようとして帝国ホテルに泊まっているところを発見されたとあったのだが、松本清張によれば、事実はこれとは異なり、女は芥川と帝国ホテルで心中する約束をしたものの、直前になって約束を破ったため心中には至らなかったというのである。
この間の事情は、芥川の友人だった小穴隆一が著書「二つの絵」のなかに克明に書いているという。けれども、小穴は芥川の研究者達からその発言の信憑性を疑われているため、小穴証言はこれまで無視されて来たのだが、それを松本清張は、正面から取り上げて上記のような記述を敢えてしたのである。
小穴隆一=松本清張の語る事件の推移を、もっと細かに書けば次のようになる。
芥川の妻文子は、夫の言動から彼が自殺を計画しているのではないかと疑うようになり、不安に襲われて突然二階に駆け上がって夫の無事を確かめるようになった。
彼女は彼女なりに思案し、芥川に文学の分かる女友達をあてがえば、夫の孤独感が解消するのではないかと考え、幼友達の平松麻素子に救いを求める。平松麻素子は文子より2、3才年長の独身の女だった。父親は弁護士で裕福な暮らしをしていたが、生まれつき病弱だったため、結婚しないで弟妹の面倒を見ていたのである。彼女は短歌などを作り、芥川の作品をすべて読んでいた。
平松麻素子は文子から事情を聞いて、芥川の話し相手になることを承知した。文子は、彼女が訪ねてくると二階の芥川の書斎に案内するようになった。それ故、しばらくの間は平松麻素子が芥川の書斎で竜之介と文学談義をしていると、文子がニコニコしながら茶菓を運ぶという光景が見られた。
やがて芥川と平松麻素子は、文子に隠れて二人だけで外で会うようになる。
芥川は麻素子との逢う瀬を重ねているうちに、彼女をスプリングボードにして自殺を決行しようと考えるようになり、下谷を連れだって散歩している折、一緒に死んでくれないかと切り出した。もっとも、プライドの高い芥川は、「或阿呆の一生」の中で、話を持ちかけたのは女の方からだと書いている。<彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。のみならず彼女の体には指一つ触れずにいたのだった。
「死にたがっていらっしゃるのですってね」
「ええ。──いえ、死にたがっているより生きることに飽いているのです」>二人は、心中する約束を交わし、帝国ホテルで実行する日時を決めた。皮肉なことだった。芥川の死を思いとどまらせる役目を負った女が、芥川の心中相手になったのである。
約束の日に(昭和2年春)、芥川は家を出た。
文子が、「お父さん、どこに行くんですか」と尋ねても応えないで、彼は黙って歩み去った。芥川は散歩する様子でもないし、何処かに原稿を書きに行くふうでもなかった。胸騒ぎを感じた文子は、小穴隆一の下宿に駆けつけた。
「どうも主人の様子が変です」文子が小穴と話し合っているところに、意外な女性がやってきた。平松麻素子であった。彼女は芥川との約束を破って帝国ホテルに行かなかったが、何となく気になって芥川と親交のある小穴のところにやってきたのだ。彼女は文子が来ているのを見ていった。
「まあ、いまお宅にあがろうと思っていたところよ」文子もほとんど同時に言った。
「わたしも、いま、お宅にあがろうと思っていたところなの」とにかく、芥川の行方を捜さなければならない。小穴には心当たりがあったから、「これから探しに行きます」というと、文子は家のことが気になるのか、「では、どうかよろしく」といって急いで家に帰っていった。小穴が下宿を出ると、平松麻素子もついてくる。小穴は、まず芥川が原稿執筆のためによく利用している帝国ホテルに行くつもりだった。省線電車の田端駅まで来たとき、平松麻素子が不意に秘密を打ち明けた。
「さっき文子さんの前では言えなかったけれど、私は芥川さんのいるところを知っているんです。帝国ホテルです」二人は揃って省線電車に乗って帝国ホテルに出かけたが、カウンターで聞いてみると、芥川は確かにホテルにやってきて部屋を取ったが、また何処かへ出かけていったという。小穴は迷ったけれども、一旦、田端にある芥川家に戻ることにした。すると、平松麻素子も一緒に行くという。芥川家に着き、小穴が二階の書斎に駈上って調べると、「小穴隆一君へ」と記した遺書らしい封筒があった。彼は文子に、とにかくこれからホテルに行こうと誘い、小穴、文子、甥の葛巻義敏の三人で帝国ホテルに出かけることになった。さすがに平松麻素子は、芥川に合わせる顔がなかったらしく、近くにある実兄の家に去った。
松本清張は、その後の状況を次のように書いている。
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< 芥川の泊っている部屋のドアを叩くと、
「お入り」
と、大きな声で芥川が怒鳴った。小穴がドアをあけ、う
しろから文子と葛巻とが従った。
芥川はベッドの上にひとりで不貞腐れて坐っていたが、
甥の葛巻を見ると、
「なんだ、おまえまで来たのか。帰れ」
と、叱りとばした。
葛巻が泣きながら出て行くと、あとは芥川と、文子、小
穴の三人だけになった。
「M子さんは死ぬのが怖くなったのだ。約束を破ったのは
死ぬのが恐しくなったのだ」
と、またベッドに仰向けになっていた芥川は、怒鳴るよ
ぅな、訴えるような調子で言って起き上がった。
「わたし、帰ります」
と、文子は廊下へ消えて行った。
その晩、小穴は芥川と一緒に夜明けまで話した。朝にな
って文子が来て小穴と替った。(二つの絵)>
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松本清張はいっている、平松麻素子に逃げられたのは芥川の側に過信があったからだと。芥川が平松麻素子と体の関係を持っていなかったことは、事実だと思われる。肉体的交渉のない女が、自分と一緒に死んでくれると思いこんだところに芥川の甘さがあり、その甘さは自己の名声に対する過信から来ているというのである。この事件があってから平松麻素子は芥川家に寄りつかないようになった。
松本清張が平松麻素子の裏切りについて縷々述べているのは、彼がこの一件を芥川自殺への重要なステップと考えているからだった。芥川はこれ以来、自殺に対して一歩踏み込んだ姿勢を示すようになり、スプリングボードなどを当てにせず、単独で自死を決行する決意を固めはじめるのである。そして彼が自殺のために使用した青酸カリは、平松麻素子が彼に与えたものだったのである。
平松麻素子のその後について、松本清張は、「その後、肺患のため清瀬療養所に入り、文学愛好の患者達のリーダーのようになっていたが、昭和32年1月に死んだ」と書いている。勘定してみると、私が清瀬の病院を退院するのと入れ違いに彼女はこの療養所に来たことになる。もしかしたら、私は彼女と一目会う機会があったかもしれないのだった。
2
芥川龍之介が自殺した原因について、体調悪化とか、義兄の自殺を含む近親者の相継ぐ不幸とか、プロレタリア文学の勃興を前にして作家としての将来に不安を感じ始めたとか、いろいろな理由があげられている。だが、それらはすべて二次的な原因でしかないのではないか。以前に私は、芥川が中国旅行の折りに、性病を背負い込んだことが自殺の原因ではないかと考えていた。自殺する前の芥川は、子どもが、「お化けだ」と怯えるまでに衰えていた。見るも無惨に衰弱していたのである。こういう衰え方は、外国で性病に罹患した患者によく見られたものらしい。シベリア出兵でロシアに乗り込んだ兵士達のうち、ロシア人娼婦を買って梅毒になったものたちは極めて激烈な症状を呈した。中国に渡って現地で性病にかかった者たちの衰弱ぶりも、「ロシア梅毒」と同様だったといわれる。
芥川龍之介は、内地にいた頃から、仲間の作家達を驚かすほどの「発展家」だった。芥川の悪所通いについては、作家仲間達による証言がいろいろ残っている。中国に渡って同じようなことを繰り返した芥川が、そこで不運にも病魔に犯されたとしても不思議はない。
しかし、松本清張は、芥川の死の原因を別のところに求めている。彼を巡る複雑な家族関係に原因があったというのである。死の直前、芥川は自身の一家だけでなく、義兄の家族や、実家の家族の面倒を見なければならなかった。義兄が自殺し、実家の当主(異母弟)が病死したため、彼は三つの家族を支えねばならなくなったのである。
だが、松本清張はそれが直接の原因ではなく、芥川にとって養父の存在が大きな負担になっていたのではないかと推測する。
< 養父道章は芥川の第一回河童忌(七月二十四日だが、暑
いので参会者の迷惑を考えて六月二十四日にくりあげた)
の翌朝、庭を掃除しているうちに急に気分が悪くなり、床
についた二日後に死んだ。こんなことを書くのはどうかと
思われるが、若し、(という仮定が宥されるとすれば)養
父の死が一年早かったなら、芥川の自殺は無かったかもし
れないとも思われる。孝養を尽くした芥川ではあるが、養父
の死によって、彼の上にのしかかっていた重苦しいものが
除れ、頭上の一角に窓が開いたような「自由な」空気が吸
えたのではないか。養父に先に死なれることで後の「ぼん やりした不安」の
要因が消えるわけではないが、少くとも 自殺の決行をもっと
先に延ばしたのではなかろうか。その間にその死を制める
ことが出来たのではなかろうか。
(「昭和史発掘・芥川龍之介の死」)>芥川家の老人たちは、なぜ彼を追いつめるほどのヒステリーを起こしたのか。もちろん、肝心なことは部外者には分からない。
芥川の伝記には、死の直前、彼が自家の老人達のヒステリーに悩んでいたことが記されている。主治医の下島勲が龍之介の健康を心配していろいろ助言しているのに対し、彼は「こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たちのヒステリーをお鎮め下さい」と手紙で頼んでいる。彼はまた別のところで、「老人のヒステリーに対抗するには、こちらもヒステリーになるがいいと教えられたので、今それを実践中です」というような手紙も書いている。
芥川は結婚後、養父母と伯母という三人の老人と同居していたが、はじめそのことを取り立てて苦にはしていなかった。彼は一日中、二階に腰を据えて原稿を書くか、訪ねてくる編集者や友人と会うかしており、同じ家にいても老人達と言葉を交わすことがほとんどなかったからだ。彼が痔疾を悪化させるほどに二階の書斎にこもりきりだったのは、一つには扶養する老人達との交渉を避けるためだったと思われる。
だが、義兄や異母弟が亡くなって、芥川家が一族の中心になると、彼は老人達と腹を割って話さなければならなくなった。彼は老人達と相談して親族会を開き、親戚らの意見をとりまとめる必要に迫られた。彼は、あらかじめ養父母の意見も聞いておかなければならなかったのだ。龍之介が一族の中心になるにつれて、養父母と伯母の力関係も微妙に変わってきたに違いない。それまで兄夫婦の厄介になって肩身の狭い思いをしてきた伯母は、龍之介が一家の主になったことで、兄夫婦より優位に立つようになり、それがトラブルの背景になったとも考えられる。
しかし、芥川の体調悪化も、老人達のヒステリーも、所詮は二次的な原因でしかない。まわりにどんな悪条件があっても、執筆意欲があるうちは、作家が自死することはない。人間は、やりたいことがあるかぎり、自分から死ぬことなど考えないものだ。
明治以降、わが国では前途有望な作家の自殺するケースが多かった。そして、その理由として、通例作家としての行き詰まりがあげられるけれども、これをもっと端的にいえば彼らは書くことに興味や喜びを感じなくなったのである。では、なぜ書くことに喜びを感じなくなるのか。index.htm
自殺する作家には、世評に敏感なものが多い。自分の作品が編集者や読者から歓迎されなくなったと感じたとき、世評を執筆動機にしている作家は書くことに興味を失う。趣味でも道楽でも何でもよい、生の先導役をつとめる興味があるうちは人は死なない。が、世評重視型の作家は、執筆に興味を失うと同時に、もぬけの殻のようになって人生のすべてに興味を失ってしまうのである。
芥川龍之介や三島由紀夫は、世評に敏感な作家だった。彼らが書くことに興味を失って自死したとしたら、その対極にある作家は森鴎外ではなかろうか。鴎外は世評に頓着しないで、一般の読者にとっては退屈極まる史伝や「元号考」を死ぬまで営々と書き続けた。
芥川の死を理解するには、生きていく上で先導的な役割を果たした興味が何であったか、彼について、その質を分析しなければならないと思う。人間本来の先導的な興味は、趣味や道楽などを含め、大いなる自然や普遍的な真実を志向している。だが、その興味の方向が本来的なものからそれて文章の彫琢や人工美の構築に向かったりすると、やがて興味は色あせてきて「娑婆苦」がひしひしと身に迫って来るのである。