「単純な生活」序文
まえがき
この本には、はじめは理論的な問題を書く積りだった。その為に、以前からカードを作り、参考文
献を揃え、一切の準備が整ったところで、一年前から原稿を書きはじめたのである。私の目標は、スピ
ノーザの「知性改善論」、デカルトの「方法叙説」のような理論展開のあいまに自らの私的な体験を混
えた本を書くことであった。
半分はど書いたところで読み返してみたが、全然面白くなかった。私は自分の思想体系を打ら建てよ
うとした。自分の心の棲む家を建てようとしたのである。しかし、でき上ったものは、素人が日曜大工
で作り上げたバラックのようなもので、とても人の住めるような代物ではなかった。それでも暫くは、
全体の構成を変えたり、部分的に書き直したりして、未練がましく草稿をいじり廻していたが、結局、
うまく行かなかった。そこで私は心構えを新たにして、体験を主にして理論を従にするというやり方で
原稿を最初から書き直すことにした。一年前のことである。そして、でき上ったのがこの本だ。もとも
と私が書こうとしたのは、難解な理論ではなく、ごく単純な「事実」についてであった。体系などとい
うことを考えず、はじめから、やさしい本を書く心算でやればよかったのである。
良寛は「衣内の宝」を発見してから、独力で「貿易」し、「周旋」することがでさるようになったと
言っている。それまでは他人の教説を訪ねてまわり、「貧里」の門口に立って乞食をしていたが、自らの
内面に魂を発見してからは、自力で商売でさるようになったというのである。
私は三十代のはじめに、「至福経験」にぶつかるまでは、他家の門口に立ち、食を求めてまわる乞食
にほかならなかった。この「至福経験」(以後、「経験」と略称)は、世間的なものに執着して私の心
が「鬼窟」のようなものになってしまった時に、それを一挙に粉砕する内的な光の現前として突発した。
私はこの「経験」を反芻し、この「経験」の変形を随所に見ることによって、少しずつ自力で商売でき
るようになって行ったのだった。
しかし、四十代の末に「覚醒体験」を得るまでは、どうしてもこの時突如出現した光の正体や出所に
ついて説明できなかった。様々の仮説を立ててみたが、それらに自分で納得でさなかった。
「覚醒」の方は「経験」のようにショッキングな形では出現しなかった。ある日、ふと気がついたら自分が覚醒
の中にいたというような現れ方をしたのである。だが、この体験によって「経験」に関する長年の疑問が
とけたように思われた。私にとって事理は極めて明白になり、ほゞ確信が持てるようになったのである。このい
きさつを「事実」中心に書いて行けば自づと一個の本ができあがる筈であった。
結局、この本の内容は、自他の宗教的経験と内面的経験について語り、それに「人間学的考察」を加
えるという風なものになった。果たして、これで「商売」になっているかどうか、甚だ心もとないが、そ
のへんの判断は、これを読んでくれる読者にまかせるしかない。