伊藤仁斉の場合
伊藤仁斎に興味を持つようになったのは、彼の主著「童子問」を読んでからだった。家には戦前に刊行された「大日本思想全集」があり(父の蔵書)、その中の一冊「伊藤仁斎集」を、ある年の夏休みに何となく通読したのである。そして、すっかり唸ってしまったのだ。
(伊藤仁斎とは、何者であるか)という疑問を頭に置いて、同時代人が仁斎について書いたものをいろいろ読むようになった。すると、正反対の叙述にぶつかるのである。仁斎評で最もよく知られているのは太宰春台による批評で、春台は容易に人を許さない狷介な人物として知られているが、その彼が仁斉の眼光に人を射る趣きのあることに驚いて、次のように書いている。
「(仁斎は)学問にてねりつめて徳をなしたる人と覚ゆ。定めて圭角ありたる人ならめ。随分やはらかなる人なれども、極めて英気ある人なり」
春台は、伊藤仁斎の風貌に相矛盾するような二重性があると言っているのである。全体の印象は、「随分やはらか」であるけれど、瞳にそれを裏切るような鋭い光が宿っている。そこから彼は、仁斎というのは、最初圭角のある人間だったが、「学問にてねりつめて」人柄が変わったのだろうと推測しているのだ。
実際、伊藤仁斎は印象的な風貌を備えていたらしい。そして、その印象が見る人によって正反対に分かれるのである。
伊藤仁斉
京都所司代の某が路上で仁斎を見かけ、貴顕の士と思いこんで馬を下りたという話や、宮廷の重鎮近衛公が「仁斎の人品骨柄は大納言以上」と評した話が伝わっている一方で、仁斎は初めて会った者にも「何となく一所に居りたき人なり」と思わせるような温かみを備えていたという話も伝わっている。
仁斎の風貌に二重性があるのは、別に不思議ではないかもしれない。彼の人生そのものがマラソンコースのように往路と復路の二つに分かれ、前半生と後半生では全く逆の生き方をしているからだ。
伊藤仁斎は江戸時代前期、京都の上層商人の長男に生まれた。初めて句読を習ったのは11歳の年で、以後彼は読書に熱中する少年になった。その読書範囲はあらゆる分野に及んでいて、成長してから彼は、中国の俗語で書かれた小説類などをすらすら読んでいる。口語体で書かれた中国の本を読める日本人がほとんどいなかった時代に、である。
読書が好きな商人の子供は、家業を継がずに医者になるのが普通だった。仁斎も親戚や仲間から、医者になることを勧められた。学問だけでは食って行けないが、医を業とすれば生活の心配がなくなるからだ。
だが、彼はそうした安全策をとらなかった。16歳になると、仁斎は将来の志望を儒学研究に定めて、朱子学の勉強を始める。十九才の時、「李延平答問」という本を入手した際に、反覆熟読して紙がポロポロになってしまったという位に勉強した。そして29歳、家を弟に譲り、別宅に移って学問研究に没頭するようになる。
仁斎が「俄にして」病気になり、自室に閉居して一歩も外へ出ないようになるのはこの頃からである。
嗣子東涯の記事によれば、「驚悸寧からざる者、はとんど十年ばかり、首を俯し机に依りて門庭に出でず。付近の里人、多く面を識らず」ということになる。この文章だけでは、仁斉が一体どういう病気にかかったのか明らかではない。しかし、東涯が病名をはっきり記さなかったことを含めて、これが神経症の症状を示す文章であることは疑いないと思われる。
毎日、自室で下を向いて坐っているばかりで、近所の者も彼の顔を知らなかったという話を聞けば、症状が容易ならぬものだったことがわかる。仁斉は必死になって神経症からの脱出を試み、禅や老荘の書を読み耽った。
後に、彼は、「最初苗を植え、それが成熟して実がなる迄に、自から時があるものだ。心の悟りも自らに到来するもので、それをじっと待つべきだ。決して自分から悟りを求めてはならない」と言っている。神経症の体験からでた言葉だろう。
仁斎が神経症の泥沼から抜け出すには、十年近い歳月を要している。彼はイージーな生き方を拒否して、好んで困難な道を選び、師を求めて指導を乞う代わりに、独学で道を究め、宇宙を貫く深遠な哲理を掴もうとしたのだ。そして、悪戦苦闘の末に、「限りある自己の本性で、限りない道の全部を知ろうとする」ことの愚かしさを知ったことで治癒の道が開けたのだった。
問題は遠くにある哲理を探し求めることではなく、もっと地道に「限りある自己の本性を少しでも拡大する方法を発見すること」だった。
仁斎は京都大地震の後、孤絶の生活をうち切って堀川の本宅に戻り、弟子をとって儒学を教えるようになる。時に36歳。これ以後、自ら求めて険路を歩むという生き方を棄てて、平坦な道を行くようになる。復路の人生が始まったのである。
彼の結婚は40歳を過ぎてからで、相手は24歳の娘だった。二人の間に長男の東涯が生まれたのは、仁斎44歳の春である。一男二女を生んだ後に、最初の妻が病死すると、仁斎は程なく後妻をもらっている。後妻の年齢も24歳で、夫婦の間の年齢差は32歳、まるで親子のような夫婦だった。この後妻との間にも四男一女が生まれ、末子の蘭嵎が生まれたとき、仁斎は68歳になっている。
たくさんの家族に囲まれて、仁斎は優しい家長になった。友人関係、師弟関係においても彼は穏やかな態度を崩さなかった。仁斉の塾の特色は、「科条を設けず」「督察を厳にせず」というところにあり、彼の弟子に対する態度は、「厭怠の色なし」ということで一貫していた。
仁斎は塾で弟子を指導する傍ら、友人たちと「同志会」という共同研究のサークルを発足させている。これは毎月3回仁斎宅に集まり、会員が輪番で書を講じるもので、会員から推された会長が問題を出して会員にレポートを出させて講評するという斬新な企画も組み込まれていた。
私塾での仁斎の講義法もユニークだった。彼自身の見解を一方的に押しつけるのではなく、塾生から自由に意見を出させ、それをもとに共同で討議するやり方を取っている。主著の「童子問」も、弟子の質問に答えて自説を展開する一問一答の形を取っている。
人間ありのままの姿を尊重する仁斎は、自分の気持ちを語る場合にも率直だった。彼は書いている、「仕官を求める気持ちがないわけではないが、そのための工作をしようとは思わぬ。災いは避けたいと思う。しかし、そのために姑息な手を打つことはしない」と。
彼は、主君に忠節であろうとして死を選ぶ人間について、「其の君有ることを知って、其の身有ることを知らざる者」だと断じているし、文より武を選べば、亡国に通じるとも言っている。
政治の要諦は、「ただ民心の望むところに従うこと」にあるのだから、為政者は、「民の欲するところを与え、民の悪(にく)むところを施さず、民と好悪を同じくすること」に努めなければならないと、彼は強調する。「民と好悪を同じくすれば、則ち色を好み貨を好む」ことになるが、それでもいいのだ。好色も金儲けも、王道に含まれている。
私は「童子問」を読み、その平易な文体と、人道主義的な愛の思想に感服した。彼の著書には上質の人生論を読むような味わいがある。中江藤樹と同様、仁斎も「鬼窟」化した自我に苦しみ、「明珠世界」のくりひろげる易化された世界に出て蘇生し、実人生の何たるかに気づいたのである。
仁斎は「童子問」において、論語・孟子を古義によって直接把握することを説いている。だが、これを通読して感じるのは、彼はこの本で自らの情感の捕えた世界をこれらの古典を援用して語っているということである。伊藤仁斎は孔子や孟子をだしにして神経症以後の彼の目に映る風光を語って見せているのだ。
仁斎は仁について次のように語っている。
「仁は人間が安住する居宅であり、義は人間が通行しなければならぬ正路である。だから孔子の弟子は、仁を高遠な存在とは考えずに、むしろ日々接する実用的な諸関係と同様に思っていた」
日用をまかなって行く過程で、自然に発露する情感の総体を仁というのであり、人はその意味で、自然に振舞っていれば仁以外の行動を為し得ない筈だと彼は考えている。世界そのものの基本構造が仁愛なのである。
「非常に広い慈愛の心が何物にも充ち行きわたり、至らないところ達しないところがない程になって、しかも少しも他に対して軽薄とか非情とかの心のないのは、仁と言わずして他に適当な名称を発見できないのである。たとえ、慈愛の心があったとしても、一方に存し他方に存しないようでは仁ではない。一人に及ぼしても十人に及ぼせないというのでは仁ではない」
全体から切り離して個別を愛するのは我執でしかない。互用共棲という現実に目をつぶって、自分の側の用の充足にのみ執心する態度が「私愛」を生む。こうした意味でなら私達は皆愛の人である。ライフル銃を携えて草原に赴くハンター違は動物達を大いに愛しており、その愛の表現として彼らを射殺するのだ
全体への愛のみが愛である。ではそういう愛を更に強く喚起する方法はないだろうか。この点に関する仁斎の見解は至当と言わざるを得ない。
「仁はいかに努力しても為し得ない。努力して為し得るのは恕である」
「鬼窟」に封じ込まれて明珠世界を見失ってしまった人間が、私愛を棄てていきなり仁愛に復帰しようとしても効果はない。自分を取りまく事物との個別的な関係を一つずつ改善して行くしか方法はないのだ。自分の私愛を抑制し、それが持っ相手への残酷な要求を柔らげるように自制すること、相手が主我的な行動に出てもあえて忍ぶこと、自分の努力の成果を相手の上に直ぐに見ようとしないで平静に持ち続けることなどをおいて、仁愛の世界は実現されない。
個々の赦しを重ねて行くことで愛に到達しようとするのは福音書のテーマでもある。実際、仁斎の思想には、既成の儒教的仁愛を拡張して普遍的な人類愛に至らしめるような要素があるのである。
宇宙法則を理性によって把握しようとする思弁的な朱子学に対して、仁斎は厳しい批判を浴びせかける。
彼は朱子学の「居敬守静」というスローガンについて、「己を守ること甚だ竪く」すれば、「人を責むること甚だ深し」ということになると言っている。そして、理についても、「専ら理に依って断決すれば、則ち残忍刻薄の心勝ちて寛裕仁厚の心すくなし」ということになると言う。
こうした非情残酷な朱子学に対立する仁斎の立場を、彼は諄々と説いてやまない。「童子問」から引用してみよう。
「平常我々が接する諸事物間以外に、尊く、高遠な、輝かしい、人を驚かせ楽しませるような道があると説くのは絶対に非である。天地間には一個の正しい道が存在するのみで、それは少しも人々を驚かす内容ではない」
「道を我々が望めないほど高遠だと考へるのは、道の本体を認識したのではなく、自己の迷いの結果に過ぎない」
「世の中には平常の行爲以外に、尊く、高遠な、輝かしい、人を驚かせ樂しませる道があると、誰かが説いたとすれば、それは狐か化物であり、必ず邪論の主張者である」
仁斎は、「論語」「孟子」ほか一冊を順繰りに講義し、一巡するとまた最初に戻って「論語」「孟子」を講義するということを繰り返しながら79歳まで生きた。その死は、大往生というにふさわしいものだった。