安岡章太郎の「遁走」

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平野謙全集を手に入れて、その作家論を読んでいたら「安岡章太郎」の項に以下のような文章が載っていた。

                  

<安岡章太郎の年譜をみると、彼はすでに中学一年の三学
期に、成績不良、素行かんばしからざる故をもって、担任
の先生の禅寺にあずけられ、中学三年の二学期まで 「読経
の声、木魚、鐘の音」 から解放されることがなかった。

そこから解放されたのもカイシュンの情いちじるしきものが
あったためではなく、肋膜炎まがいの病気のせいにすぎな
かった。爾来、彼は学業を放擲した映画通の不良学生みた
いになりさがり、中学卒業後は高校入学試験に失敗して、
三年間も浪人生活を余儀なくされ、銀座うらのコーヒー店
や浅草のレヴユ小屋や玉の井などをうろつくこととなる。

その間、永井荷風や谷崎潤一郎の小説を耽読する。浪人生
活三年後、慶応大学文学部予科に入学したが、予科二年か
ら三年にすすむとき落第したせいか、徴兵検査を受けて甲
種合格となり、翌年現役兵として入営すると、すぐさま満
第九八一部隊要員として北満孫呉につれてゆかれる。>

                   
昔、安岡章太郎の「海辺の光景」を読んだときに、安岡をめぐる家族関係に興味を感じたことがあった。安岡の母親は夫を毛嫌いしていた。そういう両親のもとに一人息子として生まれた安岡は、どのような生き方をしてきたのだろうか。

平野謙は、その安岡論の中に安岡自身の述懐も採録している。

                  
 <僕の体の中のどこかには何か良くない虫がいるらし
 い、どうもそうとしか思えないのであります。
 
  何ごとをするにあたっても、これまで僕は成功した
 ためしがほとんどありません。学校の成績はつねにび
 りから十番以内でありましたし、入学試験とか入社試
 験とかいえば必ず、と云っていいくらい落第でありま
 した。
 
 そのほか、恋愛でも、ちょっとしたことをたの
 まれてする仕事でも、みんな失敗ばかりである。そし
 てその失敗というのは、あとから考えるとまったく奇
 妙なほどタワイないことばかりで、自分にとってはか
 けがえのない運命の前に立たされているとき、どうし
 てそんなことをしたのか自分でも合点の行かないよう
 なことばかりでありました。
 
 で、とうとう僕は自分の
 体の中に虫が一びきいて、それが「わるさ」をするた
 びに、たとえば肝腎のところでナマケてしまったり、
 道の間違った方へとっとと行ってしまったり、えらい
 人の前で思ってもいなかったその人の悪口を云ってみ
 たり、そんなことが起こるのだと信じるようになりま
 した。>
 
                    
こうしてヘマばかりして、世の底辺を生きてきた安岡章太郎は、深沢七郎のように「下からの視点」を身につけるようになる。平野謙は、同じ評論家仲間の書いた安岡論を引用して、安岡の底辺からの目をこう説明している。 
 
                    
<ミリオン・ブックス版『遁走』 の解説を、安岡章太郎と
おなじ「戦中派」に属する村上兵衛が書いているが、その
なかで、村上兵衛は説いている、「安岡の小説世界のおも
しろさは、人を神のような高みから見おろすのでなくて、
人間の足裏のような低いところから、逆に人間を見上げる
ところにある。・・・・」と。

ことごとしく大上段にふりかぶって、声高に天下国家を論ず
る姿勢などとはおよそ反対に、一見つまらぬことをボソボソ
としゃべっているようにみえて(安岡が)人間関係の微妙な急所
を誤たずおさえているのも、そのせいである。>

                     
私は早速、「遁走」を読んで見た。

戦前の日本の暗さを象徴しているところが、軍隊だった。軍隊というところは、古兵による新兵いじめや、上官への面従腹背などが横行する、モラルも何もない悪質な世界だったのである。「戦後レジームからの脱却」を合い言葉に、戦前の日本を美化する安倍晋三やその取り巻き達を見ると、彼らをひとまとめにして軍隊に放り込んでやりたくなる。あの軍隊を生んだような戦前の日本のどこが美しかったというのだ。

だから、軍隊を舞台にした文学作品には、どうしても陰惨なものが多くなる。
軍隊体験を素材にした安岡章太郎の「遁走」にも、日本軍隊の実相がありのままに描かれている。しかし、読んでいても、不思議なことに、これまでの軍隊小説にあるような救いのない絶望感に襲われない。安岡が自分の置かれていた軍隊と、そのなかで生きた自らの姿を正確に捕らえ、いわば「認識による現実からの超越」を達成しているからなのだ。

例えば、古兵による私的制裁に関する部分を読んでみよう。

新兵達が、満州の孫呉に送られて暫くたったある日、安岡の所属する内務班の班長が怒り狂って剣持という新兵を殴りつけたことがある。剣持はひどい反っ歯のため、口を閉じることが出来なかった。その剣持に班長は、「口を閉じろ」と命じ、それがスムースに実行されなかったことで、班長は相手を殴り倒したのだ。

殴り倒された剣持が、鼻血を流しながら起きあがり、照れ隠しの薄笑いを浮かべた。すると、班長は馬鹿にされたと思いこんで狂ったようになった。剣持に対する彼の殴る蹴るの暴行は、班長が中隊長に呼ばれるまで続いた。

夜になると、新兵の全員が班長の助手をしている上等兵から制裁を受けることになった。班長があれほど怒ったからには、立場上、上等兵も全員に制裁を加えなくてはならなかったのだ。

                   
                   
<食卓も椅子もとりのけられた部屋の中央に河西上等兵が立ち、全員が馬蹄形にとりかこんで、一人一人が進み出ては、両頻にスリッパの力いっぱいの殴打をうけてかえってくる。

はじめのうち、それは免疫のための予防注射でもされるような事務的な雰囲気だった。しかし一人殴られるたびに部屋の中は興奮した空気につつまれはじめた(「遁走」)。>

                   
その興奮した空気に煽られたのか、機嫌取りの新兵の一人が殴られる前に、「ありがたくあります」と礼を述べた。すると、それから後の新兵は、皆その真似をしなければならなくなった。安岡はそれを眺めているうちにいいようのない嫌悪を感じ、自分は決して礼を言うまいと決心する。

だが、どうしたことだろう。上等兵の前に進み出て、彼と相対した瞬間に、不意に相手への憐憫の情に襲われ、事前の決心とは裏腹に、「ありがたくあります」と叫んでしまったのである。

そして安岡は、このことがあって以来、殴られることへの恐怖感や屈辱感をなくしてしまう。すると、毎日がひどく退屈なものに変わったのだった。

安岡がほとんど毎日殴られるようになったのは、それからだった。       まわりの兵隊達は、安岡に「ヤル気」がないから殴られると見ていたが、彼自身はそうは考えていなかった。

                    
                    
<すでに彼は以前から「ヤル気」をまるで持っていなかったことを、こころの底から自認せざるを得なくなった・・・・・「ヤル気」とは何か? それは愛国的情熱にもとづくファイティング・スピリットのようにいわれている。けれども、それはごく表面上の意味にすぎない。

実際は、ただの利己的な競争のことである。兵隊たちは、あらゆる点で他人よりも早く、利巧に、自分の有利な立場をきずいておこうとする。それが「ヤル気」である(「遁走」)。>

                     
                     
私はこの辺を読みながら、大いに笑ったのであった。私も旧制中学から軍隊時代にかけて、実によく殴られていたのだ。なぜ殴られ続けたかというと、殴られているうちに殴られることへの恐怖感や警戒心がなくなり、殴られても平然としているようになったからだ。実際、力一杯顔を殴られたところで、大して痛くはない。心理的な恐怖感を取り払ってしまえば、殴られることなど大したことではなくなる。

しかし殴る側からすると、殴られても平気な顔でいる人間ほど、腹の立つものはないのである。

中学3年生の時だった。後に評論家になる臼井吉見教諭は修身科を教えていたが、私は彼が詔勅の解説をしている最中にあくびをしたらしかった(あくびは無意識の行為だったから、自分が何時そんなことをしたのか思い出せなかった)。私は詔勅の講義中にあくびをするとは不敬千万とその場で殴られ、授業が終わると、職員室に連れて行かれて、そこで他の教師が居並ぶ中でぽかぽか殴られた。今から考えれば、国士気取りで毎日を過ごしていた彼は、一種のパフォーマンスとして他の教師らが見守る中で生徒を殴って見せたのである。

教師に殴られるのはいつものことなので、私は臼井教諭の顔を黙って見ていた。そして、暫くして相手が殴ることを止めたので、黙って職員室を出て行った。その日の午後だったか、体育の時間に体育教師が私に話しかけてきた。

「お前、臼井先生に何で謝らなかったんだ」といった後で、「お前の殴られっぷりは、なかなかよかったぞ」と褒めてくれた。

軍隊でも、毎日のように殴られた。やがて、戦争が終わったとき、何時も私が殴られるのを見ていた別の分隊の兵隊がわざわざ私の所にやってきて、「あんたは、利口だったよ」という意味のことを言った。彼は私が敗戦を見越して、上官への不服従の態度を取り続けたと錯覚して、その先見の明を褒めてくれたのである。

私は教師に対して、そして上官に対して、反抗的精神を持っていたいたわけではない。だが、周囲の人間は、そうは取らなかったのである。

今にして思えば、安岡章太郎のいうとおりなのであった。私が殴られ続けたのは、「他人よりも早く、利巧に、自分の有利な立場をきずいておこうとする『ヤル気』が不足していた」からだった。

        

3 

安岡章太郎は仲間の兵隊から、「お前はよっぽど殴られるのが好きと見えるな」とからかわれるほど、毎日、中隊の誰彼から殴られていた。が、皮肉なことに中隊の仲間がレイテ島で全滅したのに、安岡だけが生き残った。そして戦後の日本で作家として活躍することになったのである。事情は大岡昇平の場合も同じだった。大岡も仲間がほとんど全員死んでいる中で、負傷一つしないで、ちゃんと帰国している。

安岡が助かったのは、奇妙な理由からだった。所属している中隊が、満州の孫呉からレイテ島に向けて移動するどさくさにまぎれて、一人だけ便所で下痢のため排便していたために、彼は南方に赴くことをまぬかれたのだ。大岡も病気のお陰で助かっている。彼はマラリアにかかって部隊から見捨てられ、戦場に一人取り残された為に米軍の捕虜になり、死なずに済んだ。戦争で生きるか死ぬかは、紙一重の差しかない。戦後の日本を代表する二人の作家は、病気のお陰で幸運にも命を長らえることが出来たのである。

だが、彼らが生き延びたのは、それだけが理由だったのではない。彼らには事態を直感する英知があり、それ故に肝心の場面で妄動することがなかったのだ。彼らは、生きるか死ぬかの分岐点で、じたばたしないで運命に身をまかせた。二人は、運を天に任せる諦観を持ち得たから、救われたのであり、その点は、学生時代に劣等生だった安岡の行動に特に顕著に表れている。

箸にも棒にもかからぬ「のらくろ二等兵」だった安岡は、誰よりも冷静な目で日本の軍隊なるものを見ていた。彼は軍隊の数量主義について、次のように書いている。

<・・・・(軍隊では)あらゆるものは数量に換算され、数量だけが、価値判断の基準になる。たとえば天井からブラ下っている電燈は、あたりを明るく照らし出すために重要なものではなく、コードとソケットが営繕係に、電球と笠とが陣営具係に、それぞれ員数として登録されているために重要なのである。>

こういう本末転倒した数量主義のもとで生きる兵士達は、自分の身を守ってくれる筈の兵器さえ厄介物と考えるようになる。兵隊達にとって、兵器は自分たちを束縛する邪魔な道具に過ぎなかった。例えば、十一年式軽機関銃などは、敵を攻撃する武器であるよりは、演習のたびに故障を起こして兵隊を泣かせる小悪魔だった。

また、彼は軍隊内部での人間関係についても、従来来見落とされていた特質を指摘してみせる。

<兵隊達にとっては下士官までが地上の人間である。それ以上の階級になると、手をのばしても触れることの出来ない、灰色にカスんだ抽象的な存在に思える。>

同じ兵舎の中で暮らしていても、兵隊にとっては小隊長や中隊長は雲の上の人であり、普段接触する上官は下士官までなのだ。そして、この下士官には品性下劣な人物がかなり高い比率で混じっていて、その下士官が内務班の班長として兵隊達に君臨するのだ。

安岡の所属する班の班長は、下士官に任官したばかりの浜田伍長で、志願兵上がりの若造だった。この満19才何ヶ月かの班長は、安岡らに向かって、胸を張ってこう宣言するのだ。

「おれはオニだ、オニ伍長だぞ。・・・・おれがオニ伍長だということは、連隊中でも、師団でも、ピイ屋でも、知らないものはいないんだ」

こういう上官や古兵達から日夜殴られながら、安岡は発病するまで仲間の兵隊達とつかず離れずの関係を保って暮らしていた。この身の処し方は、彼が自認しているよりもはるかに賢明なものであった。中隊の南方移動に際し、彼が行を共にしなかった事情について、安岡は作品の中に次のような公文書(安岡処罰案)を掲げている。

                   
                   
<重営倉七日

本人ハ昭和十九年八月十九日午前二時、本人ノ所属スル中隊ノ南方動員二出陣ノ際将二出発セントスル時二当ッテ平素中隊長ノ訓戒二反シ暴飲暴食シアルタメ遽カニ便意ヲ催シタル儘 厠ニ赴キタル処 用便二長時間ヲ費シテ遂ニ中隊ノ出発ヲ知ラズ 是ヲ恥タル本人ハ狼狽周章中隊追跡ノ任務ヲ忘レ 中隊兵舎ノ内部ヲ無為ニ徘徊シイタルヲ 衛兵二発見セラレタルモノナリ 云々>

                    
                    
この処罰案は連隊本部によって却下された。既に軍医から彼が肋膜炎にかかっているとの診断書が提出されていたので、部隊長から、「病をおしてよく軍務に精励していた」と、かえって賞辞を受けたのである。                  

こうして安岡は、昭和19年3月に招集されてから、満州の孫呉で約5ヶ月間を過ごし、その後、南方戦線に赴いた中隊の仲間と袂を分かって、病兵として孫呉の陸軍病院に入院することになる。そしてあちこちの病院を渡り歩き、昭和20年の3月、内地に送還されるのである。この間、安岡は院内の病兵達の生き方を冷静に観察している。

病院の中で兵隊達は一日千秋の思いで、内地に送還されることを望んでいた。しかし、何時誰が送還されるかは、病兵達には分からなかった。ある日、不意に患者のなかの何人かが内地送還の選に入り、やがて船に乗せられて故国に帰っていくのである。選に漏れたその他大勢の患者達が、送還される仲間を嫉妬したり憎んだりするかというとそうではなかった。送還されることが決まり、今や自足の表情を見せるようになった幸運な仲間を、他の病兵は自分たちとはかけ離れたエリートとして仰ぎ見るようになるのだ。

残された病兵にとって、内地は光り輝く天国のように見えた。

<もはや兵隊たちにとっては世界は二つしかない、内地と外地と。それは天国と地獄のようにはっきりと区別される二つの世界なのだ。そして、そういうことから逆に、転出、内還になるのは、どこかにもともと「上品」さのある者、それだけの徳のそなわった者、そういう人間だけが転出者にえらばれる資格があるのだという気持を、無意識のうちにも皆の心に抱かせるのである(「遁走」)。>

内地送還を待ち望む気持ちにかけては、安岡章太郎も他の病兵たちと変わらなかった。だから、彼は「近く送還者が決まるそうだ」という噂が流れると落ち着きを失い、些細な情報に一喜一憂したのである。

そのうちに、彼の心境に変化が生まれて来る。

内地に送還されても、直ぐに自宅に戻れるわけではない。国内のどこかにある別の陸軍病院に移るだけなのだ。そう思ったとき、彼はいいしれない退屈な気持ちに襲われた。

<内地へついたからといって、そこに待っているのはやっぱり、室長であり、当番であり、衛生兵であることにかわりなかろう。そのかわりに、北満州へ送りかえされようと、ここへ残されようと、そこに自分なりの行き方をして、生きられるだけは生きて行けるだろう。仮に内地で婆婆にもどされたところで、そこに待っているのは…(「遁走」)。>

ここに安岡章太郎における悟脱の姿がある。

大岡昇平は、兵士や捕虜収容所での捕虜の生態を知的に分析する。そして、そのことによって戦争を大観する俯瞰的視点を獲得する。だが、安岡は軍隊の内務班や陸軍病院に身を置き、不条理な世界に耐えることによって「退屈」の境地に回帰する。安岡にとって悟脱とは、生得ともいえる退屈な感情の中に回帰して、そこで安らぐことなのだ。

「遁走」に描かれているのは、一人の人間の成長記録であり、悟脱にいたる道程なのである。