人物鑑賞

森鴎外は「何でもない景色を楽しむようにならなければいけない」と言って、子供と一緒に散歩中、坂の途中で履いていた下駄を尻に敷いて眼下の町並みをいつまでも眺めていたそうである。

この流儀を適用すれば、私たちは何でもない人間を眺めて楽しむことを知らなければならないだろう。この世に、人間ほど面白いものはほかにないのである。

名もない人間にも、ため息が出るほど見事な生き方をしているものもあれば、反対に、その情けなさを見て失笑を禁じ得ない人間もある。最近の例でいえば、千葉沖で救出された遭難船長は前者であるし、外務省汚職で摘発されたホテル・ニューオータニの担当課長は後者だ。

エンジンの故障で長崎から千葉沖まで流された船長は、一ヶ月ぶりに救助されたあと、病院で、共同記者会見に応じた。何しろ、彼は漂流中に台風11号に遭遇して生死の境をさまよい、奇跡的に救出されたのである。会見場にたくさんのマスコミが押し掛けて、競って質問を浴びせかけてのも無理はない。

山の遭難でも、海の遭難でも、奇跡的に救助された人々は、記者に質問されて言葉をとぎらせることが多い。遭難中の生々しい記憶が消えず、心の動揺がまだ収まっていないからだ。だが、この船長は普段と変わらない静かな口調で、淡々と質問に応じていた。顔には微笑さえ浮かべていたのである。

遭難した船長武智三繁さん

印象的だったのは、彼がよけいなことは口にせず飾り気のない事実だけを述べていたことだった。飲み水がなくなると、干上がった口腔が硬化して動かなくなるとか、万策つきて尿を飲んだことなどを、まるで日常の些事について話すような口振りで語るのだ。嘘も隠しもない単純な事実だけを告げられると、人は意表をつかれて笑い出す。この記者会見では、こうした好意的な笑いが一度ならず起きていた。

救出後の会見が飄々とした趣を呈したのは、漂流中の彼がピンチに立たされても淡々としていたからに違いない。

「体力が消耗しないように、できる範囲のことをして、あとは日陰に毛布を敷いて寝ていた。なるようにしかならないと、(生に)執着せずに行動したのがよかった」

「2週間ほどたって水がなくりた後は、やかんで海水をわかして、ふたについた水滴を2、3滴ずつなめた」

共同会見で語られたこれらの言葉を聞くと、漂流しても彼があまりパニックに襲われなかったことが分かる。そして、それは彼の日頃の人生哲学から来ているらしいことが判明する。実際、会見中の彼の態度や言葉は、彼の人生に臨む姿勢そのものを示していた。自分に「出来る範囲のこと」をして、行動した後は、「なるようにしかならない」のだから、その結果を甘んじて受ける。彼が、自分に降りかかるすべての現象を淡々と受容できたのは、普段からこういう生き方をしてきたからであり、そしてそのような生き方が可能になったのは生に執着する気持ちが少なかったからなのだ。

この人は、佐世保市沖にある小島に生まれた。家は漁師をしていて、彼は5人兄弟の長男だった。高校卒業後、東京に出てコンピューター関係の仕事をしていたが、父母が死んで故郷に誰もいなくなったので、生まれた島に戻ってきた。彼は独身で、一日一食の独居生活を送っていたという。

多くの兄弟の長男に生まれて、高校を卒業するまで父を手伝って漁に出ていたという経歴から、ある種の人物像が浮かんでくる。長男であるが故に、ほかの弟妹とは異なる苦労を強いられ、その苦労を忌避するどころか、逆にその中に喜びを見いだしてきたというような人間像である。

彼は「週刊朝日」の記者に語っている。

「人間は極限状態に置かれると最低限のことでも喜びを感じるようになりますね」

そして、次のような驚くべきことを告白するのだ。

「船も通ったのですが、気づいてくれなかった。大きな船が近くに来て衝突の恐れがあったときは、救命胴衣を着て飛び込んでかわすしかないと準備したこともある。けっこう楽しかったよ」

救命胴衣を身につけて、海にとびこむ用意をすることが、どうして楽しいのか。極限状態では、そうした準備をすることすら、状況に変化をもたらす「事件」として歓迎されたのだろうか。おそらく彼は、無欲で孤独な日常を積み重ねてきたことで、絶体絶命のピンチの中にも楽しみを見いだす余裕を生み出すことが出来たのだろう。

コンピューター関係の仕事をしてきたのに、船のエンジンに手こずり、携帯電話を使いこなせなかったということも面白い。生活の中に今風のものを持ち込まない簡素な暮らしをしてきたからではないか。

                *

私は漂流した船長のことを知って、久しぶりに鑑賞に堪える人物を見つけたような気がした。こうした人物を見ると、日本も捨てたものではないという気がする。だが、外務省のお役人や、それと手を組んで甘い汁を吸っていたタクシー会社やホテルの営業マンを見ると、うんざりする。うんざりすると同時に、なにがしかの興味も感じるのである。

ホテル・ニューオータニの課長は、警察で事情聴取をうけたあと、街を歩いているところをテレビカメラにキャッチされている。彼は歩きながら、自分では意識しないで顔を歪めていた。顔の下半分がゴム細工のように大きくひん曲がり、「顔を歪める」という言葉が死語でないことを証明して見せていた。

その彼が記者から声をかけられると、一目散に逃げ出した。これも「一目散」という言葉そのままの勢いで逃げ出したのだ。中年とは思えないほどの足の速さだった。そして、どこかの事務所のようなところにとびこんだが、あれは見ず知らずの事務所だったのではなかろうか。

賢愚美醜の入り混じっているのが現世である。今の日本は式亭三馬描くところの「浮世風呂」みたいな世界で、腹を立てるより笑い出したくなるような情景であふれている。

(01/9/9)

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