詩人の個人誌

Uさんとのメール交換は、Uさんが私を加島祥三氏ではないかと錯覚したことから始まった。Uさんは加島祥三氏の「伊那谷の老子」という本を読んで老子に関心を持つようになった。そして、インターネットで私のホームページを読み、てっきり私を加島氏ではないかと思いこんでしまったのである。

そう錯覚する理由は、十分にあった。
私は自分のホームページで、伊那谷に住んでいることや、老子を愛していることを記し、おまけにプロフィール欄に名前を載せておかなかったからだ。それでUさんは、私が加島氏かどうかを問い合わせてきたのである。

Uさんが加島氏に関心を持ち始めたのは、ご自身がすでに3冊の詩集を出している詩人なので、同じ詩人である加島祥三氏に連帯感を持ったためでもある。

私はUさんからのメールに対して、返信のメールを出し、かくて二人の間にメール交換がはじまったのである。私はUさんのことを詳しく知りたくなって、ホームページのアドレスを教えてくれないかと頼んだところ、「HPは持っていないが、個人誌を出している」という返事が来た。

この個人誌というものに強い興味を感じた。目下、読み始めている有島武郎は、個人誌を出している。河上肇も個人誌の所有者だった。私は、自分の考えを混じりけなしに人に伝えるには、個人雑誌が一番いいのではないかと思うようになっていたのだ。

私はいささか不躾とは思ったが、その個人誌を見せてくれないかと頼んでみた。すると、Uさんは二冊の雑誌を送っ来てくれた。

 宇佐美孝二個人詩誌の表紙

個人が、小遣銭で発行している雑誌ということになれば、パンフレットのように薄い雑誌にならざるをえない。Uさんの個人誌も、一冊は総ページ数が17ページ、二冊目が21ページしかない。そのため、定価「300円」となっている。

一冊目の内容は、以下のようになっている。


詩2編
評論2編
詩(私)的日記
編集後記

このなかの「いま、かぜが葉っぱを」という詩には、老子的な感触があるのである。その後半部を引用してみよう。


 風がでて、樹が揺れる。
 樹は、いっせいに揺れるのではない。風がいちばん下の葉っぱを揺らすと、それはつぎの上の葉っぱを揺らす。さらにつぎの葉っぱへと、じゆんじゆんに伝播する。そして最後に、森全体がひとつになっておおきく揺すれるのだ。
 ちいさな揺らぎ。そのさざなみ。
 ぼくが立っているということ。かすかに振動しているということ
 ぼくのさざなみ。
 ぼくが眼をつむり、地上の樹や、宇宙のつらなりを感じるということ。 ぼくが息をするということ。
 ぼくの背後で何かがおおきく息をした。

作者は、風に揺らぐ森と対面して立っているのである。森を眺めているうちに、揺らぐ森と一体になり、こちらの身体も森と共振しはじめる。そして一体感は地上から更に宇宙にまで及び、作者は宇宙と共に共振し、自然が息づいているのか、自分が呼吸しているのか分からなくなる。

やがて、作者は背後にも大きく息をするものがあることを感じる。宇宙と一体となり、宇宙と共振しているが故に、背後で息づく大いなるものを感じ取ることができたのだ。

この背後で息をするものが、加島祥三氏のいわゆる「タオ」を思わせるのである。(老子は自然の運行、現世の動向の背後に太極があるとしている。加島氏はこの太極をタオと呼ぶ)

しかし、Uさんは、この詩を加島祥三氏の本に触発されて作ったのではあるまい。Uさんも恐らく、気質的に老子に近いものを持っているのだろう。

Uさんの詩には、哲学的な深い世界をテーマにしたものが多い。だが、個人誌を読んでいると、微笑を誘うこんな文章もある。


「詩」に関して言えば、短歌、俳句、詩の世界は一般の人から見れば、十把ひとからげに見えるらしい。少し前、父の葬式で雑談のおり、「〇〇さ(と呼びかけられて)、俳句だか短歌だかやっとるんか?」と親戚の男性から言われたことがある。

「いや、詩、なんですけど」照れて言い訳をしたが、興味の対象外からみればそのようなものかもしれない。彼にしてみれば、新聞かなにかでちらと見かけた、それを話題にだしただけでとくに深い意味はなかったにちがいない。「そうか。ま、趣味をもつことはええことだわな」と彼は言った。

Uさんは哲学的な詩を作るだけでなく、こうした日常的な風景をとらえる目を持っているのだ。私は、いま、読みかけの本を脇に置いて、Uさんの詩誌を読んでいるところである。

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