宇野浩二の奇妙な生涯
1
私の書架には、購入後放置されたままになっている「宇野浩二伝」がある。水上勉の著した上下二冊の大冊である。この二冊が購入後20余年も放置されていたのは、本の中身がぎっしり詰まっていて、見るからに手強そうな感じがしたからだった。相当な覚悟で臨まないと、とても読み通せそうもないと思われたのだ。ところが、私は数日前に、上下併せて800ページにも及ぼうかというこの大冊を何の苦もなくスラスラと読み終えてしまったのだ。
きっかけは、広津和郎の「年月のあしあと」を読み返しているうちに宇野への興味が再燃して来たからだった。それで宇野浩二の「苦の世界」を読んだら、調子がついて彼の評伝が読みたくなり、かくて水上の「宇野浩二伝」を読了するという運びになったのである。
私は旅先で偶然手にいれた宇野浩二の本を読み、この作家に関心を抱き始めたけれども、この作品集を読んだだけだった。それでも、彼の作品の中に、ヒステリー女と同棲して塗炭の苦しみをなめることになる「苦の世界」という作品があることは聞き知っていた。それで、以前から「苦の世界」だけは読んでみたいと思っていたのだ。そして、ついにインターネットを通して宇野浩二全集を買い込む羽目になり、全集に採録されている「苦の世界」を読むことが出来たのだ。
「苦の世界」によると、宇野を悩ませた伊沢きみ子という女は大変な女だった。
宇野浩二は、伊沢きみ子と場末の娼婦街蛎殻町で知り合ったのだが、きみ子はもともとそんなところに流れて来るような女ではなかったのである。叔父の伊沢多喜男は当時警視総監をしており、後に台湾総督になるような大物だったし、多喜男を兄とする彼女の父親も医者だった。きみ子の一家も一族も、皆、上流の暮らしをしているのに、きみ子だけが家を飛び出して周旋屋に騙され、蛎殻町のようなところに売り飛ばされてきたのだった。伊沢きみ子は一族の恥であり、伊沢家にとって疫病神のような女だったのである。
そんな生まれもあって、きみ子には気品のようなものがあった。背のすらっとした瓜実顔の器量よしで、とても芸者をするような女には見えなかった。宇野がこのきみ子に惚れ込んで蛎殻町に通っているうちに、突如、21才の彼女が宇野のところに押しかけてきて、まるで居座るような格好で同棲を開始したのであった。
当時、宇野浩二は25才で、竹屋の一室を借りて母と二人で細々と暮らしていた。収入は宇野が童話を書いたり、翻訳をしたりして手に入れたわずかな原稿料しかなかった。そんなところへきみ子が転がり込んできたから、六畳の狭苦しい部屋に宇野母子と伊沢きみ子の三人が顔をつきあわせて暮らすことになったのである。
わがままなきみ子は、毎朝一番遅くに起きて来る。その前に母は食事の用意を一切調えてきみ子の起きてくるのを待っているのだ。宇野は早くに起きて炊事をした母が腹を減らしているだろうと思うけれども、先に食事をすると女が怒るので母に、「おさきへどうぞ」ということが出来ない。それで母と息子はちゃぶ台の前にすわり、女が起きるのをじっと待っているのだ。
ようやく起きて来たきみ子は、彼女を待ちわびている母子を尻目に、ゆっくり顔を洗い、髪を何回も結い直し、丹念に化粧してからやっと膳に向かうのである。食事を始めてからも、昨日まで喜んで食べていたオカズを、急に実は嫌いだったのだと言い出したり、毎日同じオカズが続くからイヤになったとかいって、「今日はご飯を食べない」と言い放つ。
貧乏暮らしに腹を立てたきみ子は、やがて、あられもなく暴れ出すようにもなった。襖一枚隣には竹屋の家族がいるのに、そんなことはお構いなしにわめいたり叫んだりして、宇野に暴力を振るうのである。暴れる相手を宇野が腕力で組み伏せて動かないようにすると、一時間ですむヒステリー発作が二時間にも三時間にもなる。だから、宇野は女が暴れ出すと、黙って見ているしかなかった。きみ子はしまいには、どろどろになった道に足袋はだしで飛び出したり、縁側の下の地べたに着物のまま寝ころんだりした。
「苦の世界」は、ヒステリー女に振り回される惨憺たる日常を描き出しながら、読者に一向に暗い印象を与えない。これは宇野独特の、「読者諸君、辛抱してくわしい話を聞いてほしいのだ」というような読者に向かって直接話しかけるような軽やかな文体によることが多い。
あるいは、宇野に女に対する憐れみがあるからかもしれなかった。著者は作品の中でこんなことを言っているのである。
<をんなは、これまで彼女に接した他人にはいふにおよばず、
その血をわけてもらった生みの母にさへ捨てられるのだと思
ふと、いつの間にか私たちの前の景色がうるんで見えるまで
に、目に涙のにじむのを感じないわけには行かなかつた。さうだ、やがて、彼女はこの私にも捨てられるとしたならば、
どこで私ほど彼女を受け入れる男を見いだし得るであらう?私とくらしたあひだ、彼女は私のいくぢなさのために、いく
どヒステリイをおこしたか知れない、けれども、彼女がその
とき私にあきたらずして求めるやうな、いはゆるいくぢある
男は、男の方できつと彼女と一週間以上同棲するにたへない
にちがいない。>宇野浩二と親交のあった長沼弘毅も、宇野がきみ子と同棲を続けたのは愛からだと言っている。
<彼女から逃げようとするのだが、さて、そのヒステリー女の持っている特有の魅力(主として、ヒステリーを起こさないときの、やさしさ、無邪気さ、素直さ、子供のような純真さなど、数えあげれば、いくらでも例はあるだろう)を忘れることができず、それなればこそ、彼女に対する憐憫の情は他人のうかがい知れぬものがあった──いま頃はどうしているだろう、当たり散らそうにも相手がいないので、ひとりで泣き濡れているのではないか! (「鬼人宇野浩二」長沼弘毅)>
しかし正直な感想を言えば、私には「苦の世界」の不思議な明るさは独特の文体のためだとも、あるいは宇野のきみ子に対する愛乃至憐憫のためだとも思えないのだ。では、この明るさはどこから来ているのだろうか。
2 宇野浩二は他人の前では、伊沢きみ子の名前を口にすることがなかった。何時でも、「うちのヒステリー」で通していた。彼のこうした言い方には、諦観と愛情の混じった女への複雑な心境が感じられ、きみ子への決定的な嫌悪は見当たらない。母がきみ子との同居に耐えきれなくなって親戚の家に逃げるように移った後も、彼は依然として彼女との同居を続けている。彼女への未練があったからだろう。
宇野は次男だったが、兄が知能に欠陥を持っていたため、父の死後は彼が家長の役を引き受けなければならなかった。その彼が兄を故郷の親戚に預けっぱなしにして上京し、今度は母を東京の親戚に託したのだから、親戚の目に宇野が無責任な跡取りとして映ったのは当然だった。伊沢きみ子が一族から疫病神と見られていたように、これ以後、宇野浩二も親戚たちから落ちこぼれの典型として見放されることになる。同じ落ちこぼれでもきみ子の方は攻撃型だったのに対し、きみ子の言いなりになっている宇野は受け身型・被害者型の落ちこぼれだった。
芸者として売れっ子だったきみ子が、貧乏暮らしの、しかも姑付きの宇野のところへ押しかけ女房のようにして入り込んだのは、宇野が受け身型の気弱な男だったからだった。ヒステリー性格の女は、自分を許容してくれそうな弱い男を本能的に嗅ぎ分けるのである。
しかし伊沢きみ子が見落としていたのは、宇野浩二が一筋縄ではいかない男だったということだった。宇野は万事について無抵抗主義者だと自認し、
「僕はだいたい『無理』ということがきらいな質(たち)だ。僕は何でも『自然』にまかしたいんだ、自然にさからいたくないんだ」
と語り、相手から押されれば、そのままずるずると後退するように見せかけているが、本当は二枚腰のしたたかな男だったのである。
宇野は、いざとなると自衛本能を発揮し、人が変わったように利己的に振る舞う男だった。宇野の古い友人保高徳蔵は、宇野からしばしば煮え湯を飲まされ、宇野のエゴイズムには憎しみを抱いていた。早稲田大学に学んでいた頃の宇野は、親戚の援助でかなり豊かな学生生活を送っていたにもかかわらず、機会があれば金に不自由している保高にたかっていたのだ。ほかにも宇野は金銭的な問題で友人の多くに迷惑をかけている。彼は、相手がお人好しと見れば、遠慮なくつけ込んでいく押しの強さを持っていたのである。
そして、この要領の良さはきみ子に対しても発揮される。
きみ子は宇野との生活が経済的に行き詰まったとき、「もう一度、芸者に出ようかしら」というようになった。純真で人のいい彼女は、窮地に立っている宇野をわが身を犠牲にして助けようと考え始めたのである。すると、宇野は、「私が作家になるまで、どうか我慢してくれ。そしたら、迎えに行くから」と指切りして、女を置屋に送り出すのだ。きみ子は横須賀の置屋から受け取った前借金を宇野に渡し、宇野はこれを引っ越し費用や引っ越し先への手付け金に使っている。暫くするときみ子は宇野と打ち合わせて借金を踏み倒して横須賀から逃げ出し、横浜の置屋に住み替えている。きみ子がこうした掟破りの挙に出たのも、やはり宇野を援助するためだった。しかし、横浜に移ってからは、きみ子からの連絡は次第に間遠になって行き、やがて消息も知れなくなった。それから二年後、宇野は友人からきみ子が自殺したという知らせを受けるのである。友人は、横浜の西洋人宅の小間使いになっていた伊沢きみ子が「猫いらず」の毒を飲んで死んだことを新聞で読んで知ったのだった。
皮肉なことに、きみ子が自殺した頃から宇野浩二に幸運の星が巡ってきた。その前年に宇野は広津和郎から材料をもらって、「蔵の中」という作品を書き、これが広津の努力で雑誌に発表されると、一躍、評判の新進作家になったのである。きみ子は宇野が念願の作家になったことを知ってか知らずか、猫いらずの入った団子を食べるという変な方法で自死したのである。
「蔵の中」で売れっ子になった宇野は、「苦の世界」を書いてさらに評判になった。
きみ子との同棲からはじまって、彼女の自殺に至るまでの出来事は、その頃流行の私小説には格好の題材だった。宇野はヒステリー女への未練を断ち切れず、女手一つで知能の遅れた兄と自分を育ててくれた母を裏切り、母を親戚宅に追いやって肩身の狭い居候にしてしまったのだ。これを従来の私小説的手法で作品化すれば、現世の地獄を思わせる暗く惨めな物語になるのである。
だが、宇野は「苦の世界」を従来の自然主義文学のパターンにあわせて、陰湿な私小説にする代わりに、全く別の話にしてしまったのだ。
宇野作品は、題名こそ「苦の世界」となっているけれども、暗鬱な感じがほとんどない。同棲した女のわがままも貧乏のつらさも、底抜けに明るい苦労話といった調子で描かれている。話が明るくなったのは、登場人物の内面、そのトラウマや痛所をすべて切り捨てて書いているからだった。
きみ子がヒステリー女になったのには、それ相応の理由があったはずだが、宇野はその理由について全く触れようとしない。そして彼はきみ子の前でオドオドしている母親を見て心を痛めたに違いないのに、それについても何も語らない。それより何より、彼は彼自身のきみ子に対する愛と憎しみについて口を緘して語ろうとしないのである。彼は自分の受けた被害については、「・・・・往来の人々が耳を立てて立ち止まるほどの大きなさけび声をあげて泣いたり、そして母のいないときは夫たる私を打ったり、時としては蹴ったり・・・・」と書くだけで、それ以上にペンを進めようとしない。
登場人物の感情的側面、その心の痛所をカットしてしまえば、女の尻に敷かれながらの貧乏話も、一条のお笑いぐさになってしまう。宇野浩二初期の作品は、感情過多という世評に反して、実は内面を語ることを慎重に回避している。彼の初期作品は人間の主体的情念を切り捨てて外面の行動だけを描き、そこから生まれる「おかしさ」を隠し味にしているのである。その小説は、自らの気分や感情を調子に乗って饒舌に語っているように見えて、表面的な言動の下に隠れている人物の内奥には故意に目をつぶっているのだ。
問題は、ここにあるのである。宇野浩二は、どうして登場人物の内面をあえて切り捨てるのか。
人間としての宇野浩二は気弱で引っ込み思案の消極的人間だったが、性格の芯のところには強い自衛本能があって、いざとなると人に譲ることがなかった。こうした二枚腰は、彼の精神生活にも現れていた。彼は、中学二年生の頃から翻訳のトルストイやドストエフスキーを読むような早熟な少年だったが、文学や思想の面で時代の潮流に流されることはなかった。流行に抗する固有の自己を持っていたのである。
評論家としても高い評価を得ていた広津和郎は、知的な能力の広さと深さの点で、自分よりも宇野浩二の方が優れていると語っている。広津も時流に抗する形で、トルストイよりチェーホフを評価する論文を書いていたが、宇野はチェーホフより更に知名度の低いゴーゴリを評価していた。「文学の鬼」「小説の鬼」を自称する彼は、様々な思想や文学上の流派を読みこなし消化した上で、ゴーゴリを自分の師に選んだのだ。
宇野浩二の名前を天下に知らしめることになった「蔵の中」「苦の世界」を始め、発狂以前の彼の作品はゴーゴリの影響下に書かれていた。ゴーゴリ的リアリズムを拠るべき指標として選んだ結果、宇野浩二は奇妙な生涯を送ることになる。
3 宇野浩二が伊沢きみ子の死を知ったのは、「蔵の中」が評判になってあちこちから原稿を依頼されるようになった時だった。彼には、きみ子の死を悲しんでいる余裕がなかった。きみ子のために香をたく代わりに、きみ子を題材にして殺到する原稿依頼に応じている。そして、「苦の世界」が当たると、彼はきみ子とのその後の関係を綴った「人心」「軍港行進曲」などの作品を発表し続ける。
きみ子をテーマにしたそれらの作品には、彼女を悼む言葉はなかった。「ああ。しかし、彼女のように生まれた者は、少しでも早く死んだ方が幸福かもしれない」と嘆じてみたり、作品の全体を、
<「そうか?」と私は一層会心の笑みを洩らしながら、(実際は笑わなかった、これは腹の中の話だ。頭の悪い読者のためにいっておく)・・・・>
といった砕けた調子で一貫させている。
だからといって、彼の態度が軽薄だというのではない。水上勉が、「(宇野浩二の)文体の流暢さは、上っ調子というのではなく、人生の裏街道の悲哀をなめ尽くした作者の目でなければ描けないペーソスあふれた」ものだと評するのは褒めすぎだとしても、宇野の目は注意深く現実に注がれている。彼は浮かれているのではない。現実をありのままに眺め、事実そのものの持つおかしさを逃さずに捕らえて作品の中に書き込んでいるだけなのである。
「お兄ちゃんが一生懸命小説を書いて、有名になったら迎えに来てね」と言い残して身売りをしていった哀れな伊沢きみ子が死んで一年とたたないうちに、宇野は信州下諏訪の芸者原とみに惚れ込み、「甘き世の話」「夏の夜の夢」「一踊り」「心中」などの作品を発表し始める。
原とみは、経済的に余裕の出来た宇野が、原稿執筆のために諏訪に出かけて知った田舎芸者である。彼女は子持ち芸者だったが、素人女にも珍しいほど無口で、どこか寂しそうな顔立ちをしていた。何時も俯きがちで物を言い、小さい声で唄を歌い、細い爪弾きで三味線をひいて、幽霊のようにすっと帰っていった。そんなところが宇野には気に入ったのである。
宇野浩二は機会があれば諏訪に出かけて、原とみを呼び出して会うようになった。都合でとみが来られないような時には、とみの姐さん格の芸者である村田キヌを呼んだ。この村田キヌが後に宇野浩二の妻になるのだが、このキヌについては彼はこう書いている。
<…小滝(村田キヌ)は二十九歳だから私と同い年であった。彼女は前の年の秋から新三春家の看板を買って、即ち一軒の芸者屋の主人でもあったのだ、つい二三ケ月前まで抱妓が一人ゐたがそれが身受されたので、今は女中も何も使はずに一人で暮してゐるとの話であった。
ずつと前の事だが、私が二度ばかり呼んだ女按摩が小滝の事を、私との間に芸者の話が出ると、直に持出して盛んに推賞して言ふのには、あんないい芸者で、そして人間としても善く出来た人はありません、と女按摩は言ふのである。>
宇野が交渉を持った芸者には、諏訪の原とみ、村田キヌのほかに、東京で知り合った星野玉子がいる。星野玉子は宇野の子供を産んだ芸者である。そして最後に宇野にとって生涯の恋人村上八重が出てくる。これも東京の芸者であった。
宇野は芸者上がりの女と次々に交渉を持ち、女と別れてから、その女のことを連作形式で作品にしている。同じ題材を飽きもせず作品にするので、批評家から二番煎じ、三番煎じと揶揄されながら、彼は手を変え品を変え芸者について書き続けたのである。
常々「文学の鬼」と自称していた宇野浩二の頭のなかには、文学のことしかなかった。広津和郎は宇野が発狂したと聞いて宇野の家に駆けつけ、彼と対話をしている。広津に向かって訳の分からないことを口走っていた宇野も、こと文学の話になると表情は正常に戻り、しゃべる内容もちゃんと筋の通ったものになったという。彼は文学にとりつかれて一生を送り、文学に殉じるようにして死を迎えたのであった。
しかし、彼の文業の大半が芸者との色事を描くことで終わっているとしたら、そもそも彼の文学とは何であり、彼の生涯とは何だったのだろうか。「生涯を文学に賭ける」といいながら、彼の一生は芸者を次々に愛し、それを小説にすることで終わっているのである。私は宇野浩二の作品をまだ一部分しか読んでいない。けれども、水上勉が完成した浩瀚な宇野浩二伝を読めば、宇野の全作品が彼の愛した芸者を名簿順に並べることで整理できるように思われるのだ。宇野浩二とは、何という奇妙な生涯を送った男だろうか。
こう述べてくると、宇野浩二は一個の蕩児として戦前・戦中・戦後を送って来たように見える。ところが、その内実を探ってみると意外なことが判明するのだ。
先ず第一に、彼の関係した女たちは揃って旦那持ちだったことである。彼女らは宇野と親しくなったけれども、別にパトロンがいて月々の手当をもらっているのである。つまり、彼女らは、別の男の持ち物だったのだ。だから、彼が本当に女を愛していたとしたら、旦那と手を切らせ、自分が手当を出す側に回るのが普通であり、さらに徹底すれば女を囲って妾にして座敷には出さないようにしなければならなかったはずだ。だが、宇野はそんな気配を一向に見せないのである。
彼は今や流行作家であり、親戚に預けていた兄と母を自宅に引き取って女中に世話をさせる身分だった。にもかかわらず、彼が好きな女を他人の持ち物にしたままで平然としていたのは、経済的な面も含めてその方が面倒がなかったからだった。
それに宇野浩二は性的に淡泊で、その面で女に執着することがなかったらしい。こんな話がある。
宇野が原とみを「ゆめ子」と呼んで、おびただしい数の「ゆめ子もの」を発表したため、原とみは地元でも評判になり、頻繁にお座敷がかかるようになった。それだけでなく、作家仲間にも興味を持たれ、「ゆめ子」に会いに諏訪を訪ねる者が現れた。芥川龍之介はその一人だった。芥川は、宇野に同行して諏訪を訪れ、原とみに会った後で、宇野には内緒で密かに彼女に宛てた手紙を出している。
宇野と原とみの関係は、地元でも文壇でも誰知らぬ者のない周知のものになっていたのに、二人の間に身体の関係はなかった。二人の関係は、最後まで「プラトニック・ラブ」だったのである。
宇野の子供を産んだ星野玉子との関係も、性的には実に希薄なものだったらしい。玉子が妊娠したときに、玉子の母親は宇野に向かって、「どうもこの度は、弁慶さんのようなことになってしまって・・・・」と弁解がましい挨拶をしている。この正確な意味は不詳だが、文脈からいうと玉子はたった一度の性行為で宇野の子を宿したらしいのである。宇野は玉子とも、ほとんど身体の関係を持っていなかったのだ。
宇野が生涯の恋人と呼ぶ村上八重との関係もおかしなものだった。
4 宇野浩二は多くの芸者と馴染み、これらの女たちとの関係について数知れない作品を残してきた。だが、最後の愛人村上八重に対してだけは、ほかの女たちに対するとは異なる気持ちを持っていたらしかった。
長沼弘毅は、宇野から村上八重の写真を見せられたことがある。宇野が八重と知り合って15年たったころのことだ。宇野は薄い紙にていねいに包まれた写真を、「うやうやしい」という表現がぴったりするような手つきで取り出したという。宇野にとって、八重は恋人以上の神格化された存在だったのである。
宇野が八重を知ったのは、大正12年のことで、宇野は三十二才になっていた。その頃、宇野は作家仲間の直木三十五とよく茶屋遊びをしていたが、この日、直木が「今日は八重次という女を呼ぼう」といって村上八重を座敷に呼んだのである。宇野は、初対面の八重の印象をこう書いている。
<八重次は、小柄で、丸顔の方で、その頃もう二十才ぐらゐ
であったが、どちらかといふと愛くるしい顔だちの女であった。
特徴は、眉毛がふとくて濃く、大きな澄んだ目に何とも
いへぬ愛嬌があったが、きかぬ気らしいところがあった(「思い川」)>八重は最初から宇野に対して積極的で、自分の写真を宇野の懐に素早く押し込んだり、「今度は、一人で来てね」と宇野にささやいたりした。宇野浩二は、「思い川」のなかに八重がいかに自分に対して積極的だったかを繰り返し書いている。だが、これは八重の「一目惚れ」の為だったとは思われない。
村上八重は、学歴こそないけれども、頭のいい個性的な女だった。彼女には「月給さん」と呼んでいる呉服商の旦那がいたが、この凡庸な旦那に彼女は満足できなかった(この旦那が「月給さん」と呼ばれた理由は、毎月正確に決まった手当をくれるからだった)。八重は直木三十五の愛人になっている朋輩の芸者を羨やみ、自分も作家の愛人になりたかったのである。彼女は述懐している。
「わたし、だんだんに高級になっていったのね。こういうお座敷に出てると、話題っていうのが、文学だとか美術だとか音楽だとか野球、それにお芝居というようなことばかりでしょう。ゎたしも、いつの間にか、一種の文学芸者みたいになって、ほかのお客が、つまらなく、馬鹿みたいにみえて来たんですの。宇野先生は、その頃、『校長先生』と綽名をつけられていたわ」(「鬼人宇野浩二」)
八重は何とかして宇野と深い関係になりたいと思い、口実を作って彼を旅行に誘い出し、旅館を泊まり歩いている。一週間の旅の間、夫婦と名乗って同じ部屋で寝ながら宇野は一度も八重に手を出さなかった。八重にとっては、こんな男は初めてだった。彼女は女としてのプライドを傷つけられたような気がして、いよいよ相手に熱を上げていったのである。
八重は隔日に踊りの稽古に通っていたが、その帰りに宇野が執筆場所として利用している菊富士ホテルに立ち寄るようになった。そのうちに彼女は、家具調度を買い込んで部屋に運び込み、ホテルの一室を新婚所帯のようにしてしまった。やがて、彼女は自分の家を新築すると、それを「私たちの家」と呼び、二階を執筆用の部屋に作り替えて宇野に提供した。
村上八重は、年少の身で芸者屋として成功し、ほしいものは何でも手に入れてきた女だった。彼女は僅か21才で二人の抱え芸者を擁する店の女将であり、海千山千の待合いの女将や古顔の芸妓と対等にやっていける切れ者だったのである。こういう八重が、本気になって宇野を落としにかかったのだ。
宇野と深い仲になると、八重はまるで初めて恋を知った女学生のようにさまざまなことを提案しはじめた。
「先生、毎日正午のサイレンが鳴ったとき、何処かで先生が、何処かで私が、お互いのことを思っている、そのしるしに、サイレンが鳴ったら忘れずに黙祷することにしましょう」
彼女はまた「交換日記」を書くことも提案した。
「毎日お目にかかれないんですから、手帳を買って、それに二人だけの日記を思い立ったときに書くことにして、それを会ったときに渡すことにしてかわり番に書くことにしましょう」
こういう八重の存在が宇野の心の底深くに食い入ってくるにつれて、彼の方も少年のように純な気持ちになっていった。二人の関係は、宇野の発狂後しばらくの間途絶えるが、病気回復後は前にも増して深いものになった。そして、今度は宇野の方から八重にこんな手紙を出すようになった。
「やがて、いつかは、僕の喜びと君の喜びが、同じ日、同じ時間になるようになることを、いのりつつ」
宇野の気持ちは時の経過と共に深くなるばかりだった。戦後の昭和23年には、宇野は「八重次もの」の集大成ともいうべき「思い川」を雑誌「人間」に連載している。宇野は、この作品の副題を、「夢見るような恋」としている。この時、八重との関係は25年目に入り、宇野は57才になっていた。
宇野が変わらぬ愛情を持ち続けているのに反し、八重の方は水商売の女らしく、陰で別の男と関係していた。八重のような切れ者の女は、男性に対する好みも普通の女とは違っている。男に依存しなくても生きていけるから、いかもの食いに走るのだ。そもそも八重が宇野に入れあげたのも、いかもの食いの現れだったともいえるのである。
精神病になった宇野が快方に向かった頃、彼女は抱え芸妓に借金を踏み倒されて逃げられるという被害にあった。この時には、さすがの八重も裏社会に睨みをきかせている男の手を借りる必要を感じた。だが、彼女はその筋の信頼できる人物に依頼しないで、店にやってくる白川伸十郎という正体不明な男に貸金の回収を依頼したのだった。
白川は風采のあがらない四十男で、危険な臭いを放っていた。前々から白川に興味を持っていた八重が事情を話すと、白川は程なく金を取り返してきてくれた。これがきっかけになって、八重は白川の女になり、彼から手当を貰うようになった。白川との関係は20年近くにも及び、そこへ更にもう一人、林半造という男が愛人として加わってくるのである。
林半造も八重の店に通っていた客の一人で、カリエスのため片足を切断した男だった。八重の店に来ると義足をはずして、それを枕に横になる癖があった。八重はそんな林に興味を感じ、彼が妻に家から追い出されると、旦那の白川伸十郎には秘密で店にかくまってやったり、近くの寺の離れに彼を移し、月に二回ずつ密会したりした。
戦後になると、八重は金を出して林に炭団屋の店を持たせ、白川と別れてからは彼を自分の店に入れて夫婦同然の暮らしをしている。
宇野浩二は、こうした八重の男遍歴をすべて承知で彼女を愛し続けたのである。そして、「ぼくは、心の中にきみだけを持ち、頭の中に文学だけを持ってをります」というような甘ったるい八重宛の手紙を書き続ける。八重宛に出した宇野の手紙にはこんなものもある。
<二十五年のあひだに、きみは、いろいろの人におあひになつたでせうが、その二十五年のあひだ、(日数でいひますと、九千何日のあひだ、)一日も、(どんなにはなれてゐても、どんなに不幸であっても、)きみをおもひつづけてゐたのは、おもひつづけてゐるのは、ぼく一人である、と信じてゐます。
二十五年のあひだ、(九千なん日のあひだ)「ひとりのひと」をおもひつづけてゐたぼくは、日本一の、(世界一の)幸福者です。日本一の、(世界一の)幸福者でありますから、へたなところがあっても、「思ひ川」のやうな純真な小説が書けたのです>
──こうして見てくると、芸者を追いかけて一生を終えた宇野浩二の奇妙奇天烈な生涯には呆れるばかりだが、宇野の母も芸者をしていたことを思えば、頷ける点も出てくるのだ。彼の母親は、夫に死なれてから幼い宇野を母(宇野からすれば祖母)に預けて、仲居や芸者になって一家を支え続けたのである。この一事を通して彼の生涯をながめると、宇野が芸者に親近感を持ち、むしろ素人女よりも彼女らを高く買っていた理由が理解されてくる。
彼の口癖は、「一に文学、二に母、三に恋人」だった。宇野の家を訪ねて母親にあった友人たちは、例外なく彼女が年老いてもなお美しく粋だったことを証言している。