忠臣蔵への疑問

ある学者の書いたものを読んでいたら、大変印象に残る記事があった。──その学者は、母親を対象にした講演会のあとで、「幼い子供を連れて森の中を歩いていたら、獰猛な熊が現れた。こうしたときにあなたはどうしますか」と質問することにしているそうである。すると、返ってくる答えは決まっている。──「子供の上にかぶさって、わが子を守ります」

その学者がアメリカなどに行って、同じ質問を母親たちにすると、返ってくる答えは決まっているが、その内容は日本の母親とは全く違っているという。──「棒きれでも何でも手に取って、熊と戦います」

日本の母親は、相手が強いと見ると抵抗することをあきらめしまうのに、外国の母親はかなわぬまでも死力を尽くして相手と戦うことを選ぶのである。確かに、日本の女性はこれまで強者との戦いを回避する傾向があった。夫が浮気をしたときに、外国の妻はまず第一に夫を責める。アメリカ映画などを見ていると、夫は怒り狂った妻によって家から追い出され、身の回りのものをバックに詰めてホテルに移ったりする。

ところが、日本の妻は、夫を責めるかわりに夫の愛人を憎み、相手の女に攻撃を集中するのである。これは妻が夫に扶養されている弱者だったという経済的な事情もあるだろう。だが、これはやはり、日本の女性に強者との戦いを回避する習性があるからではないだろうか。

強者に屈服するのは女性ばかりではなく、日本の男性にも共通している。
家では妻子を頭から押さえつけている暴君の父親も、会社に行けば「触らぬ神にたたりなし」で上役に逆らうことをしない。それどころか、上役に逆らう同僚を見ると、いさめたり、なだめたりしてその場の平和を保とうとする。

忠臣蔵は、こうした日本人の心性に支えられたドラマだという気がするのである。忠臣蔵のもとになってい史実がどのようなものか知らないけれども、ある時、忠臣蔵の映画を見ていてこれは何だか変な話だぞ、と思った。

映画によれば、浅野内匠頭と吉良上野の争いに間違った裁断を下したのは幕府の老中たちだった。とすれば、赤穂藩の浪士たちが復讐を誓う相手は、幕府そのものになるべき筈なのだ。

また、映画の話になるけれども、浅野と吉良の間に起こったような傷害事件が裁判にかけられ、裁判官が間違った判決を下したとしたら、欧米で作られる映画は裁判官が復讐されるという内容になるはずだ。実際、洋画にはこの手の映画が実に多いのである。

赤穂浪士たちは、本来敵とすべき幕府をさけて、二番手の敵である吉良上野を攻撃した。幕府が獰猛な熊のような存在だったから、これを避けてそれより弱い敵を復讐の相手に選んだのである。これは、浮気された妻が、夫と戦う代わりに夫の愛人を攻撃するのと似てはいないだろうか。

では、今度は浅野内匠頭に切腹を命じた幕府の処断が、正しかったとしよう。殿中で抜刀した者は、大名であろうが何であろうが死罪に処するという明文化された規定があったとしたら、最早、老中たちを責めることはできない。この場合は、浅野の短慮が責められなければならなくなる。

浅野内匠頭は、一時の怒りにまかせて赤穂藩の滅亡を招き、何百人もの藩士を路頭に迷わせたのである。こんな愚かな殿様の無念を晴らすために復讐を実行した47人の浪士も又、愚かだということになる。

とにかく、私は忠臣蔵映画を見て、これもまた熊=権力と戦うことを避ける日本人の特性をあらわしたドラマの一つだと思ったのだ。この種の話が歌舞伎をはじめとして日本の説話にに多いことは山田風太郎が指摘しているとおりで、忠義や義理のためにわが子を殺す歌舞伎の演目などは、熊の前で無抵抗になってしまう日本人の姿を描いたものにほかならないのだ。

とは言っても、忠義のために自らの命や子供の命を差し出す行為には、なにがしか人を感動させるものはある。しかし、熊=権力との戦いを避ける心情は、容易に強者になびく卑屈な行動を生むから困るのである。

戦争中、多くの政治家は軍部と足並みをそろえて鬼畜米英を撃つべしと叫んでいたが、戦後は一転してアメリカ大好きの親米派になった。歴代の首相は、外交政策の基軸をアメリカとの関係を強化することに置き、保守派の政治家でアメリカに批判的なのは石原慎太郎くらいということになってしまった。

今や、米一極構造の時代とはなった。つまりアメリカは巨大な熊のような存在になったのである。小泉首相がなりふり構わず対米盲従路線を歩むのも自然なら、石原慎太郎が反米の旗を降ろしてアメリカ擁護にまわり、その好戦的なエネルギーの向かう先を中国・北朝鮮に絞り始めたのも自然といえる。

私たちの前に立ちはだかる「熊」は、国家権力のようなものだけではない。戦前は忠義や義理というようなものも熊であり、その流れは今もつづいている。山本七平は、その場の空気に無抵抗に従ってしまう日本人の心性を『「空気」の研究』で分析している。この「空気」も熊なら、「習俗」も熊なのである。

熊を前にして目をつぶってしまう日本人を「まあ、仕方がないか」と受け入れるとしても、断じて受け入れることができないのは強者の尻馬に乗って弱者を叩く跳ね上がりの行動である。

イラクで人質になりテレビカメラの前に引き出された香田青年は、ひどくおとなしかった。同じ立場におかれた韓国人のように故国の政府に向かって声高に救いを求めることをしないで、遠慮がちに日本に帰りたいと述べただけだった。香田青年の家族も、終始、不思議なくらいに言葉を慎んでいた。

これに対して小泉首相が、香田青年やその家族に一片の同情を示すことなく、即座に相手側の要求を拒否したのは、あまりにも冷酷な態度といえる。相手を説得して、救出の時間を稼ぐというような配慮を全くしていないのである。そして、こうした首相のやりかたに悪乗りして香田家に非難の電話をかける輩にいたっては、もう言うべき言葉を知らない。香田家にかかってきた電話は、家族を激励するものが10数本だったのに対して、なじったり罵ったりするものが20数本だったというのである。

何の罪もない同胞が、他国で無惨な殺され方をしたとき、悲嘆にくれる家族にむかって誹謗の言葉をあびせる同国人がいるのである。

これに義憤を感じた外国人記者が、一体この国はどうなっているのだと日本人記者を詰問したというけれども、当然の反応ではなかろうか。

首相が対米盲従路線を続ける限り、この種の言語道断な跳ね上がりが今後も出現し続けるだろう。腹立たしいことである。

          (04/11/11)

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