三つのタイプ
図書館係の教師になってから、私は毎年「図書館報」を発行することにした。これを全校生徒に配布して、生徒たちの読書意欲を喚起しようとしたのである。だが、やがて生徒に読書を奨励しても、あまり意味がないことに気がつくようになった。教師が鉦や太鼓で宣伝しても、本に関心のない生徒は図書館にやってこないし、本好きの生徒は黙っていても図書館に通って来るのだ。
そこで、図書館を静謐に保ち、館内を夏涼しく、冬暖かな空間にしておくことだけを心がけるようになった。そして生徒たちが本を今どう読んでいるかという現況調査をして、その結果を「図書館報」に載せ、生徒一人一人に自分の読書生活がどのへんに位置づけられるか知らせることにした。
そして、たどり着いたのが生徒をタイプ別に分けて、読書傾向を調べるという調査方法だった。生徒たちは、まず自分がどのタイプに属するか決める。それから、同タイプの仲間が何を読んでいるか調べる。そうすれば、読書生活における自らの境位が明らかになり、今後の読書の指針になるのではないかと考えたのである。
以下に、その図書館報を引用する。僅かではあるが、内容に手直しを加えた部分がある。
図書館報から(昭和42年10月28日発行)
「アド・センター」が東京都内及ぴ周辺地区の公私立女子高校生を対象にして行つた読書調査は、従来のマンネリ化した調査方法を一歩前進させている点で興味があつた。本校でもこの例にならつて「アド・センター」の調査を修正補充した「人間タイブと読書傾向」の調査を試みた。
まず、一・二・三年生それぞれ百名ずつに対し、.自分が次のいずれのタイプに属するか答えて貰った。
「享楽型」(人生はたとえ少々非難されようと大いに楽しむべきである)
「モラル型」(人生はたとえ貧しくとも正しく過すべきである)
「現実型」(人生は自分一人の力ではどうにもならないことが多いので、その時その時に応じて生きて行くべ きである)
なお、「アド・センター」の調査による都内女子高校生の比率は、次のようになっている。
「享楽型」 14.8%
「モラル型」 54.3%
「現実型」 26.5%
だが、本校生徒の比率は、
「享楽型」 1.0%
「モラル型」 70.1%、
「中問型」 18.9%
となっており、享楽型が極端に少なく、モラル型が飛び抜けて多くなっている。だが、これについては注釈が必要である。「人生は、たとえ批難されても大いに楽しむべきである」という項目を選んだ生徒達を「享楽型」という名称で一括して、アンケート調査を見て行くと、私達は、本校には実際に享楽的な生徒がそれだけの比率しかいないと思い込んでしまう。
だが、果してアンケート項目で「享楽型」を選んだ生徒が本当に享楽的であり、「モラル型」を選んだ生徒が道徳的なのであろうか。例えば、悪名高いロッキード高官にこのアンケートを選ばせたら、彼らの全員が、自信満々、「モラル型」を選択するであろうことは火を見るよりも明らかだ。では、「モラル型」を選択した生徒のすべてが内省力に欠けた自信家ばかりかと言えば無論そんなことはない。アソケートの解釈というものは、仲々難しいのである。
そこで、日頃見慣れている本校の生徒を、このアンケートとは異なるやり方で分類して、その後でこのアソケートの分類法と照合させてみよう。「浮動型」
これは大体の目分量で全校生徒数の三分の一位には達するだろうと思われる校内の多数派である。この型の生徒には、これというきまった生き方や意見はなく、その時々の校内の主流に同調しながら暮している。校内に真面目な生徒が多ければ彼女等も真面目になって、学習や掃除に精を出し、校内がふわふわしてくると忽ち浮かれ出す「踊る阿呆に見る阿呆」といったグループだ。最初は、このグループの存在がつかめず、お蔭で調査結果の分析にひどく苦労した。主流派はこのグループを取り込むことで、実数以上にふくれ上る。そして、その結果としてその本来の特徴を薄れさせてしまうのである。浮動型が流入すると、きまってその型は曖昧で前後矛盾する性格を示しはじめるのだ。逆に反主流派は、浮動グループを含まないために輪廓鮮明となって、その独自性を明らかにする。
「社会型」
人間の共同生活を成り立たせるものは、多分、集団全体のめざす共通の目標とか、メンバー相互が取り交している暗黙の約束や習慣のようなものだろう。「社会型」はそれらの人間を結合させる諸要素や集団意志に敏感なタイプである。この型は、学校の内外に出現する集団生活に有害な動きを排除し、「社会的なもの」を維持し、人間の連帯性を擁護しようとする。この型はこうした立場から、社会悪に抗議し差別に反対し、そして又わが校の校風を守ろうとするのだ。
彼女等は政治的には革新派だが、モラルの面では保守的で、制服問題・性道徳などに対しては禁欲的な態度を取る。委員会・クラスの仕事をこまめにやって実務能力は高い。だが、社会派の生徒には、真の意味の原理性はなく、その関心は常に社会と共に移り変わり、その努力目標は各時代の社会的課題から抜け出ることができないのである。「情念型」
一見、おとなしそうで目立たないタイプである。ホーム・ルームでは自席に静かに坐って、級友の発言に耳を傾け、ことさら異を唱えることはない。だから、教師はこの型の生徒の通知票には、「温和で真面目」と書き、ちょっと考えた後で「積極性がほしい」とつけ加えたりする。
だが、彼女等は、本当は、強情で内なる欲求も強いのだ。にも拘らず消極的で、ものぐさで、クラブ活動も学習も最少限しかやらず、淀んだ水のようにじっとしている。ジイドはこの手の人間について「溜り水には毒がある」と言っている。欲求するだけで行動しない人間は、その内側に自己を腐食させる病毒を生じるのである。外の動きが少ないだけに、内側の成熟は進んでおり、とにかく複雑にして深刻な情念の所有者なのだ。彼女らは、こうした錯雑な内面に対応するような濃厚な芸術や体験を外部に求めている。このタイプの生徒は狭いが深い井戸にたとえられるかもしれない。奥深くたたえられた水は、遥かに遠い青空を映している。だが、映すだけで、そこに近づく努力は何もしないのである。水は美しいものを映している。が、それには毒があるのだ。
「好奇型」
前者とは反対に、自分で面白いと思ったものには大胆に接近し、欲望と行動の間にはギャップはない。珍しいものは必ず手に取ってみるし、ひとたび思いついた着想は、実行してみなければ気が済まない。全般的に知的レベルは高く、だから自らを信じることも強く、従って世評を気にしない。クラスでも、この型の生徒が発言すると話し合いに活気が出て面白くなる。遠慮会釈のない言い方をするが、視野は広くウィットに富み、議論を飛躍させてくれるからだ。好奇型は社会の突出部に興味を持って、新左翼にひかれたかと思うとポルノ映画を見に行き、それに飽きるとバイクに乗ってみるという具合に目まぐるしい動きを示す。だが、ものに執着することはなく、毒気がない。
フランスの啓蒙思想家ボルテールは、「私の文体・思想が透明に澄んでいるのはなぜか」と自問し、「流れる水というものは澄んでいるものだ。しかし、流れる水は浅いものだ」と解説している。
情念型が溜り水だとしたら、好奇型は浅い流れる水なのである。
さて、以上の四つの型は、アンケートのどの型と関連しているのだろうか。浮動型は主流派に包含されるので、これをヵットして正解を示すと次のようになる。
社会型→モラル型
情念型→現実型
好奇型→享楽型
庄司薫を特集した図書館報(昭和48年度)
この調査は、次年度以降も、継続して実施したいと思っている。ではこれから、第一回目の調査結果を見て行こう。
1享楽型
第一表(自田時間の利用法)に見る通り、「読書」「手芸」が目立って低く、「スポーツ」「その他」の部門で他を凌駕している。これは、このタイプが行動的で坐業的なものを好まず、生活興味が多方面に分散していることを語っている。表1(自由時間の利用法)
テレビ 読書 レコード 手芸 スポーツ ぼんやりしている 勉強しようと努める その他 享楽型 50.0 29.4 26.5 23.5 14.7 38.2 8.8 17.7 モラル型 40.7 42.6 26.0 30.8 8.6 35.2 9.3 10.2 現実型 47.2 41.5 20.8 32.1 7.5 49.1 7.5 5.7
新聞の読み方を調査した結果では、短い時間(10分内外)に素早く全体に目を通すという読み方をする。一番早く読む癖に、ほかのタイプがあまり読まない経済欄などを抜け目なく通読しているのも面白い。
週刊誌に関する質問で明らかにされた点は、享楽型が新聞より週刊誌をよく読むこと、そして同じ週刊誌でも「週刊朝日」「週刊サンケイ」など新聞社系のものを好み、「週刊女性」「ヤングレデイ」などの女性週刊誌を敬遠していることである。又、ほかのタイプが一人も読んでいない「週刊実話」等の成人男性向け週刊誌を読んでいる生徒が享楽型には3%ほどある。
マンガに関する調査では、享楽型に昨今のマンガ・プームを肯定する者が最も多く(41%)、マンガ読者も多い。新聞社系週刊誌は女性週刊誌よりもニユース中心で即物的だし、マンガはテンポが早くてドライだ。享楽型は、現象から感情的要素を切り離し、テキパキと判断を出して行く男性的性格が強いと考えてよいだろう。総じてこのタイプは頭の回転が早く、感情面で停滞しない点に特徴がある。
こういう変り身の早い行動性は第二表の読書傾向にも鮮やかに現われている。
享楽型は自然科学・社会科学・歴史・哲学など知的世界の全体に広い興味を抱いていて、他のタイプより高い数字を示している。他のタイプに比して最下位の書名をみると、「若い人」や「嵐ケ丘」、「氷点」がある。「若い人」は女生徒と教師の恋愛を扱い、「嵐ケ丘」は女流作家による狂熱的な愛の描写を描いている。「氷点」も女流作家によるママコいじめをテーマとしていて、いずれも感情的な粘着度の高い女臭い作品である。享楽型はこうした世界を好まないのだ。表2:読書傾向(1)
赤毛のアン 白い巨塔 若い人(石坂 洋二郎) 智恵子抄 キューリ夫人 友情(武者小 路実篤) 嵐が丘 氷点(三浦綾 子) 河童(芥川龍 之介) 狭き門 享楽型 12.3 5.9 17.7 20.6 67.7 55.9 55.9 35.3 14.7 47.1 モラル型 32.0 10.2 31.0 20.5 76.0 51.0 78.0 55.0 12.0 55.0 現実型 32.1 11.3 35.8 26.3 56.6 69.8 67.9 54.7 28.3 49.1 読書傾向(2)
斜陽(太宰治) こころ(漱石) アンネの日記 女の一生(モーパッサン) 聖書 世界ノンフィクション全集(筑摩書房) 自然科学関係 社会科学関係 歴史関係 思想関係 享楽型 17.7 47.1 85.6 32.3 35.3 32.3 26.5 11.8 41.2 23.5 モラル型 13.0 44.0 71.0 40.0 20.6 30.0 14.0 5.0 28.0 21.0 現実型 18.9 43.4 64.9 37.7 20.8 24.5 7.5 3.7 22.6 11.3
最後に、享養型が「聖書」を最もよく読み、モラル型,が一番読まないというパラドキシカルな現象の評価だが、これはやはり享楽型が最も知的好奇心に富んでいることのあらわれだろう。「聖書」を行動の指針にしようとして読むのではなくて、.(何が書いてあるのだろう) という単純な知的興味から読むのである。
2モラル型
享楽型と対立するタイプはモラル型だと考える常識は当らなかつた。享楽型に対立するのは現実型なのである。
第一表の自由時間の利用法では「テレビ」の最も少ないのはこの型だが、その割りに「読書」が増えていない。「レコード」「手芸」に流れてしまつたためだろう。新聞を最もよく読むのはモラル型だが、週刊誌を最も読まないのもこの型である。週刊誌を全然読まないという生徒が23%にのぼつている。新聞を読むのは政治と杜会記事に関心があるためで(両者ともモラル型が首位)、この型は「社会関心型」といつてもいい。モラルは自分自身に対するそれではなくて、政治の腐敗を憤るというふうな社会道徳に関するものなのだ。週刊誌の読み方が少ないと言ったが、少ない中で愛読されているものは、「女性自身」「ヤングレデイ」で「週刊平凡」は特にお気に召したらしくて66%に達している。このへんに、新聞の政治欄を読むとは裏腹な少女趣味がのぞいている。
マンガ・ブームに対しては善悪ともに積極的な反応を示していない。以上、モラル型は社会志向の姿勢を強く保持しながら、その内側にロマン的・感傷的な傾向や生硬な「生徒」的倫理意識をかくしていると見ることが出来よう。
そのせいか、モラル型の読書傾向にベスト・セラーへの敏感な反応が見られると同時に、女子高校生向きのロング・セラーものへの固着も見られ、極立つた特色を欠いている。このタイプの一般教養書への傾斜は享楽型に次いで強く「世界ノンフイクシヨン全集」「歴史」「哲学」「自然科学」が割りによく読まれている。しかし、享楽型が知的好奇心に触発されてこれらの本を読んでいる.のにくらべると、このタイプは、「生徒」としての義務感から一応読んでみた、という消極的な印象を免れない。
ともかくモラル型は、調査生徒の70%という多数を占めていたことからわかる通り、本校生徒の平均的な傾向を示しているのである。「キユーリ夫人」「狭き門」など、或る程度の水準の本がよく読まれているにも拘らず、太宰治があまり読まれていないという本校の実態が、モラル型の読書傾向にそのままあらわれている。
3現実型
享楽型に対立する現実型の特色は、自由時間の利用法にあらわれている。享楽型に多かつた「レコード」「スポーツ」が陥没するのと引き替えに、「ぼんやりしている」「テレビ」「手芸」がぐつと伸ぴてくる。「ぼんやりしている」が49%もあるのは壮観である。享楽型が停滞することを嫌い、行動半径を男性と大差ないまで拡げて行くのに対し、このタイプは家から出ないで、自分の内部に閉じこもる。新聞は30分内外の時間をかけて芸能・社会・スポーツ欄を読む。ゆつくり読むのである。何しろ時間はたつぷりあるのだから。
現実型は動きの少ない生活をしている反作用として、自分の感情を深く耕やす。その感情生活は他のいかなるタイプより成熟しているのである。例えば、「マーガレツト」「少女フレンド」「少年マガジン」などのお子様ランチ式読物を享楽型とモラル型はよく読んでいるのだが(50%から30%)、現実型になるとガクンと落ちる。それから、マンガにもあまり興味を持っていない。このタイプの生徒は、自分でも動かすことの出来ないような個性や嗜好に突き当つており、未熟なものや異質なものにかかわることを拒否する。おとなしく見えるが強情で、自分の無為な生活に居直つているようなところがあるのだ。「自己内定着者」といったらいいようなタイプである。
本の読み方もそうで、義務感から読書することをしないし、ベスト.セラーだから読むということもしない。一般教養関係に食指を動かすことが極めて少ないことは、社会科学3.7%、自然科学7.5%という数字が有弁に物語っている。反面、「斜陽」「河童」「若い人」などの文学性の濃いコクのある本を最も多く読んでいる。現実型は嗜好の導きによつてしか本を読まない「自己に淫した」タイプだから、周囲の扱い方が難しい。
さて、こういう強情我慢でエゴ・セントリツクな生徒達が、無原則、無方針の現実的人生を選ぶのはなぜだろうか。それもやはり万事自分の個我を基点にして処理して行くからだ。自分を守るためには融通のきく人生観を持つていた方が具合がいいのである。
図書館報(昭和51年11月1日発行)
人間タイプと読書傾向の調査を始めてから、約10年がたった。この間に、本校生徒の人間タイプは、どのように変化して来たろうか。まず、下図を見ていただきたい。細かな数字を掲げることは省略するが、はじめはモラル型が圧倒的多数を占めていたのに、いまや天下三分の状態になって、各タイプがほぼ同じ比率を占めるようになってきている。
ここで三つのタイプがどのような特徴を持っていたか、おさらいしておこう。
モラル型の特徴
モラル型の本の読み方は、定評ある良書とベストセラーものの二つに集中している。従って、モラル型が優位を占めていた頃には、図書館で購入する本の目星もつけ易かった。ところで、こうした本の読み方に問題点があるとしたら、それは読書に本人固有の方向性がないということではなかろうか。「定評ある良書」にしろ「ベストセラー」にしろ、いずれも社会的な評価のあつまった本であって、生徒自身の好尚や評価が加っていない。
事実、この型は人類に知的飛躍をもたらすような逆説や異端、あそびや冒険に対して拒絶反応を示すのである。彼女らは、ノン・フイクションもの、社会科学書・文学書などをよく読む。相当難しいものもよく読むのだ。だが、科学読物やSFの類には敬遠して近寄らない。理由は、知的なあそびが多く、実際的ではないからだ。現実への深い配慮と実際的でないものへの無関心という特徴は、この型の日常にも明瞭に現れている。
自由時間の利用法を見ると、他の型に比較してこの型は手芸・料理に費す時間が格段に高く、「学習努力」も首位をしめる。新聞は各面を平均してよく読む。だが、楽器をいじる比率とスポーツをする比率は最低、新聞・雑誌のファッション・デザイン記事や芸能欄を読む比率も最低である。モラル型が退潮してから、生徒の話題や関心が変わり、急に芸能色を濃くして来たことには、こうした背景があるのである。
現実型の特徴
現実型の本の読み方は、仲々に高級である。他人が読むから、話題の本だからという理由だけで、本を読むことをしない。この型はベストセラーものに最も冷淡なのである。又、「良書」であることも読書の理由にはならない。いや、良書は嫌いと言った方が適当かもしれない。
ジユニア小説にも手を出さず、別掲の20書を例に取れぱ、芥川竜之介の「河童」といった類の文学書を好んで読むのだ。黙って静かにあたりを眺めているが、人間についても本についても鑑識眼は高くて、薄っぺらなものや、糖衣をかぶせて迎合してくるものを冷然と黙殺する。そして内側に蓄えた濃厚な情念を満足させてくれるコッテリしたものをじっと待ちかまえているのだ。
だが、彼女等の本の読み方にはシステムがない。気に入った本や作家にぶつかるのは多くは偶然で、その系統のものをあさり尽してしまうと、もう行き止まりになる。それから、書店・図書館の書架をめぐって、あてどもない巡礼がはじまる。どこかに深くて痛切で、自分の個性にぴったり合った本はないだろうか。自分の渇望を充してくれる本がきっと隠れている筈だ。
この型の生徒達のこうした何時果てるともない模索の旅を見ていると、それだけでこちらも妙に疲れてくるのである。自由時間の利用法では、この型は「ぽんやりしている」が圧倒的に多く、あとはテレビを見るか、手芸をするかである。何かするとしたら、それは坐業的な仕事で、あとは家の中で妊婦のように大儀そうにしている。本当にこの型の生徒は早く「出産」を済ませないといけない。享楽型の特徴
享楽型の生徒は多面的で変化に富んだ本を読む。読書半径という言葉があるとしたら、これが大変広いのだ。当然読書量も他の型より、ぐっと高くなる。調査によれば、この型はジユニア小説や少女マンガを一番早く卒業し(少女マンガは読まなくなるが、マンガはよく読む)、人生論・哲学書・科学読物・時事解説書を次々に読みこなし、聖書のようなものも諸タイプ中最もよく読んでいる。だが、この型が愛好してやまないのは、何と言ってもSFと推理小説であり、逆に毛嫌いして手を出さないのが「嵐ケ丘」などのような濃密深刻な恋愛小説や、複雑多様な現実を刻み込んだ記録文学だ。
享楽型はあらゆる点で、現実型の対極にある。享楽型はSFその他の歯切れよく割り切れた本を愛する。あちこちから、それ自体は単純な素材を集めて来て、自分の手でモザイクのように色どりの鮮やかな世界を合成する。
この型の生徒の日常もキビキビして歯切れがよい。自由時間の利用法では、テレビを見たり、ぼんやりすることが一番少ないのはこの型だ。手芸・料理をする比率に至っては、他の型の十分の一以下。生活のどこにも停滞やもたっきはなく、読書・スポーッその他にフル回転を続けている。この型の特徴を検討して行くと、頭がよく活発な少年のイメージが浮んでくる。しかし、彼女等の問題点もそこにある。要するに、どうにも子供っぽ過ぎるのだ。
十年間の歩み
こうした特徴を持った諸タイプの構成比が、過去の約10年間にどのように変化して来ただろうか。十年前の弥生にはモラル型が70%もいて、他の二つの型を合わせたより多かった。当然、学校の空気は、モラル型(社会型)の項で列挙したような特徴を備え、社会的関心の強い、不正を憎む「良識」派が多かった。
実力テスト時には、監督教師は問題用紙を配布するとサッサと研究室に戻ってしまう。するとテスト終了後、当番が答案を集めて、研究室まで届けに来るのだ。朝のショートの伝達はルーム長が廊下の掲示を見て済ませてくれてあるから、担任はただ教室に顔を出すだけでよい。ルーム長や当番は、まずノソキなとうさんを支えるしっかり者の長女といった風だった。
卒業する迄三年間、生徒に注意がましいことを一言も言わずに済ませた担任もあった。だが、こうしたわが校も、昭和40年代の高度成長期に入ると急速に変化しはじめる。
モラル型は20%近く下降して52%となり、この減少分が現実型と享楽型に半々に流れる。特に勢力を得て来たのが享楽型だった。高校紛争が盛んだった昭和44年頃、校内を引っかき回して教師たちを狼狽させたのは、タイプからすると享楽型に属する全共斗系の才媛達だった。
だが、政治の季節は忽ちにして去り、昭和47年調査の時点ではモラル型は横這いを続け、享楽型に流れていた浮動グループが現実型に再移動するようになった。その結果、現実型が上昇を続け、次第にモラル型に迫る姿勢を示しはじめた。
そしてこの頃には生徒の質的な分化が、かなり進行しはじめていた。三無主義・シラケ時代の到来である。三無主義・シラケの現象は、すべての生徒に及んだ訳ではない。そうなったのは、従来変革について発言していた「エリート」層だけであって、平均的生徒はエリート・グループが沈黙したことに力を得て、かえって発言権を増して勢づいて来たのだ。
先に触れた芸能人志向、あるいは反知性主義・現状肯定主義は平均的生徒の自己表現であり、彼女等はちっともシラケてなんぞいなかったのである。エリートたちは浮動層の支持を得られなくなったことで大衆路線を放棄し、深く静かに潜航して力を養いはじめた。今や片方で少女マンガの全盛、他方で中央公論や世界を愛読する女子中高生の出現という二極化現象が生まれている。現在の勢力分野
今回の調査で、モラル型は遂に首位の座を譲り渡して二位に転落した。首位は一貫して上昇線を辿っていた現実型の握るところとなったが、それよりも注目すべきは一度は後退した享楽型が盛り返して、ほぼ他の二型と肩を並べるまでになったことだ。要約して、天下三分の形勢になったと言っていいだろう。
天下三分の形勢とは、別言すれば主流派なき状況ということである。主流派の存在する集団は、内部規制が強い。主流派は、これに所属するメンバーの同派への帰属競争に支えられており、個人の意識には多数派に属することの安心感と、それとはウラハラな仲間はずれになりはしないかという不安感が隠れている。
反主流の少数派には無論もっと強い不安と緊張がある。だが、集団がその内部に三派を混在させて主流派を欠くなら、集団の個人に及ぼす規制力は一挙に弱まり、人はあちこちの潮流に適当に調子を合わせていれば、安穏に暮して行けるようになる。
現在、どの学級を取っても、結束し.て共通の目標を追求しているようなところはない (と言い切っていいだろう)。昔は授業を抜け出て図書館に来て、一時間泣いて行く生徒もいたが、今ではそんなことをしなければならないようなプレッシャーはどこからもかかって来ない。今の学校では、仲間や教師への失言に気をつけさえしたら、誰でも平穏無事にやって行けるのである。
こうした状況の中で、生徒の質的な分化がいよいよハッキリして来た。自己規制の力を持っている生徒にとっては、集団の規制力が弱まったことは、わが道を一層深化させる上で、むしろプラス条件になる。だが、これには自閉化の危険、井伏鱒二の「山椒魚」の悲劇が待ち受けている。平均的生徒にとって、現在はわが世の春であり、不満があるはずはないと思うのだが、多数派は何時でも要求の多いものである。わが道を歩む少数派の存在が目障りになり、その孤立主義や非同調的態度を攻撃するようになる。
多数派のもう一つの悲劇は自己規制力の不足を集団規制によって代位させようとしても、それが実現出来ないことだ。浮動型の最も強い懸念は、仲間に見棄てられること、みんなから相手にされなくなることだった。ところが自分を受け入れて貰いたくて歩み寄る集団には、依るべき規範もなく、ハッキリした組織もなく、砂粒を寄せ合わせたように不定型なのである。
こうしてモラルもなく、方向も定まらない学校の中では、生徒の一人一人が自らの手で方向をきめ、わが手で志操を正して生きて行くしかない。誰も、個人の面倒を見てくれないのである。自由時間の利用法
従来、本校の生徒達の余暇の使い方には安定した型があった。マルチ選択方式で十項目を選んで貰うと、「テレピを見る」「読書する」が50%内外で同率首位をしめ、第2ランクに「レコードをきく」、「ぼんやりしている」、「楽器をいじる」の三つが30%台で並ぶという形が定着していたのである。
しかし、今回の調査では異変があらわれている。上位のテレビは変らないが、読書とレコードが入れ変っているのだ(表2)。表2 自由時間の利用法
テレビ 51.9% レコード 51.1 スポーツ 9.5 読書 42.9 手芸・料理 18.2 おしゃべり 15.2 学習 7.8 ぼんやりしている 37.2 楽器 24.7 その他 12.6
そして、第2ランクの中から楽器が姿を消している。次に新聞の読み方を調べると、「毎日、新聞を読む」という生徒の比率は七〇%を少し上廻り、毎回調査の結果とほとんど変らないが、「新聞のどの面を読むか」という調査では、政治・社会・経済面から芸能欄・家庭欄に至るまで軒並みに比率が減少しているなかで、スポーツ欄だけが5%ほど上昇しているのである。
こうした数値を見ると、今の生徒に何が新しく加わり、何が失なわれたかが明らかになる。自からスポーッをしたり楽器をいじる代りに、座り込んでテレビを眺め、レコードを聞く生活が中心になってきたのだ。新聞を開いても政治・経済の動向に関心を払うことをやめて、スポーツに注意を向ける。
これは、実は本校だけでなく、現代人全般に見られる変化なのである。我が校の場合、受験体制の浸透という事実も大きいかもしれない。読書率の変化
(表3)は20冊の書物に対する読書率調査の結果である。前回調査と比較して顕著に変ったのは、「火宅の人」から始まって「凍河」に至るベストセラーものの読書率が急減していることだ(表3は省略)。ほかに、読書率の上昇した本は「友情」と「狭き門」、下降したものは、「こころ」「聖書」「河童」である。書店の話では、近頃、ベストセラーものの売れ行きが目立って落ちているそうだが、文庫本はある程度売れているという。「友情」「狭き門」を交庫本的標準的な書物の代表とすれば、本校での読書傾向の変化は、全国的な傾向を反映していると言ってよいだろう。
なお、読書率調査で一年生の本の読み方が、例年になく高い事実も判明した。どの高校図書館に行っても、今年の一年生は本をよく読むという驚きの声が上がっている。本校でも20書に対する読書率を学年別に比較してみると、一年生が一人平均3.9冊二年生が3.1冊、三年生が4.9冊で、二年生よりも一年生の方が多い。20書は各学年共通だから、調査結果は学年が進むにつれて階段状に上昇する筈なのである。さて、読書傾向を前述した三タイプと対照させてみると、各タイプそれぞれの持っていた特異性が一斉に退化乃至鈍化して来ていることが分かる。今回の調査では、モラル型がベストセラーを読まなくなり、現実型が「河童」などを読まなくなり、享楽型が「聖書」を読まなくなった結果として、本の読み方が、次第に標準化し無個性化して来ている。
自由時間の利用法などの生活調査では、「非行動化」という方向で生徒達が画一化していることが注目された。読書傾向調査では、読書内容の標準化という方向で、画一化が進行しているのである。
マクロの視点で約十年にわたってこの調査を続けて来て、次第に気分が沈んで行くのをいかんともしがたい。だが、長期的に見たら、あまり悲観することもないという気もする。「国民的作家」の座が、かっての吉川英治から司馬遼太郎に変って来たような進歩は、女子高校生の間にもある。同時に行った「印象に残った本」の調査結果が(表4)に、「好きな作家」のそれが(表5)に掲げてあるけれども、ここには着実に上昇した読書レベルが歴然と現れている。表4 印象に残った本
1.嵐が丘
2.風と共に去りぬ
3.ジェーン・エア
4.アンネの日記
5.友情
6.罪と罰
7.狭き門
8.赤毛のアン
9.人間失格
10.塩狩峠
表5 好きな作家
1.五木寛之
2.石坂洋次郎
3.夏目漱石
4.安部公房
5.井上ひさし
印象に残った10書のうち7冊までが外国文学である。好きな作家のトップは、昔だったら吉屋信子だったり石坂洋次郎だったりしたのが、五木寛之になっている。「これから読んでみたい本」を調査すると、トップに浮上するのは 「限りなく透明に近いプルー」 だ。10年前にくらべて、表面的な指標では確かに生徒の読書生活は低調になって来ているけれども、人間の綜合的な感覚や真贋を識別する直観のようなものは、再び逆行することのない確実な進歩を続けている。とかくの批難を浴びて来た戦後教育の成果は、こうしたところにあるのである。