二枚目と三枚目 TV視聴者として眺めていると、すでに「若−貴戦争」の決着はついたように思える。表面的には弟が一方的に兄を攻め続けて遺産の全部を手に入れたけれども、視聴者の目には兄が遺産を放棄することにによって、「損して得取れ」「負けるが勝ち」という形での勝利を獲得したというふうにも見えるのだ。世論も兄を支持し、遺産放棄後の各種世論調査では若乃花支持が7割以上になっている。
人間には、持って生まれた役柄というものがあり、弟の貴乃花が二枚目タイプだとすれば、兄の若乃花は三枚目タイプなのだ。
弟は相撲に対して理想化したイメージを抱き、「相撲道の神髄を極める」というようなことを口にする。四股や鉄砲で基本を磨き、土俵に立ったら「不惜身命」、死ぬ気になって相手にぶつかるべきだと考えている。彼は、何についても正論をぶち上げる。自分を完全無欠なエリートだと自認しているのである。
弟が相撲道を美化し、自らを国技の体現者だと胸を張ってみせるのに対して、兄は相撲は芝居や見世物と同じ興行物のひとつに過ぎないと考える。力士は興行物の出演者・エンターティナーなのである。力士は相撲道を実践する求道者・修行者として土俵に上がるのではない。生活費を稼ぐために髷を結いまわしを締めて土俵に上がるのであり、力士のやっていることは、サラリーマンの仕事と何ら変わらないと兄は考える。
兄は相撲も所詮お客あっての商売だから、自分の相撲で観客をよろこばすことができたら本望だと思う。体力勝負では弟にかなわない兄が、こうした路線を選択するのは至極自然なことといっていい。
兄弟の考え方には、それぞれ理があって両方とも間違っていない。
だが、弟はタテマエを唱える二枚目には、ホンネを語る三枚目以上に世の厳しい目が注がれることをこころしていなければならない。三枚目がボロを出してもさほど問題にならないけれども、ふだん立派なことを口にしている二枚目がヘマをすると、途端に周囲の目は冷たくなるのだ。
弟は兄弟二人だけの口論内容がマスコミに流れたのは、兄が漏らしたからだと責める。しかし兄弟決戦の前夜に父が弟に八百長を命じたという話はどうなっているのだろうか。このことを母も兄も知らなかったというから、貴乃花は父との二人だけの秘密の会話を外部に漏らしたことになる。彼は父の過ちをあばいたのである。
TV視聴者は、馬鹿な人間ばかりではない。
弟がテレビで滔々としゃべればしゃべるほど、父の遺産を全部囲い込んで他人には渡すまいとする彼の底意が見え見えになるのだ。二枚目は、自分が二枚目であることをひけらかしてはならないという鉄則がある。二枚目を見る世間の目には、賛美の感情と羨望の感情がないまぜになっている。このうちの羨望の念をあまり強く刺激すると、賛美の感情は反感に変わる。だから、二枚目は常に控えめにしているべきだし、いくら金回りがよくても対世間的には質素にしていなければならない。
ところが貴乃花は、自分を「気高い存在」「崇高な人間」として印象づけようとして自意識過剰な行動に出る。ことごとに昂然としたポーズをとってみせるのだ。貴乃花部屋の稽古場風景を取り上げたテレビを見ていたら、弟子たちの稽古を見守る貴乃花が映っていた。
彼が見ているのは、カメラに写されている自分、ファンの注視の的になっている自分だけであって、弟子の稽古を身を入れて見ているようには思われなかった。
稽古が終わって休憩の場面になったら、彼は真っ白な西洋風のガウンを身にまとい、細巻きの葉巻をひっきりなしに吸っている。愛車はベンツ、自宅は豪邸、こうした生活スタイルを見せつけられたら、もともと素朴な相撲愛好家は彼という人間に距離を感じ始めるだろう。
遺産相続を辞退したことで兄のちゃんこ料理店は繁盛する。これにひきかえ弟が我を張れば張るほど反感を買い貴乃花部屋を支えるサポーターも集まらなくなる。それだけではない、やがては彼は親戚全部を敵に回してしまったように、相撲界からも総スカンを食らうおそれも出てくる。
TV視聴者が貴乃花に望むことは、つまらない二枚目意識を棄て、普通の人に立ち戻って出直すことである。
二人の巫女
先週の日曜日、新聞のテレビ欄を見ていたら、サンデー・プロジェクトという番組に東条英機の孫娘が登場するとあった。これは是非見ておきたかったから新聞に印を付けておいた。
東条家の家族に興味を感じたのは、A級戦犯を靖国神社から分祀する案が浮上し遺族の意向を聴取した際、東条家の遺族だけが反対したため分祀案は日の目を見るにいたらなかったと聞いていたからだ。一体東条家の遺族とは、どんな人々なのだろうか。
戦争責任という点で、一番重い責任を負っているのはやはり東条英機なのである。彼は満州国に駐屯する関東軍の参謀長だった。その頃から、関東軍司令官の板垣征四郎と共に中国の河北省・内蒙古への進出を企て、日中戦争の遠因を作っている。
やがて板垣が中央に呼び戻されて陸軍大臣になると、彼も陸軍次官になり、中国戦線の拡大を計画している。彼は陸軍部内にあって主戦派の筆頭であり、板垣は彼に操られるロボットに過ぎないと噂されていた。
東条は近衛内閣の陸軍大臣になり、さらに木戸幸一の推挙で総理大臣になって日本を太平洋戦争に導いて行った。そして「カミソリ東条」といわれるほどの回転の速い頭脳と異常なほどの勤勉さで、国民を督励して戦争に追い立てた。彼の手になる「戦陣訓」は、多くの兵士と国民に無意味な死を強制し、サイパン島や沖縄における邦人相食む悲劇を生んだ。
この東条の孫娘が出演するサンデープロジェクトを、私はうっかりして見過ごしてしまうところだったのだ。慌ててテレビをつけてみると、孫娘は、といっても既におばあさんなのだが、司会者と一問一答を終えて背後に退くところだった。
背後の席に退く前に、彼女はこんなことを言っていた。
「A級戦犯」なるものはもはや存在しない、なぜなら東京裁判の後で、閣議決定だか議院の議決だかで、戦犯としての扱いを取りやめることになったのだから。そしてこんなことも言っていた。
戦争で被害を受けた国民には(東条の遺族として)謝罪するが、戦争を始めたことを外国から非難されるいわれはない。なぜなら、太平洋戦争は「自衛戦争」だから。この小柄で丸顔のおばあさんは、その昔、ちまちました感じのかわいらしい少女だったにちがいない。小柄で可愛いらしい娘には、時々、気の強い鉄火娘がいるものだ。彼女も、そうした娘の一人で、幾星霜を経た後に言い出したらテコでも動かぬきかん気のばあさんになったのである。
おばあさんが引き下がった後で、番組の次のステージが始まった。
小泉首相らの「歴史認識」問題を巡って中国を糾弾する保守派と、中国容認のリベラル派が論戦を開始したのである。この論戦は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を書いたエズラ・ボーゲルが「今の日本は、右翼的なナショナリズムが強まり、リベラルが萎縮している」といった言葉を裏書きするような内容にになっていた。見ていると中国糾弾派も、東条家のおばあさん同様、太平洋戦争は「自衛戦争」だったと強調していた。そして東京裁判でのパール判事の言葉や、マッカーサーの議会証言などを傍証として、日本はABCD包囲陣の圧迫下にあったから、自衛のために戦争を始めざるを得なかったのだと力説していた。
彼らは、この前提から出発して次のような議論を立てるのだ。──日本国民は自衛のために積極的に戦争に参加したのだから、戦争責任を問うとしたら国民全体が責任者になってしまう。こんなおかしな結論になるのも、太平洋戦争を人道に対する罪として裁いた東京裁判が間違っているからだ。東京裁判こそ諸悪の根源なのである。
こんな暴論が通用すると思っている右派ナショナリストの頭は、どうかしているのである。
彼らは、ABCD包囲陣を日本を包囲し攻撃するための布陣であるかのように考えている。とんでもない話だ。発端は、軍部が南進論を選択してフランス領インドシナ(今のベトナム)に進駐したことにある。ABCD諸国は、日本軍が東南アジアに進出するのではないかと警戒していたところだったから、日本に対する防御線を築こうとした、これがABCD包囲陣といわれるものなのだ(当時、イギリスはマレー半島を、オランダはインドネシアを植民地にしていた)。
大体、「自衛」とは自国を守ることであり、「自衛戦争」とは自国に向けられた攻撃を阻止することを意味する。中国大陸に進出し、更にベトナムを拠点にして東南アジアへの進出をうかがっている日本のどこに、敵から攻撃される危険があったというのか。
日本陸軍は、フランスがヒットラードイツに敗北したのを好機と見て軍をベトナムに進駐させたのだが、これはひどく高いものについた。アメリカが日本への石油・くず鉄・戦略物資の輸出を禁止したのである。石油の輸入を全面的にアメリカに依存していた日本は、アメリカから石油が来なくなれば備蓄しておいた石油で戦うしかなくなる。
日本はアメリカとの関係を改善しようとして、懸命の努力を続けたが、米国との友好関係を回復しようとしたら、ベトナム・中国からの撤兵、三国同盟からの実質的な脱退を約束しなければならないことが明らかになった。
右派ナショナリストは、これを日本に対する米国の攻撃と取るかも知れない。そして日本の真珠湾攻撃をやむを得なかったと強弁するかもしれない。しかし、日本にはアメリカの要求をのんで隠忍自重するという方法もあったのである。
日米開戦ということになれば、未だ準備の整わない相手に対して一二年は優位に立って戦えるけれども、アメリカが体制を整えて逆襲に転じたら、ストックの尽きた日本は太刀打ちできなくなる──これが陸軍・海軍の共通認識だったのだ。東条さえそう考えていたのである。主戦論者の頼みは、ドイツがヨーロッパを制覇しアメリカに圧力を加えてくれるということしかなかった。だが、この時ソ連に攻め込んだドイツ軍はモスクワ前方で阻止され、攻勢から一転して敗北への坂道を転がり落ちつつあったのだった。
日本国内には、元老・重臣がおり、また国民的人気の高い近衛文麿もいて、彼らは皆米国との戦争に反対していた。にもかかわらず、彼らは、東条が「日本陸軍としては、大陸に貴い生命を捧げた幾多の犠牲に対し、絶対に認めることは出来ない」と中国撤兵に反対するのを聞いて尻込みしてしまう。
軍部が「死中に活を拾う」と称して戦争に突っ走るのをストップする力は天皇しか持っていなかった。天皇が勅語を発布して、中国からの撤兵を命じたら、敗戦の悲劇を避けることが出来たのである。そして重臣や近衛には、こういう方向に天皇を誘導する義務があったが、軍部の報復を恐れ、あえて火中の栗を拾うことをしなかったのだった(青年将校たちは、気に入らない政治家を暗殺するのを常套手段にしていた)。
自民党の議員などには、国民全体が太平洋戦争を支持していたと繰り返す者もいる。だが、当時国会議員の多くが軍部の暴走に反対していたことは、斉藤隆夫や浜田国松の反軍演説に議場の拍手が鳴りやまなかったことでも分かるのだ。
しかし軍部は、議員らの作戦批判を天皇の統帥権を侵すものだと押さえ込んでいたから、誰も踏み込んだ反戦論を展開することが出来なかった(明治憲法では、軍隊を動かすのは天皇の専権事項とされている)。
以上述べてきたことは、中学校の教科書にも載っているような初歩的な史実である。ところが、サンデープロジェクトの右派論者は、こうした史実を知らない顔をして太平洋戦争が自衛戦争だったと強弁するのである。
なかでも目についたのは櫻井よしこで、彼女の話を聞いていたら、神懸かりの巫女の言葉を聞いているような気分になった。その顔だちといい、据わった目の輝きといい、呪文をとなえるような口調といい、祭壇を背にして託宣を下す巫女そのままなのだ。邪馬台国の卑弥呼は、多分こうした女性だったに違いない。そういえば、東条家孫娘のおばあさんも巫女を思わせた。日本を戦前に回帰させようとする巫女二人。
櫻井よしこのオハコは、日本軍の中国侵略が話題になると、日中戦争の被害者数を誇張する中国側の姿勢を持ち出して応戦することだ。その数が時間と共にだんだん増えていって、江沢民にいたっては三千万余人が犠牲になったと宣伝している──こう言って彼女は中国を非難する。まるで中国側のこうしたウソ八百を攻撃すれば、日本が中国を侵略した事実を否定できると信じているかのような口ぶりなのだ。
広島の原爆被害者も、最初は数万とされていたが、今では約20万人ということになっている。アメリカ人が、日本の発表にウソが多いという理由で、広島に原爆を落としたこと自体を否定したら彼女は激怒するだろう。
今回のサンデープロジェクトは右派3名に対してリベラル派は2名だった。
TVタックルという番組でも、右派陣営に暴言業者を含む多数の発言者を並べて、リベラル派を攻撃する配置を作っている。右傾化しつつあるTV視聴者は、右翼がリベラルを追いつめて降参させるという番組を見ることを望んでおり、テレビ局は討論番組のゲストを選択するにも、こうした視聴者の期待に応えるような人選をしているらしいのだ。
TVに毎日接している人間にとって、当分憂鬱な季節がつづくようである。(05/7/13)