バラエティー番組拝見(2) 1 私はテレビ人間の一人であるけれども、毎週発表される視聴率ランキングを見るたびに溜息をついてしまう。新聞には、その週のテレビ番組名を視聴率の高い順に20位まで並べてあるのだ。ところが、ニュース番組を除いて、こちらの視聴している番組がランク表に載っていることは、絶えてないのだ。つまり、私は一日の三分の一をテレビを眺めて暮らしていながら、人気番組なるものをほとんど見ていないのである。
そこで、心がけを改めて一ヶ月ほど前から、バラエティー番組を覗いてみることにした。すると、一番多いのは、タレントが内輪話を披露するというふうな番組だった。ところが、見ていてこれほどつまらないものはないのである。
人格未熟なタレントが人気と大金を手にするのだから、その私生活が薄っぺらなものになるのはやむを得ないことかもしれない。しかし、ファンが一番知りたがっているのは、あこがれのタレントの私生活なのである。そこに番組制作者の苦心がある。
司会者はタレントを引き立てるような形に話を持って行こうと苦労し、登場しているタレントから「ほほえましい内緒話」を引き出す。すべてがなれ合いなのである。司会者がその内緒話なるものに大仰に驚いてみせたり、感心したりすればするほど、その話のお寒い内容が浮かび上がってくるのだ。
問題は、人間のありのままの「生きざま」なのである。バラエティー番組の視聴者といえども、求めているものはナマの人間の生存実態であり、人間というものの存在仕方なのだから、タレントの薄っぺらな日常を追いかけることを止めて、無名の人間の虚飾のない生き方を紹介した方がずっと有益なのだ。
「キスだけじゃイヤ」というへんてこな名前を付けたバラエティー番組がある。これは男女関係の悩みを解決する相談番組で、推察するに次のような手順で製作されているらしいのである。
まず相談者を公募して、スタジオ外で悩みを聞く。例えば、女性の相談者から、「恋人が借りてくれたアパートに引っ越したけれど、その恋人は訪ねてきても直ぐ帰ってしまう」というような話を聞き出すのだ。スタッフは、次にその恋人の所に出かけて、彼が恋人のところで長居をしない原因を調べ上げる。そして、スタジオに男女双方を呼び出しておいて、たくさんの観客の見守る前で、男が長居をしない理由を明らかにする。
テレビを見ていたら、男が長居をしない理由は、女を自分が現に住んでいるアパートの向かい合いの部屋に住まわせていたからだった。男は結婚していて、妻とアパートで同居している。たまたま向かい合いの部屋が空いたので、彼は愛人をそこに引っ越させたのだ。
男はこのことを数ヶ月にわたって妻にも愛人にも気づかせなかった。愛人は、お向かいに住んでいる男の妻とはアパート内で時々顔を合わせていたけれども、男が巧妙に立ち回っていたので、男に会ったことは一度もない。
彼がなぜそんな危険なことをしたかといえば、愛人の浮気が心配で、彼女を自分の監視下においておくためだったのだ。何処にでもいる普通の人間が、かくも奇想天外なことを敢えてする。人間というのは、実に端倪すべからざる存在なのである。
人間生活のナマの現実を知らせてくれるという点では、「劇的ビフォーアフター」という家屋改造番組も面白かった。世間には、家が狭いとか、店を廃業したとか、家相を重視したとかの理由で、奇妙にねじれた家で奇妙な暮らし方をしている人々が数多くいる。改造工事によって、そのねじれた家屋が本来の形を取り戻すのをみていると、不思議な感動に襲われる。それは、いじけた人間が更生するのを見たときの喜びに似ている。
劇的ビフォーアフター だが、この番組で気になるのは(この種の番組に共通することではあるけれど)、居並ぶタレントが司会者の詰まらぬ冗談に一斉に笑いだすことなのだ。彼らがその席に呼ばれたのは、コメンテーターとしてではなく、笑い転げることで座を盛り上げるためなのだ。でも、これをあまりやりすぎると視聴者をしらけさせる。
「銭形金太郎」という番組も、人間の多様な存在仕方について教示を与えてくれる。都会には、最低生活をしながらチャンスをうかがっているミュージシャン志望、芸人志望の男女がいる。食うや食わずで生きている彼らを、お笑い芸人が探訪して、その暮らしぶりを面白おかしく伝える、これが番組の内容になっている。
探訪役の芸人は、笑いを取ろうとして無理なはしゃぎ方をする。しかし、ピエロ扱いされている貧しい男女には、深刻な過去を持つ者がいるような気配もあり、角度を変えてそれを掘り下げて行けばシリアスな味わいも出てくる筈なのだ。バラエティー番組は、何でもかんでもお手軽な笑いに変えてしまう点に問題がある。
確かに、問題はそこにあるのだ。
どのバラエティー番組を見ても、登場するメンバーはほとんど変わっていない。こうした番組に呼び集められるのは盛りを過ぎた一昔前の有名タレントや、一流になるには未だ間がある二流の若手タレント、それに目下売り出し中のお笑い芸人たちである。司会役のタレントが、学芸会の小学生みたいにキンキラキンの衣装を着て出てくるところまで似ている。
声をかければ直ぐ集まってくるタレントを即製のセットに坐らせ、彼らに一騒ぎさせて「一丁上がり」とばかりに番組を作り上げる。こうした安上がりで安直な作り方をしても商売になるのだから、テレビ局はこたえられないに違いない。
このようなテレビ局を支えているのが、善良なる視聴者なのだ。
重い日常を引きずりながら生きている日本人は、テレビには軽い笑いを求める。今やすっかり顔なじみになったタレントが、毒にも薬にもならないギャグを連発して束の間の笑いを提供してくれれば、視聴者はそれで満足なのだ。茶の間でバラエティー番組を眺め、アハハと笑っているうちに、みんな難しいことは考えなくなる。これを見ている人間の内面も軽くなるのだ。そして現状肯定的になって、日本のことも世界のことも忘れてしまう。
2 バラエティー番組にも、教養色を加えたものが少しはある。
しかし、それが血液型と性格の問題だったり、怖い病気の話だったりするから、これもお手軽と言うしかない。幼稚園児を血液型別に4グループに分け、課題を解決させる番組をやっていた。そして、その問題解決法の違いを見ながら、血液型別に集められたタレントが、我田引水の口喧嘩をはじめるのである。
そうかと思うと、血液型別の男女の相性をテーマにした番組がある。
驚いたのは、司会役のタレントはもちろんのこと、その場に居並ぶタレントたちが、血液型別の性格特徴を自明の事実として承認していることだった。
A型=神経質で几帳面
B型=自由気まま
O型=おおらかで単純
AB型=二重人格
皆がこういう性格特徴を疑いない事実と決め込んで、各タイプに優劣の序列をつける。それによると、一番好ましいのがA型で次がO型、B型とAB型にはいろいろと問題が多いということになる。
日本人の血液型別比率は、A型・O型・B型・AB型が大体、4:3:2:1になっているそうだから、多数を占めるA型とO型が高評価を受け、少数派のB型・AB型が低い評価を受けるのも当然といえる。この世では、人間評価でも何でも、多数派が一番高く評価されるのだ。
私は戦争中に旧制中学校で、血液型の授業を受けた。この時には輸血をする時に拒否反応を起こす組み合わせはどれか、親の血液型と子供の血液型の関係はどうなっているかなどを学んだだけで、血液型と性格の関連とか、まして血液型の優劣などということは話題にもならなかった。
戦争が終わって結核療養所の手術病棟に入ったら、改めて血液型の検査を受けさせられた。このとき、病棟付きの婦長が、ある患者に「あんたのはAB型だけど、Bの要素が強いAB型だね」と言っているのを聞いた。この中年の婦長がかかる阿呆なことを口にしたのは、彼女の頭には、A型が優秀でB型は劣等という固定観念があったからであり、そして彼女は当該患者と犬猿の仲だったからだ。
昭和40年頃までは、血液型については手術病棟の婦長式の俗説がはびこっている程度だった。それが何時の間にやら、A型は神経質で几帳面、B型は我が儘で気分屋というような話になり、それが絶対視されるようになったのだ。
人間の性格が、血液型で判定できるようなら誰も苦労はしない。にもかかわらず、こうした番組が流行るのは、視聴者が考えることを嫌って、人間を血液型で分類するゲームを楽しむようになったからなのだ。これも軽さを欲する現代人の好みが生んだ番組といえるだろう。
3 バラエティー番組を探索しているうちに、石田純一が愛人のモデルに棄てられるという「事件」が起きた。歌番組や民放のドラマをほとんど見ない私は、バラエティー番組に登場するタレントについては不案内なのだが、石田純一のことはワイドショウでたびたび取り上げられるので少しばかり知っている(昼食の前後に放映されるため、ワイドショウは比較的よく見ている)。
彼は年の若い愛人に棄てられたのに、別に臆するふうもなくいろいろなバラエティー番組に顔を出して、笑顔を振りまいている。もっとも、よく見ると、彼は口をあけて笑いの表情を作っているけれども、開いた口からは声が出ていないし、目にも疲労の影がにじんでいる。「男はつらいね」を実感させるような顔をしているのだ。
その石田純一が細木数子の番組に出るというので、チャンネルを回してみた。細木が石田に訓戒を垂れる番組を見るのは、これで二回目である。
石田と細木 石田は細木から、「あんたは、馬鹿だよ」とか、「そんなことをしたら3年以内に死ぬよ」などとコテンパンにやっつけられながら、愛人との関係を正直に打ち明けていた。
彼は年の若い愛人から「シュークリームを買ってきて」と命じられて、夜更けの街に出て行ったが、店はもう閉まっていた。愛人は手ぶらで戻ってきた石田を、この時には責めなかった。だが、翌日買いに出かけた石田が、又もや手ぶらで帰ってきた時には、「男のくせに甲斐性なし」と怒鳴ったという。石田が「売り切れだったんだよ」と弁解したのに対して、「石田純一の名前を出せばよかったじゃないの」と応じたとは、別のワイドショウで明かされた話である。
石田というのは、とにかく正直な男で、釈明会見の席上で芸能記者に問いつめられ、自宅で愛人から「あっちに行け」と追い払われたことまで打ち明けている。石田の母親というのが、息子に輪をかけたお人好しで、来訪した記者に対して、問題の愛人を褒めあげた上で、別れ話が女の方から持ち出されたことに関連して、「息子の方からでなくて、ようござんしたよ」と語っている。
こういう石田純一をカサにかかって叱りつけるのが細木数子なのだ。この勇敢な女性は、「日常茶飯事」を「ニチジョウチャハンジ」と言い間違えるような誤りをしょっちゅう繰り返しながら、ゲストへの恫喝を続けるのである。これを視聴者が喜んでみているのは、目線を細木と同じにしてゲストを上から見下ろすことができるからだろう。
性格を分類するのに血液型番組に頼り、処世訓を細木数子の番組から得る。なんともお手軽な時代になったものである。
4 さて、私が野暮を承知でバラエティー番組を取り上げたのは、NHKの奮起を促すためなのだ。民間放送は商売だから、儲かると思えば何でもやるし、それをはたからあれこれ言ったところで何の効果もない。
民間放送が安きに流れ、自浄能力を欠いているからこそ、NHKの踏ん張りを期待するのだ。NHKがなすべきことは、まず、民放と競合するような番組をつくることをやめ、「粛々と」良品番組を作り続けることなのである。
以前に、NHKのFM放送がクラシック中心だった放送内容を変えて、民間ラジオ局なみの放送内容にしたことがある。クラシックの愛好者が少ないという理由からだったが、こんな調子でFM局がすべてクラシック音楽を一掃してしまったら、もう本格的なクラシック音楽をラジオで聴くことができなくなる。
公共放送は、利潤追求の民間放送が敬遠するような番組をこそ作るべきなのだ。NHKはクラシックファンの反撃にあって、FM放送の内容を元に戻したけれども、テレビ番組についても視聴率競争や時流追随競争を止め、むしろ視聴率のとれない番組をこそ集中的に作るべきではないか。
芸能番組を最小限に圧縮して、民放が取り上げないようなドキュメンタリー番組・教養番組・ニュース番組を増やすのである。この場合、これらの番組を従来通りのやり方で作っていたのでは、直ぐ、飽きられてしまうから、今より内容を深化させなければならない。
NHKのニュースがつまらないのは、お役所の広報番組のようになってしまっているからだ。鋭利なコメンテーターが、在野の立場からニュースの内容を縦横に切り刻んで行くようにすれば、一般の興味もわいてくる。マスコミの役割は、時の権力の暴走にブレーキをかけることである。有力政治家による放送内容の事前チェックを許しているようでは、困るのである。
ドキュメンタリー番組にしても、もっと時間と金をかけて作らなければいけない。
民放がやっている「劇的ビフォーアフター」のような番組でも、なぜ家のリフォームが必要になったかをリアルに描き、家の改造を決定するまでの家族会議の様子、改造資金の捻出法、施主と業者の打ち合わせの明細などを時間をかけてカメラに納めて行けば、ずっと深みのある番組になるはずだ。民放では、外人花嫁とか子沢山家庭を興味本位に取り上げることが多い。
これなども、対象になった家族の隣家を借り切ってスタッフが半年ほど泊まり込み、四六時中フィルムを回し続けたら、面白い作品になる。NHKの教養番組は、大体、45分内外の時間枠で作られている。歴史番組にしろ科学番組にしろ、これでは中身の薄い番組にならざるを得ない。もっと時間枠を広げ、優秀な解説者を集め、時間と金をたっぷりかけて作ることだ。BSデジタルで放映されているBBCの教養番組と比較すると、NHKのそれが薄味であることは否めないのである。
「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉がある。だが、事、文化について言えば「良貨は悪貨を駆逐する」のだ。NHKが良貨を生産し続ければ、民放も自然にそれに倣うようになる。本当にいい番組は宣伝しなくても、人から愛されるようになるものである。
(05/2/12)