バラエティー番組拝見

私はこれまでビートたけしの「TVタックル」という番組を時々見る程度で、バラエティー番組というものを見たことがなかった。もし「TVタックル」が、バラエティー番組といえないとしたら、私はこれまで一度もバラエティー番組を見ることなしに過ごしていたのである。

最近、これからはバラエティー番組も視聴してみようと思うようになった。その理由に「TVタックル」を見る気がしなくなったという事情がある。

この番組に田嶋陽子が出ていた頃は、右のハマコーに対するに左の田嶋陽子という組み合わせで、何となく左右のバランスがとれていたのだが、田島が抜けて三宅なる政治評論家が加わるようになってから、まるで右派メンバーの集会所みたいになってしまったのだ。

ハマコーは、この番組で小泉首相に零点をつけた評論家に向かって、「日本を出て行け」と大声で叱りつけている。三宅はブッシュの尻馬に乗って「あんなものは、屁みたいなもんですよ」と国連を馬鹿にしてみせた。二人ともウルトラ保守の立場から、リベラル陣営の学者・政治家を口から出任せといった調子で怒鳴りあげることを仕事にしている。「TVタックル」の売りは、あちこちから政治家・評論家を集めてきて、闘鶏式の蹴りあいをさせる点にあったが、その闘鶏大相撲を右派側にハマコー、三宅という横綱級の暴言業者を並べ、反対側にオーソドックスな理論家を並べるという配置にしたのでは、相撲にならないのである。

この二人が重用されるのは、彼らには愛嬌があって憎めないという「長所」があるからだろう。だが、彼らは「下に向かって威張り、上に対して卑屈」という定式通りの人間なのである(下に向かって凄んでみせるハマコーが、金丸信の前で平身低頭していたことは、今も語り草になっている)。

私は、ハマコーがラスベガスで作った億単位の借金を、悪名高い政商に頼んで支払ってもらったことなどを非難しているのではない。強者に対するのと弱者に対するとでは、手のひらを返したように態度を変える、その人間的な卑しさを問題にしているのだ。三宅のことはよく知らないけれども、彼が虎の威を借りる狐そのまま、番組で強者におもねる発言を繰り返しているところをみれば、彼もハマコーと似たような男であることは明らかだろう。

「TVタックル」に愛想を尽かした私は、別のバラエティー番組を探さなければならない。そのとき頭に浮かんできたのは、「視聴率の女王」といわれる細木数子の番組と、PTAが最悪番組としてやり玉にあげている「ロンドン・ハーツ」の二つだった。

これまでの細木数子に対する私の印象は、すこぶる悪い。彼女もまた、強者と弱者に対しては態度をころりと変える事大主義者だと思われたからだ。細木は占いの勉強のために中国の古典を少しかじり、国内の漢学者にどんな人物がいるか頭に入れた。そして、安岡正篤に接近し、死を翌年に控えた八十何歳の安岡老人と強引に結婚してしまうのだ。

安岡正篤は陽明学者である。学者としてはそれほどの業績を残していないけれども、政財界の有力者と繋がりがあり、歴代の首相から師父と仰がれている有名な人物だった。細木が安岡に目をつけたのは、このカリスマ性に対してだった。彼女はあるいは、本当に瀕死の安岡を愛していたかも知れないが、その意識下にあったのは虎の威を借りる狐の心理だったことに間違いないだろう。

その細木数子が、テレビの番組をいくつか持ち、今や人気絶頂だというのである。ためしに、某日、彼女が出ている番組にチャンネルを回したら、でっぷり太って貫禄を増した細木が、以前に「不倫は文化だ」と放言した中年の俳優を相手に何やら教訓を垂れていた。

細木とその不倫俳優を囲んで、男女のタレントがずらりと顔をそろえて「並び大名」の役を演じ、それをまた見学にやって来た観客が見守っている。司会をつとめる芸人や「並び大名」が、細木を「先生、先生」といって盛んに持ち上げている。細木は余裕綽々、ウワ手に回って何やら曰くありげなご託宣を下すのである。

「私はねえ、泥棒に数十億円の宝石を盗られたことがあるんだよ」と細木先生は、相変わらず、とてつもない話を持ち出して皆を煙に巻いていた。なるほど、その指には、これ見よがしに馬鹿でかい指輪がはまっている。すぐに底が割れてるようないい加減な話なのに、並び大名も観客もみんな細木先生のご高説を熱心に拝聴している。日本人のお人好しには驚嘆せざるを得ない。「オレオレ詐欺」が流行するわけも、よく理解できるのである。

細木数子の毒気に当てられて、早々にチャンネルを切り替える。今度は、PTAからワースト1の折り紙をつけられた「ロンドンハーツ」を視聴することにする。

すると、「格付けしあう女たち」というイベントをやっていた。
スタジオには、ひな壇が作られそこに10人の女性タレントが座っている。この10人のうちの一人がひな壇から降りて、司会者二人と並んで立ち、壇上の仲間たちをランク付けするのである。

何について格付けするかといえば、「男が一番キスしたがる女」とか「穴のあいている靴下をはいている女」というようなテーマについてなのだ。つまり、そこに集まった女たちを性的魅力のある順に、あるいはだらしない順に1番から10番まで序列をつけるのである。性的魅力が最低と格付けされたタレントは、当然、そのような格付けをした相手に怒りをぶつける。

これは、いろいろな題目について相互に格付けをさせ、タレントに喧嘩させて楽しむ番組なのだ。その点で、出演者に蹴りあいをさせる「TVタックル」と同じ趣向の闘鶏番組なのである。鶏舎のなかでは、特定の一羽が集中的に攻撃されることが多い。この格付けゲームでは、さとう珠緒というタレントがその犠牲の鶏になっていた。

民放のドラマや歌番組を見ることのない私は、ひな壇のタレントが誰なのかさっぱり分からなかったが、さとう珠緒の名前だけは知っていた。彼女が女性から最も嫌われているタレントとして新聞に名前があがっていたからだ。

さとう珠緒は30代(?)のタレントであるにもかかわらず、中学一年の女の子のようなシナを作る。女性から見れば、さとう珠緒がいい年をして少女のような仕草で男に甘えたり媚びたりして、しかもそれがなかなか効果的なので腹が立つのだ。

これら評判のバラエティー番組を見て感じたことは、視聴者が漫才式の構造を持った笑い番組を愛しているらしいということだった。漫才はボケとツッコミに別れていて、阿呆役のボケに対して攻撃役のツッコミが無理無体な攻撃を仕掛けることで成り立っている。

ハマコーや三宅がリベラル派に対して暴言を浴びせかけるのは、二人が自分の仕事は漫才のツッコミ役にあると感じているからだろうし、細木数子がタレントを相手に「ズバリ」と欠点を指摘するのも、意識してツッコミ役を演じているからだろう。格付けゲームで犠牲の鶏になったさとう珠緒は、さしずめボケ役である。ボケ役としてのさとう珠緒の演技は、なかなか堂に入ったものなのである。

人間は、受け身の観客や視聴者になると、一挙に精神年齢が低下して幼児的な笑いを求め、コミカルなパフォーマンスを愛するようになる。

大相撲の本場所で、高見盛が力んでみせると観客はドッと喝采する。飽きもせず、何時でも同じように喝采するのである。アババとあやしてやると、何時でも同じように喜ぶ赤ん坊の反応と酷似している。以前にも水戸泉という巨漢力士がいて、土俵上で大量の塩をたかだかと振りまいて、その都度観客を喜ばせていた。

水戸泉と高見盛が観客に愛されるのは、そのパフォーマンスだけでなく、裏も表もない単純な性格のためだった。水戸泉は殊勲の星を挙げて引き上げてくるとき、満面に笑いを浮かべ小走りになった。高見盛も勝って引き上げるときには胸を張り、負けて引き上げるときにはしょんぼりして、感情をそのまま態度に現している。

ハマコー・三宅・細木なども、自分の旧悪はコロリと忘れ、居丈高に相手を責める子供っぽいところが、幼児化した視聴者に愛されているのかも知れない。まあ、話は「一億総白痴化」にはげむテレビのことである。目くじらを立てず、こちらも白痴の一人になってアハハと笑っていればいいのである。

                (04/10/29)

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