無政府主義者トルストイ

先日のこと、書架の隅に見慣れない文庫本があることに気づいた。表紙も装丁も、これまでに見たことのない文庫本で、奥付を調べると創芸社刊行となっている。この出版社の名前も聞いたことがない。題名は「トルストイ」となっていて、伝記作者として有名なツヴァイクの書いたものを桜井成夫が訳した本であった。

この本を何時何処で手に入れたのか記憶がなかったが、ツヴァイクの著した伝記という点に興味を感じた。自室に持ち帰って読んでみると、昭和27年発行の年代物の文庫本で紙質も悪く、ページはすっかり変色している。その上、活字も小さい。しかし、読み始めるとツヴァイクの伝記物はやはり面白かった。

創芸社版の文庫本

変色した紙面

ツヴァイクの書く伝記は、どれも劇的な仕掛けがあって、読者を飽きさせないのだ。この本でも彼はトルストイが富と名声に恵まれ、幸福の絶頂にありながら、突如死の恐怖に襲われて不幸のどん底に落ちる様子を活写して行くのである。

ツヴァイクは、トルストイが恐怖するさまをトルストイ自身の著書からも引用している。


<自分は寝ようとする。だが、横になるやいなや、恐怖の念に襲われて、どうにもこうにも起きあがらずにはいられない。それは、嘔吐をする前に感ずるような一種の胸苦Lさで、何かが、自分の生命を粉砕するのだが、さりとてそれを完全に破壊するわけでもない。もう一度寝ようとするが、恐怖の影が赤くまた白く、依然としてそこにあるのだ。何かが、自分の存在を引き裂くのだ>

この魂を凍らせるような恐怖は、トルストイが「戦争と平和」を書き上げた後に襲来して、それ以後の著作の内容を一変させてしまうのである。――私は読みながら、ツヴァイクは、例によって話を面白くしすぎているのではないかと疑いはじめ、この本を読むのを中断して、別の本と読み比べてみようと思い立った。トルストイについて書かれた本が、まだ他にも自宅にある筈だったからだ。

私は、大体において世の読書家と同じような本の読み方をして来ている。日本文学についていえば、最初夏目漱石から出発し、やがて漱石に飽き足らなくなって森鴎外に移るが、鴎外を読み尽くすと、また、漱石に戻るというような読み方をしてきたのだ。ロシア文学の場合は、はじめトルストイから出発し、やがてドストエフスキーに移り、そして再びトルストイに戻るという読み方である。

ドストエフスキーに熱中していた若い頃は、トルストイなどヒマラヤの山頂から見下ろす麓の里山のように見えたものだ。だが、人生経験を積むにつれて、足を地に付けて歩むトルストイの方に、より深い魅力を感じるようになった。私には、トルストイを再評価しはじめたとき、トルストイの評伝を買ってきて読んだ記憶があるのである。この時、ほかにもビリューコフの「トルストイ伝」二巻も購入したのだった(この方は、あまりに浩瀚な大著なので、まだ手つかずの状態で書架に放置してある)。

しかし、ここに不思議なことがあるのだ。以前にトルストイの評伝を読んだのに、ツヴァイクが指摘するトルストイの恐怖体験に関する挿話を記憶していないのである。トルストイが、死の恐怖について書いている文章を読んだ記憶はある。だが、それは一般論として書かれたもので、彼の人生を一変させたような個人的体験として書かれたものではなかった。

とにかく私は、以前に読んだトルストイの評伝を是非とも読み返さなければならぬと思ったのだ。たが、その本は何処にも見あたらなかった。そのうちに、ふと講談社の出している「人類の知的遺産」シリーズのなかにトルストイを取り上げたものがあるかもしれないと思い当たった。調べてみると、「人類の遺産」シリーズのなかに、トルストイを取り上げた一冊があったのである。早速、書架から抜き出して読みはじめる。

川端香男里の著したその本を買ったきりで、まだ読んだことがないと思いこんで読み始めたのだが、その本の要所要所に赤鉛筆で線が引いてあるのだ。ページを繰って行くと、赤線は本の最後まで切れ目なく続いている。してみると、私はこれを以前にかなり熱心に読み、最後までちゃんと読み通しているのである。だが、呆れたことに、赤線と書き込みという歴然たる証拠が目の前にあるのに、私にはこの本を読んだという記憶が皆目なかった。本の内容も覚えていない。

本の中には、トルストイが両親と早くに死別したため、親戚に預けられて成長したというようなことが書かれているのに、それも覚えていない。トルストイが家出をして田舎の駅舎で死ぬまでの波乱に充ちた生涯についても具体的に書かれているのに、それらについての記憶も残っていない。この本についての記憶は、何から何まで、まるで拭き消したように完全に私の記憶から消失しているのである。

しかも、この本の中には、自分にとって実に重要な挿話がいくつも書かれているのだった。だからこそ赤鉛筆の跡が縦横に残っているのである。にもかかわらず、この本を読んだという記憶がひとかけらも残っていない・・・・・。

トルストイは無抵抗主義者だった。ガンジーが無抵抗主義を武器としてイギリスと戦ったのも、トルストイの影響をうけたからだった。彼はまた、アナーキストでもあった。国家とギリシャ正教をきっぱりと否認したため、彼の著書の多くはロシア国内で出版することを禁じられていたのである。彼は聖書的無政府主義者であり、老子的無政府主義者だった。トルストイは、愚かな私が手探りで求めていた生活指針を、一歩先んじて探り当てて、本にして万人に公開していたのである。彼は、私の先導者だったのだ。

以前にこの本を読んだとき、私はトルストイが自分にとって師父のような存在であることを知った筈だった。それなのに、私はけろりとトルストイのことを忘れていたのである。

川端香男里の「トルストイ」によると、トルストイが国家を否認して無政府主義者になったのは西欧視察の旅に出て、パリで、ギロチンによる公開処刑を見てショックを受けたからだった。パリに滞在していたトルストイは、あまり深い考えもなく、単なる好奇心で殺人犯が死刑になるところを見物に出かけたのだ。著者は、この日のトルストイの日記を引用している。

<肥った、白い、健康な首と胸。福音書に接吻。それから死。何というナンセンス!>

彼はギロチンで生首を切り落とす悲惨な光景を見て、文明や進歩に疑問を抱き、更にはその背後にある国家そのものを否定するようになったのである。

ロシアに帰国したトルストイは、「兵卒シャブーニン事件」の裁判が始まると、シャブーニンの弁護を引き受けている。シャブーニンは上官を殴ったかどで軍事裁判にかけられ、死刑を求刑されていた。トルストイによる弁護の甲斐もなく、兵卒は軍紀の保持を優先する軍によって処刑されている。

ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺されたときにも、トルストイは次期の皇帝アレクサンドル三世に嘆願書を書いて、死刑を免除するように求めた。だが、これも効果がなかった。これ以後、トルストイは死刑反対論者になるのである。

トルストイがアナーキストになる契機を作ったこの事実をも、私は忘れてしまっていた。

なぜ、これらの重要な事実を忘れてしまったのだろうか。答えは簡単だった。

私はトルストイの作品を再評価するようになったといいながら、実は、彼の作品をあまり読んでいなかったのだ。学生時代に父親の所蔵していたトルストイ全集を読みはしたが、これは全巻を揃えたものではなく、「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」を中心にした部分的なものでしかなかった。しかも、父はこれを大正年代に購入したきり一度も読んだことがないらしく、本のページが繋がったままになっていたから、ナイフでページを切り離しながら読んで行ったのだ。

トルストイを再評価するという以上は、前期の長編小説だけでなく、後期の宗教論集や短編小説をこそ読んでいなければならなかった。それをしないで、私が「トルストイは無抵抗論者で聖書的無政府主義者だった」などといったところで、それらは所詮机上の知識にすぎなかったのである。彼のことを忘れてしまうのは当然のことだった。

私は漱石全集と鴎外全集を所持した上で、漱石と鴎外の比較を試みて来た。だが、私はドストエフスキー全集を持っているが、トルストイ全集を持っていない状態で、トルストイの方が上だなどと考えていたのだ。

老い先が短くなったけれども、少なくともトルストイ後期の作品群だけは、読んでおかねばなるまいなと考えている。それが済んでまだ余力があったら、ビリューコフの「トルストイ伝」も読むのだ。何だか、少し楽しみが増えたような気がする。