国家主義の牙城で

中学を卒業して、私は文部省直轄の東京高等師範学校(筑波大の前身)に入学した。世に教育の総本山と呼ばれていた学校である。この学校を志望したのは、給費制度があって学費がほとんどいらなかった上に、文科系の学校で入営延期の特典があるのはここだけだったからだ。

新入生は全員、桐花寮という学生寮に入る規約であった。
昭和十九年四月、入学式が済んだ後、本館の一室で、特にこの学校に下賜されたという教育勅語の原本を見せられた。

学生達は廊下に列を作って待ち、一人ずつ入室してガラスのケースにおさめられた勅語を「拝観」する。ガラスケースの両脇には、二人の助教授が秀才らしい澄んだ眼をして椅子に坐り、勅語を護持していた。


順番が来て、私はガラスケースに近寄って行った。私は明治天皇直筆の「睦仁」という署名を眺めた。一礼して顔をあげた時に、私は手形を押したようにはっきりと自分の顔に薄笑いか浮んでいるのを感じた。右側に坐っている助教授が、これに気がついて咎めるような目付きをした。


「薄笑い」、これは戦勝祈願のための神社参拝とか皇居遙拝とかの愚劣な「物神崇拝」を強要された際に、私の側に起こる習慣的な反応であった。中学三年以来、「天皇制絶対主義」に対する私の嫌悪は抜きさしならぬところまで深まっていたのである。

だが、その感情を裏世界でしか表明できないとしたら、私は人前に出るときには「仮面」をかぶらなければならない。薄笑いは仮面の代りに内部をか<す遮蔽幕のはたらきをしているのである。


授業がはじまり、所定の科目の講議を受けることになった。学校の教授には地味な感じのする学者風の人物が多かった。だが、私の専攻する倫理・哲学分野の教授達は、九割方頭が狂っていた。この学校の倫理学者の大半は、学界の最右翼を形成する保守派に属し、荒唐無稽な国家主義倫理学を樹立することに精出していたのだ。

軍人や「愛国者」を嫌悪していた私が、皮肉なことに国家主義の牙城のような学校に入学し、右翼思想で凝り固まった学部で4年間を過ごすことになったのだ。

教授たちの多くは、元来ドイツ観念論の専門家であった。だから天皇制や万世一系の国体を正当化するに当って、詔勅の道義性だの日本精神の超越的根拠だのと正気の沙汰とは思えないタワ言をいい出すのである。


私達のクラス担任になった助教授は、恐ろしく清廉潔白な若手倫理学者だった。後になって勤労動員でクラスが工場に動員された時、彼は私達と一緒に工場の寮に泊りこんだ。最初の夜、彼はクラスの全員を一室に集めてキッパリと宣言した。
「私は、自分自身でできないことを諸君に要求いたしません」


次の朝から彼は率先して洗面所の掃除をはじめた。彼は寮にいる間、一度も自分の言葉を裏切らなかった。ところが、こういう「良心的」な学者の書く本の内容ときたら、その徹底的に蒙昧な点で駄菓子屋の老婆を凌駕しているのである。

彼はドイツ批判哲学の整理枠で日本精神を正当化するのは、信仰を科学用語で説明するようなものだと考え、独自の論理を発明した。「随順」の論理。彼は自身の主著である「随順の倫理」という本を教科書に指定し、これを評釈するという形で講議を進めた。

私は助教授への抵抗の証として、最後までこの本を買わずに通した。
同じ教室の学生達は、これらの講議を黙々とノートに筆記していた。私には級友の気持が、よ<わからなかった。彼らは、自らの思考を仮死状態に置き、知性の仮死したあとの空虚を、肥大化させた情緒によって埋めようとしているように見えた。

彼らは好んで万葉集・古事記・新古今集のたぐいを読み、幕末の水戸浪士や二・二六事件の青年将校と情緒的に一体化し、それらを拠点として逆に一切の合理的なものを全滅させる戦いに打って出るのだ。

人は、自分の求めていたものを奪われると、残された僅かなものまで抹殺してしまうものである。当時の青年の共通点は、日本浪漫派や亀井勝一郎などの、歌謡曲一歩手前といった美文を愛好することであった。

亀井勝一郎は石燈籠だけを残してすべてが焼け失せた空襲被害地に立ち、そこにさす月光の美しさについて書いていた。それは子を取られて半狂乱になった二十日ネズミが残った子まで噛み殺し、スッカラカンになった巣箱を眺めて、ああ、これが本来の美しさだと言っているようなものだった。

私は友人達の読んでいるこれら著作家の文章を目にするたびに、ただ、ただ、唖然とするばかりだった。


私は「ノアの箱舟」の中で、同胞が日一日、正気を失って行<のを眺めていた。この日本の現実を私はどのようにして自分に図解してみせたらよいであろうか。根源的にはマルクスの理論によるべきだという気がした。そして、本郷の古本屋街を歩けば戦前の改造社版経済学全集が端本で売られていること、それらを繋ぎ合わせて読めばちゃんとした理論構成ができるであろうことを私は知っていた。

だが、必要なのは「自家用」の理論であり認識であった。その為なら、手近にある読み慣れた本から取って来た論理を使って、単純なまとまりをもった理論を形成すればよいのだ。

上京して寮に入ったばかりの私が読んでいたのは、フランスの文学史家テーヌの「イギリス文学史」「フランス文学史」であった。テーヌは各国の文学の特性を、それぞれの国家の風土的な条件、そこから馴致された各国民特有の感受性によって説明していた。彼はイギリスに侵入したノルマン人の軽快な戦い振りと、これを迎え撃つアングロサクソン人の鈍重で融通のきかぬ戦い方を対照的に描いている。この戦闘法の相違を生み出したのは、結局は彼らを育てて来た風土にあるとテーヌはいうのだ。


私はテーヌの簡明な理論を真似て、日本の「国体」や文化を、日本独特の風土から説明する試みに着手した。そして日本軍の戦斗法はアングロサクソン人のそれと同じであり、日本の「国体」はニューギニア土人の習俗と同じであって、これらは歴史的風土的条件によって馴致された半ば宿命的なものだから、自分としてはさしあたり傍観しているしかないという「理論」を作製した。


「日本国民」と私の関係は、家族の中にある下宿人といった風のものだった。寮や教室の仲間と私が共有している感情は一つもなかった。友人達は私を胡散臭い目つきで眺め、私に寄せられる最大限に好意的な評価も、「君は超然としていられて結構だな」であり、これには問責に近い調子がこめられていた。

真理は力によらず自己を実現する

夏休後、私は上野図書館に通うようになった。
学校の講義が済んでも寮には帰らず、そのまま都電に乗って上野へ廻るのである。

学童疎開以後の上野公園はすっかりさびれて、昼間、園内の主要路を歩いていても行き合う人も稀なほどになっていた。

樹々の茂みを貫いて、時折、動物園に飼われている水鳥の鳴き声が響いてくるだけで、公園全体が田舎の森のように静まり返っているのである。


図書館の内部も閑散たるものだった。一度、入館中に空襲警報が出たので、退避所にあてられた地下室に降りて行ってみると、入館者は私のほかに三人しかいなかった。

私は、ここで河合栄次郎選集や思想書を読んだ。河合栄次郎はマルクス主義を批判するという名目の下に、かなり同情的な態度でマルクスの理論を紹介していた。私はノートにその要旨をメモした。マルクス主義を頭において眺めると、戦争の本質が手に取るようにはっきり解った。

私は、この時知った「自由とは洞察された必然である」というヘーゲルの美しい言葉を長い間忘れなかった。


上野図書館に通うようになってニカ月ほどした頃、翻訳書で「力をもって真理を強制する必要はない。真理は自らを実現するために力を必要としない唯一の存在なのである」という言葉を読んだ。私はこの言葉を目にして雷に打たれたような衝撃を受けた。啓示といっていいような解放感を感じたのである。


私は机上に本をひろげたまま、津波のように胸にこみ上げてくる解放感を味っていた。「自己実現する真理」という観念が、ボーリングの錐のように意識の底に穴をあけたのだ。そして私がこれまで知らずに育てて来たものを試掘中の原油のように自噴させたのである。中学三年以来、私が意識下でひそかに育んできたのは真理に対する信頼感だったのだ。

私はこの瞬間に私の裏側にいたもう一人の自分と出会ったのである。
私はがらんとした閲覧室の一隅から、細長いガラス窓を適して隣りの音楽学校の構内にしげる樹々を眺めた。さっきから、ピアノを練習する物憂げな音が単調に聞えている。それを耳にしながら私は、そうだ、今、目前で行なわれているこの馬鹿げたこともそう長くは続かない、戦争はいずれ終るのだと思った。


「戦争はいずれ終わる」
私は、自分の下した断定的な判断に圧倒されて身動きできなかった。戦争は終る。真理が戦争を終結させるのだ、そう心の中でつぶやいた時に、もう一度痛烈なよろこびが私の全身を走り抜けた。


私は、現在の自分を包みこんでいる状況を、局地的・過度的な状況に過ぎないと大観することによって、それを乗り超えたのである。私は世界を一望の下におさめたのだ。


世界の内部には、暗流や逆流があり蒙昧や愚劣がはびこるが、それは局地的な現象に過ぎないのだ。ある国家に邪悪な権力が出現し、国内のあらゆる真実の声を封殺してしまうことも起り得る。だが、その国は、その結果として世界全体と敵対することになる。政治弾圧によって国内の反対派を一掃してしまえば、政府は自己を手直しする手段を失って、その錯誤は決定的なものになるからだ。


世界は真理実現の舞台なのである。諸民族、諸国家の多様な力がぶつかる十字路である世界、この世界では真理以外の何物もあらわれることはない。私は瞼の裏に、広大な世界の隅々まで真理の光が行き及んで行く光景をまざまざと見た。幕を切って落したように私の目の前に新しい世界が出現した。


私が帰途についたのは、夕暮れまでに末だ少し間のある時刻だった。先程のよろこびは末だ余熱のように身内に残っていた。公園の坂をおりるあたりまで来ると、前方の上野広小路交差点を通行人がかたまって横断する光景が見えはじめた。

交差点のへんには斜陽が当っているが、その向うは日蔭の中にある。坂の中途から、広小路を横切る豆粒のような通行人を眺める感じと、世界史を悟性の高みから観望する感じが入りまじり、私は刹那的に超越の感覚を味った。それは上京してから、私が知った最も幸福な瞬間であった。

M講師と中国人留学生

週に二時間、国法概論という講座を担当しているM講師は、私の鑑賞に耐える人物であった。これは実際人を食った男で、彼の講議案は「桜咲く、日本の国の法律は」と言った風の七五調で綴られた、こちらでノートを取る気もしないほど馬鹿げたしろものであった。従って、彼の講議はすこぶる不人気だった。

彼はぬけぬけとその珍妙な草稿を読み上げながら、その合間に、講議の補足とも雑談ともっかぬ調子で、痛烈な時事批判をさしはさんで行くのである。東条英機は卑劣で小心な御殿女中同然の人間として戯面化され、挙国一致を国民に要求しておきながら、陸軍と海軍がどれだけ下劣な内輪もめを繰り返しているかという内情があばかれた。

彼が本当に喋りたかったのはこうしたことで、国法概論など本当はどうでもよかったのである。辛辣の度が過ぎて学生達がいぶかるような視線を彼に向けはじめたと知ると、M講師はするりと講義に戻り、又「桜咲<」とやりはじめる。

喰えない男であった。しかも彼は文部省教学官という肩書きを持つ、れっきとした政府の役人なのである。私はほとんど感嘆の目差でM講師の若禿の頭や、ロイド眼鏡の下の敏捷に動くまるい目を眺めた。

もう一人興味のある人物は、同じ教室で学んでいる中国人留学生の朱定裕であった。定員二十名の私達のクラスには、アジアの諸地域から五・六人の留学生が来ていた。満洲国出身の四人は、何時も同じところに囲っていたが、朱定裕は彼らとは口をきかす、少し離れた位置に坐っていた。

満洲人学生の最年長者は結婚して妻子のある三十恰好の男で、私達の中から目につ<学生を選んで食事に招いたり「満洲国に<れば、あなた方はいいポストにつけます」と如才なく大陸行きを勧めたりしていた。


朱定裕の方は、そんな風に人に取り入って<ることはなかった。さすがに大国の民だと思わせるのびのびした人柄を持ち、立居振舞に屈託がない。彼は誰とでも分けへだてな<口をきいた。私も彼と軍事教練の休憩時間や昼休みに校庭で何度か話し合った。

彼と話をしてみると、すぐこの若者の頭のよさや気立てのよさがわかるのだった。朱定裕が自ら告げた素性はこうである。彼は日中戦争がはじまる前、首都南京近くの中学校に学んでいた。

日本軍が南京を占領し、彼の住んでいる町を支配するようになると、学友達は次々に戦線をくぐり抜けて向う側に渡り、抗日軍に加って行ったが、彼は動かなかった。数年して彼は日本軍の宣撫工作に応じて日本に渡る決意をかためた。そして、日本政府が用意して<れた筋書きに従って東京にやって来て、この学校に入学したのである。


朱定裕はこうした話をしながら、抗日軍に加わった学友達の行動を全面的に肯定していることを隠さなかった。すると、仲間と袂を分って日本にやって来た彼自身の「裏切り行為」はどうなるのであろうか。彼の性格には、肝腎の一点で不可解なところがあるのだった。

「日本人も戦争に不満持っているでしょう」と朱定裕が、ある日言った「わたくし、シゲンヘイが減って来たと聞きました」
私にはシゲンヘイという意味がわからなかった。彼は校庭の草の穂を抜き取って地面に字を書いて見せた。「志願兵」のことであった。

この男は恐らく、反軍的な宣伝文書を読むか、反日的な留学生同士の会話を通して、日本人の間に厭戦気分が濃くなって来たことを知らされたに違いない。


私は自分と同じように、戦争の終結を予期している人間のあること、ほぼ自分と同じ内面構造をもった人間が真近にいることを知った。だが、自分と同じ人間を見るのは、何かしら不快な気分のするものであった。


私の目に映る朱は、他人の舟に乗り込んで、舟内の誰よりものんびりと舟旅を楽しんでいる無賃乗客のような人物であった。彼は日本に、ただ勉強するためにだけやって来た。彼には日本政府の「好意」に応える心算などはじめからありはしないのだ。私は朱定裕の犀のように強固な精神に脱帽せざるを得ない。しかし、同時に私は彼の行動に危惧と疑問を感じないではいられなかった。


十月にはじまったアメリカ軍のレイテ島攻撃は十二月に完了し、米軍は翌年の昭和二十年一月からルソン島攻撃を開始した。アメリカ軍がルソン島に上陸すると、現地軍司令宮山下奉文大将は「敵は腹中に入れり」と豪語した。おびきよせた米軍を袋のネズミにしてやるという意味である。

寮の自習室でこの新聞記事を読んだ同室の学生が
「山下奉文はさすがに大物だなあ」
と感心したように言った。彼はルソン島に上陸した米軍が大打撃をこうむるだろうことを疑っていないようだった。そのうちに大逆転があると信じている日本人も多く、この学生もその一人だったのである。


しかし、大半の学生達は、破滅が迫って来たことを肌身に感じはじめていた。一月の下旬になると、夜の寮内のあちこちの部屋で、ガラス窓を染めて赤い炎が見えた。寒さを凌ぐために寝室の天井板をはがして、備えつけの火鉢で焚いているのである。それを見ると、いよいよもうおしまいだなという感じが強くした。


私は上野図書館で、霊感を受けたように戦争も終るという事実に思い至った。そして、今や敗戦は必死であった。だが私には戦争終結の具体的な形態が思い浮ばなかった。軍部は国中をめちゃめちゃにするまで戦い続け、政府機構が崩壊してしまったあとで、ようやく戦争は終るだろうと推
測しただけだった。


三月になると、理科系の学生を除いた一年生にも勤労動員令が出て、私達のクラスは蒲田区の鋳造工場で働<ことになった。私達は学校の寮を出て、工場の寮に移った。

そこで私達は白昼、目の前に焼夷弾の雨が降るのを目撃した。誰も驚<者はなかった。空襲が終ると、消火する者もないまま、空しく燃え続ける民家の横を通って、私達は工場に出勤した。


この時期の私は、不思議な位平静な気持で、毎日を送っていた。もう本は読まなかった。上野図書館での開悟以来、私は「世界」と「国家」の対立という図式で戦争を眺めるようになり、それに伴って観想の明るさとでもいうべきものの中に座して日を送っていたのだ。

「世界」は、雲霧に蔽われた大気圏の上方で、いつも澄明に晴れている成層闇のようなものであった。国家がいくら国民を暗黒の中に置こうとしても、雲霧はいつか晴れて行く。狂信は必ず醒めるのである。大きな必然にすべてをゆだね、人間性を信頼し、静かに真理の開顕して行<さまを見守っていればよい。


私はいずれ犬死をするであろうが、そういう個人の生死を超えて、あらわれるべきものは必ずあらわれる。自分個人の運命は論ずるに足りない。私は死に急ぐ仲間達へのつき合いとして死んで行<のである。訳もわからずに戦い続ける日本国民に殉じて、進行中の大量死に参加するのだ。

師範系の学校に与えられていた入営延期の特典もなくなって、徴兵年令に達していた級友達は特別幹部候補生に採用され、前橋の予備士官学校に入学して行った。だが、クラスの中では、私ともう一人の友人だけが不合格になった。

当時、私はこれに類する差別扱いを色々と受けたような気がする。だが、私は「眉一つ動かさず」、それらの「処遇」を受け入れて行った。

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