勘違いした議員たち 田中知事に不信任案を突きつけた長野県会議員は、いろいろと勘違いをしていた。最大の錯覚は、県民が議会の行動を支持するものと思いこんでいたことだ。彼らは又、不信任案を通せば、知事は議会を解散するだろうと踏んでいたが、これも空振りに終わりそうな状況である。
議員たちは、前回の知事選でも大きな勘違いをしている。
前知事が引退の意向を示したとき、県会の最大会派をはじめ議員のほとんどすべてが当時の副知事をかついで「事前運動」に狂奔したのだった。事情は県内市町村の首長も同じで、彼らのほとんどすべてがお手盛りの後援会を作って副知事を応援した。かくて副知事は史上空前といわれる完璧な体制を整えて選挙に臨んだ。あれよあれよという間に翼賛体制ができあがったのには、長野県特有の事情がある。県政のトップである県知事は代々長期政権を続け、その知事が引退すると副知事が知事になってまた長期政権を続けて、県庁には外からの血が全く入ってこなかったのである。だから、選挙が始まる前から、副知事の当選は既成事実視され、議員や首長らは彼への忠勤を競いあったのだった。
その議員や首長らが、対立候補の田中康夫を知事に迎えたのだから、両者の関係が最初からギクシャクしたのも不思議ではない。おまけにこの田中康夫という知事は、あらゆる点で地方政界のボスたちとは異なるパーソナリティーを持っていたのだから。
不信任案が上程される議場の映像を見ていたら、知事は真っ白な背広に小粋なネクタイを締め、ひどく目立つ格好をしていた。彼は洒落者なのである。議員にとっては、この風体からしてカンに触るだろう。知事の本質はシティーボーイたることにあるから、絶えず目立とうと心がけている。自分を周囲とはかけはなれた「異物」にすることによって自己の存在感を強調しようとしているのだ。まわりから浮き上がることを恐れる並の政治家とは、そもそも心根からして違うのである。
不信任案採決場面(中央白服が知事) 知事のやることは、キザの一言につきた。彼は当選以来、まるで呪文のように「しなやかな県政を」と言い続けた。議員や新聞記者から、「しなやかな県政」とは何かと糾されても、明確な返答はなかった。だが、彼が目指していることは明らかだった。反対陣営の政治手法を泥臭い田舎芝居と見なして、それとは反対の「スマートな政治」を実現しようとしていたのだった。
しかし、田中知事のやってきたことは、とてもスマートとは言い難かった。彼は記者室を改組して、名称を「表現道場」と改めた(表現道場とはねえ)。そして知事室をガラス張りの部屋にして、県庁を訪れる県民が中を覗けるようにした。自身を動物園のパンダ並にしたのである。
彼は選挙で自分に敵対したものを決して許さなかった。選挙の際、対立候補のためにもっとも活発に動いたのは、県庁内では土木部の職員だった。彼らは選挙違反者を出してまで反田中で動いている。就任後の知事は、土木部長を冷遇して、実質的に彼を解職してしまっている。
知事が対立候補を支持した市町村の首長を快く思っていないことは、誰の目にも明らかだった。彼は県民集会のために県内各地を訪れたが、地域の首長を飛び越して住民と直接対話することを選んだ。これまで知事が、県会のボスや市町村長の陳情を汲み上げ、新しい政策を打ち出すに当たって、この層への根回しを怠らなかったのに対し、田中知事は直接民主主義の立場から、住民の要望をじかに吸い上げようとしたのだ。
県会議員たちは、知事への反感から、砥川・浅川ダム建設問題についてもっと世論を聞く必要があると称して現地に赴いている。彼らが乗り込んだのは、当該地区の首長の執務室だった。そして町長・市長から建設賛成の意見を聞き取って帰ってくると、それを地域住民の総意であるとPRした。住民投票をすれば、その反対の結果が出るだろうことを無視して。
知事と議会のいがみ合いは続いた。議会が知事室にタレント呼んでシャンペンを飲んだと知事を非難すれば、知事は県議だって県庁で何度も酒席を設けていたことを知っているぞと反論する。議会が再々知事不信任案をちらつかせると、知事は「まるで狼少年だね」と冷笑して最大会派を挑発する。両者の対立は、泥仕合というより、子供の喧嘩のような様相を呈するに至った。
田中知事の手法が「独善的で、稚拙」であることは多くの県民も認めている。だからといって県民が県会の提出した不信任案に賛成すると速断したのは、知事選の場合と同じような見込み違いだった。県議たちは前回の失敗から何も学んでいないのである。
県民は、県庁を頂点にして県会がこれを翼賛する垂直的な支配構造にうんざりしているのである。本来、行政を批判するはずの県会が県庁となれ合って「痴呆政治」を繰り広げていることに不信感を抱いているのだ。なるほど、県民は選挙になれば、おなじみの県議候補やその候補が推す知事に投票するかもしれない。それは仕方ないからそうしていただけで、彼らを積極的に支持していたわけではない。
地方議員に限らず、国会議員も、知事・市町村長も、この点をはっきり肝に銘じておいた方がいい。選挙民が自分たちを支持したのは、仕方がないからそうしているだけだということを。思わしい候補が見あたらないので、大勢に順応し、勝ち馬に乗るべく「有力候補」に投票しただけで、候補を全面的に信頼しているからではないのだ。
住民は地元に道路を引いてもらうことを望んでいる。だが、国の財政が危機的状況にある時には、自制してその種の要求を引っ込める。こうした人の心に潜む良識が、長野県民をして今も田中県政を支持させている。確かに、田中知事のやり方は独善的で稚拙だが、開かれた県政を実現するという公約を堅持しているし、まだ、これといった失政もないのである。
不信任案に賛成した県議たちは、いまや一斉に地元に帰り、支持者を集めて自分たちの正当性を訴えている。果たして、その効果があるかどうか、お手並みのほどを拝見したいと思っている。(02/7/10)