エネルギーの渡り 私達の住んでいる大宇宙は「渡り」を続けるエネルギーの塊であって、人を戦慄させる広大な時空も、渡りの足場としてエネルギー自身が生み出したものである。宇宙はエネルギーの分泌物であり、そしてエネルギー自らがこしらえたエネルギーの棲み家なのだ。
自然科学的な宇宙像に従えば、宇宙はエネルギーの海にほかならない。物質もエネルギーのかたまりで、原子の一粒々々がエネルギーの結晶なのである。エネルギーは渡りを続けることを宿命としている。
渡りとは要するに自己脱却作用なのだ。宇宙を限りなく自己脱却してゆくものと考える時に、私達ははじめて宇宙については勿論、人格の構造について考える正しい視座を獲得したといえる。私達を包む空間は、エネルギーの渡りにはフィールドが必要だから生れたのであり、時間もエネルギーが自己脱却して行く必要上生み出された場の一種に過ぎない。
昨日からの脱却として今日があり、今日からの脱却として明日がある。エネルギーの渡りがとまれば、空間も時間も死滅して「不有」の世界になる。
「覚醒」がいかなる事情の下に出現したかは既に述べた。図書館の隅の個室で、毎日考えることに専念している時であった。昨日考えたことから今日抜け出して新しい思考を構築し、明日は今日の考えから又抜け出るという風に、思考がきりもなく自己脱却を続けているうちに、ある日そういう自分の営為を黙って見つめているもう一人の自分のあることに気ついたのである。自己脱却を続ける自己そのものからの大脱却として「裏自己」が生まれて来たのだ。
同じ問題について毎日考え続ける行為は、思考を層々と積み重ねて行くことではなく、古い思考からたえず自分を引き抜いて行くことである。そしてそれは古い思考を常に新しい枠組の中に入れ、新たに受容し直すことを意味する。そして、こういう運動を続ける自分そのものから脱却したということは、これまで例のなかった新しい受容枠があらわれ、世界をその全相において受け入れ得るようになったことを意味する。実際、覚醒がもたらす感覚は、自分が存在世界から完全に脱却して、「彼岸」からこれを受容しているとてもいう風なもので、「全脱却」と「全受容」が同時に実現したという感覚なのである。
意識は世界全体を視野におさめる為に後退を続け、世界の極北まで達し、もう、うしろがないというところまで来る。ここまで来ると、その背後に非世界を感じるようになる。もう一歩踏み外せば非世界に入り、自己を抜け出て非自己になるという感覚に襲われるのだ。覚醒の存在するのは、非エネルギー野と背中合わせの場であり、そのうしろには、実際上どこにもあり得ない彼岸が存在するのである。
苦悩を通過して光へ
私達は原初愛に基づいて世界の総体を信受していた段階から、一転して世界の全休を否認する態度に転落する危険を常に持っている。世界を信受するのが裏自己で、総世界を否認するのが表自己であることはいうまでもない。従って新たに胸に芽生えて来た世界否認の感情は、一旦敗北を契して消失した表自己が態勢を整えて反撃に転じた結果だと考えていいだろう。
裏自己に対する表自己の反逆を、イエスですら制することはできなかった。伝道生活前半のイエスは、人間本具の原初愛に光をあて、この愛を基軸とする本来的な人間関係を浮びあがらせた。彼は現世の秩序の上に神の恩寵を読み取り、あるがままの世界に満足してそれ以上何も望まなかった。だが、伝道生活後半のイエスは次第に陰うつになり、現世への異和の感情を自分にも他人にも隠さないようになった。
使徒達はイエスから厳しい叱責を浴びせられるようになり、パリサイ人は彼の呪詛の的になる。前半期のイエスをよろこばせた世界のフォルムと人間性の諸特徴は、今やイエスを焦慮に導いた。イエスの不機嫌・怒りは、人間の個々の愚かしさや不正に向けられたのではなく、もっと深い人間の存在仕方そのものに向けられている。
イエスは聴衆に向って、自身の罪と堕落を悔い改めるように求めたが、それらは個人的責任を超えた生命の機序そのものに属する現象であり、個人の力ではどうすることも出来ないものだった。人々はイエスの言葉を聞いて内心当惑を禁じ得なかった筈である。
人間の実存の底深くに「存在異和」とでも呼ぶべき感情が巣喰っている。人間でありながら、人間存在の基本的図式に対して抱く不同意の感情である。蛇は蛇として地をはって生きる生存形式に異和を感じることはあるまい。しかし、人間は、自身が人間であることに不快を覚え、生きることを業苦と感じる感覚を隠し持っている。
私は、苦痛を忌避することによって方向づけられている生の構造、にも拘わらずいたるところで苦痛に遭遇する生の現実、死を恐怖しながら結局死によって完了する生命のあり方等に対し、心底からのにがにがしさを感じていた。戦中・戦後の日本人に対する私のにがい気持、その後の世間忌避のにがい感情、それらはその根を人間的生に対する底深い異和の感覚に持っていたのだった。
にがにがしさとは、不快に耐える感情である。私の嫌悪感は、まぬがれ難い生存の現実相全体を対象にしており、つまりこれは癒しようのない嫌悪であった。「存在異和」の感情がここまで来ると、私達の人格全体が無力になってしまうのである。覚醒という状況が浮上して来て、本人にも漠然とそれが意識されはじめるのは、私達が自力では解決不能の問題に直面した時だ。ある年の冬、私は図書館にやってきた女生徒から、失恋話を聞いたことがある。彼女の相手というのは他校の高校生だった。はじめは、向うが積極的でこちらは冷淡だったが、そのうちにこの関係が逆転したというのである。私はその生徒の話が決して感情に走らず、自他の気持の動きを正確に捕えていることに感心した。頭の鋭い、そして落付いた観察眼をそなえた生徒だった。
「喫茶店に来てくれるように手紙で頼んで、持っていたけれど、彼は来てくれませんでした。私は三時間待っていました」
燃えつくのは遅いが、一度燃え出したら仲々消えないという女がいる。彼女はこのタイプの女で、相手が働きかけている間は自分の心を固く鎖していたが、向うがあきらめて背中を見せてから感情が燃え出しだのだ。それにこの生徒は反対感情の所有者であるようだった。相手にひきつけられながら、同時に彼を拒否しているのである。
そして、不幸なことに先方も同様なタイプの少年で、相互の感情が食い違っているため、まるで鬼ごつこのような関係になっているのである。個性的で知的な男女の恋愛は、由来こうしたものかもしれない。私はへとへとに疲れ果て、打ちひしがれたようになっている生徒を憐れに思った。
すっかり話をして、いくらか気持が楽になったらしい生徒は、今の心境を次のように語った。
・・・今、自分は深い水の底にいるような気がする。自分は小さな石で、まわりには自分と同じような石が一杯ある。それらはみんな苦しんでいる石だ。この世界は昔から今まで、苦しんでいる石て敷きつめられているという気がする・・・
「そして、高いところから、苦しんている石ころを黙って見ているものがあるような気がして・・・」
生徒が立去ったあとで、私は黙視する神について考えた。福音書によれば、神は十字架上で苦悶するイエスを黙って見守っていた。神は苦しむ者を黙って見ているだけなのである。
単細胞動物から人間にいたるまて、生あるものは境界膜で自分を囲いこんだ瞬間から、すなわち個体として外部世界と対峙するようになった瞬間から、苦悩を宿命とするようになった。人の世の苦しみ、物いわぬ動物の苦しみ、秋が来れば枯れて行く草木の消え入るような悲しみ、この世界は生あるものの悲哀によって満ちている。あの女生徒もそうである。人を恋するとは、自分とは異なる別人格に完全に捕促されてしまうことなのだ。相手の一挙一動はことごとく自分の意に反し、相手の小さな表情や動作が自分を痛めつける搾木に変わる。
彼はどうしてあんな下らない女にひかれるのか。私の方が知能指数は高いではないか。みんな私の方が魅力的だといってくれるではないか。彼が私を好きになってくれたら、私はどんなにでもして彼を幸福にしてやるのに。いくら血を吐く思いてそう叫んでも、その声は相手に届かないのだ。
図書館にやって来て失恋話をして行った生徒は、成就する見込みのない愛、苦悩しかもたらさない愛に自分がなぜ執着するのかという問題にぶつかった。この問いに答えるには理性は無力であった。感情もデツト・ロックに乗り上げて用をなさなかった。やがて彼女は人類の苦悩を黙視する神というイメージを育てはじめる。しかし、黙視するのは神ではなくて彼女自身であり、彼女は人類普遍の運命を歩むものとして彼岸から自分を眺める視座を持ちはじめたのだ。つまり覚醒の視座である。
覚醒は黙って、すべてを見つめ続ける。人間的な善悪を問題としないで、起ったこと、これから起るてあろうことをすべて黙視して行くのである。覚醒は善人に味方せず、無論敵対もしない。何者にとっても敵でもなく味方でもなく、中立ということですらない態度を取り続ける。覚醒は、エゴイスムや功利主義を超え、ニヒリズム・合理主義を超え、およそ人間の考え得るあらゆる尺度を超えている。
人間的思慮を絶した巨大な沈黙の前で、表自己は触媒を与えられたかのように少しずつ自己解体の動きをはじめる。
世界への異和感を解除する方法は、異和感の動機となっている不条理の中へ自発的に踏み込んて行くことしかないと感じ、苦に従うことにょって苦から抜け出るという生き方を本能的に選ぶのだ。万策尽きて人間の業や限界を受容せざるを得なくなった時に、私達はむしろこの宿命に従って生きて行こうとする。人間の素地が、弱い有限の生命個体である点にあるとしたら、原点に立帰ってその脆弱な素地において生きようとするのである。
前述のように、トルストイは人生とはただ馬鹿馬鹿しいだけのものだと考えるようになった。だが、彼は間もなく一個の農夫となって農場で労働する生活をはじめる。彼は聖書の中心思想が、「額に汗して自身のパンを得よ」というところにあると感じた。人間が聖書に従ってパンと生活必需品とを自己労働によって得て行けば、それらはやがて売買の対象ではなくなる筈であった。トルストイは、安藤昌益の自然世に類似するユートピア思想に達した。思想的無策下にある人間は、一種の必然に従ってかかるコースを選択するのである。
人が受苦のコースを自ら積極的に選択する事例のうち、人類にとって最もショツキングな事件が、イエスの受難なのである。ほかに道があったろうに、イエスが進んて「ネズミ取り」にかかりにいったのはなぜか。私は長い間この疑問を抱き続けて来た。イエスは十字架への道、前方に死と苦悩が待ち受ける暗いトンネルの中へ自分から入って行ったのである。
なぜ彼がそんなことをしたのかという疑問は、彼が苦悩することを求めていたからだという解を持ってくれば忽ち氷解する。彼は、人として生まれた苦しみを極限まて味うために十字架に至る道を選んだのだ。世間が地獄への道として恐れる暗いトンネルは、自ら選び取れば光を敷きつめた道に変わり、根源的な救済をもたらす道になるのである。
神はネガフィルムの世界を陽画に転換するというリルケの言葉は、世間的な快苦は光の透過を受けることで、それぞれ反対のものに逆転するということを意味している。人の忌み嫌う苦しみ、世俗的な最暗黒部は、よろこびと光明の坩堝に変る。私はある日、イエスの苦しみの上に自分を置いてみた。暫くそこにじっとしていると水が湧き出るように寛恕の心持が湧いてくるのを感じた。
ゴルゴダの丘にひしめく群衆は、声もなく十字架上のイエスの苦悶を見守る。釘づけにされたイエスは四方から浴せられる視線の中心で苦痛の極点にあり、イエスを師と仰ぐ信者達は、為に世界が暗くなったと感じた程である。だが、イエスの側に身を置けば、彼は四方に愛とゆるしを投げ与えているのである。神に従うとは、人間必然の痛みと苦しみに従うことにほかならぬのだ。
苦しみが忌避されるのは、これにつかまったら百年目で、人はこれが過ぎ去るのを待つしかないことを承知しているからだ。苦悩に逆らえば苦しみは増し、それが内に居据わる期間を長びかせる。苦悩は懲役刑のようなものであり、定められた期間静かに服役すれば苦しみは去り、苦しんだ分だけ成長する。涙の谷は、よろこびの泉にかわる。
受苦の生活を通して、覚醒はくっきりとその姿をあらわしてくる。私達は覚醒と相逢うまでに、忍苦の歳月を重ねなければならない。覚醒が底から支えることで、裏自己に環流してきたエネルギーは魂に変わる。
魂は力の世界に生じた力の及ばぬ真空地帯であり、世俗的な圧力を一切遮断してしまう。魂を持った人間だけが、力に屈しない。力の支配を受けない魂は、狂信や党派心を解除する。魂の所有者の特徴は、ファナティズムと無縁であることであり、いかなる人生の局面においても平静を保持できることである。
私達は不確かな信仰を持ち、内心で自分の信仰を疑っている時に狂信的な態度に走るのだ。私達は経験上、相手が「必ず」とか「きっと」とかいう言葉を使って何かを誓う時に、それがあまり守られないことを知っている。こういう言葉を用いる時、人は自分自身に危惧の念を感じ、それらの言葉によって自分をいやおうなく約束の行動に駆り立てようとしているのである。
狂信もこれと同じで、狂信者は例外なく信仰を包囲する不信の心を持っており、そういう自己との闘いの形態として狂熱的な信仰に走るのだ。心の中で信仰と不信仰が対峙している時、表自己は対抗手段として信仰にむけてエネルギーの過度集中をはかる。右翼の運動家たちの心情も同様であって、表自己の強弁する民族愛を、別の自分は受け入れていない。そんな偏狭なものに情感は耳を傾けないのだ。
右翼のスローガンや綱領が非論理的で情緒的であるのは、彼ら自身を説得する必要があるからで、右翼はまず彼ら自身の内面と格闘していると考える時にその常軌を逸した行動が理解できるのである。狂信の砦に立てこもった表自己を解除するのは、この場合魂しかない。それ自身何の力も含まず静かに見つめ続けることを職能とする内なる魂の目だけが、かたくなな心を解きほぐす。
従って狂信者はおのが心の底なる魂の視線を最も恐れている。私達の憤怒や攻撃衝動を解除するのも魂である。人間の怒りは、ほとんどすべてそれとは裏腹な恐怖心から発する。私達は相手がどんな態度に出ても、こちらでそれを適当にあしらって行けるうちは怒らない。そして、また、相手が攻撃をしかけて来ても、こちらに安全に逃げられる道が用意されていれば、笑ってこれに応じていることもできる。
怒り狂っている人間には、最早恐怖はない。意識の下にひそんでいる恐怖を、怒りの感情に置き換えているからだ。彼は激怒して周囲の人間を慄え上らせながら、そういう自身をその場の状況もろとも、静かに見守る魂の目を感じている。怒りの発作が鎮まった後で、彼が感じるやましい気持、うしろめたい思いは、魂の方向からやって来るのである。
ソクラテスは、「賢者にとって恐るべきものは何もない」と言っている。これは魂を把握して生きている人間の実感をそのまま表白したものと言っていいだろう。
覚醒のうしろ
覚醒は、現世の中にあって現世とは異なる秩序、無の世界と背中合わせのところまで出てしまうことである。私達は現世から脱却して八面玲瓏の覚醒の中で万象を一望しているうちに、次第に覚醒の背後に、もう一つの覚醒が位置していることを感じるようになる。はじめ覚醒野は無方の広さを持ち、何処まで行っても不変の純一状態を保っているように思える。覚醒野は「太虚」にほかならず、際限のない無底を特色としていると考えるのだ。しかし、やがて今自分が経験している覚醒野は内湾のようなものであって、その背後にはもっと広大な外洋があるという感覚が芽生えてくる。
個人の覚醒の他に、もう一つのより透徹した覚醒があるという予感が、決定的な確信に変るのは、無論「到来」を経験してからだ。私達はそのものがやってくる迄、多くの先達の言葉にすがって生きて行くしかない。
「修証一如」(道元)
「天国への道は、すべて天国です」(修道女カタリナ)
「求道すでに道である」 (宮沢賢治)到来を待つことが、すなわち到来なのだという考え方は美しい思想と言えるだろう。しかし、やはり「到来」は待つことでもないし、単に確信することてもない。それは私達の目の前に現前する事実てあり直ちに安心と結びつく実証なのである。そしてこの種の到来は、私達が自力ではもう一歩も進めなくなった時に、文字通り向うの方から到来する。その辺の消息を最も雄弁に語っているのが、ルターの「塔の奇蹟」である。
広く知られているように、ルターは二度の回心を経験している。最初の回心はルターが将来、王侯顧問・公証人・弁護士になることをめざしてエルフルト大学で法学の勉強をしている最中に起きた。二十二才の時であった。エルフルト郊外の森林を通過中、落雷にあった彼は、とっさに「聖アンナよ、助け給え、修道士になります」と誓ってしまったのである。
ルターは無意識のうちに叫んだ誓いを、神の「召命」と考えアウグステイヌス会修道院に入る。第二回の回心はそれから約十年後、三十代の前半になって起きた。
修道院入りをしてから、彼は神に受容されるような人間になろうとして必死の努力を続けた。ルターは最初、神は前方にあり、努力して前進すれば神に到達できると信じて精進を重ねたのである。いくらかでも人間的な進歩があれば、彼はそのことに幸福を感じた。それは自分で自分を嘉納できるよろこびであり、そのよろこびは彼自身の内面から溢れて来た。
程なく限界が来て、彼はもうーミリも先へ進めなくなった。希望は消え、前方に感じられていた神の姿も見えなくなった。ルターは、たった一人で吹きさらしの荒地に投げ出されている自分を発見した。彼は徹夜で祈祷しても救われず、いくら告解しても旧態依然たる心的状況が残るので、懺悔聴聞僧に願って日に三度も告解しなけれはならなかった。しまいに彼は自分をこうした窮地に追い込んだ神をしめ殺してやりたくなった。彼はどう努力しても変えることのできない人間精神の基本的生理のようなものにぶっかり、精も魂も尽き果てたのである。
当時ルターはウイツテンベルグ修道院に移籍し、建物の上に塔のように突き出ている小部屋を個室として与えられていた。そこで彼は神も受容せず自分も受容てきない暗い内面を抱いたまま囚人のような日夜を送った。「久しく求め続けているが、未だ光を知らない」精神状態は永遠に続くように思われた。
そういう時に突如、何の予告もなく救済がやって来た。忍苦の歳月は知らぬ間に彼の心の裏側に魂の通路を作り、神はこの道を通って彼のうしろから姿をあらわした。神は前方にあるのではなく、背後にあった。神はこちらから到達するのではなく、向うから到来するものだった。そして神は人間を裁く者ではなく許容する者であり、罪の意識をそのままよろこびに逆転させる者であった。
彼は無限に許す大いなるものによって、自分が今のままで完全に是認されていることを感じた。彼自身には、事前も事後も変化はなかった。その同一の自分が、以前には闇の中にあったのに今は光の中にある。愛の神のほかに神はないのである。
ハ木重吉の詩集を読んでいて感じるのも、自力ではこれ以上進めないというところまで来なければ、「到来」は起らないということである。この夭折した詩人は、死ぬ少し前になって真実の「安心」に達し、慈悲の光に充ち溢れた作品を書いている。彼は死期の迫っていることをはっきりと予感し、既得の世界をこれ以上深める時間はあまされていないと感じた。
自分は末だ途上にあり、先は長いと思って精励して来たが、今迄に獲得したことがすべてであり、自分のこの世における所得はこれだけでしかないと、彼はあきらめたのだ。そしたら、彼がこれで全部と見切った世界の全体に、真の神が到来して静かに彼を包んだのである。
ルターや八木重吉のケースが語っているのは、人は極限まで進まなければ「到来」に出会うことがないということであり、そしてそのピークを感得する装置のようなものが人には備わっていないということである。自分でもうこれでぎりぎり一杯の限界だと考えている時には、末だ余力があるものだ。私達の本当の限界を読み取る目は自分の側にはない。自己と対向関係にある裏自己にもなくて、「非自己」と呼ぶべきものがそれを持っている。
私自身のケースについて、見てみよう。
私における「到来」は、早暁の半醒時に、ありありと感じた「被包摂」の体験だった。明方に目覚めた私は、昼間のうち押しのけ排除していた不安や懸念に意識を占拠されて、身動きできなかった。私は海岸に打ちあげられた魚のように、暗い想いで心を一杯にしていた。私の内面のどこにも闇を反転させる光の契機はなく、私の外の世界にも燐火ほどの光明も認められなかった。人間は欠陥だらけの不全者で、よるべない不安を抱いたまま死んで行く存在であった。私の心を充しているのは、絶対的な無明感であった。そして私はその時、自分が澄み切ったものに包まれていることを感じたのだ。それは、
「仏は常にいませども、うつつならぬもあわれなる。人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ」
という静けさでやって来て、私の全身を包んだ。私を包んでいるのは覚醒であり、同時に覚醒を通路としてやって来たその奥にある深い慈悲だった。それは形もなく姿もなく、知らぬ間に寄り添ってくる非地上的な光であり、脆弱なものを護持する永遠なるものであった。
私は透徹した慈悲に包まれながら、薬湯にひたっているような気がした。人間の心は、そのものがやって来てとまる「とまり木」であり、この世は絶対者が降り立つテラスだと思った。
私の不全感・自己欠損感覚は「到来」を迎えても解消しなかった。いや、永遠なるものに包まれたことによって、それらの感覚は一層明確になったといった方がよかった。「至福経験」との差異はそこにある。あの時には、内面の暗い部分が一挙に決潰してなくなってしまった。
今度は心の暗さは暗さとしてそのまま残り、それが救済のよろこびの根拠となることでその反対物に転化したのである。「経験」の基本的構造・・・心の闇が深いだけ歓喜も強いという関係は今回も成立していたが、決定的な差異は前回のよろこびが自己に帰属したのに反し、今回はそれが絶対他者に帰属している点であった。
救済は彼岸から来たのであり、沈んで行く重みを支える浮力は外から投入されたのだ。30代で味わった歓喜はまさしく私自身の歓喜であって、だから私はもう死んでもいいと思ったのである。しかし、50代でのそれは、爆発し奔出する歓喜はなく、感じたのは底の深い感謝の気持だった。私は確かな安心を感じたが、その静けさ、その確かさは私を包むものの静けさ確かさから来ていた。
私には救済の内容が何であるかわからなかった。極楽往生を意味するのか、復活を意味するのか、そのへんが不明のままで救済の成立していることへの確信があるのである。この確信を演繹して行けば、
「罪ある身だから許される」
「償いは完了している。故に償うべきものを多く持つものほど、大きな恵与を受けている」
「善人なほもて往生す、いわんや悪人をや」などの宗教的信条に発展するに違いない。
俗な言い方をすれば、救済のよろこびとは何も気にしなくてもいいことが明らかになった時に、一番心配していた者が一番よろこぶようなものなのである。
到来したのは、完全に無私なるものであり、永遠に母なるものであり、個物の痛みや悲しみを自らの痛み悲しみとするほかに、自らを持たないものであった。私達が宿業として身に負っている除去不能の苦しみ、脱却不能の悲しみをそのままに見守るものであり、私達はそれに見守られると感じるだけで、負担がそっくり向うに移ってしまうようなものであった。