二種類のエネルギー フロイトは、人間のエネルギーが水力学的な法則に従って自我内面をめぐり歩くと考えた。彼は、ひとたび、人の内面に生まれた欲望はいかなる廻り道を取っても外部化されずにはいないと考えている。
私達の内面には欲求の流れる河床があり、それが淀む溜池があり、「昇華作用」によってできた雲や虹があり、それらはあちこちで停滞しつつ、結局外部世界に吐き出されるというのである。つまり、彼は人間を「エネルギー通路」と考えていた訳だ。
私の立場からすると、フロイトの誤りは次の二点を見落しているところにある。
第一に、彼は裏自己の存在を見落している。私達の人格が表自己だけで成り立っているのなら、フロイトの主張は大筋で承認できる。だが、私達は裏自己を持ち、個体内部に発生した欲求を動機として行動するだけでなく、それ以外の動機に基づいて行動することもあるのだ。
第二に、フロイトはエネルギーに二つの相のあることを見落している。表自己に帰属するエネルギーは、「仕事をする力」であり他を動かし操作する力動的エネルギーである。このエネルギーは一箇所に停滞せず、たえず他に乗り移って行く点に特色かある。原則的に表出を志向するエネルギーなのだ。ところが裏自己に帰属するエネルギーは表出を求めず、内に潜在することを志向する。「英知界」は「認知界」の背後にとどまって前景に出て来なかった。体験もまるで、隠身の願望を持つかのように姿を隠している。経験の方は私達の脳裏にとどまり続け、私達を特定の行動に追いやるのである。だが、この経験が裏自己へ移って体験になると、個人の脳裏から消えて意識されなくなり、状況がそれを必要とする迄眠りつづける。
英語をマスターした人間は、英語をやたらに振り廻さないものだ。用が生じた時にだけ英語を使うのである。感情と情感の関係も同じで、感情の方は強く意識されるのに、情感を意識することは稀れにしかない。
フロイトの意図は、人間を表自己だけで捕えょうとする既成の視点を刷新することにあった。彼は表自己から排除された別自己があり、両者の間でたえまない戦闘が交わされていると考えたのだ。その戦闘とは顕在化、意識化をめぐる争いであり、勝者は敗者を「抑圧」して永久に日の目を見させまいとするのに対し、敗者は隙をうかがって自己を顕在化しょうとし、言い間違い・夢・コンブレツクスとなって意識の一角に浮上してくるというのである。
フロイトの心理学を読んでいると、与党と野党の政権争奪戦が連想されて来て大変面白いのだが、読み終ってみると彼は人格表層の葛藤しか描いていないという不満が残るのだ。フロイトの考えている別自己は表自己の一部でしかなく、両者の争いは結局、同じ村内の争いなのである。彼は本当の潜在意識・潜在エネルギーについては語っていない。真の潜在者は最初から自己表出の欲求を持たず、従って表自己から抑圧を受けるいわれもなく、終始政権争奪戦の圏外にあるのである。裏自己に帰属するエネルギーはそういう性質のものなのだ。
だが、エネルギーが潜在化するなどということは考えられるであろうか。「仕事をする力」という意味を本義とするエネルギーが、その能力を失って潜伏するとしたら、それはより大きなエネルギーによって抑圧された場合以外考えられないのではないか。
私はエネルギーが「受容力」という力になったと仮定すれば、この問題は簡単にかたづくことだと思う。エネルギーが力であるにも拘わらず力として感じられない理由は、それが他を動かす力とはならず、他を受容する力となったからなのだ。ロジャースは、「愛とは深く理解し、深く受け入れることである」といっている。愛の力とは他者に何かを与え、相手を強化する力ではない。自分の力を相手に分与することではないのである。自身を受容力に変えて相手を受け入れ、相手を生かすのが愛なのである。
エネルギーは愛となることによって非エネルギー化するという説明があまりに情緒的に過ぎるなら、生命的エネルギーはその働きを効果的にする為に、相互に競合しない二種のエネルギーに分極化したと説明してもよい。表自己のエネルギーは外部に働きかけて仕事をするエネルギーであり、裏自己のエネルギーは周囲の状況を正確に読み取り一切をあるがままに受け入れるエネルギーであって、この両者が互いを侵犯せずに協働する時に個体は調和的に生きられるのだ。
顕在エネルギーと潜在エネルギーの分業関係は、運動神経と自律神経の関係に似ている。私達の意識が内臓の動きまで管理しようとしたら負担過重のために焼き切れてしまうであろう。そこで意識は身体の動さのうちで、恒常的機械的な部分を自律神経にゆだねてしまい、中断や緩急の変化が多い運動部分だけを管掌することにしたのである。裏自己の行なう状況把握の作業も、同じ理由から独立化し、無意識化した。行動していようといまいと、自分を取り巻く状況を把握していることは常に必要だ。恒常的に働いている部分を意識しないようにするのはエネルギー経済の法則にほかならない。
裏自己は、定常的に働き続ける状況把握エネルギーを保管するほかに、表自己内の顕在エネルギーを一時的に引き取って貯える役割も果たしている。自我は一仕事終えたあと、満足すべき結果が得られると、余剰エネルギーを裏自己に環流させて休ませる。このとき、人は静かで力強い安定感のうちに、ゆったりとくつろぐことができる。
フロイトは人間について考えるに当って受容力となったエネルギーを考慮しなかったし、余剰のエネルギーが表自己から裏自己に環流することも無視した。彼は仕事エネルギーだけを問題にし、しかもその運動を、「発生−投出−消滅」という一本道でしか捕えなかった。
タイプ別エネルギーの使い方
(1)外向型人間
外向型人間・内向型人間という呼び方は、エネルギーの志向点が自己の外に置かれているか、自己の内に置かれているかによって人間を区分した分類法である。外向型の人間の注意は外に向けられているので、他人の顔や名前を直ぐ覚える。彼らは他人と交渉し、人々と一緒にエネルギーを行使することを愛する。これに対して、内向型の人間は自己の専属領域の中にこもって、エネルギーを単独で操作して行くことを好むのだ。内向型の人間から見れば、外向型人間ほど哀れむべきものはない。外向型人間は他人とー緒にいなければ自己感が保たれない。サルトルの「嘔吐」に出てくるカフェの店主は、カフェがからになると彼の頭の中もからっぽになるという風な人物である。これこそ外向型の典型なのだ。彼らは誰よりも自分の値打ちを気にかけながら、価値評価の決定権を全部世間にゆだねてしまっている。彼らの得意と彼らの失意は、世間から自己の存在を認められるか否かにかかっている。自分の内実・内証を知る者は自分だけであり、自分を誠実に見守り、自分がどうなって行くかを最後まで見届けるのは自分しかいないのに自分を評価する権利を他人にゆだねてしまっている。
内向型人間は自分の評価は自分でする。自分を是認するのに世間の手を借りないのである。世間的是認の中で生きるという外向型人間の特徴は、子供の頃から躾けられて来た習性をそのまま持続しているところから来ている。親や教師は子供達に、エネルギーを社会内に投与するように教育し、人々に是認されない努力は無駄な遊びだと躾けて来た。大人に言われるままに、より多くの人間から、より多く賞讃されることをめざして努力を重ねた結果、彼らは自分が世間から是認されていると信じられるようになり、今はそれを頼りに生きているのである。
かくて彼らは世間から認められ、受け入れられるようになった。しかし、自分自身から是認されることには失敗した。世間から是認され、自己から否認されている・・・これが外向型人間の悲劇なのである。
「社会的にどんなに立派にやっている人でも、自分に対して合わせる顔のない人は、次第に自己と対面することを避けるようになる。一人で静かにしていることが耐えられなくなる。たとえ、心の底でうめき声がしても、それに耳をかすのは苦しいから、生活を益々忙しくして、これをきかぬふりをするようになる」(神谷美恵子「生きがいについて」)
外向型人間がー人でいることに耐えられないのは、一人になると自分が惨めに感じられてくるからだ。だから、あわてて自分を是認してくれる人々の中へ逃げこむのである。彼らにとって世間はよきものであるが故に、世間が認める権威に対しては無条件で敬意を払う。芸術に興味がなく、内心で貧乏作家を軽蔑している人々も、評判になっているベストセラーは喜んで読むし、作家の誰かが著名な文学賞を取ればその日から彼を敬愛の目で眺めるようになる。彼らには独自の価値観というものがなく、種々雑多な世間的権威がそのまま取り込まれて彼らを導く星になるのだ。
外向的人間は自分に利益をもたらしそうな権威ある人物を選択的に愛する。ホステスが一番愛するのは、自分にとって一番利益になる客である。利のあるところに愛もおもむくのだ。昇進を求める社員は、自分を査定する上役を心から尊敬する。彼は休日ごとに上役の私宅を訪ねて何くれとなくサーヒスするが、かえりみて一点のやましさも感じない。彼は心底からその上役を尊敬しているからだ。第三者から見れば救いようのない醜悪な人物でも、一定数の崇拝者の群を擁しているのはこの為だ。
世間的権威を尊重する人間は、自らの体面を重視し、世評を気にして生きて行かなければならない。ここに彼らの地獄がある。彼らは他人によく思われようとして全力をあげ、他人の心の中に作りあげた自己像に依存しつつ生きる。自分の評判をおとし、自分に関するイメージを傷つける者は、最大の敵となる。
私は東京にいた頃、夜更けの駅のプラツトフォームで酔っぱらいがベンチの上で寝こんでいるところを何度も見かけた。彼らの恰好は人間の身体としてのテイをなしていない。まるで、紙屑をもみくちゃにして投げ出したようであった。ここまで酔いつぶれるには、それ相応の訳があるに違いないと思わせる姿態だった。
私はその後、人は自分が正当に認められていないと感じた時に深酒をすることを知った。「オレはこんなに一生懸命やっているのに誰も認めてくれない。同僚の誰それは要領がいいばかりに、オレより認められている」というのが酔漢の愚痴の中から聞えてくる主調音なのだ。教師をするようになって分かったのは、非行に走る生徒の内面にあるのが「是認されない人間」の不満であることだった。彼らがいい成績を取ることを誰も期待していない。彼らがホーム・ルームて発言することを誰も期待していない。彼らが発言すると皆が迷惑そうな顔をするので、次に発言する時にはそれをあらかじめ自分の態度の中に折り込んで、皆に嫌がられる発言をするようになる。
非行少年にもまして、世間の是認を求めているのは優等生である。彼らの多くは外向型人間であり、そして彼らは聡明だから、自分には成績しか取り柄がないことを知っている。彼らはいい成績によって自分を守り、優等生という看板の下に多くの欠点を隠している。彼らの真の敵は、この事実を誰よりもハッキリ承知している自分自身なのだ。従って成績が下降すれば、彼らは自分を守る唯一の楯を失ない、内なる敵の残酷な視線の前に曝らされることになる。
(2)内向型人間
内向型人間は自己から是認されているが、世間からは否認されていると感じている人間であり、その点で外向型人間を裏返したようなタイプだ。彼らはー人で仕事をしている限り疲れない。しかし、人々と少し一緒に仕事をしたり、人々と暫く談笑していると、忽ち疲れ果ててしまう。その理由は、彼らがはじめに大きくエネルギーを取りこみ、それを自分で適切に調整しながら少しずつエネルギー消費を続けて行くタイプの人間だからである。
内向型人間は、自分で自分を操作する合理的なシステムを持ち、スタミナの配分法も心得、スランプに陥った時の脱出法や新しい着想をさがす「探鉱術」を整備している。だから、エネルギー代謝の周期を大きくし、最初に深く息を吸いこんで少しずつそれを吐き出すという風な生き方をするのである。ところが世間に出るとこうした深い呼吸をすることができず、呼吸の深浅をその時々の現実条件によって変えて行かねばならない。既に自分の個人的なエネルギーシステムを確定してしまった人間にとって、不規則に変化する世間的局面の中で臨機応変に動くのは極めて難しいことなのだ。
内向的人間は自分独自の「フィールド(作業空間)」を持ち、その中でエネルギーを働かせている。そのフィールドとは外面的には研究室や書斉、アトリエや仕事部屋を意味し、内面的には知的空間や情操世界を意味する。外向的人間は世間の是認が得られるかどうかを基準として行動し、周囲の反響を見ながら動いている。従って、彼らは独自の自己評価機能を持つ必要はない。だが、一人きりで働くことを好む人間は、どうしても自分で自分の仕事を判定する尺度を、内に用意しておかなければならない。
内向型人間の仕事は仲々手がこんでいて、完成度の高いのが普通だ。彼らは何時でも自分独自の基準に照して仕事をするため、手抜きせず、その結果は大体ムラの少ない均等な出来栄えを示すようになる。
それに彼らは自分の仕事、自分の作品を自身の代理人として世間の矢面に立て、それを楯にして身を守ろうとするから作業は入念の度を加えるのだ。こうして自分で納得できる仕事を続けていれば、人間誰でも自分を是認できるようになるもので、「内向型人間は乞良になって平気でいる」といわれるゆえんである。
内向型人間が不幸になるのは、自己評価機能を武器にして他者を評価するようになるからだ。本来身を守る防具だった作品を、相手を攻める武器に変えるから問題が起きる。彼らが自己評価機能を対内機能にとどめて、良心的でつつましい生活を送る限り、この世で最も幸福な種族であり得るのに、これで他者を裁くようになるから地獄に落ちるのである。
周囲の人間の行動や仕事振りを自分との比較において眺めれば、内向型人間が優位に立つにきまっている。外向型人間は事宜にかなうことを基準として行動し、行動自体の完成度を求めないからだ。彼らは手を抜いてもいいところでは手を抜き、頑張るとことでは頑張り、世間の要求に合わせた働き方をするのである。
厳しく他人を裁く人間は、返す刀で必ず自分の何処かを斬っている。私達は自分のことを完全に棚に上げて、人を批評することはできない。彼らは周囲の人間もすべて自分と同じ峻烈な目で自分を裁いていると考えてしまうから、世間に出て行くとまるで百千の「鬼の目」にさらされるような気分になってしまう。
内向型の人間は、世間が彼らに完全無欠な行動を要求していると思いこみ、こういう酷薄な要求を突きつける世間に顔を出すことを次第に避けるようになる。要するに内向型人間は、鬼の目で世間を裁き、次に鬼の目を世間に投射して偽世間を作り出し、その偽世間から裁かれるようになるのであり、つまりは自分で自分を裁いているのである。
エネルギー野の構造
個体内に欲求が生まれ、その欲求の強度に応じたエネルギーが引き出されると、これは内的圧力に変って本人を苦しめはじめる。何かを欲求するということは、体内に一種のバネを仕込まれることであり、私達は欲求を満たしてバネをなくしてしまうまでは、どうしても安らかな気持になれない。しかし、欲求を実現する迄には時間がかかるのが普通である。だから、その間苦痛なくエネルギーを封じこめておく袋が必要になる。これがイメージであり、観念連鎖なのだ。
性的エネルギーの過剰に悩む青年達が、ポルノ的イメージの中にそれらのエネルギーを包みこむという事実について否定する者はあるまい。フロイトは「白日夢」という心的機制を取りあげ、欲求不満に陥った青年達は放出されることを求めるエネルギーを白日夢を描くことで解消すると言っている。白日夢はエネルギーの「から焚き」だというのである。だが、実際にはいくら白日夢を描いてみたところで溜めこんだエネルギーがなくなってしまう訳ではない。白日夢は不定型なエネルギーをイメージという袋に詰めこんで、自我の管理を容易にしただけなのだ。
イメージが先に作られ、これに誘導されて欲望が後から生れてくるという事情もないではない。ラ・ロシュフーコーは、恋愛小説を読まなかったら、人がこんなに恋愛することもなかったろうと言ってている。北村透谷があまりにも美しい恋愛のイメージを創造したので、明治期の青年達は「恋を恋する」ようになったのだった。
エネルギーをイメージに封じ込めるよりも、観念を綴り合わせて大きな袋を作り、この内部に収納した方がより効率的である。それで、人は観念連合体であるところの思想を構築し、この中にエネルギーを包み込む。思想は分散していたエネルギーを一箇所に集め、エネルギーの方向を整える整流器の役割を果し、エネルギーの導管にもなり、人を首尾一貫した行動に導くという役割も果している。
思想を持った人間と、そうでない人間は顔つきを見ればわかるものだ。エネルギーが鋤きならされ広く深く統合されていることが、その表情にあらわれるからだ。だが、どんなに深い思想も、多岐にわたるエネルギーのすべてを統合する力はない。宮沢賢治やカントはポルノ本を愛蔵していたそうであるし、嬰児のように純潔だったといわれるニュートンも名誉欲を棄て切れなかった。人間の内面は錯雑な闇を含んで捕え難い。
しかし、エネルギー経済という視点から見れば、複雑な人間とは錯綜したエネルギー保管装置を持ち、その中に未決済のエネルギーを多量に詰めこんだ人間に過ぎない。水を含んだスポンジのようにエネルギーの貯溜機構を持つ者が複雑で、エネルギーと行動との間に中間組織を持たないコム管のような人間が単純なのだ。人間、エネルギーを一滴ずつしか滴らせ得ないとしたら、どっちでも同じことなのである。
サボテンという植物は、表面はつるつるしているけれども、内部は縦横に人りくんだ複雑な管組織で充満している。これらの内部組織は水分を保持することを目的としている。現代人の内面も相互に連格しあう多様なイメージ・観念で溢れているが、これもエネルギーを保持する管組織なのである。サボテンは砂漠に生きるからこういう組織を必要とする。しかし、世界の中に生きる人間が、こんな組織を持つ必要はないのだ。表自己のエネルギーを裏自己に環流させて、休ませることが出来るからだ。「養生」とは、そういうことなのである。
エネルギーの環流
外向的人間は人々の中に出ると蘇生したように元気になって、周囲にエネルギーを投与し周囲から刺激を取りこみ、いきいきと動き廻る。しかし、一人になるとその空虚な世俗的生活を裁くもう一人の自己に直面する。彼らはこの自分自身に対して何も抗弁できない。何か得体の知れない存在によって一方的に裁かれているという受身の感情に襲われ、荒涼とした絶望感・孤独感に襲われる。内向型人間がどこにも存在しない「偽世間」を作りあげて脅えるように、外向型人間もどこにもいない「偽我」を作り出して脅えるのである。
外向型人間も内向型人間も、世間と自己という二つの要素の一方を切り捨てて生きている。そして、自分が切り捨てた世界に恐怖の念を抱いている。自分が排除し否認した部分を外向型人間は「自己」だと思い、内向型人間は逆に「世間」だと思って畏怖するのである。彼等はそのものから自分が否認されていると感じるが、実は自分の方かち先に否認しているのだ。
外向型・内向型を問わず、表自己が不安克服をめざして努力する方向は、ほとんど同じなのである。それぞれ自分の得意とする分野にエネルギーを増投することで、不得意分野を無力化しようとする。だが、これは自分をかえって困難の道に追いやるだけなのだ。外向型人間は一人になるとみじめな想いに囚われるので、一層その世間的活動を強化する。毎日の生活を充実させれば、つまらぬことを考えるひまもなくなるだろうという訳だ。しかし、多忙になれば、恐怖は残された僅かな時間枠の内部に殺倒する。恐怖感は短時間のうちに全面的に「自己実現」しようとして圧倒的な強さにまで昂進するのである。
内向型人間も、「鬼の目」を持つ世間に耐え得る自己を形成しようと苦心惨憺する。前から緻密だった彼らの仕事はいよいよ精密になり、整然たる彼らの言動は完壁の域に迫る。こうして完全主義者の悲劇が開幕するのである。他の部分が完全になってくると、完全ならざる部分が前にも増して気になり、これを是正するために異常なまでの努力を傾注するようになる。こうしてモグラ叩きのように絶えず新しい「欠点」を見つけては、神経を苛立たせる悪循環が始まるのだ。
表から裏へのエネルギーの還流
外向型・内向型人間がその困難を克服する真の方法は、顕在エネルギー野にエネルギーを増投することではなく、そこからエネルギーを引き抜くことなのだ。エネルギーをシフト・アップする方向ではなく、シフト・ダウンする方向に進むことである。
私達の人格全体を蔽うマクロ的なエネルギーの流れが何であるかといえば、それは仕事が済んだら表自己からエネルギーを回収して裏自己に返えすという動きなのである。だが、私達はこの大きな底流に気づかず、表自己にエネルギーを集中するという逆の努力を続ける。自己の表層では、エネルギーを特定の分野に増投して自分を強化しようとしているが、裏面にはそれとは別の底流があり、過剰なエネルギーを回収しようとする。この抗争は長く続くけれども、最終的には後者の勝利をもって終ることをすでに述べてきた。認知界が崩れて英知界が残る現象、経験が消滅して体験が成立する現象、感情が燃え尽きて情感が残る現象がそれである。これらの現象は皆顕在エネルギー野が自己解消することから起る。つまり、表自己にあったエネルギーが裏自己に移る「エネルギーの還流」から起こるのである。
このような運動は、個人の内面に起こるだけではない。この運動を促進する社会的なシステムすらあるのだ。「笑い」の持っている社会的機能がそれである。
ベルクソンは、モリエールの喜劇などを素材にして、笑いの持つ懲罰機能を明らかにしている。物につまづいてころぶ人間を笑うのは、その笑いによって相手に制裁を加え、罰を与えているのだ。笑われた者が笑われることに痛みを感じるのはそのためである。人間の生命は、たえざる創造的進化を続けるべき筈なのに、そこに「こわばり」が生じ、身体と精神の機械的な動きを曝露してしまうから人に笑われるのである。人間精神の硬化を懸念している社会は、誰かがその所作や言動に「こわばり」を見せると、即座に笑いを浴せてこれを矯正しようとするのだ。
生命の「こわばり」は、その他にも色々な面にあらわれる。私達は誰かが有名人そっくりの喋り方をすれば笑う。人間なら皆違っているべきなのに、二人が「物理的物質的」に似ているから、人間ならもっと独自で生命的であるべきだと笑うのだ。
ベルグソンが「生命のこわばり」と呼んでいるものは、「エネルギー野のこわばり」と言い換えた方が分かりやすい。ベルグソンの「笑い」を読んで、私が感じる唯一の不満は、彼が笑いの毒素的側面を説くだけで、その救済的機能について触れようとしない点だ。集団内部の一人の正直な発言が、一座に大きな笑いを捲き起こすことがある。皆がタテマエ論だけ言って座がしらけて来た時、一人が本音を吐けば一同救われたように笑い出す。たった一言が、薄氷の張りつめた池に投じた石のように、人々の硬化したエネルギー野を破砕するのだ。お蔭で人間が画一化してしまう危機が回避されたのである。この場合、笑いは一同の共感と感謝の表明なのである。
裏自己から表自己ヘエネルギーを汲みあげれば汲みあげる程、私達の視野はせばまり自縄自縛におちいる。碁打ち・将棋さしは勝とうとして力を集めると、盤面の一部しか見えなくなるし、スポーツ選手が力を入れすぎると、体が堅くなって視野狭搾を起こす。
裏自己にエネルギーを置いておくのは、預金にして金を持っているようなものであり、これを表自己に吸い上げて操作エネルギーにするのは預金を現金に換えるようなものだろう。現金が増えると、これを入れる財布すなわち「認知界」が小さくなって行くという不思議な現象があるのだ。強力なエネルギーは、酸素ボンベのように小さな容器に詰めこまれるのだ。
もうー度くり返すが、自己を救う道は、エネルギーをシフト・アツプする方向にはなく、逆にシフト・ダウンする方向にある。自動車のギアをトツブからセカンドヘ、セカンドからローヘおろして行くように、自分のエネルギー・シアトを少しずつダウンさせて行くのである。
「こうあるべきだ」と押しつけて行くかわりに「こうあるべきだと思う」と一歩後退し、「こうあるべきかもしれない」と二歩後退する。
「それは間違っている」と決めつけるかわりに「私ならこうするのだが」と独語する。 「これをせよ」と言わないで、「これをやってくれるか」と命令形を依頼形に変える。 決定事項を伝える場合にも、「こうきまったが、そちらの都合はどうか」と相談する形をとる。これらは練達しだ社会人に通有する語り口であり、「手口」である。相手を自発的行動の主体として捕えて、その前に自身を依頼者として置くという点に特徴がある。私達が他者に働きかける場合、その権利を最初から持っている者は誰もいないのであり、私達は誰でもはじめは依頼者として働きかけるのである。
私達は、人からこうした方法で語りかけられるとほっとするが、本当はこう語った本人がまず自分を救っているのである。先方の自主性を尊重しておけば、相手が拒んでもこちらの腹は立たない。「こうあるべきだ」と先方の行動にあらかじめ枠をはめ、それを既定の事実として自身の態度を決めてしまえば、相手が拒んだ時、空ら振りに終ったエネルギーのやり場がなくなる。怒りは、こちらの態度をもう一度組み変えなければならないことに対する負担感の表明なのである。
エネルギーをシフト・ダウンするということは、相手にまず態度形成を行なわせ、自分の態度決定を後廻しにすることであり、これが一番賢明なエネルギー節約法なのである。
還流運動への逆行
一度外へ向けて投出してしまった操作エネルギーが再び自我組織の中に戻ってくることはない。にも拘わらず、一つの仕事を成し遂げたあと、私達はそこへ向けたエネルギーを回収して元気を取り戻したと感じる。実際、私達は主観的にはブーメランのように投与したエネルギーを回収しつつ生きている。
フランスのジャネは、心理学の領域にエネルギー概念を持ち込んだ最初の精神医だった。彼は心的エネルギーの増加因について研究し、それが達成感・成功感にあることを主張している。何かを自力で達成したという自覚が、当人の内的エネルギーを増大させる事実は、その後教育現場で広く認められるようになり、遅進児に意欲を持たせる最良の方法として単純な仕事をーつでも成功させる試みが色々為されている。
だが、私達の多くは、ある仕事を成功裡に完了させた時に自分の身内に感じられる力の充溢感を、新しいエネルギーが生まれたとは考えないで、目的を達してそこからすっかりエネルギーを回収したためだと思う。そして逆の場合、「心残りだ」「未練が残る」と言い、エネルギーが不成功に終った仕事の上に停滞していると感じる。私はこうした錯覚は、エネルギーを表自己内にストックしておきたいという気持の現れだと思う。
私達は自我組織というエネルギー保管装置を作りあげた結果として、必要があろうとなかろうと、ここに常時エネルギーを貯えておきたがる。ダムが完成した以上、これに水を貯えておかねばならぬと思いこむのだ。表自己にとめ置いた不要不急のエネルギーを遊ばせておいては、倦怠感がうまれる。そこでエネルギーを投下した後、それを擬似的に回収する遊びを考案するようになった。
私達はハピーエンドで終る通俗物語を愛好する。テレビドラマ・マンガ・雑誌小説のほとんどすべてが、全く同一のパターンで作られている。これらのストーリーの登場人物はいずれも犬はワンワン式の図式的な性格を持ち、視聴者や読者は登場人物の誰と同一化すべきか、あらかじめ作者によって指定されている。主人公は然るべき苦難や逆境をくぐり抜けた後に、必ず型通りの「幸福」にたどりつく。ストーリーに接しているうちは適当にハラハラするが、後には何も残らない。
侮蔑的な批評に「読後に何も残らぬ三文小説」という言葉がある。たが、作者は半ば計算して書いているのである。物語に投入した視聴者・読者のエネルギーが仮空世界を一巡した後に、人々の手元に安全確実に還流するように、そして彼らに快よい疑似運動感覚を残しておいて、あとはキレイさっぱり忘れ去るようにストーリーが塩配されているのだ。ハピーエンドは作品の中に残っていた人々のエネルギーを集塵機のように吸い取り、大団円を機として感情は作品から完全に離脱する。こういう回遊構造を持たないストーリーは人から愛されない。
私達の美意識の表層にあるシンメトリーの欲求もこうした構造を持っている。左右対照図形を見る時、私達の両眼は構図の両側を同時になぞり、この同時運動を終えると静止する。直線を見る時の眼球の運動は単調で、エネルギーの消費量が少くなくて冷たい印象を与える。しかし、左右対照図形を見ると、適度な運動感があって、しかもエネルギーが確実に自己の手許におさめ取られたという疑似感覚が残る。整いすぎたシンメトリーは、あまりうまく出来ている通俗小説と同様、一度それらに接したあとはもう再び興味がそこに向いていかないという弱点を持っているが、人が不要不急のエネルギーを遊ばせながら生きている限り、こうしたものへの欲求は終ることがないのである。
エネルギー回遊構造への愛着は、社会生活そのものを規定している。儀式がそれである。誕生祝いから始まって、結婚式、葬式など、個人の生涯に数珠のように並んでいる儀式は、人々から多くのエネルギーを奪い取る。そして、終わった後に、無事に終了したという満足感を与え、当事者にエネルギーを回収したという錯覚を与えてくれる。私達の毎日の実務も本筋から離れて様式化し儀式化しているものが多い。
エネルギーは、用が済んだら裏自己に環流させるのが本当なのだ。だが、それを表自己に何時までも拘置しておこうとするから、生活を儀式化したり、エンターティンメントに依存しなければならなくなる。