考察 意識内の「エネルギー凝滞」が問題を引き起こす点については、さまざまな指摘がある。フロイトは、人間をエネルギー通路だととらえ、エネルギーの流れが阻止されたときに発生する病的な症状を事細かに取り上げているし、ウイリアム・ブレークも「欲望するだけで行動しない人間は、心に疾病を生じる」と言っている。
ここで取り上げてきた先人たちは、30代前後に「エネルギー凝滞」に基づく深刻な内面的危機に遭遇し、神経症ないしそれに類似する兆候を見せていた。そして、長いトンネルを抜け出た後は、人道意識に基づいた新しい生活を始めている。
世の中には、外見上、彼らと同じような内面的危機に陥った人間が数多くいる。しかし、それらの人々は、この5人のような暗から明への劇的な転換を見せていない。
中江藤樹と伊藤仁斎は、若年の頃から、朱子学が理想とする人格に近づこうと懸命に努力している。生まれながらの「気」に囚われていた過去と縁を切って、自分を宇宙の理法に合致する理性的人間に改編しようと努めたのだ。
二人は、朱子学的教条に忠実に従った。だが、何時までたっても目標に到達することができなかった。エネルギーを投入すればするほど、理想は遠くなり、絶望の念が深くなった。そして、心が鬼窟化したのである。
アウグスティヌスとパスカルは、クリスチャンとして新しい生涯を始めようと試みている。だが、アウグスティヌスは、入信への第一歩をどうしても踏み出すことが出来なかった。パスカルも又、自己の信仰を深化しようとして果たせず、苦悶の日々を送っている。二人とも、橋の手前で逡巡して、泥沼にはまったように動きがとれなくなっていたのである。
禅僧だった良寛は、「悟り」をもとめて修行を続けた。師による印可を得た後も、「悟り」は一向に得られず、幽鬼のような姿で四国の山野をさまよっていた。
5人の絶望がかくも深かったのは、理想人格を目指した彼らが、厳しい自己評価の目で自身を裁き続けたからだ。普通の人間の潜在的な欲求が、人々から愛され尊敬されることにあるとすれば、彼らの欲求は自分自身で受容できるような人間になることだった。
世俗型の人間の自己評価は、「相対評価」である。自分が誤りを犯しても,みんなやっていることだからと自己弁護することができる。周囲の人間から非難されても、自分を愛と尊敬の目で見てくれる者はまだ他にいると自身を慰めることも出来る。
しかしこの5人のように信念型の人間の評価は「絶対評価」だから、逃げ道がない。投入されたエネルギーは「欲求不満」状態のまま内部に残り、「エネルギーの凝滞」が深刻なレベルに達してしまう。
そして、この凝滞の人並みはずれた深刻さが、暗から明への劇的な転換をもたらすのだ。凝滞していたエネルギーが多ければ多いほど、それが解放されたときの光明感覚も大きくなるのだ。
鈴木大拙は、この間の事情を「浄土系思想論集」という本の中で平易に解き明かしている。彼は、明と暗、浄土とシャバ、悟りと迷いの関係について次のように指摘する。
世に「迷悟一如」という言葉があるけれども、迷いは悟りをもたらす呼び水にほかならないから両者は一体なのである。
心の闇は当人が意識しなくても、おのずと救済の光明を呼び起こす。それはちょうど嬰児の発するあてどもない泣き声が、母親を呼び寄せるようなものだ。
彼は、迷いと悟りが「一如」と感じられる理由を、迷いとして凝結していたエネルギーが解放され、氷が溶けて等量の水になるように、迷いのエネルギーがそのまま自由エネルギーに変換するからである、と説明している。
では、何を契機にして凝結していたエネルギーは、自由エネルギーに変換するのだろうか。その仕組みについて、私は次のように考えている。
人は社会的人間として行動している時には、自分の活動領域を「感情野」としてとらえている。感情とは、個体エネルギーを囲いこみ閉鎖した時に生じる特殊な意識で、その人間のエネルギー野の広狭とか硬軟の状態を示す言葉なのである。自分が活躍する場としてのエネルギー野が縮小すれば悲しみの感情が発生し、エネルギー野が拡大すれば反対によろこびを感じる。
「感情的」と呼ばれる状態になるのは、個体エネルギーが狭いところに押しこめられたからであり、女性が感情的だとされる理由も、彼女らが社会的な制約から、男性より狭小なエネルギー野しか与えられていないからだ。
「社会的人間」という枠を離れて「自然人」の立場に移行すると、感情野のかわりに「情感野」が出現する。同じ状況に置かれても、感情的反応はそれぞれの境涯によって異なるが、情感の方には個人差がほとんどない。
私達は考えるともなく物を考えていることがある。知らず知らず無念になって景色を眺めていることがある。そのうちにふと我に帰って日常意識の中に立戻るのだが、我に帰る以前に心にあったものが情感なのだ。
悲しみに捕われて泣いているうちは感情のレベルにあるが、思い切り泣いたあとは、さっぱりした平静な気分になる。この気分が情感である。フランクルは、「人は悲しみのあまり眠れない時に睡眠薬を飲んで寝てしまうかわりに一夜を泣き明かす方を選ぶ」と言っている。
私達は悲嘆の底に沈みながら、悲しみの果てに救済が待っていることを予感しているのだ。悲しみをいやす方法は、ほかにはない。ただ徹底的に悲しむことだけだ。本能的にそう感じて泣いているうちに、その感情の向う側に、それとは別種の情感が少しずつ感じられてくる。
それは水中にあって、水の上の空を望む感覚に似ている。はじめ明確に知覚できなかった情感も徐々に明らかになり、やがて特有の輪廓をそなえた情感が出現し、それに伴って情感と結びついた直感が成立する。この悲しみは自分が耐え忍んで行かねばならぬものなのだという直感である。
情感は自我の統制から離れ、意識の圏外にあって生動するものだから、その運動法則を定式化して掴むことは難しい。だが、情感には次のような特徴があることは確かだろう。情感とは、向世界的な情動であって、自分自身を眺める時にも開かれた世界の中の一個体という風な捕え方をする。
子に裏切られた親は、はじめ自分の不幸だけを見て苦悩のうちに沈んでいるが、やがて自分を広い世界の中に置き直し、これが親に与えられた運命であり、人間のさだめなのだと思うようになる。こういう風に、自己を人類の一員として捕え、事態をより広い立場から再把握した時、感情的世界とは異なる情感のレベルに抜け出るのだ。
情感は決して内へ向わず、広大な外の世界に向っている。その広大な世界とは、「一顆明珠」世界にほかならない。
情感は個人が意識的に形成して来た信条や世界観とは無関係に生起する。情感は世界が動くのに応じて動く世界的意識であり、「風吹けば動き、風やめばとまる」情念なのである。フロイトがほかの感情とは区別して「大洋感情」といっているものは、実は情感のことなのだ。
高所にあがれば人は誰でも恐怖を感じる。同様に、錐・ナイフの尖端にも、自分が多数の者から注視されるという状況にも、恐れを感じる。これらは、情感が私達に注意をうながす結果として出現する当然の現象なのである。だが、恐れの情感はそのまま次へ移って停滞しないし、それらに慣れてくれば、効果的な対応法も自然にマスターされる。
情感は自分より強力なものを見れば脅え、自分より美しいものを見ればわが身を恥じる。これには理屈がない。この初発の情感に逆らえば、感情野に混乱が起こり、コンプレックスも生まれるし「葛藤」も起き、挙げ句の果て、神経症にもなるのだ。
中江藤樹以下の先人が、凝結していたエネルギーを自由エネルギーに変換させることが出来たのは、情感野が触媒になって感情野に滞っていたエネルギーを解放したからだ。
情感エネルギーは、それ自体としてはごく軽微の量しか持っていない。情感が見る世界は、あるがままの世界、目に映ってくる通りの世界だから、これを捉えるのにさほどのエネルギーを必要としない。情動面には、テレビなどの待機電力並のエネルギーしか配当されていないのである。
微弱な力しか持たない情感エネルギーには、強力な感情的エネルギーを動かす力はない。けれども、情動野と感情野のズレがあまり甚だしくなると、感情エネルギーを自己解放させる。つまり、触媒としての働きをするようになるのだ。
触媒というのは、自らは変化しないで他の化学変化をうながす作用をする。情感は、変化しない。これは生命機能と共にあるから、成長することもないし、退歩することもないのだ。生命体本具の機能なのである。
チンパンジーが、アフリカサバナの大夕焼けを、嘆賞するような表情で見入っている事例が報告されている。動物にも感情があることは疑いないが、彼らには多分情感も備わっているのである。
凝結を解かれて自由になったエネルギーは、まず情感が捉えている世界を見る。囚われない素直な目で、ありのままの世界、「事実唯真」の世界を見るのだ。
この世界に生を受けた生命体には、本具の形で世界の総体を受容し、これに愛情を寄せる気持ちが与えられている。だから、ありのままの世界を見るとき、私たちは無差別の愛、全体への愛を感じるのである。
回心とは、心の向かう方向をコンバートすることである。感情野に閉じこめられていたエネルギーを解き放って、情感の野に向わせ、私たちの心を生きとし生きるものへ受容に向かわせることなのだ。
中江藤樹らは、回心によって蘇生し、情感の見た世界に足場を置いて思想を再構築した。彼らの思想に相通じる部分が多いのは、このためである。