考察

「至高体験」は、個人が古い自己圏を突き抜けて、新しい世界に出たときに訪れる。この時の印象は鮮明で、このテーマについて書いた多くの生徒が、「すべてをはっきり覚えています」という意味の言葉を書き添えている。その瞬間に涙を流したという生徒も多い。

「至高体験」については、毎年のように生徒に書いて貰ってきたが、ここに示したサンプルは、大学紛争華やかなりし頃のものだ。あの頃の手記は、総体にレベルが高かったような気がする。安保騒動が終わり、学生運動の季節が去ると、パセティックな手記が少なくなり、生徒の提出する手記は、なべて平板になった。

これは日々の生活が平穏になって、生徒たちの体験内容が希薄になって来たことを反映しているに違いない。以前には、満州から引き揚げてきたが家がなく、公衆便所を占拠して家族全員で数ヶ月暮らした体験を書いてきた生徒もあったし、次のようなほほえましい手記もあった。

3人きょうだいの私たちにオヤツを買うとき、母は「お前たち、アイスとトマトと、どっちがいい? トマトの方がいいだろ」 といって、何時もトマトを買ってきた。アイス一つとトマト一つが同じくらいの値段だったが、トマトなら三等分することが出来るからだった。

「至高体験」を内容別に分類すると、最も多いのが達成体験で、これに関しては実に多くの事例が報告されている。ソロバン検定に合格したり、弁論大会に入賞したり、クラブ活動で他校に勝利した体験を挙げる者がいるかと思うと、中学時代に成績が全校トップになったことをあげた生徒もいる。

弓道の方では、手持ちの矢を全部マトに当てることを「皆中」というらしいけれども、はじめて「皆中」したときの感激をほぼ同じような筆致で書いてきた生徒が複数いた。鉄棒について書いてきた二人も、同じような状況について同じような気分で書いている。

何かを達成したときに感じる感動の背後には、それまで目の前に立ちふさがる壁が崩れて視界が拡がったという事実がある。鉄棒が出来るようになった喜びには、鉄棒が出来ないことで陥っていた視野狭窄から解放されて、世界が本来の広さに戻ってことに対する喜びが潜んでいる。「世界の本来相」が回復されたことで、「至高体験」が得られたのである。

「至高体験」という課題のもとに、生徒たちが悲しみの記憶や虚無感情について書いてくることの不思議も、「世界の本来相」という概念を持ってくれば理解できる。私は「悲哀体験」の項で示した諸ケースのうちで、「祖母の死」に最も深い感銘を受けた。愛する祖母を失うまでの悲痛な体験を最高だと感じたのは、この生徒がここに人間の運命を見たからなのだ。「事実唯真」の世界に触れたことで、この体験が心に深く残ったのである。

「生への疑問」の項目には、生きることを否定するような手記が並んでいる。これも人生を肯定する卑俗な話を明け暮れ聞かされてきた彼女らが、自分の目と頭でそれとは異なる人生の実相をつかんだからなのだ。
「工場で働いて」は、シモーヌ・ヴェーユの「工場日記」を思わせる。フランスの女流哲学者シモーヌ・ヴェーユは、工場で一年間働いて、単調な労働に明け暮れする喜びのない労働者の日常に、人生の縮図を見ている。「工場で働いて」の生徒も、一週間のアルバイトでシモーヌ・ヴェーユと同じ認識に達したのである。

「死への怯え」は、生あるものの前途に待ち受けている運命を、初めて意識した少女のショックを正直に書いている。ここには引用しなかったが、これと同じ趣旨のレポートもあった。その生徒は、家族と一緒に田んぼで田植えをしているうちに、ふと人間はみな死んでしまうという事実に思い至った。すると、圧倒的な恐怖におそわれ、仕事を放り出して家に逃げ帰り、押入の中に入って震えていたという。死を意識するようになってから、考え方が現実的になったという点に注目したい。

「主体性の確立」の項を読むと、「至高体験」が二重の構造をしていることが分かる。古い自分に縛られ、さらにイージーな常識に縛られていた生徒たちは、新しい自己を確立することで、親や教師、世間や社会からの圧力を跳ね返すことが出来る。既成の常識を振り捨てて、堅固な自己を確立したときの高揚感が、「至高体験」の内容になっている。

しかし、自己を確立することは終着点ではない。本当の「至高体験」は、その自己を抜け出て「事実唯真」の世界を体感することによって得られる。「祖母の死」には、自我の確立とか自己形成とかの要素はない。「一人の人間の死を身をもって体験する」ことで、生徒はこの世界を構成する冷厳な秩序とその中における人間の宿命を全身で感じ取っている。そして、そのことで自己確立の体験よりも更に深い体験を得たのである。

「愛情体験」も、基本的な構造は、事実唯真世界の受容によって生まれる。人は肉親に対して不満を抱いたり、級友に反発することもある。私たちがそうした身近な人々への不満を捨て去り、彼らを心から受け入れるとしたら、自分に与えられた運命を受け入れ、この世界の秩序を受容したことになるのだ。
「母の眠り」というアメリカ映画を見ていたら、年老いた母親が娘に、「幸福になるなんて、簡単だよ」とさとす場面があった。「幸福になるなんて簡単だよ。今持っているものを愛しさえすればいいんだからね」と。
誰かを愛するということは、相手のすべてを留保条件抜きで受け入れることであり、相手をかくあらしめている世界全体を受け入れることなのだ。

「至高体験」が二重の構造をしているのは、人間の内面が二重の構造をしているからである。われわれは、自己愛を持っている。この自己愛のほかに、人は自我を包み込んでいる外部世界への愛を持っているのであり、これを世界愛と呼ぶなら、われわれは自己愛と世界愛という二重の愛を持って生きているのである。

自己愛は強烈であるので、脱線して歪んだ形になることがある。「露見した嘘」では、怠惰な自分を守るために嘘を重ね、その嘘がバレたとき、自己愛の歪みがただされて本来の形に戻っている。自己愛をエゴイズムと呼ぶのは誤りであり、まっとうな自己を守ろうとするものこそが、真実の自己愛なのだ。偽りの生活を精算し、本来の自己愛に立ち戻ることで「至高体験」に到達することが出来る。

偽愛が崩れて、真実の自己愛が現れてくるためには、背後で世界愛が働いている必要がある。「露見した嘘」で重要なのは、「ふと、母を憐れむ気持ちが起きた」というところだ。人は、自らの過ちを、自分の力だけでただすことは出来ない。外部世界から射し込んでくる光を受けることによって、自らを省みることが出来るのである。この生徒は、母を哀れだと思った。母親の実像を直視し、親であることの哀れさを感じ取ったことで、自らの過ちを照らし出されるように感じることが出来たのだ。

われわれを立ち直らせるのは、外部世界の実相なのである。純粋に内省の結果立ち直ったと思われる場合にも、過去に体験した外なる世界の実相が想起されている。人が立ち直る契機は外から得られるのであり、無から有が出現するように内から生み出されるのではない。

人は自己愛と共に世界愛を持っている。この世界に対する愛は、理想化されたユートピアのような世界に対するものではない。美化や理想化を加えられない、あるがままの世界に対する愛なのである。だから、世界愛と言うよりも事実に対する愛、事実愛と言った方がいいかもしれない。くりかえすけれども、人間には、修飾を加えられない生のままの事実に対する愛があるのだ。「布団を敷く母」では、生徒は等身大のあるがままの母を見て、これまで感じなかったような深い愛情をその母に寄せている。

事実唯真の世界からは、人は何の感興もそそられないように見える。だが、人間は、ありのままの世界全体を深いところで 愛し受容している。そして、人を善に導き、至高の喜びを感じさせるのは、この世界愛を体感したときなのである。

ここに紹介したもの以外にも、記憶に残るレポートがいくつかある。たとえば、自分に与えられた義務を成し遂げたときに深い満足と喜びを感じたというような体験をつづったレポートがそれである。

ある生徒は小学校1,2年頃の出来事として次のような体験を記している。ある日、担任の教師が何のために掃除をするのかということを丁寧に教えてくれた。掃除当番の仕事が雑になっていたからだった。その日、掃除当番だったその生徒は、仲間が帰ってしまってから、教室のあちこちにまだゴミが残っていることに気づいて重い気持ちになった。どうしても帰る気持ちになれなかった。そこで遂に自分一人で掃除をやり直すことにした。長い時間をかけて掃除を終えたときに、彼女は不思議な満足を感じたというのである。自分一人の胸を充たした自分だけの満足。

もっと簡単に 「為すべきことを為し終えて、(ああ、これで寝られる)と思うときが最高だ」 と書いてきた生徒もある。

それから、これは女生徒に限った特徴だと思うけれども、小学校5,6年頃に担任の先生のために勉強したり、顧問の教師のために猛練習をしたというケースが数多く目に付いた。この時期に先生のためにと最も勉強し、成績もこれまでで一番よかったという生徒が多い。そして彼女らは、先生ためにがんばった思い出を至高の記憶として心にとどめているのである。

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