世論の行方

先日の朝日新聞に下図のマンガが載っていた。これを見て思わず笑ってしまったが、それは私も田中真紀子外相の失脚に始まる一連の政界スキャンダルを「連鎖劇」として眺めていたからだ。

しかし「連鎖劇」として眺めるよりも、バケツリレーにして眺めた方が、簡にして要を得ている。しかも、「バケツ」と「墓穴」をひっかけるところなど、実にうまくできていて、さしずめ座布団一枚というところである。

          

このバケツリレーの発端が、田中真紀子外相にあることは疑いない。
真紀子氏の弱点は、外交に関する基本的知識がゼロに近かったことで、外務大臣になって半年経過した時点で、まだ「オスロ合意」について何も知らなかったというのだから開いた口がふさがらない。

こういう彼女には、外務官僚がつきっきりで個人教授をしてやらなければならなかった。だが、その際、彼女の集中力は3分間しか続かず、これには進講役の官僚も往生したと伝えられている。

その真紀子氏が外務省と死闘を演じて討ち死にしたときに、世の同情は彼女に集まった。理由は、国民の多くが真紀子外相にもマイナスはあったが、外務省にはそれ以上のマイナスがあると感じていたからだ。マイナスとマイナス二乗が衝突すれば、世論はマイナス二乗の方を叩くのである。

外務官僚というのは自分たちを特別の存在と思いこんでいる。国民は、お高くとまっているくせに、無能で金に汚い外務官僚を嫌悪の目で見ているから、真紀子外相が外務次官と相打ちになって解職されたと知れば、彼女に同情が集まるのだ。

そして、この外務省と鈴木宗男議員が対立する形勢になれば、世論は再びマイナスの多い方を叩く。外務省がマイナス二乗だとしたら、鈴木宗男はマイナス三乗だから、今度は外務省に同情が集まった。

鈴木議員は、時の権力者にすり寄って犬馬の労を尽くし、弱い者には恫喝をもって臨むタイプで、この種のやからには、多くの国民が日頃悩まされてきたから、鈴木議員の旧悪が暴露されるにつれて、彼への非難がたかまり、ついに彼への嫌悪感が外務省に対する嫌悪を上回るほどになったのだ。

ここまでのところでは、世論はマイナスの多い方を叩いて追放するという動きを示してきた。しかし政界連鎖劇の次の場面は、少々、おもむきを異にする。鈴木宗男を厳しく追及して、国会のジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになった辻元清美議員が、秘書給与問題で議員辞職に追い込まれたのだ。

辻元議員は確かに法を犯していたけれど、鈴木議員や加藤紘一議員のやっていたことに比べたら「微罪」といっていいくらいなものだった。事柄の軽重という点からすれば、彼女はもう少し大目に見てやってもいいような気がする。が、そうはならなかった。女性週刊誌などは、辻元議員を性的変質者扱いして非難中傷を行っているほどだ。

世論というものはこのようにして動くのである。人気の高かった政治家がへまをしたり、無能であることが明らかになったりすると、世論は一転して手のひらを返すように攻撃の矢を浴びせかける。田中角栄が首相になった頃の人気はすさまじかったし、近くは細川内閣の人気もそれに劣らぬものがあった。それが落ち目になると、世論が一斉に動き始め、昨日までの人気者を一気にどぶの中にたたき落とすのだ。

つまり、世論というものは上と下を切り捨てて、人間を平準化する方向で動いている。どこの国の世論も同じように働くけれど、日本の場合は特にその傾向が強い。これには、多分天皇制の存在が影響している。

日本人は、天皇だけを別格にして、その他の人間を皆平均化してしまいたい欲求を持っているのかもしれない。空前の人気を誇った小泉内閣が、今後どのような運命をたどって行くか、注目して見ていきたい。

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