日本人を洗濯する
坂本龍馬は、「日本国を洗濯する」と語ったというけれども、いまの日本に必要なのは、「日本人を洗濯する」ことではないだろうか。日本人の意識には、俗信や下僕根性、慣例墨守や大勢順応癖など長年の垢がこびりついている。今、問題になっている角界の不祥事も、日本人の心にこびりついている垢の仕業だと思われるのだ。
西欧には、「啓蒙主義の時代」という時期があった。その頃の西欧諸国には、啓蒙思想によって国民の精神的レベルを引き上げようと努力する「啓蒙君主」が次々に出現して、上から旧習打破に努めたから、不合理な社会的慣習がかなり無くなっている。だが、日本は啓蒙思想=合理的精神を欠いたまま明治維新を迎え、欧米に追いつこうとして急いで近代化したため不合理な慣習を数多く残すことになった。
私は戦争の末期に兵卒として軍隊に召集されたが、内務班があまりにも非人間的なので呆れてしまった。新兵は古兵が演習から帰ってくると、「ご苦労様でした」と声を揃えて迎え、その足元に飛びついて巻脚絆を解いてやるのである。まさに足を舐めんばかりの奉仕ぶりだった。古兵らの楽しみは、そんな新兵たちを手を変え品を変えていじめることで、新米の兵隊を散々慰み者にした後で、消灯時間がくると、新兵の枕元でこんな唄を歌うのである。
――新兵さんは、かわいそうだね、
また、寝て泣くのかね――もちろん、すべての古兵がこうだったのではない。底意地の悪い古兵は全体の2〜3割程度だったが、しかし何処の班にもこういう古兵がいたのである。彼らに対しては班長さえ遠慮して口を出さないのだ。
軍隊の内務班を体験して、つくづく日本の男性社会は駄目だと思った。徹底的に下劣で、質が悪いのである。だが、その後知ったところでは、こうした内務班風の集団が日本のいたるところにあるのだった。中学・高校の運動部では、三年生が内務班の古兵のように下級生に君臨しているし、先輩・後輩がチームを組んで作業する建設現場なども内務班そのままなのである。そして、内務班的な構造が最も露骨に再現されている集団が、大相撲傘下の相撲部屋なのだった。
相撲部屋の新米力士(取的)たちが、先輩関取の世話をまめまめしく焼いているところは何時もテレビで目にしている。その様子は、内務班で新兵が古兵の世話をする場面にそっくりなのだ。取的たちは、内務班の新兵たちのように一日中、休みなく働いている。ちゃんこ料理の素材を買いに出かけるのも、包丁を取って料理するのも、食事の後片付けをするのも、部屋内の一切合切の雑用を引き受けているのも、取的たちなのである。そして、それらの仕事を済ませて、寝るところときたら、一人あたり二畳か三畳しかないような雑居部屋なのだ。
私が軍隊にいて一番やりきれなかったことは、一人になれる場所がトイレしかなかったことだった。個人の空間、私生活の場が、どこにもないのである。これまで本を読むのを仕事にしていた学生が、本や雑誌は無論のこと新聞すら読むことが出来ない環境に投げ込まれる。すると、活字に対する飢餓感が生まれてきて、新聞の切れ端などを見つけると、皺を伸ばして雑報記事まで読むようになる。
一方、古兵たちはといえば、面倒なことは皆新兵にやらせるから、食事を済ませてしまえば、することがない。そこで、彼らは寝そべって、猥談と上官の悪口に興じるのだが、事情は相撲部屋でも同じらしいのである。
稽古を済ませた古参の力士たちは暇をもてあまして、四人集まれば麻雀ということになるという。特に、大学出の関取は、学生時代に遊び慣れているから、麻雀から野球賭博にまで手を伸ばし、大金を賭けてスリルを楽しむことになる。「大学出、閑居して、不善を為す」である。
相撲取りが賭博に走るのは、相撲部屋の内務班的構造にあるのだから、それをそのままにして、いくら精神論を説いても効果はない。要は、相撲部屋の合宿的構造を改め、力士一人一人の私生活を保証してやることなのだ。ボクシングのジムでは、訓練生は自宅から通ってきて、練習が終われば家に帰るという生活を送っている。大相撲もこれに近い方式を工夫して行かないと、そのうちに入門希望者がなくなってしまうのではなかろうか。
大相撲の実況放送を見ていて感じることは、親方や行司などの数が多すぎはしないかということだ。相撲部屋には、部屋を主宰する親方の他に、部屋付きの親方が何人もいて協会から給与を受けている。相撲協会は力士の互助組織みたいなものだから、人員を整理せよとは言わないけれども、無役の親方たちをもっと効果的に活躍させる場を用意すべきだと思う。
相撲協会が暴力団と縁が切れないのは、地方興行を暴力団に請け負わせていりからだという。としたら、こういう部門に部屋付きの親方を投入して、地方興行をスポーツ団体と共催するなどの仕事をさせたらどうだろうか。大きな民間企業は、地方に支社を置いたり駐在員を配置したりしている。手の空いている親方を地方に駐在させて、相撲の指導や有望な入門希望者を発掘させ、併せて地方興行を自前で実施する下ごしらえをさせることにしたらどうか。
大相撲を国技だとか伝統的な祭事だとかいって、相撲部屋の内務班的な構造をそのまま温存させたら、相撲協会の不祥事は今後も絶えることなく続き、ファンから見放されてしまうだろう。
話変わって――天皇のお孫さんが学習院で男子生徒におどされ、登校拒否になったという事件、ここにも、啓蒙思想の不在という欠陥が現れている。責任は、脅した男子生徒の側にあるというのではない。責任があるとしたら、皇室を高貴なものに祭り上げている世論や、それを黙認している当事者の側にあるのだ。
理性的な目で見たら、人間の資質は生まれや門地に関係なく万人に平等に付与されている。人間はすべて平等に生まれてくるのだから、全員が等しく尊重さるべきだというのが、理性的人間にとっての公理なのである。学校の児童は正直だから、皇孫も自分たちも同じ子供なのに、皇孫だけが高貴な存在として特別視されるのはおかしいと考える。これは、ごく自然なことではなかろうか。
現天皇が、学習院に通っていた時にも、同級生は反発して皇太子をあだ名で呼んでいた。そのあだ名は名誉毀損になりかねない、かなりひどいものだったという。保守に媚びるマスコミなどが、皇族を高貴な存在として祭り上げれば上げるほど、人間すべて同じという世論との距離が開き、反動的に皇族は蔑まれることになるのだ。贔屓の引き倒しとは、このことである。
もし皇太子や皇孫がJRに乗って一人で登校し、クラスメートと同じように、その他大勢の中に紛れて行動していたら、反発を買うことはないのである。
戦争中の日本人は、「天皇は、神におわします」と教え込まれ、天皇のために死ねば自分も靖国神社に祀られて神になると思っていた。戦争が敗北に終わると、天皇は、「人間宣言」なるものを発して、自分は神ではないと国民の前で弁明する・・・・外国人の目には、こうした光景がいかにも異様なものとして映ったのである。
西欧にも、イギリスを始めとして国王を頂いている国はいくつかある。しかし、啓蒙思想の洗礼を受けた国民は、国王も自分たちと変わりのない普通の人間だと思っている。そして、国王一家は、一般市民と同様の家庭生活を営み、市民と同じ経済観念で家計を処理していると判断している。国王一家の収入は、先祖伝来の資産からくるものだったり、国から与えられる年金だったりするが、家族が倹約に努めている点は、普通の家庭と変わりないのである。
国王は限られた収入のなかから必要な使用人を自費で雇い、王妃らは家計を節約するために自らスーパー出かけて買い物をしている。そして、余裕が生まれたら、一家でバカンスを楽しむために南仏の地中海海岸に出かけてヨット遊びを楽しんだりするのだ。要するに、国王一家の生活意識は、国民とそれと何ら変わるところがないのである。坂口安吾が、本来あるべき天皇制として思い描いていたのも、こうした西欧式の皇室だった。
ところが日本では僅か数名の天皇一家が、東京の広大な超一等地を独占し、数百人の国家公務員に供奉されて暮らしている。もし天皇が西欧の王室並みの年金で、使用人をその年金の中から私費で雇い、自ら買い物に出かけ、宮内庁の役人や警護の役人をすべて無しにしてくれたら、どれだけ国費を節約できるか知れないのだ。こうすることは、天皇家にとっても望ましいことなのである。誰からも特別視されず、自分の欲するような金の使い方をして、好きなときに好きなところに出かけられる日常以上に幸福な生活はないのだから。
とにかく、日本人は日本の美風とされているもの、伝統とされているものを理性の目で洗い直し、不合理なものは捨てて行かなければならない。