良寛の場合
伊藤仁斎と酷似する生涯を送ったのが良寛であり、良寛も折返し点によって折半された相反の人生を生きている。この両者は時代こそずれているが、実生活上・思想上の一卵性双生児だったと言っていいだろう。
良寛は越後の田舎に名主の子として生まれたが、幼い頃から本の好きな非社交的な子供だった。母が盆踊に行くように家から送り出してやっても、何時の間にか家に戻って来て、石燈籠のあかりで論語を読んでいるというような少年で、人がたくさん集るようなところが嫌いだったし、来客と応待することも好まなかった。自分でも「吾れは客あしらいが嫌いなり」と言っている。
その彼が十六才で名主見習役となり、代官と漁民との間の紛争の調停に当ったり、囚人の斬首刑に立合ったりする生活を強いられたのだから、現世から逃亡したくなるのも無理はなかった。十八才の年に遂に彼は近くの曹洞宗の寺院にかけ込んで出家してしまうのである。
良寛は、禅僧としての修業を主として備中国玉島の円通寺で行った。ここで彼は二十二才から三十三才までの十一年間を過している。円通寺で彼が何を考えていたか不明だが、その日常が著しく自閉的な色合いを帯びていたらしいことは後年彼の作った漢詩によって知られる。
「円通寺の門前には千戸ばかりの村があった。しかし、そこの住民を一人も識ることなく過ぎてしまった」と彼は追想しているのだ。伊藤仁斎が閉居して門庭に出なかったという挿話と何となく通じるものがある。
良寛は三十三才で印可を受けると、円通寺を去っていづこへともなく姿を消してしまう。それから良寛が何処を放浪していたか明ちかではない。流浪時代の彼を活写した記録が一つだけ残っている。
江戸の国学者近藤万丈という人物の書いた手記である。これを読めば、私達は「あたかも小さい穴を通して広くてゆたかな風景を見渡」(吉野秀雄)すような気持になるのだ。この手記を吉野秀雄訳によって、以下に紹介する。
「自分(近藤万丈)が若い頃、土佐の国へ行ったとき、城下から三里ばかりこっちで、雨もひどく降り、日も暮れた・・・山麓にみすぱらしい庵が見えたので、そこへ行って宿を乞うと、色が青く顔のやせた坊さんがひとり炉をかこんでいて、食いものも風をふせぐ夜着も何もないという。
この坊さん、始めに口をきいただけであとは一言も物を言わず、坐禅するのでもなければ眠るのでもなく口のうちに念仏を唱えるのでもなく、こちらから話しかけてもただ微笑するばかりなので、自分はこいっはてっきり気狂いだと思った」
翌日も雨がひどく、頼んで庵に置いて貰ったが僧侶は依然として口をきかない。庵の中には「荘子」一巻があるだけで、何もない。別れる時、所持していた扇子に賛を求めると「越州の産了寛」と署名してくれた・・・
私ばここに描かれている良寛の行動に異様なものを感じないではいられない。思い出すのはやはり伊藤仁斎のことである。自室に閉居中の仁斎も誰かに話かけられたら、ただ力なく微笑するばかりだったろう。仁斎も閉居中に、荘子を読んでいる。
当時の良寛は円通寺を出たものの、「悟了」は「未悟」に同じという心境に達するには程遠い状態にあり、悶々たる内面を抱えて亡霊のような姿を四国の山野にさらしていたのだ。近藤万丈は、神経症を病んでいる良寛を見たのである。
良寛は三十八才になって郷里の越後に戻ってくる。彼が安心を得たから帰郷したのか、帰郷してから安心に到達したのか明らかでないが、いつしか彼は「辛苦して虎になろうとしたが、猫にもなれなかった」とか「徒労を重ねて今日ふる里へ戻って来た」と淡白な表情で語り得るようになっていた。そして、郷里で、それ以後三十六年間に及ぶ無為無策の後半生を送るのである。
現代人の感覚から見て何より驚かされるのは、良寛が三十八才という壮年で帰郷した後に、死ぬまで何もしなかったということだ。良寛はかなりの量の詩や書を残しているけれども、これらは単なる手すさびに過ぎなかった。彼は一度も芸術家として自己規定したことはない。良寛は最後まで自分を「憎」だと考えている。無為無能の僧と考えていたのである。事実、彼は僧侶としても見るべきほどのことをしていない。
良寛の後半生は情感の動きだけに従った人生であった。前半の人生で辛苦を重さね、徒労をくり返した後、良寛の内部に残るものだけが残った。それがその情感だったのである。
帰郷後の最初の十年余は、空庵を求めて各地を転々とした。この時の心境は、「寓るところ便なれば即ち休す、何ぞ必しも丘山をたっとばん」という風なものであった。やがて国上山中腹の五合庵に定住するようになるが、それもここが気に入ったからというより、単にここに些少の便益があったからに過ぎない。
彼は規範というものをすべて棄て去っていた。一切の固定観念を排し、最低限の生を保つに必要な便宜を求めて移り動くだけであった。
良寛は「衆人愛敬」ということを心懸けさえしたら、あとは自分の好きなように生きていいのだと考えていた。人はこの世に偶然生を受けたのであり、人間の生き方に固定した定則定軌がある訳ではない。人間に特別な使命や義務などありはしない。人は単に、与えられた寿命を生きて行くだけなのだ。
良寛の生活と作品を眺めていると、彼が「ひと」として互いにいたわり合い、敬愛し合う気持を忘れなければ、あとはどう生きようと、その人間の自由だと考えていたことが分かる。
人生に定まった規範などありはしないとする姿勢は、人間の行動を死に至るまで試行と遊びの連続と見る開放的な生活態度をもたらす。「鬼窟」を抜け出れば、生きることが容易になる。良寛は徹底して易化された世界を生きたのであった。
中江藤樹・伊藤仁斎・良寛の三者を比較すると、最も横着に居直っているのは良寛であり、だからこそ彼は情感の動きをさながらに示すような「書」を書き、屈託のない後半生を送ったのである。
<良寛は生涯童貞だったか?>
水上勉の「良寛」を読んで、自分が良寛について通り一遍のことしか知らないでいたことを悟った。以前に宮沢賢治の評伝を読んだときにも、同じようなことを感じたものだった。それまでの宮沢賢治に関する私の知識と来たら、世上伝えられる神話的説話を鵜呑みにしたものだったのである。宮沢賢治伝説によれば、彼は生涯童貞を守り、オナニーもしなかった純潔な男性ということになっている。けれども、賢治の評伝を読んでみると、彼も又一個の男性だったらしいことが判明するのだ。
良寛についても、生涯童貞だったという神話が語り継がれている。しかし水上勉によれば、良寛は18歳で出家する以前に妻を娶っているのである。この時の彼は名主見習いという「公職」についていたから、年少で妻帯しても当然視され、特に早婚だとは見られなかったらしい。
だが、この結婚は長く続かなかった。嫁方の親が、妊娠している娘を実家に連れ戻し、良寛との縁を切らせてしまったからだ。良寛の父の山本以南が親戚から金を借りまくっていることを知った嫁の実家が、将来の禍根を恐れて娘を引き取ってしまったのである。実家に戻った娘は、女の子を産んだ後に死亡し、生まれた女児も程なく亡くなったといわれている。
水上勉の著書には、こんなふうにこれまで知らないでいた事実がたくさん収録されていたが、これを読んで得た一番大きな発見は良寛の父山本以南が破滅型の地方インテリであり、その子供たちにも破滅型のタイプが多いということだった。
まず、山本以南。彼は他家から婿入りして橘屋を継ぎ、出雲崎の名主と神職を兼ねることになったけれども、従来型名主の枠に収まらない奔放な人物だった。彼は「名主には町年寄を任免する権利がある」と放言して、気にいらない町年寄の追放をはかって失敗するなど、監督機関である代官所から睨まれる行動が多かった。
名主としてトラブルメーカーだった以南は、次第に反俗的な傾向を強めて行く。封建時代の地方にも儒教や仏教について一通りの知識を持つ民間の知識人がいて、その先端的な分子は反体制・反中央の意識を抱くようになっていた。江戸幕府も後半にはいると、これらのメンバーは国学を媒介に尊皇思想に心酔するようになる。以南も、何時しか反俗反体制的な地方インテリの一人になっていたのである。
名主の仕事に嫌気のさした以南は、まだ31歳の若さで家督を長男の良寛に譲って隠居してしまう。名主見習の職についた時、良寛はまだ15歳だった。隠居した父は、各地に散在する尊皇の同志や風雅の道をともにする同好の士を訪ねて家を留守にしていたから、世間知らずの良寛は名主になっても父の助言を得ることも出来ず、ただうろうろするばかりだった。
父の以南が奔放でルール無視の名主だったとすれば、良寛は人々から「昼行灯」と呼ばれるような役立たずの無能名主だった。やがて良寛も俗世と決別して出家することを願うようになる。以南は、内々長男の良寛と次男の由之を比べて、名主としての適性は次男の方にあると感じていたから、良寛の望みを容れて、長男の代わりに由之を後継者にすることになる。この時、良寛は18歳、由之は13歳だった。
だが、13歳の由之を名主見習にするわけにも行かないから、以南は良寛の出家後名主職に戻り、由之が25歳になってから名主の職を譲っている。
良寛には、自分と弟を比較したと思われる詩がある。
余が郷に兄弟あり
兄弟心おのおの殊なり
一人は弁にして聡く
一人は訥にして且つ愚これに続く詩句で、良寛は「愚かで訥弁の方は、一生余裕を持って静かに暮らせるが、利口な方は弁舌を駆使して四方八方を飛び回らなければならない」と続けている。この頃の彼は、弟に批判的だったのである。
由之は父の以南によく似た性格だった。派手好みで借財を重ね、動きが取れなくなると公金に手をつけるようなことまでするようになる。
故郷に戻ってきた良寛は、弟を戒めるために漢詩を作っている。
茲に太多生あり
好んで自ら聡明を衒う
・・・・・この詩を水上勉は、次のように訳している。
<ここに出しゃばり男がいる。自分の利口さをひけらかすのが好きで、大小にかかわらずどんなことでも、自分の思い通りに変えてしまう。足つき食器には山海の珍味がもられ、邸は当地一番の豪勢さ、門前には訪客の車馬がひしめき、遠近にその名はひびきわたる。しかし十八年もたたぬうちにその家はつぶれて草が生えてしまった>
代官所に提出された由之を弾劾する町民の訴状には、こんな一節があった。
「年中不要の人集めいたし、乗馬二匹迄飼置、御武家同様の身持いたし権威を振ひ奢増長仕候」
由之は名主を止めざるを得なくなり、息子の馬之助を名主見習にして隠居する。そして出家剃髪して、庵を結んで花鳥諷詠の生活にはいるのである。だが、跡を継いだ馬之助も、若い頃からの放蕩者で手に負えない問題児だった。
馬之助については、よく知られたエピソードがある。まだ由之が名主職にあった頃、良寛は由之に頼まれて馬之助を説諭するために弟宅に出かけた。馬之助は何時説教が始まるかとびくびくしていたが、良寛は何も言わない。やがて、良寛が帰ることになったので、馬之助が土間にかがんで良寛の草鞋を結んでいると暖かなものが落ちてきた。見上げると、良寛は馬之助を見下ろしながら涙を流していた。良寛は馬之助についに何も言うことなく去っていった・・・・というのである。
良寛伝説によると、以後馬之助は立ち直って立派な名主になったとある。だが、馬之助も父と同様に公私混同を繰り返したために、一家は没落し、橘屋は家財没収の上所払いになってしまう。所払いになれば、もう出雲崎には住めなくなるのである。
では、次男由之に名主職を譲った父の以南はどうなったろうか。
以南は尊皇の志に燃えて、京都に上ったのである。京都には四男の香が文章博士に就いて勉学中だったから、その顔を見たいという気持ちもあった。その以南が京都に赴いてから二年後に、桂川に身を投じて自殺してしまうのだ。四男の香も文章博士になったものの突然出家し、没年も不明というような死に方をしている。
父以南、良寛、由之、香と四人を見てくると、共に現世の生活に適応できない破滅型タイプの人間像が浮かんでくる。そして、この四人のうちで破滅一歩手前のところで踏みとどまったのは良寛一人だったという気がするのである。
良寛は名主見習3年間で、現世の生活に耐えられなくなり、脱出をはかって仏門に入っている。だが、曹洞宗の門をくぐってみると、宗門内には永平寺と総持寺の相克や本山と末寺の対立があり、彼はまたもや耐え難いものを感じ始める。そこで、良寛は宗門を脱出して、非俗、非僧の世界を求めるようになるのだ。
円通寺で修行した後に寺をを飛び出した良寛は、頭を丸め、墨染めの衣を着、僧侶の風体になって托鉢しているが、衆生に説法をしたこともなければ、葬式を執り行ったこともない。人のいない空庵があれば、そこに住み着いて托鉢するだけだった。
そして故郷に戻ってくると、風雅の道を愛する友人知己とささやかなサークルを作り、互いに書や詩歌を贈答しあって時間を過ごしたのである。俗世から仏門へ、仏門からサークルへと所属する世界を次第に狭めていって、彼は安住の地を発見したのである。良寛が破滅しなかったのは、
死ぬ時節には、死ぬがよろしく候
焚くほどは風が持てくる落ち葉かなと言うような無抵抗主義哲学に徹したからであり、こうした人生哲学も文人サークルという安住の地から生み出されたものであった。
今日、良寛の漢詩・短歌・俳句・書がかなり多数残っている。
文壇というようなものが存在しなかった地方に、こんなにも多くの良寛作品が残っているのは、良寛からの手紙に書き付けられた詩歌などを友人知己が大事に保存していたからだった。水上勉は、次のように言っている。<書きのこすといっても、それをどこかへ発表するといったような、仕事としてのそれではない。気ままな文芸である。もともと、文芸とはそういう自然なものであって、折にふれて詠む朝夕の感想を人におくり、あるいは人から送られて、また返書してゆく楽しみである。左様。たのしみでなくてはならぬ>