スローライフと老子哲学

近頃、スローライフという言葉をあちこちで見かけるようになった。
これは元来、経済のグローバル化に対する対抗理論として社会科学系の学者が言いだした用語らしい。あまり技術革新を急いで生産システムを更新し続けると、労働者は機械装置の構造を理解しないいままに仕事をするようになる。つまり、ブラックボックスとしての機械を扱うことになってしまう。

こうなると仕事の喜びが失われ、働く人間の精神は荒廃し始める。
こうした理由で、技術革新のテンポを落として、人間が主役になって機械を操作できるようなゆるやかな社会に切り替えるべきだ、というのがこの派の学者たちの意見である。

しかしスローライフという言葉は、今や一般市民の関心をも惹き始めたのだから、これを理論化するには、社会学や経済学よりもっと広い哲学的な観点からが望ましい。ということになれば、登場してくるのはやはり老子の哲学なのである。老子は包括的な観点から、エネルギーをシフトアップするのではなく、シフトダウンして生きる必要性を説いているからだ。

老子の考え方を理解するには、中国人のものの考え方を知っておく必要がある。彼らは、「対」構造という枠組みで自然現象から人事に至るすべての現象を眺めている。それを端的に示しているのが、反対語を組み合わせる漢語の構成法である。

美醜
善悪
栄辱
動静
前後
高低
男女
etc

中国人は、ものを単独で見ないで、反対物との比較対照において見る。対のものとしてみるのである。例えば、「動静」という漢語は、「ようす」という意味に使われている。普通「ようす」と言うと、行動面だけが取り上げられるのに、「動静」では行動面と並んで非行動面も同時に視野に入れている。

物を単独で見ないで、対構造で見ていくのは、総合的な観点を導入している点で、望ましい態度といえる。しかし、問題は、この対になっている二つの部分が、「陽」と「陰」に振り分けられていることなのだ。

【陽】−【陰】
 美 − 醜
 善 − 悪
 栄 − 辱
 動 − 静
 前 − 後
 高 − 低
 男 − 女

二つに振り分けられた「陽」と「陰」には、それぞれプラス価値とマイナス価値が与えられている。としたら、人はものを見るときに常に陰から陽への上昇欲求を刺激され続けることになる。事実、中国人は極めて現世的だとされている。

「陽」を目指す中国式上昇欲求を体現しているのが孔子で、彼は宰相のポストを手にするために生涯各地を放浪し、求職運動を続けている。孔子が尊重したのは「天」だった。彼は既存の社会制度や礼制を天意を反映するものとして受容し、天命に従って生きるなら末は大臣宰相になれると信じていたのだった。

天は、父性原理で動いている。
アランによれば、母親はどの子でも無差別に愛するが、父親は自己の価値基準にまで到達した子供だけを選択的に愛するそうである。孔子は、天をこうした父性原理に従って動くものと考え、天意に従う人間だけが、陰の立場から抜け出て陽のレベルに浮揚できる、と信じたのだ。

老子の立場

孔子が活躍した春秋戦国時代に北部中国には出世欲に燃えた思想家が次々に現れた。だが、江南の知識人たちは、北の出世主義者たちを冷眼に見て、地元に留まり自足して悠々と生きることを選んだ。そうした土着型の知識人の代表が老子だったのである。

孔子が父性原理に基づく理論を展開したのに対し、老子は母性の思想を展開する。老子は天の代わりに「道」を持ち出すのだが、これは背後から静かに子供を見守る母親のような存在であり、隠れたところにあって万物を下から支える大地になぞらえられる存在なのだ。

「道」は意志もなく、目的もなく、名前もない。幽玄にして把握しがたい「あるもの」である。これを現代的に言い替えれば、「道」は宇宙的生命ということになるかもしれない。もっと卑俗に、巨母、地母、慈母と言い替えれば、より分かりやすくなる。道は宇宙のすべてを生み出す母胎なのである。

実際、道は母性的な特徴を持っている。

「道」は、万物を生み出しながら、それを所有しようとはしない(「生じて有せず」)。また、万物を育てながら、それを支配しようとしない(「長じて宰らず」)。道は万物を生み出して育てながら、静かにそれを見守っているだけで、あれこれ口出しをしない。これはいったい何故だろうか。

万物を生み出すときに、それぞれに徳(生得能力、生得の知能)を付与しているからなのだ。この所与の徳の枠内で生きていれば、人は安らかな一生を送れるからなのである。

では、「所与の徳の枠内で生きる」とは、どういうことなのか。
陰の立場に身を置くことなのである。
陽を目指してあがくことを止めることなのである。

「老子」を開けば、陽の生き方と陰の生き方を比較対照した記述で溢れている。陽を目指すのは、自ら死地に赴くことであり、陰の立場を守ることが生地に留まることなのだ。「緩急」という対概念についてこれを検証してみよう。

「安らかにして久しうすれば、徐に生ずべし」
「濁れるも之を静かにすれば、徐に清むべし」

道の働きが絶えることなく脈々と続く理由は、その働きがゆるやかで弱いからだ。人の行動も同じで、一つの仕事をゆるやかに持続して続けるなら、必ず成果が上がる。人間には、こうしたスローライフによって事を成就する能力が最初から備わっている。失敗するのは功を急ぐからである。

「民のことに従うや、常にほとんど成らんとするにおいてこれを敗る」

今度は、「賢愚」という対概念について見てみよう。老子は有名な言葉を残している。

「知る者はいわず、言う者は知らず」

世の賢者の語る言葉は、通行人の足を一時的に止める力しかない。少しばかり利口になると思い上がり、かえって真実の知恵を嘲笑するようになる。

「下士は道を聞けば大いに笑う。笑わざれば以て道となすに足らざるなり」

老子は、「無知」「無欲」「無為」を勧める。この境涯を踏み出して「陽」を目指せば、悲惨な結果が待っている。

無知−悪知邪見
無欲−強欲無恥
無為−強行自滅

しかし、ここに皮肉な事実がある。道の付与した生得能力のうちに留まる(「魚は淵を脱せず」)ためには、一度は無知無欲の世界を踏み出して有欲多識の世界を体験する必要があることだ。魚が淵の価値を知るには、淵を出てみなければならない。老子は、女性(と言うよりは「母性」)を高く評価するが、女性原理の価値を理解するには、男性原理で行動するという試行錯誤が必要となる。

「牝はその静をもって牡に勝つ」
「雄を知りて、雌を守る」
「天門開闔、よく雌たらんか」

陽の世界(男性世界)がなぜ危険かといえば、それは本質的に競争社会であって互いに他を凌ごうとして傷つけ合うからだ。競争社会とは、「互殺の世界」にほかならない。勝つために愚かしいまでに生命を浪費し、幸いに勝利を占めても、その後にあるのは「自滅の世界」である。「兵強ければ滅ぶ。木強ければ折る」で、勝者への風当たりは一段と強くなる。敵は外にあるばかりではない。「余食贅行」(食い過ぎ・頑張りすぎ)によって自らを内側から崩壊させるのである。

実は、イエスも老子と同じような考え方をしていた。リルケによれば、イエスも世俗世界をネガフィルムの世界と見ていたのだった。写真のネガフィルムは、本来明るい部分を暗く、暗い部分を明るく写し出す。イエスはこれを陽転させて、下積みの人々が生きる世界を明るい天国に、恵まれた上流社会を暗い世界へと転換させている。

アメリカ映画を見ていたら、病んだ老母が看病する娘に「幸福になるなんて簡単だよ。今持っているものを愛しさえすればいいんだから」とさとす場面が出てきた。多く持っている豊かな人間が、幸福とは限らないのである。

老子は冷厳な目で現世を眺める。道は人に従うべき規範を示さず、生地に留まるのも、死地に赴くのも、各人の自由に任せて放任している。「天地は不仁、万物をもって芻狗とす」(芻狗は草で作った犬で、儀式が終われば捨てられてしまう)。その点、道は甚だ冷酷なのである。

そこで重要になってくるのが、「早服」ということなのだ。
老子哲学の背後には、易経的世界観がある。無は有に転じようとする衝動を持ち(反の作用)、有は無に環帰する必然を持つ(復の作用)という世界観である。この循環法則に服従することを「早服」というのである。

老子は、さまざまの例証を挙げて、この循環サイクルに、早めに帰服することを勧める。人は競争社会に生きているから、キレイゴトではやっていけないという事情がある。何もしないでいたら、社会から排除されてしまう。だが、努力して大きな功績を挙げても、地位に恋々としていてはならない。「功成って身を退くは、天の道」だからである。

戦場を駆け回る「走馬」は、早く田舎に戻して農耕馬にすべきだし(「走馬をしりぞけて、種播かしむ」)、知者も、商人も「深く蔵して、空しきがごとし」というふうでなければならぬ。世人はしきりに、困難に挑むことを奨励するが、肝心なのは、「敢えてせざるに勇なれ」ということなのだ。何かを敢行することより、何もしないでじっとしていることの方が、勇気を要するのである。

これを具体的にいえば、社会的な活動を程々にして、個人生活を尊重せよということなのである。道は、すべての人間に「日用を弁じる」ための能力を与えている。この生得能力を掘り下げれば、徒手空拳で無尽蔵の世界に入ることができる。

「戸を出でずして、天下を知り、窓を窺わずして天道を見る」
「出づることいよいよ遠ければ、その知いよいよ少なし」
「常を見るを明といい、柔を守るを強という」

社会に出て、人を知ることで「智」が身に付くかもしれない。しかし、それは自らを知る「明」には及ばない。自らを明らかにすることによってのみ、道の何たるかが理解できるのだ。

老子は、社会生活や公務を重視し、私生活をそのための手段と見る風潮を逆転させて、個人生活を重視する立場を打ち出している。「早服」とは、社会生活を早めに切り上げて、私生活に環帰することを意味する。老子の考える理想的な国家は、こうした個人が寄り集まった自足的な集団であり、鶏や犬の鳴き声が聞こえるような近さにあっても、互いに行き来しないでいるような自立的な国家だった。

老子は、自分には三つの宝があるといっている。

一に曰く、慈
二に曰く、倹
三に曰く、敢えて天下の先たらず

この三つは、逆の順序に置き換えると、分かりやすくなる。
人を凌いで先に立とうとすれば、頑張りすぎてエネルギーを消耗させてしまう。「退譲」によって、力の漏出を防ぎ、さらに「倹」によってエネルギーを蓄える。こうして得た余力を「慈」に振り向けるのである。

老子の慈は、孔子の仁に比べると力強さに欠ける。それは、広く薄く、ゆるやかに拡がる愛だからである。慈は、それ故に変動することなく持続する。この愛を実践して、人は初めて「道」と繋がることができる。

スローライフという言葉が耳に快く響くのは、それが失われた人間の本性を呼び覚ますからだ。現代のあわただしい日常のなかに埋没していた人間の本来性が目を覚ますのである。だが、スローライフだけでは足りない。それと一緒に埋没している本来性のすべてを呼び覚まさなければならない。そして母なる道と繋がらなければならない。

人間の本性全体の回復を目指そうと思ったら、「老子」を読むことである。この全体で81章しかないささやかな本には、道から付与された生得能力の一覧表が載っている。この一覧表は、隠れて姿を現さない道(タオ)の本質を明示している。道の産み落とした子供である人間の本性を体得するには、どうしても親のありようにまで遡らなければならないのだ。

                                         (02年8月28日)

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