私の俳句体験
私にも俳句に熱中した時期があった。だが、それは数年の短い期間に過ぎなかった。私がいかにして俳句を始め、なぜ、途中で「挫折」してしまったのか、その委細についてこれから述べてみたい
1 昭和28年、結核で地元の病院に入院していた私のところに中学時代の級友が見舞いにやって来た。彼も大学の工学部を出て就職したものの、私と同じように結核にやられて退職し、郷里に戻って療養している身だった。
「オレ、俳句を始めたんだ。N先生のやっている俳句雑誌に投句しているよ」
文学音痴といってもいい彼が俳句を始めたのも驚きなら、N先生が俳句雑誌を出しているというのも初耳である。
N先生というのは中学時代の恩師だが、化学の担当だったのである。
「へえ、N先生がねえ」
「これがその雑誌だよ」
彼は最初からその雑誌の購読を勧めるつもりで、私を訪ねてきたのだ。雑誌というのは活版刷りにしてあるけれど、ページ数が十枚足らずという薄っぺらなものだった。
「気が向いたら、投句してみろよ」
彼はそういい残して帰って行った。私は中学校の国語教科書に載っていた蕪村の 「五月雨や大河を前に家二軒」 という作品や、芥川龍之介の 「埋み火のほのかに赤しわが心」 という作品をいいと思ったことがある。でも、世に流布されている芭蕉の 「古池や蛙飛び込む水の音」 とか、正岡子規の 「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」 とかいう俳句のどこがいいのかさっぱりわからないでいた。
特に子規のものについては、あほらしいの一語につきると思っていたのである。だが、自分で俳句を始めてみると、この作品のよさが段々分かってきた。「柿食えば」の句は、俳句体験があるかどうかを試すリトマス試験紙になるのではないかと思っている。
その薄っぺらな雑誌をぱらぱら眺めているうちに、療養生活のつれづれに私も俳句を作ってみようかと思うようになった。
初めて俳句を作るに当たって、頭に置いたのは5・7・5の字数を守ることと季題を入れることくらいだった。季節は冬だったので、雪を題材にしたやつを作ってみようと、大した苦労もなしに、いくつかの俳句を作り、主宰のN先生のところに送った。
私が生まれて初めて作った俳句は、次のようなものだ。
雪の病院廊下の隅の匂い鋭(と)く
雪となるますます深き庇かな
風花や病院裏の迷い犬N先生は、最初の句の中にある「廊下の隅」を「廊下のつまり」と手直しして雑誌に採用してくれた。
雪の病院廊下のつまり匂い鋭し
と訂正してくれたのである。成る程、前より俳句らしくなった、さすがに専門家は違うな、と私は感心した。
翌月号に出す作品には、前よりもたくさんの時間をかけた。俳句らしい俳句を作ろうと努力したのである。貧弱な想像力を駆使して、俳句的な情景を思い浮かべ、何とか5・7・5にまとめ上げたのが次の作品である。
洗い干す瓶林立す池の春
水門に冬残るのみ日は真昼
病む家の戸障子深く春雷すすると、N先生からハガキが来て、君はこれまでに俳句歴があるのではないか、素人とは思えない、と褒めてくれた。句誌の主宰者ともなれば、こうやって投句者を褒めあげては、雑誌の定期購読者を増やしていくのだなと思ったけれど、褒められれば悪い気はしなかった。
しかし、これが悪い前例になったのである。
私は、実体験に根ざした句を作る一方で、頭の中ででっち上げた想像上の作品を作るようになり、しかも後者の割合が次第に増えて行くようになったのだ。例えば、実体験に根ざした、犬ひそとつけくる気配ぬくき試歩
女患群れ石投げ合えば川ぬるむというような句を作る一方で、
見よがしに笑う女や昼の雨
人散りて駅の売店日覆いすというような想像上の句を作る。両方を適当に混ぜ合わせて作って行けば、俳句はいくらでもできる。面白い「消閑の具」を見つけたつもりで、「春雨や」などとやっているうちに、ある日、雷に打たれるような激しいショックを受けることになる。
2 俳句を始めて暫くすると、俳句の世界に対する興味がわいて来て、三省堂の「俳句歳時記」やら、角川文庫の作家別句集などを読むようになった。著名な俳人は、たいてい若い頃にみずみずしい青春俳句を作っている。これはとても魅力があったし、句作の参考にもなった。
水原秋桜子の 「桑の葉の照りに耐え行く帰省かな」 という句は、学生時代に田舎へ帰省する時の作品に違いなかった。そのうちに、個人句集を何冊か読んで、「山口誓子集」にたどり着いたのである。最初、山口誓子については何も知らず、名前から推察して女性かもしれないと思っていたほどだった。句集のはじめの方に、
学問の寂しさに耐え炭をつぐ
という句があり、この辺までは特に深い印象を受けなかった。(ああ、青春俳句だな)と思っただけである。
だが、読み進んでいって、京浜地帯の運河を詠んだ作品にぶつかったときには強い衝撃を受けた。内面的な「事件」と言ってもいいような激しいショックを受けたのである。
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
運河にクレーンのようなものが突き出て、そこから赤く錆びた鉄の鎖が垂れ下がり、先端を水に浸している。工業地帯の一隅で見かける荒涼とした光景である。
俳句は花鳥諷詠の詩だと思っていたけれど、こうした光景を詠むこともできるのである。 「七月の青嶺まじかに溶鉱炉」 という句では、彼は機械文明を象徴する巨大な溶鉱炉と、青々と樹々を茂らせた山並みを対照させている。
山口誓子の作品を読むと、その壮大な精神世界を感じとることができた。彼の句集を読んでいると、優れた哲学書に接しているような感触があった。 「海に出て木枯らし帰るところなし」 などという作品を読めば、俳句もここまできたかという驚きに打たれる。私は座り直すような気持になった。
私が身を入れて、俳句を作るようになったのはそれからだった。
ローラーの過ぎて夏の陽地に織らる
死せる蛾の緑眼燃ゆる壊えるまで上掲の二句は、山口誓子の影響を色濃く受けている。失敗作ではあるけれど、誓子の跡を追った最初のものだから、私にとっては記念的な作品といえる。
3 そうこうしているうちに、東京のK病院に移ることになった。
空洞のできた左肺を切除する手術を受けるためである。この頃に私が作った俳句にも、山口誓子の影響が濃厚に出ている。咳く老いに会う竹林は暗きもの
向かいいて炉火に思えば子が脅ゆ
わが影に杖刺し通す蝌蚪の水これを読んだ知人が、「手術前のせいか、妙に暗いねえ。それに自虐的だ」と批評したことを覚えている。
K病院は患者だけで千人になろうとする大きな療養所だったから、院内にはいくつもの俳句サークルがあった。私が加入した二十日会というサークルは、毎月二十日に作品を提出して、それを紙上で合評する会だった。
十数名のメンバーの大部分は、二十代の若い患者や看護婦で、中央俳壇に名の知れているのは有名俳誌の同人Sさんだけだった。身近に若い仲間ができたこともあって、K病院にいた頃が最も句作に励んだ時期である。
肺切除の手術は未だ開発されて間がなく、かなり危険を伴い、術後に死亡する患者も多かった。私は隣の個室で患者が息を引き取る場面に何度もぶつかっている。当時の作品に 「k氏急逝五句」 と題したものがある。
虫の闇個室異変の灯に乱れ
死は徐々に葉末に露は凝り居つつ
・・・・
病院の青垣沿いに柩車去る実体験に基づくこうした句を作る傍ら、私は相変わらず頭ででっち上げた句もたくさん作っていた。私は、動物や昆虫を素材にした俳句を作るのが好きだった。
逃げ馬の苅田並木を見て歩む
秋の馬音なき方に耳澄ます
旱雲飢え鳴く鶏の口赤し
蛞蝓の若きは透きて暗く群る
凶年の葦ただ青く燕去る
水たまり眩し羽蟻の吹かれ居て少女を題材にしたものも、いくつか作った。これも誓子の影響である。
姉妹の諍い止みぬ牡丹雪
夏に飽き少女タバコを隠れのむ
少女長け芦間にひそと泳ぎいる
栗の毬青し知恵づく少女たち叙景句も、たいていは想像の産物だった。
月の夜の木々門灯を覆いおり
月明の門灯ともる真白にぞ
雲垂れて地平の枯れ木棘となるこれらの句を作った後で、実際に月明の夜の門灯を見たら真っ白ではなくて黄色をしていたのでニガ笑いをしたことがある。
サークル「二十日会」には、後に現代詩の世界に進出して新人賞を獲得した谷敬や、女流俳人として知られるようになるT女などがいた。私は彼らから刺激を受けて、競い合うようにして句作を続けた。今では、とうてい信じられないことだが、日に20句、30句を作ることも珍しくなかった。
だが、長老格のベテラン俳人Sさんは、たまにしか「二十日会」に作品を出さないのである。回覧誌に書き入れる批評も、せいぜい一行か二行で、何も書き込まないことも多い。Sさんは時折、例会に出席してくれたが、やはり自分から発言することはなかった。若い会員の議論を無表情で聞いているだけだった。
Sさんは、平凡な風貌をした小柄な四十男で、一緒にいても、全く目立たなかった。本人も無視されていることに慣れているようで、人から話しかけられない限り、口を開こうとはしなかった。
でも、たまに発表する作品には深みがある。ほかの会員の作品とは格がちがうという感じがした。ある日、私は勇を鼓して彼にハッパをかけに行った。
突然病室に押し掛けた私を、Sさんは格別驚いたふうもなく迎え入れ、こちらの賞賛の言葉を黙って聞いていた。彼は、先日、久しぶりに回覧誌に作品を出してくれたのである。それは見舞いにきた家族を題材にした俳句で、記憶もおぼろになってきているが 「子を紫陽花に追いやり話もつれる」 というような句があったように思う。
私はそれらの句を褒めあげてから、言葉を強めて言った。
「ああいう俳句を続けて作っていたら、Sさんは俳壇のリーダーになれますよ」
「そうかね」
「自分でも、そう思っているんじゃないですか」
と切り込むと、Sさんは薄い笑いを顔に浮かべた。彼は口のは出さないけれど、自分の作品には自信を持っているのである。「隠者みたいに引っ込んでいないで、どんどん作品を発表してくださいよ」
すると、Sさんが反問した。
「あんたは、月に何句ぐらい作っているかね」
「日に10句ぐらいは作っています。30句を作ることもあります」Sさんはちょっと黙って、それから、ぽつりと言った。
「俳句を軽蔑しながら作っていると、いつか俳句に復讐されるよ」
頂門の一針という言葉があるが、まさにそれだった。Sさんのこの言葉は、人生的な意味と絡み合って、その後も長く私の脳裏に留まることになる。日に30句も作るというのは、俳句を軽く見ているからなのだ。むやみやたらに知己を増やす人間が、内心で人を小馬鹿にしているのと同じことなのである。
私は話題を変えて、Sさんの句歴について質問した。彼については有名俳誌の同人であるということ以外、何も知らなかったからである。
「私は川柳から、俳句に入った人間でね。川柳といっても、普通の川柳とは少し違うが・・・・」
「例えば、どんな川柳を作っていたんですか」Sさんは、ベットの脇に積んである私物の中から小型の手帳を探し出して手渡してくれた。これまでに発表した自作の川柳を整理して記した手帳である。
成る程、並の川柳とは全然違う。笑いよりも、ニガミを盛り込んだ川柳で、どこかで山頭火に通じるところがあるような作品なのだ。今でも覚えているのはストライキの集会を題材にした一群の作品のなかの次の句だった。
スト敗れ靴泥棒も出るか
手帳を読んでいると、Sさんの無表情な目が、人生の実相を見てきた苦渋の目に他ならないことが分かってくる。格の違う俳句を作る人間は、やはり段違いに優れた人間なのある。
4 山口誓子の作品から強い衝撃を受けながら、結局私は趣味的なレベルを出ることのない俳句を作っていた。私は内心で、それは自分ばかりではない、職業的な俳句作家をのぞいて、たいていの人間が趣味的な姿勢で俳句を作っているのだと考えていた。
私を俳句に引っ張り込んだ友人や恩師は理工科系で、あまり文学には縁のないタイプだったし、世の俳句好きの人間もそうしたタイプの人間が多い。K病院には、短歌サークル、現代詩のサークル、創作サークルなど色々あったが、俳句サークルに加入している人間は他のサークルのメンバーに比べて、文学・芸術などの素養を欠いているものが多かった。
それは彼らが実務に追われて、ゆっくり文学書や思想書を読む余裕がなかったためだ。だから芸術的なものにふれようとすると、簡易な定型を持つ俳句に走ってしまう。が、だからといって、俳句を作る人間のすべてが、趣味的なレベルで俳句を作っているわけではない。
実務に追われて、詩的なものに飢えているからからこそ、いったん俳句に手を染めると真剣になる。「この道一筋」 というような気持になるのである。人間には自己表出の本能があり、それが俳句という一点に絞られるから、実務家たちの俳句への情熱はひとしお深くなる。
私が所属している俳句サークルには、3人の女性会員がいた。そのうちの一人は中学校で国語を教えていた思慮深い女性で、もう一人は恵まれた家庭の娘ではあるけれど、教養があるとはいえない女性だった。ところが、俳句を作らせると、後者の方がずっとうまいのだ。百人を超す出詠者があった院内の俳句コンクールで、彼女は 「春泥や花買うだけの銭を手に」 という句で首位になっている。
この勝ち気な女性には、誰よりも強い俳句に対する執念があるのだった。これが後に彼女を女流俳人にまで仕立て上げた動力だった。彼女に比べたら、俳句に対する私の気持など問題にならないほど微弱だったから、Sさんのような具眼の士からすると、私は「俳句を軽蔑しながら作っている」ということになってしまうのだ。
5 K病院での手術に成功して、私は郷里に戻ってきた。実家で予後を養いながら、再起をはかることになったのである。一日中家にいる私には時間はあり余るほどあったが、句作の方ははかばかしく進行しなかった。
あまり勢いよく焚いたストーブは、急速に冷えてしまう。私も、入院中に俳句に対するエネルギーを使い切ってしまったのかもしれなかった。それでも未練がましく、うじうじと俳句をいじっていた。Sさんの川柳を思い出して、
偽善者たり白手袋を卓に置く
論じ勝ち寒夜の白湯に舌焼かるというような句を作ってみたり、あれこれ技巧を凝らして、
死金魚浮く花びらよりも静かなり
昼の月小甕埋めし花圃荒れてとやってみたりしたが、どうもいけません。
努力して俳句を作ろうとすると、論文を書くよりも疲れるのである。渾身の力をふるって梃子を動かしても、ピンセットでつまんだほどの結果しか出てこない、そんな感じなのだ。
そのくせ、何の苦労もなく句ができて、それがなかなかの出来映えだということも起こる。俳句を作るということは、出産にたとえることができるかもしれない。ある日、受精卵のように句の原型が意識に宿る。だが、その時点でこれを作品化しようとして、いくら努力しても徒労に終わる。が、しかるべき時がくれば、月満ちて赤ん坊が生まれてくるように自然に作品が生まれる。
次に、自然出産のようにして生まれてきた俳句をあげれば、
歳晩の河に貼り付き紙流る
湯上がりの稚児が出てきて夕焼けぬ
迎え火や月裏土間を照らしをり
小公園蛾にまつわられ人待てりしかし月満ちて句が自然に生まれてくるのを待つには、それなりに精神の成熟が必要である。ゆっくり待つこと、これこそ達人の条件なのだが、そうした能力を皆目持たない私は、無理して未熟な作品を作り出してしまう。昔のノートを開くと、そんな失敗作がごろごろしている。
山口誓子のような俳句を作りたい、これが終始変わらない夢だったが、私の俳句はそこから遠く離れて行くばかりだった。私の俳句は、宇宙の深淵に迫るような壮大な作品になるどころか、いじましくもささやかなマイナー・ポエットになって行った。
私は17文字という定型を前にして、檻に押し込められた動物のように七転八倒しているのだった。17文字では表現できないようなものを、俳句にしようとして徒労を重ねる。そして、ついに諦めて私的で小さなものを探して作品にするようになる。これが退院後の私が歩んだ衰退のコースだった。
おのれ憎み西日まともに坂下る
踏切を越ゆ秋風に包まれて
残雪や独語なすべき原に来ぬ
病貧やほろほろ削る餅の黴悲しいとか嬉しいとか、そうした生の言葉を使うまいと自戒していながら、私はそんな言葉がやたらに出てくる俳句を作るようになった。
うすうすと悲し水田に水張られ
ひた悲し足掻く蝗を握りをり
愉しくて道の薄氷踏みわたるまあ、これはこれでいいかもしれなかった。しかし、やがて、そのマイナー・ポエットすら作れないようになっていくのである。K病院で親しくなった俳友の谷敬も、私と同じ頃に俳句を止めている。
彼は 「俳句に対するぼくの気持ちは、いじくり過ぎてこわしてしまった玩具をかなしむ子どもに似ている」 と書いている。私の気持もそれと同じだった。実務に追われている人々は、有季・定型という俳句の形式を素直に受け入れ、それにあわせて作品を作っている。そして次第にマイナーな世界を越えた大きな世界を捉えるようになる。私は遂にこの階梯を上っていくことができなかったのである。
俳句を始めて数年後に、とうとう私は俳句を全く作ることができないようになった。Sさんが予言したように、俳句に復讐されたのである。私が最後に作った作品は、何とも奇態な代物だった。
狂女出て赤き布干す枯れ枝に
愛執や冬田に鴉鳴き群れて(引用した俳句はすべて記憶に基づいています。誤りもあろうかと思うので、あらかじめ謝罪しておきます)