NHK「宗教の時間」 在職中の一時期、日曜日の午後は教育テレビの「囲碁の時間」を見たあとで、それに続く宗教番組「こころの時代」を見るのを習慣にしていた。退職してからは、囲碁番組を時々見るけれど、宗教番組は全く視聴しないようになった。
ところが、昨日の日曜日、何気なく「こころの時代」にチャンネルを合わせたのである。番組はもう始まっていて、白髪の老人がゆっくりした語調で何かしゃべっていた。やせて目が細く、顎には真っ白な髭を垂らした老人である。まるで中国の南画に出てくるような老人だった。
その老人は、在日朝鮮人の苦しみについて語っていた。それで、(そうか、この人は朝鮮の人か。そういえば、朝鮮には顎髭を生やしてこんな顔をした年寄りがたくさんいたな)と思って見ていると、老人は死んだ一人息子のことを話し始めた。息子は中学生の若さで死んだという。画面には、その中学生の肖像が映し出されている。そこで私は、はっと思ったのである。
新聞を取りに行って、テレビ欄の番組表を確かめると、「こころの時代(再)歎異抄に導かれて−−作家・高史明」とある。
やはり、あの高史明なのである。在職中に見ていた「こころの時代」にも高史明は一度出演していた。そこで、彼は、投身自殺した中学生の息子について語っていた。その時の彼は漆黒の髪をして、無論、髭などを生やしていなかった。削いだような鋭い顔に、思い詰めたような表情を浮かべ、しかし語調だけはゆっくりと息子の死について語っていたのだった。
印象的だったのは、その話を聞きながら対談相手が涙を流し続けていたことだった。カメラの前をはばからず、その年配の聞き手は、対談の終わるまで滂沱と涙を流していた。
息子は自殺する直前に漱石の「心」を読んでいたという話を聞いて、ああ、これは「心」という作品の魔力にとりつかれた倫理的自殺だな、と思った。この少年は作家である父と、高校教師をしている母の間に、たった一人の子供として生まれ、慎重に大事に育てられたにちがいない。そして、知的で早熟な少年になった。こういう年少の読者に対して、致命傷を与えるほど強く働きかけるのが「心」という作品なのだ。
今回、高史明は、中学生になった息子に出版されたばかりの自著を手渡したことを打ち明けている。それは自伝的な本で、父親のことを息子に知ってほしくて手渡したのである。しかし、息子はその本を読まずに、「心」を読んで自殺したのだった。
息子に死なれてから、高史明は何も考えられず、ただ、無意識に「南無阿弥陀仏」という文字を紙に書き続けていたという。彼はそれ以前に歎異抄を読んでおり、息子に死なれてから、改めて歎異抄を読み、いままた歎異抄を読んで、その都度理解を深めてきている。
話を聞いていて、彼の「悪人」観には同感できた。親鸞は、「善人なほもて往生す、いわんや悪人をや」と常識を逆転させるようなことを言っているけれども、罪悪深重・煩悩熾盛の悪人とは人類そのものにほかならぬのである。生きとし生けるものは、他の生命を貪り食らうことなしに生存できない。色情を燃やして異性に挑むことことがなければ、その種は絶滅してしまう。罪悪深重・煩悩熾盛の悪人だからこそ人類は、存続し続け繁栄してきたのである。
悪人のDNAは、人類発生以来その体内にしかと組み込まれている。
高史明はイラク戦争に反対し、ブッシュに抗議し続けているが、それはブッシュが悪人で、こちらが善人だからではない。こちらもブッシュ同様の悪人であって、悪人が悪人に対して抗議の声を上げているのである。こちらも同じ悪人の身だから、相手を批判する資格はないと考えるべきではない。
こちらも罪悪深重の人間だが、あまりひどい悪行には声を上げて制止したくなる。人類は、こうした声を集めて未開から文明に進み、ヒューマニズムを人類史の上に根付かせて来たのだ。罪悪深重・煩悩熾盛であることを必須の生存条件としていながら、そのことを浅ましいと思い、罪あることと感じてしまうのは、考えてみれば不思議なことだ。これは人類全体の内部に地底湖のように愛と平和、善と美を希求する気持ちが潜んでいるからで、この希求に応えるものが弥陀なのである。
悪人であることを宿命としながら、悪から抜け出たいと願う。そのはかない人間の希求には、哀れな人間を救い取ろうとする弥陀の本願が反映しているのであって、人間本具のものではないと、親鸞は考えた。こころの地底湖に潜む光明を求める気持ちは、実は天上にある光明の反映なのである。
私はテレビを見ていて、削いだように鋭かった高史明の相貌が、南画の老人を思わせるように穏やかになったのに驚いた。そして買っただけでまだ読んでない彼の本が何処にあるはずだから、探して読んでみようと思った。
久しぶりに、昔の知人にあったら、すっかり面差しが変わってしまっていた、という気が今もしている。