中江藤樹の場合

江戸時代前期の陽明学者だった中江藤樹は、戦中派の私たちには、お馴染みの人物である。小学校・中学校の修身教科書には「近江聖人」中江藤樹の名前が必ず出てきたからだ。私たちの頭には、親孝行の代表選手として彼の名前が焼き付いているのである。

中江藤樹は、母親に孝養を尽くすために27歳の時に、武士としての将来を捨て脱藩して故郷に戻った。故郷に帰った彼は、私塾を開き、「孝」を宇宙の根本原理とする哲学を唱えるに至った、など、など・・・これが、私たちが聞かされてきた美談の数々だった。ところが、中江藤樹について少し調べてみると、彼は決して私たちが想像していたような人物ではなくて、武家社会からドロップアウトして市井に身を沈めた逃亡者であり、親孝行の代表選手と言うより、脱サラの代表選手だったのである。

幕藩体制は、大変にストレスの多い管理社会だったから、鋭敏な神経を持つ知識人には、神経症の症状をあらわす者が少なくなかった。中江藤樹もまた、神経症者の一人だったのだ。中江藤樹研究に先鞭を付けた「日本陽明学派之哲学」の著者井上哲次郎は、中江藤樹の喘息は、神経症の一症状だったとはっきり書いている。

中江家は奇妙な一族であった。祖父中江徳左衛門は米子藩加藤家に仕える百五十石取りの武士だったが、その長男の吉次は近江国小川村に残って百姓をしている。

もともと、近江の国の豪農で地侍だったらしい祖父は、時の藩主に見いだされて家臣に取り立てられた。この時、彼は所領の大部分を中江藤樹の父親である長男ではなく、次男に譲っている。祖父は六十九才になって跡継ぎを必要とするようになった時、長男を飛び越して、その子である藤樹を米子に呼び寄せて養子にしている。孫を嗣子にしたのである。

藤樹を祖父のもとにやることについては、父はかなり抵抗したらしい。藤樹はたった一人の息子だったし、父は性格的に祖父と合わず、武士の生活を好んでいなかったからだ。

祖父のもとに引き取られた藤樹は、九才から十五才までの六年間を祖父母と一緒に暮すことになった。やがて祖父母が相ついで没した為に、藤樹は十五才の若さで祖父の名跡を継ぎ、中江家の当主として城に出仕することになる。さらに藤樹は十八才の時、故郷に残してきた父の訃報を耳にする。父を深く愛していた藤樹は、激しく慟哭した。彼は帰省して手づから父を葬ろうとした程だった。

百石レベルの武士ともなれば、自宅に召し抱える使用人の数も多い。少年の身で当主になった藤樹は、帰宅後も家内の取り締まりに神経をすり減らし、朝から晩まで緊張のし通しだった。

中江藤樹

中江藤樹は故郷喪失者であった。九才まで彼は父母の膝下にあり、平凡な村童として田舎でのびのびと暮していた。そこには親類も知友も多く、顔を合わせれば、彼が「和気油然として相親睦」すると表現したような生活が展開していた。

祖父の養子になって米子に赴いた日から、彼は一日として故郷を忘れたことがない。非人間的な武士の生活を棄てて、直ぐにでも近江の国小川村に帰りたい、これが藤樹の内部を流れる根本衝動であった。

「年譜」を読むと、こんなエピソードが載っている。14歳の時、藩の家老が4,5人の家来を連れて祖父を訪ねてきた。彼は、家老ともなれば優れた見識を持ち、常人とは異なる話をするだろうと祖父との対話に耳を澄ませていた。一晩中続いた会話は、凡庸な雑談に終始して参考になるものが一つもなかった。そこで彼は、「心ニ疑テコレヲ怪」しんだというのだ。

生真面目な中江藤樹は、これに類する失意の経験をいくつも重ね、朱子学に救いを求めるようになる。

中江家の当主になって間もなく、京都からやってきた禅僧が「論語」を講じたことがある。藩は米子から大洲に転封になっていたが、大洲の風俗は武芸を重んじて学問を軽視していたから、この講筵に主席した武士は中江藤樹一人に過ぎなかった。

禅僧の講義に触発された彼は、「四書大全」を買い込んで耽読するようになる。そして、朱子学を知り、暗夜に光明を見いだしたような気持ちになるのだ。年譜の20歳の項に、「先生、専ラ朱学ヲ崇デ、格套ヲ受用ス」とあるところを見れば、日常生活のシステムを求めていた迷える藤樹に、朱子学は具体的な行動指針を与えてくれたのである。

「格套」とは、行動上の細則であり、踏み行うべき形式、格法を意味する。

朱子学は、理性的で禁欲的な中国の哲学である。自己実現とは、与えられた枠組みから足を踏み出して何かを創造することではない。所与の社会的枠組みの内部にとどまり、「居敬守静」の生を持続するところに自己実現が成立すると説く学問だ。

朱子学は、宇宙法則に合致して生き、治者として端正に身を持していくために、格套を守ることを求めるのである。

祖父の死後、極度の緊張感に襲われた彼は、自らの本性に逆らって武士生活への過剰適応を開始した。強制的に帰化させられた外国人が、最後の救いを誰よりもその国の人間らしくなる努力に求めるようなものである。藤樹は完壁な武士になるために「格套」を堅く守り、四角四面の生き方をすることで武士への違和感を忘れようとしたのだ。

大洲藩士時代の藤樹の行動に特徴的だったのは、外に対する秋霜烈日の厳しさと、内にかくし持っている性格的ひ弱さの対照であった。彼の自他に対する態度はすこぶる峻厳で、言動に一点のミスを許さなかった。その露出している疳癖の鋭さは「人ノ心胸ヲ刺衝スル」ほどだったという。

その癖、彼はひどく臆病だった。好きな本を読むのにも、昼は仲間と一緒に武芸を習い、夜になって人目を盗んでこそこそやるという風であった。取るに足りない自身の些細な過失を気にして、一カ月余もくよくよ考えこんだりした。

大洲時代の彼は一夜として安眠することがなかった。夜寝ていても、戸外で僅かな人声や足音がしただけで不安に襲われ、ぱっと目を覚してしまうのだ。慢性的な不眠が続き、次第に彼は追いつめられて行った。

二十五才の春、夫の死後一人暮しを続けている母を大洲に迎えるために藤樹は帰郷する。しかし、母は同行することをこばむ。気の強い母であった。やむを得ず、彼は単独で四国行きの船に乗り込むが、この船中で彼は思いがけない喘息の発作にみまわれるのである。この発作は予想外に、重かった(年譜 「帰途、船中ニシテ始メテ哮喘ヲ患ウ、キワメテ甚シ」)

彼の全身全霊は大洲藩に戻ること、武士として生きることを拒否していた。不本意な世界に帰って行く息苦しさ、地獄へ戻る窒息感が、この喘息発作の原因であった。

帰藩してから二十七才で脱藩する迄、彼は再三にわたって致仕を願い出ている。藩主の認可なしに脱藩すれば、追い打ちをかけられて切り捨てられる危険があったが、それを承知で彼は遂に決定的な行動に出るのだ。その年の禄米には手をつけず全部蔵に残して、ほとんど無一文で屋敷を飛び出したのである。

脱藩して直ぐに故郷に戻れば、捜索の手が及んで逮捕されるかもしれない。そこで彼は、京都の友人の家にかくまってもらって百日余を過ごしている。

中江藤樹は、ようやく故郷に戻って来た。武士生活がどれだけ彼を疲労させていたかは、彼が帰郷後一年間、何もしないで毎日寝て暮したというエピソードによって知られる。

現代風に云えば、これが一種の「睡眠療法」の役割を果たしたのだろう。この療法で藤樹の神経症は寛解したが、完全に癒ったのではない。喘息発作はその後も続き、これが彼の死病となるのである。

以上のような経過を経て中江藤樹が辿りついた思想的立場は、人間自然の「真性活溌之体」を守って生きるということにほかならなかった。彼が小川村に移って最初にやったことは、なかなか印象的である。

身に帯していた刀を売り払って資金を作り、村民を相手に金貸しをはじめたのだ。これと前後して彼は酒屋を開業している。大洲にいた頃、「孔子殿」と揶揄されていた堅物の彼が、一転して「人欲」を積極的に肯定する生活をはじめたのである。

ついで、彼は私塾を開く傍ら、生計の一助にと易や医学を学び、「村落教師」兼「村落医師」になっている。中江藤樹が「近江聖人」とたたえられた背景には、医師としても大きな業績を上げたという事情がある。

彼は弟子に儒学を教えただけでなく、希望者には医学も教えた。入門を希望してくる若者の中には、知能に問題のある者もいた。大野了佐という弟子は、「精神薄弱者」に近かった。

大野了佐は友人の子供で、その嫡子だった。しかし生まれつき愚鈍だったので父親は彼を「賤業」につかせようとしていた。大野了佐は心配のあまり、藤樹のところにやってきて「医者になりたいから、医書の読み方を教えてほしい」と頼み込むのである。

中江藤樹は、了佐を哀れんで弟子にとることにして、漢方の医学書を読ませた。ところが、冒頭の数句を教えるのに昼食抜きで午前十時から午後4時頃までかかるという始末だった。それも、食事を済ませて復習させてみると、けろっと全部忘れてしまっている。

藤樹は「我、了佐ニ於イテ幾ド精根ヲ尽ス」という状態にまでなったが、毎日通ってくる彼を見捨てることはできなかった。漢籍を読ませるのは無理だと悟った後は、了佐のために平易なテキストを作り(「医筌」という本を新たに書き下ろしている)、これを噛んで含めるようにして教え込んだ。。そして、とうとう彼を一人前の医者に育て上げるのである。

一事が万事、中江藤樹の弟子や村民に対する態度は、こういう風だった。戦国の遺風がなおも残るこの時代に、彼はヒューマニストとして生きたのである。

朱子学は元来、士大夫の学問であり、治者階級の学問であって、形式主義と官僚主義を基底にしている。中江藤樹は朱子学と決別し、次第に伝統的な儒学の立場からも逸脱しはじめる。そして、易の太極を神格化して、一種宗教的な立場にたどり着くのだ。

彼は、この宇宙を神的なものによって統括された一大国家として考えるようになった。士農工商の身分的差別を越えて、すべての人間は天の前で平等なのである。藤樹は、人間平等論を徹底させる。人間は、霊力を持つ点で平等であり、天と直接に交渉できる点で平等なのだ。

陽明学は、致良知説と知行合一説から成り立っている。「良知」とは人間本具の心の本体を意味している。中江藤樹は、自分を縛り上げていた格套を捨て去って、本具の良知に基づいて生きるようになったのである。

では、この転換はいかにして可能になったのであろうか。

青年期の中江藤樹が、格套に執着したのは自我防衛のためだった。勤務にミスを犯すまいと努力し、家政を治めるために神経をすり減らしたのも、自分を守る目的からだったし、倫理的な完全主義者になって仲間から「孔子殿」と揶揄されるほどになったのも自我防衛のためだった。

自我防衛のために守りを堅くし、自己内にエネルギーを増投しつづけるなら心は「鬼窟」と化する。道元は自我の営みを「鬼窟裡の活計」と呼んでいる。自分を守ることに腐心すれば、自我は鬼と化し、心は鬼の棲家となり、考えることすることのすべてが鬼による鬼のための延命工作にほかならなくなる。

「鬼窟」の壁が日に日に厚くなり、内部が暗く重くなっていくありさまは、ブラックホールを思わせる。だが、「鬼窟」が重く暗くなるにつれて、実はそれに引き出されるように「明珠世界」が出現してくるのだ。

これも道元の言葉に「尽十方世界一顆明珠」というのがある。全宇宙、全世界が一つの明るい珠だというのだ。この場合、明珠は外部の客体世界を意味すると同時に内界をも意味している。道元は人の心を明るく澄んだ珠玉だと見ていた。

つまり道元は人の心は暗い「鬼窟」にもなるが、本来明るく澄んだ「明珠世界」なのだと言っているのである。

そして、この両者は包摂関係にある。「鬼窟」が救いがたいほど暗くなると、これを外側から包んでいる「明珠世界」が出現する。中江藤樹は、どん底まで落ちて壁を抜け出し、「明珠世界」に出ることに成功したのだった。

どん底まで落ちると、どうして明るい世界に出ることが出来るのか。ここに人間精神の最大の秘密がある。包摂関係にある両者の関係を絵柄にすると、庶民とこれを救済する観世音菩薩の関係になったり、悩めるものとそれを見守るマリアの関係になる。こうした絵柄によってしか説明できない神秘が、人の心に潜んでいるのである。

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