永井荷風の生活 1 女にかけては百戦錬磨のはずの永井荷風が、物の見事に愛人にだまされたことがある。松本哉の「永井荷風という生き方」という本には、この事件のいきさつが具体的に記されている。
永井荷風がその女、関根歌に巡り会ったのは、昭和2年のことで、そのとき荷風は48歳だった。当時、歌は麹町の富士見町川岸の抱え芸者をしていて、鈴竜と名乗っていた。歌を知ったときの喜びを、荷風は日記にこう書き記している。
<ここに偶然かくの如き可憐なる女に行き会いしは誠に老後の幸福というべし、人生の行路につかれ果てし夕(ゆうべ)ふと巡礼の女の歌う声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとうべし>
驚喜した荷風は大枚一千円で彼女を身請けして妾にした。彼はこの妾宅に「壺中庵」という名前を付け、翌年には彼女に待合を一軒持たせて女将にしている。わずか21歳の歌に店を任せたのは、女の実直な性格を見込んでのことだった。荷風によれば、歌は次のような女だった。
<容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷(たすき)をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるる世帯持の上手なる女(荷風の日記、昭和二年九月十七日)>
その歌が、店を持たせてから3年後に荷風の目の前で気を失って倒れたのだ。狼狽した荷風は、かかりつけの中州病院に運び込んで診断を求めた。すると、院長の診断は、「行く行くは発狂することになるだろう」ということだった。これを聞いた荷風は日記にこう書いている。
<お歌入院して早くも十日後となりしが病勢依然たり、一時はやや快方に赴く事もあるべけれど、待合の商売などはもはや出来まじく、行々は遂に発狂するに至るべしと、大石博士の診断なり、人の運命は淘(まこと)測り知るべからず、お歌年僅かに二十五にて此の如き病に陥りたる前世の因縁なるべし、哀れむべきことなり(昭和6年7月6日)>
歌はーカ月ほど入院して、七月二十七日に退院した。大石医師は回復の見込みなしと判断したし、荷風も「言語挙止全く狂人に類す、憫むべきなり」(七月二十九日)と日記に書いている。そのひと月後の八月二十六日には、「生きながらにして既に他界のものに異らず、言葉を交ゆるも意思を疎通する事さへかなはぬ病者となり果てたり」と日記に記し、死んだ人を悼むような悲痛な気持ちになっている。
しかし、大石院長も荷風も、まんまとだまされたのだった。後になって歌が白状したところによると、荷風の不在中こっそり酒を飲んで、それを隠そうと荷風の前で息を止めて酒の匂いがしないようにしていたら、息が詰まって悶絶卒倒してしまったというのである。
この時、彼女には酒の匂いをさせてはならない事情があった。歌は若い男と一緒に酒を飲んでいたのである。卒倒して精神病を疑われた歌としては、そのまま仮病を続けるしかなかった。その後、彼女は中州病院に二ヶ月入院し、これが原因になって荷風と歌の関係は終わりを告げる。荷風は、「お歌との関係今夕にてひとまず一段落を告ぐ、悲しいかな」と日記に書いている。
永井荷風はこんな調子で、女にだまされたり、女を次々に乗り換えたりして、36歳以後の独身時代をすごすのである。彼には女性に関して独特の好みがあった。
<汚れがないと言はれる処女といふものは、何の感興を誘ふ力もないが、妻、妾、情婦、もしくはそれ以上の経歴のある女と見れば十人が十人、自分はかならず何かの妄想なしに看過することが出来ない>
彼はまた、こんなふうにも言っている。
<僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前では酔払わないこと。処女を犯さないこと。素人の女に関係しないこと。此の三箇条を規則にしている>
荷風の言葉を聞いていると、少女趣味だった有島武郎のことが自然に思い出されてくるのだ。有島武郎と永井荷風の家庭環境は似ていた。二人とも、エリート官僚から経済界に転身して成功した父親を持っていたのだ。その遺産を受け継いだ二人は、経済的にきわめて恵まれた立場にあり、食うや食わずの貧困から身を起こした多くの作家たちと全く異なっていた。
にもかかわらず、二人は体制に反発してアウトサイダーになったのである。共通しているのは、そればかりではなかった。二人の年齢も経歴も実によく似ているのである。有島武郎は明治11年生まれで、永井荷風は明治12年生まれだから、二人の年齢は一歳しか違わない。そして二人は明治36年に(当時、武郎は25歳、荷風は24歳だった)渡米し、数年間を外国で過ごしている。
武郎と荷風は、アメリカで日露戦争の勃発を迎えるが、両者ともこの戦争に強い拒否反応を示している。有島武郎が日露戦争を否定したことはよく知られているけれども、永井荷風も弟への手紙に、「余は如何なる点からしても戦争と云うことに幾分の趣味も有することができない。又国家と云うものを尊重することが出来ない」と書き送っている。
経歴も同じ、反体制的な意識でも共通していたのに、二人の女性に対する好みは正反対だったし、その作家としての生き方も水と油ほど違っていた。片や夏目漱石の再来とうたわれた誠実な作家であり、片や世を斜に見て遊蕩に明け暮れる冷笑的な作家だった。有島武郎が心中したときなど、永井荷風は彼に向かって毒々しいまでの嘲罵を浴びせている。
一体、この性癖の違いは、どこから来たのだろうか。
2 永井荷風を有島武郎と比較するとき、最初に目につくのは、荷風が青春の入り口で挫折を体験していることである。彼は、父親の命で当時最難関の学校だった第一高等学校を受験したが失敗し、編入学した外国語学校も中退して、大学卒の学歴を持たずに世に出ている。有島武郎も学習院の級友が東大や京都大に進む中で、彼一人だけ札幌農学校に入学するという変則なコースを選んでいる。だが、新渡戸稲造を校長とする札幌農学校は国立大学並みの高い評価を受けていたから、彼は学歴の点で卑下する必要はなかった。
受験に失敗して旧制中学卒業の学歴しか持たないことに、誇り高い荷風が傷つかなかったはずはない。彼は、浪人して再起をはかるという方法を選ばなかったし、私立大学の文科に入学するという路線も選ばなかった。彼は進学を拒み、まるで挑戦するように日陰の世界に飛び込んでいくのである。
永井荷風のその後の生活といえば、落語家の朝寝坊むらくの弟子になって席亭に出入りするかと思うと、習作の原稿を持参して広津柳浪の門に入ったり、歌舞伎座の作者見習いになって拍子木を入れる稽古をするというふうだった。
作家に弟子入りするに当たっても、当時人気の尾崎紅葉などを選ばないで、社会の暗黒面を描いた広津柳浪の門を叩いたところにも、荷風の「日陰者志向」が見て取れる。
日清戦争の勝利に酔っていた明治30年代のはじめ、青年の多くは立身出世を夢見ていた。新興国家日本の中枢に参画することが、大学に学ぶ学生たちの夢だったのである。
一方、有島武郎にとっては、明治の日本が偽善に充ちた「白く塗られた墓」に見えた。だから彼は使命感に燃えて、札幌農学校に入学し実業によって日本に貢献しようと考えたのである。彼は明治日本に背を向けていたが、それは真実の日本を建設しようとする向日的な意識からだった。
しかし永井荷風の方は、日本が明るい未来を目指しているのなら、自分はその反対に日本社会の日陰の部分や暗部で生きていこうと考えたのだ。有島武郎が向日的な意識で20代を過ごしたとしたら、永井荷風は「拗ね者意識」で同じ時期を過ごしたのである。
やがて、荷風は本腰を入れて文学の勉強をするようになったが、ここでも彼が模範にしたのは社会の底辺を描いたゾラだった。英訳本で作品を読んですっかりゾラに心酔した荷風は、精力的に「ゾライズム」の作品を書き始める。お陰で、文芸雑誌に彼の作品が次々に載るようになり、荷風の名を冠した単行本(小説集や翻訳書)も相次いで出版され、作家の卵として彼の名が出版界に登録されることになったのだ。
しかし、荷風の父親は、小説家などを「正業」とは認めていなかった。
彼は息子をアメリカに送り込み、経済や法律の勉強をさせ、荷風を役人か銀行員にしようと目論んでいた。永井荷風も一応その線で行動し、渡米2年後には日本公使館に勤務し、その後、正金銀行ニューヨーク支店に就職している。28歳になった荷風は、正金銀行リヨン支店に転勤する。しかし彼は一年とたたないうちに銀行を辞め、自由な身になってフランスでの生活を満喫した後に日本に帰ってくる。そして帰国半月後には、早くも「あめりか物語」を博文館から出版して文壇の注目を集めるのである。
それからの荷風はとんとん拍子だった。翌年には、「ふらんす物語」「新帰朝者日記」を出版し、朝日新聞に連載小説「冷笑」を載せ、その次の年には慶応大学の文学部教授に招聘されている。荷風、31歳のときだった。
洋行以前には、日陰の世界に身を置き、歌舞伎座で拍子木を打っていたような拗ね者が、今や人気随一の新進作家になり、加えて大学教授の肩書きを持ち、西園寺公望首相の「雨声会」に招待されるまでになったのだ。だが、この時期に、彼を再び日陰の世界に引き戻すような事件が起きたのである。
森鴎外を生涯神のように敬慕しつづけた永井荷風は、折あるごとに鴎外邸をおとずれて鴎外の話を聞いていた。ある日、彼は鴎外の家で大逆事件の弁護人をしている人物から、幸徳秋水以下多数の被告が冤罪であることを告げられる。政府は、無政府主義を鎮圧するために無実の被告らを死刑にしようと企てているのだ。
この話に衝撃を受けた荷風は、数日後に路上で大逆事件の被告らが箱馬車に載せられて裁判所に運ばれて行くところを目撃する。彼が思い出したのは、ドレフュース事件に激しく抗議したゾラのことだった。ゾラは、当時、フランス人の憎悪の的になって裁判にかけられているドレフュースが冤罪であることを確信し、社会全体を敵に回してドレフュース擁護の戦いを続けたのだった。
永井荷風は、自分を恥じないではいられなかった。自分もゾラのように大逆事件の被告らを擁護する文章を書くべきなのだ。だが、日本はフランスとは違う。彼が幸徳秋水らの被告を弁護したら、社会的に葬られるだけでなく、自分も投獄されることになりかねない。それを思うと、どうしてもペンを取る気にはなれない。
永井荷風は、自分に不当な裁判に抗議する勇気がないことを認めた瞬間に、以後自分は社会に背を向けて戯作者として生きて行くしかないと決意したと書いている。この彼の告白が、どの程度真実か分からない。だが、大逆事件問題が彼の日陰者意識を強化する契機になり、以後の彼の生涯を決定したことは確かだと思われる。
3 永井荷風の父親は、息子が「陽の当たる場所」に出たのを機会に、ちゃんとした結婚をすることを求めた。荷風は云われるままに材木商の娘と結婚したが、父が病死すると直ぐに妻を離別し、以前から囲っていた妾の八重次を家に引き入れて妻にしてしまう。しかし、この八重次は半年後に置き手紙を残して家を出て行ったから、永井荷風は36歳で独り身になり、以後死ぬまで独身者として生きることになるのである。
父の死とともに永井荷風の懐には膨大な遺産が転がり込んで来たから、彼は金満の独身者として生きることになる。彼の相続した家屋敷は千坪以上の広大なもので、大正7年、この土地を二度目に売却したときの対価(彼は地所を二回に分けて売却している)は2万数千円に達している。
2万数千円というのは、当時にあっては巨額の財産だった。実際に、荷風は父の死後、元本の証券に手をつけることなく、株券の配当と貯金の利子だけで生活している。大学教授としての俸給や、出版社から受け取る原稿料・印税を当てにする必要は、毛頭なかった。だから八重次に逃げられて独り身になると、飽きが来ていた大学を辞め、原稿の依頼も断り、無為徒食のぶらぶら生活に入るのである。
永井荷風が慶応大学を辞めたのは大正5年だが、奇しくも有島武郎はその前年の大正4年にやはり札幌農科大学(札幌農学校の後身)教授の職を辞している。荷風と有島はほぼ同期間アメリカで暮らした後に帰国して大学教授になり、相前後して父親の死を迎え、そして同じ頃に教授の仕事を投げ出している。違うところは、有島武郎が自由の身になってから本格的な作家活動を開始して、「カインの末裔」「迷路」などの傑作を次々に発表し始めたのに対して、荷風が教授を辞めてから作家として休息期に入ったことだった。
永井荷風のような男が休眠状態に入ったら、誰でも戦後に登場した無頼派の作家たちのように破滅的な生き方をするのではないかと考える。
独身の中年男で、金はあり余るほどある、趣味は女道楽、若い頃から、「予は淫楽を欲して已まず。淫楽の中に一身の破滅をねがうのみ」(西遊日記抄)と放言していた荷風だから、身を持ち崩すのもさぞ早かったろうと思われたのに、蓋を開けてみたらそんなことは全くなかった。彼はいわば謹直な放蕩者であり、無為徒食によって財産を食いつぶしているように見えて、実は手堅い日常を送っていたのである。
5年間に及ぶ外国生活で荷風が身につけたのは、実生活上の合理主義だった。
彼の合理主義を何より明らかに物語っているのは、麻布に彼が建てた「偏奇館」と呼ぶ住まいで、これが実用一点張りの箱のような家なのだ。総二階建てで、カルタを並べたように窓がずらっと並んだ、事務所か寄宿舎のような殺風景な家だったのである。こういう箱のような家を訪ねてくる客はほとんどなかった。彼が親戚縁者と関係を絶ち、作家仲間とのつきあいも避けていたからだった。
彼が女性と性交渉する際に必ずコンドームを使用したのも荷風流の合理主義のためだった。読書と淫楽を中心にした独居生活を持続するためには、邪魔になるものをすべて切り捨てなければならない。そして一番邪魔になるのは、係累なのである。荷風は、この世に妻と子ほど煩わしいものはないと考えていた。
<わたしは自ら制しがたい獣欲と情緒とのために、幾度となく婦女と同棲したことがあったが、避妊の法を実行する事については寸毫も怠るところがなかった>
と、書いた荷風は、後年になって、自らの行動を自画自賛している。
<わたくしは老後に児孫のない事を以て、しみじみつくづく多幸であると思わねばならない>
戯作者に徹すると宣言して、「風教に害のある反社会的な小説」ばかり書いてきた永井荷風が、文化勲章をもらったと聞いて、首をひねる文壇関係者が多かった。伊藤整は、新聞に載っている文化勲章を首にぶら下げた永井荷風の写真を見て、「哄笑」を禁じ得なかったと云っている。伊藤整ばかりではない、多くの文壇人たちは反骨精神の象徴のようだった荷風は、当然、文化勲章を辞退するものと思っていた。
しかし荷風が文化勲章をありがたく拝受したのは、純粋に経済的な理由からだった。勲章と一緒に国から与えられる年金が欲しかったのだ。戦後のインフレで所有している株券も預金も紙くず同然になった上に、戦災で偏奇館を焼失して親戚や知人の家を転々としていた永井荷風にとって、年金は今後の経済生活を保障してくれる貴重な「財源」だったのである。
戦後になって荷風の作品が再評価され、原稿依頼が殺到し、印税も次々に流れ込んできたけれども、万事に用心深い彼は、これらに加えて更なる金銭的な保証を求めていたのであった。
永井荷風が淫楽にふける個人主義者だったことは疑いない。だが、彼の個人主義は背後から独特の合理主義によって支えられていたから、少しの破綻も見せずに79歳まで生き延びることが出来たのだった。では、合理主義によって支えられた荷風の個人主義的日常とは如何なるものだったのだろうか。
4
有島武郎と永井荷風を、表世界と裏世界という観点から比較してみよう。有島武郎は、子供の頃から表世界でのスターだった。彼は小学生時代に皇太子の学友に選ばれ、週に一回吹き上げ御苑に参上している。そして一年志願の兵役を終えた後に、皇太子の相談役として宮中に入ることを求められたり、有力政治家の秘書になる話などを持ち込まれている。有島にその気があれば、彼は将来、侍従長を経て宮内大臣になる可能性が大だったのである。有島の前には官界・政界のほかに内村鑑三の後継者という道も開かれていた。事実、内村鑑三は有島を彼の指導する独立教会の次期リーダーに予定していた。しかし、清教徒的モラルを固く守って周囲の信頼を集めていた有島武郎は、内面にもう一つ別の顔を持っていた。この世の規範から解放されたローファーとしての顔である。
有島の注釈によれば、「ローファー(放浪者)とは怠けもののこと」であり、「約束の出来ない人間、誓うことをしない人間だ」ということになるが、彼は謹直な日常を保つ一方で、裏世界においてローファーとして一生を送りたいと夢見ていたのだ。彼の心はいつもこの表裏二つの極の間を揺れ動いていた。よく言われるように「或る女」の葉子は、作者自身の分身にほかならなかったのである。
永井荷風には、有島のような迷いはなかった。彼は第一高等学校の入試に失敗して以来、終始一貫、裏の世界を志向し続け、これ以外の世界に目を向けたことは一度もなかったように見える。
彼は日陰者の世界には、陽の当たる表世界では失われてしまった美と真実があると考えていた。娼婦的なのはむしろ良家の主婦たちであり、売笑婦の方がかえって貞節だというのだ。
しかし彼は本当にそう考えていただろうか。
私は荷風の「おかめ笹」という作品を最も愛していて、今度も再読してみたけれども、彼は陽の当たる上流の世界を眺めると同じ目で、日陰に生きる女たちを見ている。この作品は日本画壇の長老一家を中心とする上流の社会と、売笑を業とする女たちの「苦界」とを、この二つの世界の仲介者ともいうべき鵜崎巨石という貧乏画家の目を通して同時平行的に描いたものである。
鵜崎巨石は画壇の長老の私宅に内弟子として住み込んで修行したものの、才能がなかったため芽が出ず、師匠一家の執事役を引き受けることになった中年男である。彼はいつも師匠の長男翰が引き起こす乱行の後始末で苦労していた。翰が妊娠させたり、暴行したりした女たちの面倒を見ているうちに、彼は段々と苦界の消息に通じるようになるのだ。
翰は親の愛情を親の欠点のように考えて、それにつけ込んでいく道楽息子だが、その翰をめぐる女たちも、それぞれの思惑で動いていて、格別の美点があるわけではない。彼女らは男の口約束を信じて裏切られることを繰り返して来たので、多少条件が悪くても実(じつ)のありそうな男を見かけると、それに頼ろうとする。彼女らが貞節な女に見えたとしても、それは結局打算から来ている。
小心翼々たる中年男の鵜崎巨石が、最後に待合いのオーナーに納まって、目出度し目出度しの終幕を迎える。これも、つまるところ日陰の女たちの打算が、何の取り柄もない彼を「旦那」に押し上げた為だった。
永井荷風は、表世界と裏世界を同じ冷笑的な目で見ていた。にもかかわらず、従来の立場を変えず、日陰の世界だけを肯定していた。彼は一度選び取った視点を変えない頑ななサガを持っていたから、若い頃の自分に目をかけてくれた森鴎外を徳として、年ごとに鴎外への敬慕の念を深め、鴎外を死に至るまで神のように仰ぎ続けたのだ。
教授の職を辞し、マスコミとも距離を置いて接触するようになった彼は、完璧に近いまで自由の身になった。もうイヤなことは何もしないでもいいのである。彼は偏奇館に万感の書を集め、読書に疲れると狭斜のちまたに足を運んで淫楽にふけった。「わが愛するのは読書と淫楽のみ」と常々いっていたような日常を展開したのだ。
だが、個人感情の赴くままに好きなことだけをする生活は、生きている実感をもたらさない。毎日がとりとめもなく過ぎて行き、自己感が保たれないのである。自分のためだけにした行動は、心に何も残さないのである。
荷風は、合理主義者だった。合理主義はその内部にストイックな意志とそれに基づく生活システムを含み、生活が無際限に広がっていくことにブレーキをかける。「女郎買いの拾い草鞋」という言葉があるけれども、女郎を買うためには落ちている草鞋を拾うほどの節倹に努めなければならないのだ。
合理主義的ストイシズムによって実現した自由な世界はそれなりの緊張をはらんでいるが、そのままでは矢張り充実感をもたらさない。昼間偏奇館でお気に入りの本を読み、夜は売笑窟やカフェーに出かけて女と遊び、毒にも薬にもならない無駄話にふける。
だが、完全な自由の中には、真の喜びはない。そのことを実感した荷風は、気ままな生活に筋を一本通す意志的な作業を開始したのだった。日記を書き始めたのである。拘束のない日常を無拘束のまま放っておけば収拾がつかなくなる。生活のすべての細部を一本の線に連なる系列にまとめあげること、その全体を集約する筋として「断腸亭日乗」なる和本を綴って行くこと、これが彼の開発した蘇生術であった。
荷風の生活は次第に、幾何学的な端正なものになっていった。晴れた日にはこうもり傘を手に下町一帯を歩き回る。そのため、彼の顔は日焼けして文士というより労働者のような顔になった。散歩中、感興を呼ぶものを見つけると、その場でそれをメモしたりスケッチにしたりする。それから馴染みの飲食店に入って食事をする。
この食事にも規則性があって、同じ席に座り、同じものを注文するのが常だった。松本哉の本には、次のような一節がある。
<ひとり暮らしの荷風は外食することが多かったが、際立った特徴があった。荷風に限らず老人特有の「無精」だったのかもしれないが、いつでも同じものを注文するのである。
もっとも有名な例は、最晩年、市川の自宅に近い食堂「大黒家」でのカツ井と日本酒だ。毎日毎日そればっかり。最晩年のことで、食事は一日一回だったというから、その徹底ぶりは鬼気迫るものがあった。最後の日も清酒一本にカツ井を食べ、深夜、胃潰瘍の吐血でその米粒を吐き出した姿で死んでいたくらいだ>食事を済ませ、帰宅した荷風は、メモ帳を取り出して、それを見ながら日記を書いた。特別あつらえの上質の紙を綴じて和本仕立てにして、これに極細の毛筆で書いて行くのである。こうした日記を死の前日まで42年間、一日も欠かさず書き続けたというから、ただごとではない。彼の後半生は、まるで日記を書くためにあるかのようだった。
永井荷風は、こうして書きつづった「断腸亭日乗」を折あるごとに取り出して読み返し、手を入れている。ここにも生活の枠を広げまいとする彼の配慮が見える。彼は新しい作品を次々に発表していくというタイプの作家ではなかった。新作に着手することを控え、旧作を読み返すことを好んだ作家だった。荷風にとっては、日記を書くのも、旧作を読み返すのも、自己を確認し、おのれの生を玩味し賞味する手段だったのである。
永井荷風の生活から我々が学ぶ点があるとしたら、次のようなことではあるまいか。ひとり暮らしには生活全体を収斂する一本の基軸が必要であり、この基軸を維持するにはストイックな意志が必要とされるということである。