パソコンで録画

ケーブルTVに加入してから、地上波TVのほかに、BS、CS、BSデジタルを視聴できるようになった。洋画ファンの私は、外にwowowにも加入しているので、TV番組の選択肢はかなり多いことになる。

選択肢が増えれば、見たい番組が同じ時間帯に重なっていることも多くなる。そういうときには、裏番組をVHSテープに録画しておいて、後で見るようにしていたら、そのテープがだんだん溜まって100本に達するようになった。こうなると、テープ代も馬鹿にならないし、第一、置き場に困る。

そこで、ビデオカセットに代わる録画法を探すことになった。最近脚光を浴びているHDD−DVDレコーダーに頼るという方法もある。だが、これは敬遠して、ただのHDDレコーダーを利用することにした。これだと録画をDVDに変換する機能がついていない分、価格が安くなっているからである。

ところが、HDDレコーダーも間もなく満杯になってしまう。

私は民間放送のドラマやバラエティー番組をほとんど見ない。その代わりに、ドキュメンタリー番組やら、美術番組を始終見ている。

ドキュメンタリー番組で、有名無名の人間のさまざまな生き方を見ていると飽きないのである。特に面白いのは、脱サラして自給自足の生活を始めた夫婦の記録とか、外人花嫁を貰った家庭、子沢山の家庭の暮らしぶりなどで、新聞のテレビ欄でそうした番組を見つけると早速、録画する事にしている。

ある種のドキュメンタリー番組は、20年、30年前に見たものであっても、実に鮮明な記憶が残っている。そんな一つに、崖の上から海に投身自殺した老女の残した手帳がある。

それは銀行などが顧客に配る手札型の小さな手帳で、日記形式でメモをつけられるように内部が細かく仕切られている。その手帳がずっと白紙になっていて、死ぬ前の二日分だけ文字が記入してあるのだ。

金釘流の稚拙な文字で、二日つづけて「いやなゆめをみた」と書いてあった。その老女は一人暮らしだったそうだから、生への執着があまり無かったかもしれない。だが、彼女が自殺に踏み切ったのには、「いやなゆめ」を見たことが重要な契機になっていたことは疑いない。彼女は、いったいどんな夢を見たのだろう。画面に映し出された金釘流の文字が、そんな疑問と一緒になって未だに私の頭に焼き付いているのである。

「自給自足」番組に登場する人々は、いずれも個性的な男女ばかりだ。だが、、今でも折に触れて思い出すのは、それら癖の強うそうな面々ではなく、どこにでもいるような平凡な顔をした男のことなのである。

この凡庸な顔をした40前後の男は、若い頃から独身のまま、ずっと自給自足の生活をつづけて来たのだった。食べるものは、米をはじめ味噌・醤油に至るまで全部自分で作り、衣類の繕いなども針を手にして自分でやっている。彼がそうした生活を始めたのは、トルストイを読んだからだという。

彼の表情にも口調にも、気負ったところは全くなかった。トルストイから得た感動を生涯続く動力源にして、誇らず、卑下せず、淡々と「イワンの馬鹿」式日常を送る。彼が立派な農家をただ同様で借りているのも、家主が、その人柄に打たれて計算抜きで屋敷を提供したからに違いない。

数年後に、この男性が結婚したというので、再度、同じ農家を訪ねる番組が放映された。結婚相手は重度の身障者で、目も見えず、発声もままならない40前後の女性だったが、トルストイの直弟子であるこの男はそんな相手を穏やかな態度でやさしく教え導いていた。現代の日本にも、こんな人物が生きているのである。

BSデジタルの発足によって美術番組も増えてきている。幻想美術館とか「美の巨人たち」とか、いろいろな形式で内外の名画が紹介されているのだ。「美の巨人」のナレーターは小林薫で、そのナニワブシ調の錆びた声が、ドラマ性を誇張してナニワブシに近くなった番組内容にフィットして、なかなか面白い効果を出している。

ほかにBBCの歴史番組を毎週放映している局もあり、視聴者側としてはどれを見たらいいか選択に迷うほどで、録画しておきたい番組が同時に2〜3本重なる日がつづくと、こちらも対策をたてる必要に迫られるというわけなのだ。

かくなる上は遊んでいるパソコンを動員して、その中に録画をため込むしかないと、私は思った。パソコンでTVを見られるようにする装置にビデオキャプチャーボードというものがある。数年前にそれを2,3試用したところ、canopusが出しているMTV1000ボードの性能が一番よかった。それで、これをすべてのパソコンに取り付けることにしたのである。

MTV1000を最初に購入したときには4万円かかったが、半年前にインターネットで価格を調べたら、実勢価格が1万5000円程度まで下がっている。早速、複数のMTV1000を買い足してパソコンに装着した(ただし、TVなみの鮮明な画像を見ようとしたら、ディスプレイを液晶にしなければならないし、予約録画をキチンとするには、CRMというソフトを付け足さなければならない)。

寝室にあるMTV1000パソコン。二つのパソコンは、ディスプレイを共用させる器具を介して同じ液晶ディスプレイにつなげてある。赤い矢印の示しているのがHDDで、一つのパソコンに三つずつHDDを取り付けている。

MTV1000を取り付けたパソコンに250ギガバイトの外付HDDを装着すると長短あわせて数十本のタイトルを収録できる。これに加えて、さらに外付HDDを増設すれば、収録数をいくらでも増やすことが出来る。こうして、この半年の間に、私のHDDにはおびただしい量の番組がストックされることになった。こんなにたくさんの番組を何時誰が見るというのか。

「雀百まで」とはよく言ったもので、私は同じようなことを古本集めでもやってきたのである。学生の頃から、古本屋を巡り歩いて面白そうなものを小遣いが許す限り買ってくるのが私の唯一の道楽だった。では、そうして買い集めた本を全部読んだかといえば、勿論、そんなことはない。いまだにその大部分は買ったきりで埃をかぶっているのである。

「おめえさんのやっていることは、よく分かるよ」と死んだ叔父が言ったことがある。「読まなくてもいい、ただ、闇雲に本が欲しいんだな。昔の地主がそうだった。自分で米を作りもしないのに、やたらむしょうに、田んぼをかき集めたものだ」

では、埃をかぶったまま死蔵されている本がまったく無意味かといえば、そんなこともないのである。雑誌や本を読んでいて急に連想が働いて、昔買った本を探し出して読むこともある。すると最早死に絶えていると思われた興味が再びよみがえってきて、「心の若返り」が実現する。それに、蔵書そのものがこころの支えになっているという面もある。

HDDに溜め込まれた録画も、死蔵されている蔵書と同じ役割を果たすのではないだろうか。これらを塩漬けにしておけば、時間による選別が働いて不要なものは削除されることになるだろうし、ある日、他のメディアからの連想によって、眠っていた番組を掘り起こして、我を忘れて視聴することもあるかもしれない。

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