目覚めの年齢


多数者に隷属しない方法 

   
目分の裏側にもう一つの自分を作って行くことを知ったのは、旧制中学三年の後半であった。現実に対して取る態度を二重にして、裏の方に本当の自分を置けば、多数者に隷属しないでも、多数者と共存できることを発見したのだ。これは、私の少年期と青年期を画するような発見であった。


中学の一・二年という時期は、生きるに困難な時期である。クラスの中には、半分大人になったような骨格すぐれた生徒がいるかと思えぱ、休み時間に甲高い声で小学生のように笑いさざめく未成熟な生徒もいる。教室の座席は、背丈の大小の順に後方から前方へと配列されていたから、教室の前に座っている生徒たちの漂よわす気分と後方のそれとではまるで違うのだ。


後方の生徒達は、英語のリーダーに「テントを張る」という一節がでてくると、誘い合わせるように野太い声で笑った。そして、休み時間になると、暫くそれをタネにして互いに冗談を云い合った。彼らはこの言葉から、朝ごとの勃起でパンツが突っぱる生理現象を思い出したのだ。前の座席に坐っている生徒は、彼らが何のことを話し合っているのか見当がつかず、不得要領な顔でほんやりそれを眺めているのである。


しかし、そうしたチグハグなものを含みながら、教室は渾然たるまとりを示していた。生徒たちは、小さないさかいや対立を直ぐ忘れて、気分を共にし一体となって行動した。授業中に仲間がへまなことをすると、ドッと声を合せて笑い、弱い教師に集中攻撃を浴びせ、手強い教師には一斉に畏服した。彼らは、一個の「群」であった。

私が学んだ中学校(旧制)は、各学年とも100名ずつで、1学年から5学年まで総勢500名で成り立っていた。小さな学校だったが、私が入学した昭和13年当時の地方の中学校は、たいていこの程度の規模だったのである。学校は丘の上にあり、ここから夕日に輝く仙丈岳が見え、展望には恵まれていた。当時の思い出を書き留めた旧稿があるので、ここにそれを転載する。

 ・・・・・・二年生になった時に能仁円神という歴史の先生が赴任して来て私達の担任になった。色白の品のいい顔つきをした一見大学教授風の先生である。この先生の授業中、私達はどうしてあんなにタガのはずれたような騒ぎ方をしたのだろうか。しまいには先生は教室に竹刀を持って来て悪童達を追いかけ廻しはじめた。東洋史の時間がくると私達は祝祭にのぞむように活気づき、教室中によろこびが溢れた。

こちらがチョッカイを出すと、先生は正に私達の期待した通りの怒り方をする。先生には復讐欲その他の邪念がないから、いくら先生を怒らせても後の心配はないのだ。私達がもっと面白い話をしてくれと頼むと、先生は今迄あれほど怒っていたことをケロリと忘れて、「何の話がいい?」と聞き返してくる。生徒達が新婚旅行の体験談を要求する。

先生は困惑のあまりシドロモドロになり、「二人を乗せた列車は駅を出発したのであった」 と朗読調の変な口調になって語りはじめる。


私達は笑った。笑って笑って横腹が痛くなるほど笑い続けた。円神先生はとうとう学校が勤まらなくなり、次の年には朝鮮の中学校へ飛ばされてしまった。

 今、私達は老境に近づいている。多少とも世の辛酸を味っても来た。その私達の脳裏に、年を追ってはっきりとよみがえってくるのは円神先生の面影なのである。在京の仲間達は同級会に「円神会」 という名前をつけ、自分達の手で追い出してしまった先生のことをしのんでいると聞く。

私達は円神先生ほど身を守るに拙な大人を見たことがない。そして、あれほど善良で美しい人柄を持った先生にそれ以後の人生でめぐりあったことがないのである。

私達の学年は善良な円神先生を学校から追い出し、罪もない下級生に暴力を加えるという「悪」を犯した。中学時代五年間の回想には甘美なものが溢れているが、同時ににがい想いもつきまとっている。私達は皆、それなりに努力して来た。だが、まだ、負い目をすべて完済しているとはいえないのである・・・・・・

円神先生の時間にタガのはずれたように騒いだ私たちも、 という国語教師の時間には水を打ったように静かにしていた。後に筑摩書房発行の雑誌「展望」の編集長になるこの人は、時局便乗型の暴力教師で、式日には陸軍少尉の軍服を着て登校し、やたらに生徒を殴りつけた。私も職員室に呼び出されて、ほかの教師が居並ぶ中でポカポカ殴られたことがある。彼が詔勅の話をしているときに、あくびをしたという理由からだった。彼はそうすることが「ますらおぶり」だと思いこんでいたようである。


この年代の中学生が一番恐れるのは、仲間から相手にされなくなり、群から見捨てられることであつた。めいめいの生徒が仲間の気分に合わせて自分の気分を調節し、仲間が引き返す地点で自分の興味も停止させた。


私は少しずつ、仲間が走り出せば、自分も訳も分からず走り出すという生活に違和を感じだした。これではまるで牧場の子馬と同じではないかと思ったのだ。すると、かえって一人取り残されているような不安が私を脅かし、仲間が走り出したら、人一倍早く走ってみせなけれぱならないと本能的に感じ始めた。自分をクラスの一員と認めてもらうためには、これでも結構面白い人間だと、証明しなければならないと考えたのだ。


私はしよつちゆう、ふざけてばかりいるおどけ者なった。後に、私は教師になって、あの頃の自分と同じように、自らそれと知らずに精一杯演技している生徒を数多く見て来た。


彼らは、級友の先頭に立って評判の悪い教師にたてつき、休憩時間に率先して大騒ぎをする。彼らは級友を面白がらせるために精魂を使い果たしている。これら「道化志願」の生徒たちの胸底にあるのは、自らの特異性の自覚、孤立してしまうことへの恐怖なのだ。


私が感じた級友への違和感は、主として学習に対する態度の相違から来ていた。多くの級友にとって、学校で習う教科には、重要科目とそうでない科目という区別があるようだった。英語・数学が重要科目で、それ以外のものは軽視していい教科なのだ、彼らは、教科の重要度に、応じて学習への力の入れ方を変えていた。


しかし、私には、わかり切ったことを反覆する退屈な教科と、何の為に勉強するのか、そもそもそこのところからして訳のわからぬ教科の二つがあるだけだった。


わかり切った教科は勉強する必要がなかったし、わからない教科は勉強の仕方も掴めない。つまり私には、勉強という行為の成立する条件がはじめから欠けていた。私は勉強しようにもその手がかりがつかめず、途方に暮れている哀れな生徒だった。


実際、私には勉強するとは、どういう行為なのかよくわからなかった。中学に入学して、まず驚いたのが、学期試験に仲間が教科書を「努力して」覚えて来ていることであった。


一学期の中間テストの第一日目、私のまわりの級友が地理の試験にそなえて福岡県の主要都市とその産物を暗記していた。家で覚えて来た事項を目を宙に据えて一人で暗唱したり、相互に確かめあっている。私はすっかりたまげてしまった。試験勉強をするということは、「無理して物を覚えてくる」ことなのだ。


しかし、私がしんから驚いたのは修身のテストの日であった。多数の仲間が教科書の本文を般若心経を覚えるように丸暗記して来て、それを一字一句問違えずに答案用紙に書き込んでいるのである。


私は心がけを改めてテストに臨むようになった。英語の単語などは、仕方なしに段々と覚えるようになったのだ。だが、そうしてみて解ったことは、私自身の内部に機械的な記憶に逆らう頑固な抗体のようなものがあるという事実だった。


私は一月から十二月までの英語の呼び方をどうしても覚える気になれなかった。教科書のはじめのところに暗記事項が列挙され、それを機械的に覚えてしまわないと先へ進めないような教科、例えば動詞の活用表が載っている国文法、元素記号表が印刷してある化学などの教科は最初からやる気がしなかった。


私の性格には、何かを強制されそうになると慌てて意識の扉を閉じてしまう反射的な機能が組み込まれているらしかった。触れられると葉を閉じてしまう眠り草のような 機能があるのである。結局、それは自ら欲したこと以外に他から何かを加えられることを恐れる気持、負荷に耐えない心の弱さから来ていた。


授業を受けている時にも、こうした内面的な機能がはたらいた。私は教師達が、大事なところにさしかかると、顕著に態度を変えて行くことに気づいた。黒板に向けていた身体を生徒の方に向け直し、妙にに雄弁になって同じことを繰り返しはじめる。


教師は喋ることに夢中になってしまうので、板書事項はかえって手薄になる。こういう時には生徒は自分で要点をノートに記入して行かねぱならない。成績のいい生徒達は、授業が核心に入ったことを知って注意力を倍加させ、せわしくペンを動かしはじめる。そういう時の彼らは顔に、いそいそした喜色さえ浮べている。


だが、私は逆にここがポイントだなと感じると気持がしらけて聞く気がしなくなるのだ。それは非行少年が大人の訓戒を聞く時の態度に似ていた。訓戒が要点に来ると、彼らは自動的に注意力を仮死状態にして相手の、言葉をやり過してしまうのだ。


私は学校で自分が多数者の脅威に屈しつつ生きていることを知っていた。内心で仲間達の動きに逆らう気持の流れを感じ、身辺に起る事象に仲間とは違った評価を下しながら、集団から離れまいと腐心している。そのために、無理してオーバーな演技をし、仲間との共感部分を誇張するのだ。だが、その結果は皆からうるさがられ、教師から殴られただけだった。私は自分で滑稽だと感じながら、そういう自分をどうすることもできなかった。


裏世界の形成


表に出す態度のほかに「裏態度」を作ることによって、現実との緊張を緩和して行くという生き方はやむを得ずうまれて来たものだった。中学三年生にとって、現実とは最早家や学校や地域社会だけではない。これらを包み、これらに浸透してくる日本という外社会の存在が、感情的反応の対象となるのである。


私は自分を取り巻く軍国日本というものを愛し得なかった。しかし、その感情をあからさまに表現することが許されないとしたら、それは裏態度であらわすしかない。こうして私は自分の裏面にもう一つの自分を育てはじめたのである。


太平洋戦争を翌年にひかえた日本は「ノアの箱舟」のようなものだった。この中につめこまれた一億の日本人の誰も、ここから逃げ出す訳には行かない。興亜奉公日とか戦勝記念日とか訳のわからぬ行事日がやたらにあって、その度に中学生たちは整列したり敬礼したり、訓辞を聞いたりしなければならなかった。


市町村の首長や校長の訓辞は、やたらにいかめしかったがその内容は空疎で、朝方読んで来た新聞記事をそのまま繰り返すだけのものだった。
政府と軍部は、日本国民を条件反射で動くパブロフの犬のような存在にしようとしていた。「大御心」とか「皇室」とか、特定の、言葉や観念に対し、指定された態度を取るようにしつけられた犬である。


雨が降っていても、政府が今日は晴れているといえば、その日は晴天なのであった。軍首脳が今外は土砂降りだといえば、国民は晴れた日に傘をさし長靴をはいて外出しなければならない。


それは嘘だという人間、おれはもうイヤだという人間は一人も見当らなかった。世界との連帯を失った日本人は、自己の思考のレベルを意識的にダウンさせて、支配層の意のままに動いていた。国民にとっても、パブロフの犬になって動くことが一番楽だったのである。


私は軍服を着ている人間がすべてきらいだった。軍服をつけた天皇もその例外ではなかった。学校で生徒の人気を博しているのは、式日に軍服をつけてくる文学士だったり、弁舌爽やかな配属将校だったりした。しかし、私は生徒達の関心の圏外にあって、黙りこくって日を送っている中年の教師達に心をひかれた。


私達が講堂で陸海軍の将官や評論家の時事講演を聞く時には、教師達も私達の横に一列に並んで出席していた。大体のところ月給順にずらっと並んで、顔にいかなる表情も示さずに話を聞いている彼らの恰好は、なぜかひどく悲しげであった。


旧制中学校に勤める教師の日常は、権力の前で、そして生徒の前で自己を抑制することによって成り立っている。彼らは自らの意志を表出せず、大きな声を出さず、自分の感情を慎重に押殺して暮している。そして、そういう慎しみを欠き、目分を正直に露出する単純な性格の教師が人気教師になったり、左遷されたりする。


私は、彼らが内に葬り去った個人感情のゆくえに、私自身の裏世界を通して関心を払ったのである。


私は外社会への関与を最少限にとどめて本を読むようになった。小学校教員をしている父の蔵書は哲学書が中心で中学生には不向きだったから、私は学校の図書室の本を借りて来て読んだ。学校から帰ると、布鞄の中から借りて来た本を取り出し、家の中のどこへでも腹ばいになって読みはじめるのだ。


中三から中四にかけて、私の心を最も魅惑した作家は芥川竜之介で、私は学校にあった彼の全集をくまなく読んだ。本当にくまなく読んだのである。そして、むしろ書簡や未定稿、創作ノートを収録した巻を愛読するようになった。


自分を取りまく学校や外社会を見捨てて、自分の裏側で生きるようになった中学生には、作家の表向きの顔よりその裏にかくれた私生活や作品の成り立って行く過程を知ることの方が面白かった。


芥川の書簡は、その一つ一つが文学作品といえるようなものであった。相手に応じて書簡の末尾に俳句・短歌・漢詩・墨絵を書き添え、文学的な効果を狙っている。


私はある書簡に記されている「埋火のほのかに赤しわが心」という俳句に感心し、別の書簡の「短夜の清き川瀬に河童われは人を愛しとひた泣きにけり」という短歌を面白いと思った。


文壇とは、社会の裏側に出て、そこに自由な大地を発見した人問達の集りであった。私はこういう書簡をやり取りする作家の日常にあこがれを感じた。小説を書くことにあこがれたのではない。作家の「生活」にあこがれだのである。


未定稿・断片・創作ノートを読むと、作りかけの半製品が散らばった工房の内部を見るような気がした。そこには途中まで展開して投げ出した着想、遂に日の目を見ずに終ったイデー、全体的構想をつかむためにそれに向って繰返し投げかけられる素描的思考などが見られた。


「創造」という仕事に取り組んでいる作家の情念の地図、精神の生理のようなものが具体的に知られるのであった。私は自宅にあった漱石全集の断片・創作ノートやメモも読んだ。この方は作川のそれより稚拙で泥臭かったが、そこにあらわれている漱石の精神の布置は芥川よりも大きかった。
私は精神の大きさが必しも芸術作品の上に具現して来ないことを知った。作家として成功するには、「芸」というようなものが必要なのである。


私は学校の図書室や父の書架から適当な本を探し出し、一人だけで楽しむことで満足していた。電車通学していた私は、ある日、同じ通学区の同級生が駅の待合室で文庫本を読みながらクスクス笑っているのに気がついた。


何を読んでいるのかとたずねると、彼は「これさ。面出いよ」と云って「侏儒の言葉」を示した。私はこの生徒に自分の同類を感じた。彼は子供っぽい表情の下に、あるしたたかさをかくし持った生徒で、かねてから私が関心を寄せていた少年であった。


国語の時間に「ライフ・フォース」という、言葉を使って教師に質問を試みた生徒がいた。私はそのことで彼が、バーナード・ショウの「人と超人」を読んでいることを察知し、あとで二人で、ジョン・ターナーについて大いに語り合った。


だが、私は「同類」と口をきいたあとで、きまって少し後悔した。自分の心情をあまりに素直に語り過ぎたと感じた相手には、大抵の場合、その後で冷淡になるのが私の癖だった。自衛の為の反射機能のようなものがはたらくのである。


私の生活は二つの部分に分裂した。学校行事への参加や学習などのように皆と一緒にする生活と、自分一人だけで内密にいとなむ生活であった。前者は学校・両親への義理立てとして最小限にやっておけばよい。後者は他人とは無関係な、純粋に私的な生活であった。


私は、個人的な印象や感想を投げ入れて放し飼いにする養魚池のようなもの、あるいは、自家用の判断を発酵させる地下倉庫のようなものを自分の内部に持つようになったのだ。私は知らなかったが、この場所でひそかに何かが育ち、結実しつつあった。


私が何の成算もなく、ただ純粋な興味にかられて読みふける本から、様々のイメージや言葉が裏世界に流れこんでいた。それらは、外社会に対して私が下だす隠密な観察や感情に形を与え、新しい経験の定礎となり、私自身にも見通しのつかない内界の基層を形成して行った。


私は吸収することに夢中で背後を振りかえるゆとりを持たなかったから、自分の意識下で何が進行しているか気づかなかった。私が自分の育てたものに対面するのは、これから数年後のことである。


太平洋戦争がはじまったのは、中学四年の十二月だった。

私はこの戦争が暗い結末をもって終るだろうことを本能的に感じたが、今更、軍部や政府に対して怒りを感じるようなことはなかった。腹を立てたところで、どうなるものでもなかった。


これまで散々、親の馬鹿な行動を見て来た子供が、改めて親の決定的な愚行を見せつけられたところで特別な感慨がある訳はないのだ。中学生にとっては、悪い政府は悪い親のようなものであった。

戻る