世の中には、劇的ともいえる人生を淡々と生き、今は静かに畑仕事などをしている人がいる。メール交換を通して知り合ったMさんは、そうした人物だった。
MさんはCDをすでに7枚もリリースしているフォークシンガーで、私などには想像もつかないような経歴の持ち主である。京都大学の大学院で仏教学を専攻した學究の身でありながら、フォークの世界に飛び込み、京都を始め各地で演奏活動を続け、アメリカにも渡っている。その体験をもとに本(平凡社新書)を書いたり、ディランに関する翻訳をしたり、昨年3月まで短大で教鞭を執ったりしている。そして、現在は「畑を耕すことと、歌を歌うことを中心の生活」を送っているのである。
この人の体験をこのHPで紹介したいと思って連絡を取ったら、Mさんは「できたら匿名にしてほしい、調べればすぐに特定出来るかもしれないが」という留保条件付きでOKを出してくれた。
Mさんはこの体験を人生行路のいかなる段階で得たのであろうか。私がこの質問をぶつけたら、Mさんはメールで次のように答えてくれた。
「このとき、京都大学の大学院修士課程1年生(関西風にいうと1回生)でした。フォークシンガーとしての才能のなさ、サンスクリットの難しさ、貧しさ、思い通りにいかない恋愛など、さまざまなプレシャーに押しつぶされそうになりながら悶々として生きていた頃です」
何はともあれ、早速、Mさんの体験を読んでいただきたい(匿名を希望されているので、内容を一部変更してある)。
話を、1970年の秋に戻さねばならない。「宗教風の情操」とでも言える境地に、実はこの年の秋、一瞬ではあったが到達したことがある。このことは今まで誰にも語ったことはないが、話の成り行きで思い切って話してみよう。
それは1970年11月22日の朝のことだった。その前の晩は一睡も出来なかった。様々なプレシャーに追い詰められて、悲しみが鉛のように心の中にたまっていた。ぼくは洛北アパートを出て、北大路通りを西へ向かい、下鴨本通りで左に折れ、御所へ向かって歩いて行った。その日は日曜日で、早朝の御所にはまだあまり人はいなかった。ぼくは2本の銀杏の木の根元にすわって、御所の庭の紅葉を眺めていた。素晴らしい眺めだった。
そして、銀杏の木の下で、ぼくは持っていった八木重吉の詩集を読んだ。
いても
たってもいられない
はなしてもだめ
ひとりぼっちでもだめ
なにかに
あぐんと食われてしまいそうだその時のぼくの気持ちは、まさにこの詩のようであった。劣等感と焦りと孤独に押しつぶされそうになっていた。そして、彼の次の詩を読んだ時、ぼくも彼のような質素で純粋な生き方をしたいと思った。
わたしみずからも
だれにもしられず
わたしのうたもひとにしられず
二つのものがむなしく土にかえっていっても
それでも悔いないせかいをみたいその時、突然、そうだ故郷へ帰って、自分で食べるものぐらいは自分の手でつくる生活をしようと思った。見果てぬ夢を追い求めながら焦燥の内に生きるのではなく、3歳から7歳まで住んだ山麓の村に小さな家を建てて静かな生活をしたいと思った。
そう思ったとたんに、ぼくの心の中で大きな化学変化が起こった。その時は、なぜそれが起こったのかわからなかった。ただわかったことは、途方もなく大きな喜びがぼくを占領したということだけだ。みんなに感謝したい気持ち、手を合わせたい気持
ち。そういう気持ちが本当に心の中から何の抵抗もなく湧き起こってきた。身体からエネルギーがほとばしり出て、身体は小刻みに震えていた。すべてのものは美しく存在していたが、もしそれらが眼前から突如として消え失せても、素直に受け入れることができるように思われた。どう表現しようとも、言葉では表せないほどの喜び。平和。身体が澄みきって、目を閉じれば身体が存在しないかのようだ。
それまで何度も egolessness ということばを口にしてきた。幸せになるには自我の
計らいを捨てる必要があるとか、分別を捨てなければならないとか口にしてきた。しかし、その時初めてその状態を経験したのだ。不思議だ。何に対しても執着がなかった。その時、誰かが、ぼくのギターが欲しいと言ったなら、喜んで与えていただろ
う。1969年の4月の終わり、サンタバーバラの山の中で「その分別を捨てなさい」という声を聞いた時の感じに似ていないことはなかったが、衝撃の大きさは比べようもな
かった。ぼくは立ち上がり、御所を出て、今出川通りを東に歩いていった。今出川大橋で加茂川の堤防に下り、北に向かってゆっくりと歩き始めた。心は喜びに満たされ、声を出して笑わずにはいられなかった。また同時に涙がとめどなく頬をつたって流れ落ち
た。もう太陽もだいぶ上がり、堤防にはいくつものカップルが歩いていた。彼らはみんなぼくを見るとびっくりして、さも汚いもの、さも恐ろしいものを見るかのように道をあけた。恋人を守ろうとして、ぼくと恋人の間に背を向けて割って入ろうとする男もいた。無理もない。汚ないブルージーンとアーミージャケットを身につけた、ぼさぼさの長髪の髯面の男が、涙を流しながら、声を上げて笑いながら近づいてくるのである。気がふれていると思われても仕方がない。
夜になっても身体の震えはとまらず、喜びの感情は持続していた。ぼくは外気にあたりたくて外に出た。すべてが心地よかった。吹く風、さらさらと音をたてて舞う枯葉、小さな少女の下駄の音。雲間に見えるひとつの星。
翌朝、目覚めた時も、エネルギーがほとばしり出ているかのように身体は小刻みに震えていた。そして心はまだ喜びに満たされていた。しかし、その喜びの中に、一抹の不安が生じてきた。気がふれたのかもしれないと。あるいは、身体の中に悪い病気があって、そこから発生される毒がドラッグのような役割を果たしているのではないかと。そしてまた、ひょっとしたら、これが、禅でいうところの見性体験に近いものかもしれないとも思った。
思い切って柴山老師に電話をした。事情をお話しし、「お会いしたい」と言うと、老師は、「すぐに来なさい」と言った。老師はぼくの話を聞くと、静かな声で、「その状態は長く続くことはないでしょう。気がふれたわけでもないし、悪い病気にかかっているわけでもありません」と言った。
また、心にはもっと深いところがあると教えてくれた。そして、西田幾多郎の弟子の西谷啓治さんの歌だと言って、「我が心深き底あり、喜びも悲しみも届くことなし」という歌を示してくれた。そして老師は「坐禅をしっかりするように」と付け加え
た。その状態になってから3日目の朝には、少しづつハイの状態から下りつつあった。身体の震えはほとんどなくなっていたが、でもまだ普通ではなかった。ほとばしるような喜びから、安定した落ち着いたよろこびに変わっていた。老師が示してくれた喜びも悲しみもない究極のところへ行きたいという密かな願いもあったが、この喜びを手放したくないという思いもあった。
そしてそれからしばらくして、日常生活の中で、人々と接する内に、自我が再び芽生えて、少しずつ硬い殻で覆われていった。好悪の情や、比較の意識が徐々に戻ってきた。
ただ、八木重吉の詩を読んだ時に感じた故郷へ帰りたいという気持ちだけはそのまま残っていた。ルソーの『エミール』の中の次のことばには心から共鳴した。
もし策謀もせず、取引きもせず、人に従属することも
しないで生き長らえてゆく正当でしかも確実な方法が
あるとすれば、それは自分の腕の労働で自分の土地
を耕して生活することだ。そうともわが友よ、自分のものとなっている一人の女性
と一つの畑。それで賢者の幸福は十分なのだ。一つの畑に関しては問題はなかった。ぼくには先祖が残してくれたわずかばかりの畑があった。問題は一人の女性だった。その問題が解決されるにはその後、長い年月が必要だったし、実際に故郷へ戻ることができたのは、この体験から10年以上も経っていた。そのことはまたいずれ語ることになるだろう。
私が興味を感じたのは、Mさんの歓喜が正味二日間続き、三日目になってようやくペースダウンの兆候を見せ始めたことだった。たいていの神秘体験は一過性で、その瞬間の歓喜がいかに強烈だったとしても、それは長くは続かず、しばらくすると元の木阿弥、以前の自分に戻ってしまう。だが、Mさんの歓喜は驚くほど長く続いている。
その理由について思い当たることが、一つだけある。
それはMさんの歓喜が、見果てぬ夢を追う生き方を捨てて、全く別の生き方を選択したときに起きたということだ。これからの生きる道筋が見えてきたことで、そしてその道筋への確信が揺るがなかったことで、喜びはいつまでも持続したのである。歓喜が一過性のものに終わるのは、生きる道筋がまだ見えていないからなのだ。
王陽明は30代のはじめに、陽明洞という洞窟の中で霊的な光に遭遇して歓喜する。だが、喜びはすぐに消えて翌日には以前の自分に戻ってしまった。だから、彼はこの体験をあまり重視しなかったが、この体験の意味に気づくのは、数年後、貴州省竜場駅に左遷され石穴の中で正座しているときだったのである。宗教的な修行を続ける男女が、突如、至福体験を得る例は多い。
だが、それが一過性のものに終わるのは、古い意識が一時的に崩れたに過ぎず、まだ確たる方向を見いだしていないためなのだ。Mさんはプレッシャーに押しつぶされながら、八木重吉の詩を手がかりに本来的な生活が何であるか掴み取った。そして、その掴み取ったものは正しかった。Mさんの体験が教えてくれるのは、そういうことである。幸福になるには、愛する一人の女性とひとひらの畑があれば十分なのだ。