露見したウソ

中学生の頃、私は英語の勉強を見て貰うために、放課後、個人教授の先生のところへ通っていた。どんなにイヤでも、ちゃんと通っていたのである。ある時、ふと口実を作ってかようのを休んだ。個人教授の先生にも、家にも、それぞれ別の理由をこしらえて休んだのだ。それがうまくいったので、味を占めて同じやり方で数ヶ月間をさぼるのに成功した。

ある日、帰宅すると、母の機嫌があまりよくなかった。
「お母さん、どうしたの?」
とこちらから切り出すと、母は普段と違ったしんみりした口調で話し出した。そして最後に、
「何で今までうそをついていたの?」
とたずねた。

そのとたんに私はワッと泣き出した。でもその時には、まだなにかをカモフラージュしようという気持ちがあったから、顔は泣いていたが、心はちっとも泣いていなかった。

母はなぜか怒らずに、話を核心に導いていった。私は泣きながらその話を聞いていた。ふと、母を憐れむ気持ちが起きた。すると、急に自分の醜さが照り返すように胸に来た。

「私,もう自分がイヤだ」
と私は泣きながら、ほとばしるように叫んだ。

そう言ったとたんに、今度は母が泣き出した。
「お母さんだって、なにもできやしない。ごめんよ、なにもできなくて。でも、お互いにこれからいいものを作っていかなければね」

母が自分から「ごめんよ」と言った。私は母の口から、その言葉を生まれて初めて聞いた。しかも、私が悪いだけなのに。驚きだった。私たちはそれまで親と子というなれ合いの関係に安住して、適当にごまかしあって暮らしていたのに、そこに新しいなにかが誕生した。生まれて初めて、母への感謝の気持ちがわいてきた。

【追記】

信濃毎日新聞に次のような投書が載っていた(02年2月4日付け)。投書したのは上兼久弥という79歳になる方で、上掲の手記と骨格においてほとんど同じなので、ここに採録する。無断で引用したことをお詫びしておきます。

小学校二年生のある時、母の用事で買い物にいった。いつもは釣り銭はすぐ母に返すか、きまった場所におくのだが、その時は二日たっても私の財布にあった。てっきリ母は忘れてしまったと思った私は、友達と学校帰りに買い食いして使ってしまった。


一週間もたってから母から釣り銭の請求があった。「いつものところにおいたよ」と言ってその場は逃れたが、翌日学校から帰ると母が待っていて座敷に連れていかれた。
母は私のうそにとっくに気付いており、うそを言うことがどんなに悪いことであるかを懇々と説いた。あんなにきつい母は初めてだった。


しばらく沈黙が続いた後、母がぽつんと独リ言のように「お前はこんな子だとは思っていなかった」と言った。ついさっきまでとは違った力のない弱々しい声だった。


この一言は私の胸にグサッと突き刺さった。これほどに私を思ってくれる母の信頼を裏切ったと思うと急に切なくなって大粒の涙がほおを伝わった。


母の涙を見たのもこの時が初めてだった。私はこの時うそは言うまい、悪いことはしまいと心に決めた。(上兼久弥・79歳)


祖母の死

祖母は、普段はそういうことを口にしなかったが、身体が弱ってくると、よく「寂しいな」と、しみじみと言うようになった。そして、私と兄を自分のそばに呼び寄せた。祖母と話して、部屋を出ようとすると、「もう行くのか、もっといてくれないか」と頼んだ。

祖母のその寂しい気持は、なぜか分かりすぎるくらいによく分かった。私は学校を終えると直ぐ家に帰り、祖母のそばにいてやった。

二三年前にも寝込んだことがあったが、、その時には自分のお金を使わなかったのに、今度は毎日のように私たちに小遣いをくれた。そんな祖母は、もう自分の死を知っているのではないかと思い、恐ろしかった。

お医者さんから、病状の悪化を知らされるたびに、私は「おばあちゃんに限って、常からだが丈夫だったし」と不安をうち消した。そして祖母は死にはしないと信じた。

祖母が亡くなるまでに、祖母の死を三回夢見た。そのたびに、その日一日がこわかった。

4月8日、その日に限って委員会があり、帰宅が一電車遅れてしまった。家に帰り着くと、母と父が私を迎えていった。

「おばあちゃんが、なくなったで・・・・・」

私は「ふうん」、そうしか言葉にならなかった。とうとう、恐れていたことが現実になったと思った。悲しいとは思わなかった。「おばあちゃんが死んだ」、ただその言葉の繰り返しだった。

今は、食事も父母と兄・私の4人だけで、そのたびに「おばあちゃんが、どっかに行っている」、そう思う。ただ一回、祖母が一言「死にたくない」、そういった言葉を思い出すと、とても悲しくなる。私は、一人の人間の死を身をもって体験したのだ。


父へのプレゼント

あれは私が、小学校の5・6年生の頃だった。今でも、はっきり覚えている。あれが私の思い出すかぎりでは最高の体験だった。

ある日、学校から帰って来た私は、ふと明日が父の誕生日であることに気づいた。当時、両親は二人とも、お勤めに出ていていなかった。家には六十過ぎの祖母と、小学校へ上がったばかりの妹がいるだけだった。

私は私の発見を祖母に告げ二人で相談した。そしてお小遣いを出しあって父へのプレゼントにライターを買うことにきめた。町へ出るバスの時間を調べたが、あと三時間もの間一本もない。歩いて町に行けば、一時間半ほどかかる。妹を連れて行くのはちょっと無理だが、さりとて家に残しておいて行くわけにもいかない。

祖母が言った。


「うんとゆっくり歩いて行けば大丈夫さ。たまには三人、水いらずでのんびり町へ行くなんてのも、オツなもんじゃないか」

私達は、はしゃぎながら家を出た。私も妹も、きっと祖母もそうだったと思うが、すっかりリラックスした、この上もないいい気分で歩いて行った。春の日はあたたかくて、さわやかだった。私達は時間のたつのを忘れていた。隅々まで充ち足りた気持だった。三人の心に、全く同じわたのようにやわらかい感情が生れていた。

あの二時間足らずの時間は、今まで私が生きて来た時間にくらべたら一瞬の間に過ぎない。けれど私は、この時のことを一生忘れることはあるまいと思うのである。


姉からの電話

最近のことで心の中が暖まる思いがしたことを書く。

それは嫁いだ姉から、赤ちゃんが出来たと電話してきたときのことだ。母はそれを聞いたとたんに、うれしくてたまらないというように、私にニコニコ話しかけてきた。こちらが見ていておかしいくらいに、うれしくてたまらないと言う表情だった。

そして私もうれしかった。なんだか知らないけれど、自分とも血のつながった生命が新しく出現すると思うと、待ち遠しくてたまらなかった。

母と私は、話をしながら、はたから見たら、滑稽なくらいにニコニコ笑っていた。


布団を敷く母

中学の何年生だったか・・・・・

夜、かなり遅くだった。それまで見ていたテレビを消して、ふと、隣の部屋で布団を敷いている母を眺めたことがあった。母は、何も考えないで、ただ黙って布団を敷いていた。

私はそれをなんとなしに見ているうちに、だんだんと母が可哀想に思えてきた。どうして又突然にそんなことを考えたのか分からないのだけれど、母は今まで何のために生きてきたのか分からなくなったのだ。

母の楽しみは一体なんなのだろう。母には、こんな犠牲的な生き方の他に、別の生き方があったのではないだろうか。

そんな疑問がとめどもなくわいてきて、それが私をすごく不安にさせた。すると、よけいに母が可哀想に思えてきた。

こういうふうに文章にまとめると、とても単純でつまらないことのようになるけれども、その時の私の気持は複雑だった。母が今こうして私の母として生きているということがすごく不思議で、こわいような気がしたのだ。

母が私にとってどんなに大切な人であるか、身にしみて分かったのはこの時だった。


おばさんの約束

私には大好きなおばさんがいた。おばさんは私が目指す高校に入学したら腕時計を買ってくれると約束してくれた。私は別にそれを目当てに受験勉強したわけではなかったけれど、とにかく高校に入学することができた。

だが、おばさんは急な病気で私が受験する前に亡くなっていた。だから、私は腕時計のことはあきらめていたが、おばさんは亡くなる前にそのためのお金を紙に包んで残していってくれたのだった。

合格の日、そのお金で買った腕時計を渡され、私は自分の部屋で涙が涸れるまで泣いた。

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