好きなもの嫌いなもの

日本人の好き嫌いは、大体共通している。同調性の強い女子高生にあっては特にその傾向が強い。だが、パターン化された好き嫌いをそのまま持ち続けて一生を終えるというのも、わびしい話である。

例えば、楽しみにしていた修学旅行が雨にたたられでもしたら、一同身の不運を嘆くことになる。だが、雨に濡れた古都には特別の味わいがある。ここには、雨にたたられた修学旅行を楽しんだケースを含めて、通常の枠をはみ出た好き嫌いの事例があげてある。

身なりがみすぼらしくても気にしない。私は近頃、、特に立派な紳士ぶった人を信じられなくなった。世間的にも、金銭的にも恵まれている人には、どこかに変な隙があり、精神的におかしなところがあると思う。
服装などで人を判断する人を軽蔑する。


中学時代には成績のいい人たちを尊敬していた。成績のいい人は、掃除や作業も真面目にやっていたから。
ところが高校へ来てみて驚いた。その逆なのだ。だから、もう、成績のいい人たちを素直に尊敬できなくなった。


・・・・やはり成績で同級生を判断してしまう。相手の成績が分かるわけでもないのに、授業中の受け答えなどから、勝手に判断してしまうのだ。私は自分より出来ない人を何時も探している、少しでも人の上に立ちたくて。


引き締まった顔と、地味な服装をしている人が好きです。


気の長い人、そして物事を深く見極めて、よく知っている人がいい。
気が短いけれど、物事を深く突きつめる人があり、その真剣な表情も好きである。


一番気持ちよい人というのは、「らしく」生きている人だ。たとえば、先生なら先生らしく、真剣に生徒のことを考えてくれるような人。どんな職業でも、それに忠実に生きているような人がいい。


上品で弱々しく見えるような人は、ずるがしこい。


相手の目を見て澄んでいると安心する。が、ただ澄んでいるだけではダメである。一見、濁っていないようだが、どこかに世間の奥深いところをのぞいてきたような濁ったところと、その目の濁りが気にならなくなるくらいの力強さを持った目がいいのだ。

スポーツマンや文学者の目は、キレイ過ぎるときと、前も見えないくらい濁っているときしかないと思う。流行作家の目は、いやらしくギラギラしている。


つんつんして澄ましている人に限って、内部に弱い面を多く持っているのではないか。他人と柔らかな気分で交わることの出来ない人は、人間として最低ではないか。自慢する人もイヤだが、人をほめてばかりいる人も、考えのない人のようで頼りない。

人間は、どの角度から見るかで、価値が全然変わってしまう。ある人には長所であることも、他の人に当てはめると短所になる場合がある。


中学の同級生の中に、頭がよくて、意思表示を明確にする人がいた。しかし、彼女は話をするときに、たえず、周囲の反応をうかがうために目を動かすのである。その目の動きが、何ともいえないほどイヤだった。


やさしくて、あまり目立つ存在ではないが、心のどこかにその人の存在を感じさせるような人、そんな人が好きである。


自分を偽る人がイヤだ。一人の人間が自分を偽ると、世の中から一人の人間が消えてしまうことになる。


最初に印象がいい人は、顔を見てそうした印象を受けるから、後で必ずイヤケがさしてくる。顔がおっかない人は、たいがい心のいい人であるが、それはキット人々がその人に寄りつかないので、努力してやさしくしているからだと聞いたことがある。


雲一つない青空を見ると恐ろしい。すばらしい瞬間の次に来る何かがこわくて、現在の素晴らしい瞬間に没入できない。青空に白い雲が二つ三つ浮いているのが一番好き。


大雨が降っているときに、道路上に水が川のように流れている。そのなかに裸足で立っているのが好きだ。粉雪混じりの冷たい風に吹かれているのも好きだし、深く積もった雪があると、わざとそこを通ってみたりする。誰の足跡もない雪の上に、自分の足跡をつける。

小雨の時には、傘をささない。雪の日、頭から雪をかぶって帰る。


みんなは晴れた日の方がいいと言っている。

私は別に晴れた日も嫌いではないが、雨の日が好きだ。雨の日には、いろいろと考えることが多い。人のさしている傘も色とりどりで美しく、長靴なんかにも個性が表れている。

それに雨上がりがとても美しい。今までの埃っぽい風景も、そのホコリが取れて、とても美しく見える。山や遠くの木が、近くに見える。


中学の秋の関西旅行・・・・・雨に濡れて輝く道路、その両側の柳の緑、その間からのぞく寺々の塔、これらの風景を眺めながら、本当に古都を訪れたという気がした。雨の京都・奈良は、私にとって忘れることの出来ない思い出である。

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