光波さんという方から、「体験交流」を提案するメールが来た。私の体験と類似する体験をしているので、光波さんはご自分のホームページに私のものを採録したいと申されるのだ。ここに光波さんの体験を紹介する。

以下に、私の体験の一つを書き込ませて頂きますので、ご参考までに。

ある本に、覚醒するための方法として次のような内容が書かれていました。その内容の通りに、即実行しました。

ちょうど、一ヶ月の間、『私』に対して意識を四六時中持続させるという、訓練をしてみたのです。
トイレに行こうが、食事をしていようが、お客さんと話をしていようが、眠りに就こうが、朝目覚めようが、『私』という何かに対して意識を集中し続けました。

そんなある日、霊的波動の高い所へ自家用車に乗って自分が運転して旅行に行きました。旅行と言っても、神社参りのような旅行でした。もちろん、『私』に集中し続けています。

旅行が終わって帰り道に、神社で買った、あるヒーリング音楽を聞きながら運転していましたら、突然、どこからともなく幸せがいっぱい満ちてきたのです。幸せという字が数え切れない程降って来たのです。金色の文字です。大きいのや小さいのも降ってきて、融けて行くんです。

目は開いていますが、前方の景色が白
金色に空間が満ち溢れてきました。光が遍満してきたのです。それでも、車は40キロで走っていました。ただし、後で知りましたが。

そのうち、自分自身が次第に消えていくように感じたので下を見てみましたが、上下(天上・足元)が無くなっていて、前後左右も無くなってきました。

その時聞きなれない言葉で


『広大無辺』


が浮かび、その意味を実感したのです。

この光が満ち満ちて、遂にはあまりの幸せで泣いている自分に気がつきました。この世では得る事の出来ない、計り知れない無限の至福感、法悦感が私となったのです。

この時、自分が運転している事に気がつきましたが、既に死の恐怖が消えていましたし、運転の事や自分の肉体に対する執着も完全に消え去っていましたので、また、直ぐに至福に意識が向きました。

次第に、意識が落ち着いては行きますが、至福が減る事はありませんでした。
そして、自分の右の耳の方から家族の姿が前方へと小さく小さく消えて行き、光の中へ消えて行きました。

この時、また聞きなれない言葉がよぎりました。
『生老病死』です。そして、この言葉の意味を実感したのです。

生まれる事も無く、老いる事も無く、病気になる事も無く、死ぬ事も無い至福あるのみ、広大無遍の至福あるのみ。

これが、私である事はその後で解かりました。なぜなら、体験中は私が無かったからです。

約30分の出来事でした。至福感が消え始めた頃、このように感じました。
「しあわせよ、消えないで。もっと、ここにいて。」

それから、「恩寵」を感じました。ただし、初め頃だけですけどね。時間が経つにつれて、その世界に染まってしまったので、後には感じなくなったと思いま
す。

その後は、言葉が足らなかったのですが、
「光の世界が実在で、我々の現実の世界は実在しない。」
と実感したもんです。明らかに、向こうの世界という実感でした。
こちらの現象世界は無に等しいという実感でした。

だいたい以上の体験なのですが、車を運転はしていたのですが、全然、運転の事に気が付かなくなっていましたので、何なんだろうって感じです。

それから、死ぬ事に対する恐怖が無くなってしまったという事が、不思議でした。

ウイリアム・ジェームスの「宗教的経験の諸相」や、コリン・ウイルソンの「至高体験」には、さまざまな法悦体験が記されている。けれど、光波さんのケースのように自動車の運転中に至福感におそわれ、自我を完全に忘失したまま30分間運転を続けたというような例は載っていない。その意味でも光波さんの体験は極めて貴重だと言えるだろう。

光波さんは、ご自分の体験について、次のように解説している。

〈目覚めるための方法〉
☆私の場合は次の事を守って、四六時中『私』に気づき続けるというレッスンを丁度一ヶ月続けたある日に至高体験という覚醒に至る事が出来ました。

しかし、常に、『私』に気づいている事は私にとっては、至難な事でした。もちろん、忘れてしまう時もありましたし、相手に対して責任転換をしてしまったり、幻想を抱いたりの連続でしたが、自己という『私』に対する四六時中の意識エネルギーの集約によって、遂にその領域へと到達したのでした。

ただし、私のこの体験は覚醒の中でも準覚醒になります。つまり、


半覚醒→準覚醒→超覚醒


という段階の真ん中に当たる体験です。半覚醒ではまだ未練が残っていますが、準覚醒になりますと現象世界という現実に対する欲望や願望がかなり減少していきますので未練がかなり少なくなります。しかし、この状態では、まだ再び現象世界の幻に巻き込まれる可能性が少し残っています。


最後に到達する超覚醒においては、総ての幻想を打ち破り、常に覚醒した意識状態であると言う事です。いわゆる解脱です。それに至るためには、常に常に『私』を意識し続けるという簡単のようで続けにくいレッスンを、完全な超覚醒
に至るまで一生涯続けなければならないという事になります。


しかし、このレッスンを続けた暁には、この世では絶対に得る事の出来ない永遠・久遠の至福・法悦が待っているという事です。これが、人生最大の喜びであり、最高・究極の目標でもあると思っています。

そこで、この世の幻想を打ち破るために、私は次のように実行したのです。

1・四六時中、『私』に対して意識し続けること。『私』という肉体のみならず、『私』という心・意識・精神をありのままに意識し続ける事。


2・忙しいから『私』を意識する事が出来なかったとか、責任転嫁をしない事。『私』を意識する事ができなかったのは相手のせいだ、とか言って他人の責任にしない事。ありのままの自分に気が付くという事が大切。


3・あれは好きだけど、これは嫌いと言っていても、それを言っている自分に気が付いている事。決して、イヤな自分が見えて来ても、自分の都合の良い様に変えてはいけない。ありのままの自分、『私』に気づいている事が大切。幻の考え方をしている自分に気づく事が大切。


4・覚醒する過程で、二元的な事が毎日、毎日出てきて、あっちかこっちかと自分の意識・心がさまよう事は当たり前だが、それでも、四六時中、『私』に気づいている事が大切。好き・嫌い、あっち・こっち、男・女、大きい・小さい、広い・狭い、浅い・深い、気持ち良い・気持ち悪い、速い・遅い、遠い・近い、前・後ろ、上・下、神・人、善・悪・・・これら、二元性・相対性が幻想である事に気付く事。


5・幻想・夢が何であるかを見極める事。


6・一切の幻想・夢を抱かずに、ありのままの現実に目を背けずに、ありのまま、見る事。もし、幻想・夢を抱いてしまうと、ありのままの自分・自己・私に気づく事が出来なくなってしまうから。


7・眠いから考えられないとか、お腹が空いてどうにもならないからとか、何かに依存していては、絶対に覚醒できないという事。眠かろうが空腹だろうが、病気だろうが、年寄りであろうが、一切の幻想・幻に気づく事が大切。眠っていようが起きて仕事をしていようが、気付いていると常日ごろから意識している事。


8・このレッスンはこの世のあらゆる幸せ、異性、楽しみ、快楽、金もうけ、スポーツ、旅行、音楽、芸術・・・のどんな喜びに対しても、満足出来なくなった者のみが、最大の恩恵を受ける事が出来ると言う事。この世に対しての願望が強ければ、幻想・夢を追い続けている事になるために、決して、覚醒する事は出来ない。目覚めなければならない。

9・覚醒とは、二元的対立という、完全なるひとつの自己を分離させた状態の意識を、至福感・法悦感というこの世では絶対に味わう事の出来ない幸せの意識状態へと到達する事である。


10・レッスンする事によって覚醒出来ると言う幻想を抱いてしまうと、覚醒出来ないという至難のレッスンである。何物に対しても、一切の幻想を抱かないという緻密な自己の意識の制御が必要である。雑な精神の持ち主には到底、到達す
る事が出来ないのが、覚醒である。早い者は、今、即、覚醒するし、遅い者は一生涯掛けても到達できないと言われている。しかし、そのどちらかであれ、何であれ、四六時中『私』を意識し続けるのみ。弱音を吐くと言う幻想から、今後一切、離れる事である。

このような決まりを時々破りながらでも、やりつづけた末に、至高体験を体験できたのでした。何もしなければ、私に気が付かなければ、決して到達出来るようなものでは無いと思います。

私は、光波さんのやったことは禅僧の修行と同じようなものだったと考えている。臨済宗の禅僧は、与えられた公案を寝ても覚めても考え続ける。2年、3年考え続けることもある。そしてある朝、突如、解脱して大光明に包まれるのだ。解脱とは自己を忘失して広大無辺の世界を実感することであり、大光明とはイスラム教徒がイルミネーションと呼ぶ非物理的な光を見ることである。

道はいくらでもあるのだから、互いに体験を交流し合うことが必要だと思う。そして偏狭で独善的な考え方に囚われることなく、静かな気持で、この現象の背後にあるものを味到するのがよいと思うのだ。

光波さんは、時計・メガネ・宝石店を経営されており、そのホームページのアドレスは次の通りです。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5824

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