美貌の皇后 はじめに 「今昔物語」には、何となく奇妙な説話が一つある。巻20の第7の「染殿の后、天狗のために擾乱せらるる物語」である。
この話を現代風に要約し、少しばかり修正を施して紹介すれば、こんな具合になる.
* ヒロインは「染殿の后」と呼ばれた文徳天皇の皇后明子で、彼女は歴代皇后のなかで最も美しかったといわれている。皇后明子の父は関白太政大臣藤原良房だった。だから、その天性の美貌に加えて父親の勢威もあり、皇后の前では天皇さえ気押されて自由にものがいえないほどだった。
皇后が「物の怪の病」になったのも、このためだと思われる。夫婦の語らいも乏しく、周囲が腫れ物に触るようにしていたから、欲求不満が昂じてヒステリーになったのである。染殿の后は御几帳の奥でもだえ狂い、高声で泣き叫ぶかと思うと、几帳から転げ出て部屋の中を走り回るようになった。
後宮には侍医の当麻ノ鴨継が詰めていた。彼には、狂い回る皇后を鎮める力がなかった。そこで大和国金剛山の山頂で修行中の葛木聖人を招請して、修法を行わせることになった。聖人は弟子一人を連れて禁裏にやってくると、ずんずんと奥に進み染殿の館に入った。そして、夜の更けるのを待って御几帳の前で結跏趺坐の姿勢を取り、銅製の火鉢で香木を燻らせながら、音吐朗々、経文を唱し始めたのだ。
聖人のまわりには、皇后付きの女房や女ノ童が詰めて修法を見守っている。彼女らは、香木の何やら不思議な匂いに包まれ、音吐朗々たる聖人の経文を聞いているうちに次第に意識が朦朧としてきた。そのときであった。聖人が、「喝!」と裂帛の叫びを発したのだ。
「ひいっ」と声を上げて、末座に座っていた女ノ童が突き飛ばされたように立ち上がり、ふらつく足で部屋からかけだして行った。聖人は背後に控えた弟子に、「追え!」と命じ、自分も女ノ童の後を追って室外に飛び出した。女房たちは総立ちになり、遣り戸を開け、手燭を掲げて外をうかがうと、女ノ童は渡り廊下から地面に飛び降り寝殿の床下に入ろうとしている。
聖人と弟子も、女ノ童の後を追って床下に入った。程へて床下から聖人の「喝!」という裂帛の声が再び聞こえてきた。女房たちが息を詰めて見守っていると、聖人が女ノ童を抱き抱えて床下から出てきた。女ノ童は、まるで夢から覚めたような顔をしていた。
聖人の後から、弟子が年老いた狐を両手に捧げ持って出てくる。女たちの間に動揺が走った。しかし聖人は、落ち着き払っていた。
「染殿に取り付いていた物の怪というのは、こやつでござった。拙僧の修法で追い出された狐めは行き場を失って、この女ノ童に乗り移ったのでござる。もう、御懸念には及ばぬ」
聖人は弟子に命じて、気絶している老狐を地面に横たえさせた。そして、狐のそばに歩み寄り、暫く経文を誦した後で、鋭く「行け!」と命じた。すると、狐はむっくり起きあがり、ちょっと聖人を振り返ってから、ぱっと走り出して暗闇の中に消えた。
この夜から皇后の狂態はぱったりなくなった。喜んだ藤原良房は、聖人になお暫く娘の様子を見守ってくれるように懇請する。それで葛木聖人は、毎日、染殿に伺候することになった。
折しも真夏であった。染殿の戸障子はことごとく開け放たれ、室内の女房たちも涼しげな単衣に着替えている。時折、思い出したように寝殿のまわりの木々を抜けて風が部屋に吹き込んでくる。事件はこのときに起きたのである。
吹き込む風が几帳の帷子を翻した瞬間に、侍女に髪を梳かせている皇后の全身が聖人の眼に映ったのだ。聖人が染殿に伺候するようになってから十日ほどになるが、彼は几帳に隔てられてこれまで皇后の姿を直接眼にすることがなかった。だが、このとき皇后は単衣を緩やかに着流し、横座りに座っていたから、薄く汗ばんだ顔や豊かな胸乳が聖人の目にはっきり見て取れたのだ。
聖人は、まるで意志をなくしたように立ち上がり、宙を踏むような足取りで御几帳の中に押し入り、皇后に抱きついた。皇后は恐怖のあまり声も出ない。室内の女たちも同じて凍り付いたようになった。
幸いなことに、この日は侍医の当麻ノ鴨継も部屋に一隅に詰めていた。足萎えの彼は素早く行動することができなかったから、背後の弟子に鋭い声をかけた。
「何をしておる。あやつをひっくくれ」
弟子は伊賀ノ鶴丸という長身の若者だった。彼は、背後から羽交いにして聖人を皇后から引き離し、組み伏せた相手の背中を膝で押さえつける。
「何か紐を──」
声をかけられた皇后は、含羞の色を目元に浮かべながら単衣の奥から下紐を抜き出して伊賀ノ鶴丸に手渡す。
鶴丸が聖人を後ろ手に縛り上げている間に、急を聞いて舎人らが駆けつけ、聖人を獄に連れて行った。これに続く記事を、筑摩書房口語訳「古典日本文学全集」から、引用してみる。
< 獄中の聖人は不気味な沈黙をまもっていたが、やがて天を仰ぎ、泣
く泣く恐ろしい誓いを立てた。「われたちまち死して鬼となり、この后の世におわしますうちに、
素志を貫ぬいて后に睦びん」獄吏はこのことを父大臣に申し上げた。大臣も驚き、天皇に奏上し
て、聖人を免し、もとの山に返した。>聖人は生きているうちに思いを遂げる可能性がないなら、死んで鬼になって目的を達すると誓ったのである。今昔物語によれば、金剛山に戻った聖人は絶食して息絶え、死んでたちまち鬼になったとある。
そして、この鬼が白昼堂々と、染殿の殿中に現れるようになったのである。
鬼は身の丈八尺ばかり、全身漆を塗ったように真っ黒だった。頭はざんばら髪で目は金椀のようだ。この鬼に金色の目で睨みまわされると、女たちは恐怖のあまり身動きできなくなった。鬼の魔力にたぶらかされたのか、皇后は驚きもせずに鬼を迎え入れる。再び、筑摩書房「古典日本文学全集」から引用する。
<后は身じまいをとりつくろい、微笑をたたえた美しい顔を扇でさし隠
しつつ、御帳の内に入って鬼と二人臥させ給うた。女房などがひそか
に聞けば、鬼は、日ごろ逢瀬が得られずに苦しく恋しかったことども
を、綿々とかき口説いている。后は薄笑いをもってこれに応えておら
れる様子。しばらくして日暮れのほどに、鬼は御帳より出でていずかたにか去
った。后はいかがなされたかと案じて、さっそく女房たちがかけつけ
てみると、平常といっこうにお変りない。そんなことがあったという
御意識すらないようである。ただ、思いなしか、御眼つきがいささか
怖ろしげになられたばかりだ。ことのよしを聞こし召された天皇は、あさましく怖ろしいというよりは、今後どうなるのかと、そのことばかり案じて溜息をつかれるのみであった>
その後、鬼は毎日のように染殿に現れた。
当麻ノ鴨継は綾戸式部から鬼が連日出現するという連絡を受けて、急ぎ御殿に伺候した。綾戸式部は染殿の女房たちを束ねる高位の女官だった。こういうときには、彼は弟子の伊賀ノ鶴丸を従えて参内するのが例だったが、この時には彼に留守をするように命じた。鶴丸に恨みを抱いている葛木聖人が、彼を見かけたら何をするかわからないと思ったからだ。
綾戸式部は白昼染殿に鬼が現れることを廷臣たちに知られてはならないと考えていた。だから、女房たちに厳重な箝口令をしく一方で、万一の場合を考えて当麻ノ鴨継に常時染殿に詰めていてくれと頼んだのだった。当麻ノ鴨継は生まれつき足萎えで、女と交わることの出来ない体だったから、従来から男子禁制の後宮に自由に出入りすることが許されていたのである。
鬼は室内に当麻ノ鴨継が座っているのを見ても平気だった。鴨継にじろっと一瞥をくれただけで、几帳の紗を持ち上げて中に入り、皇后と何か話し始めた。小声で話し合っているから、鴨継には会話の内容が分からない。しかし、時々皇后がもらす低い笑声を聞いていると、后が鬼に何もかもすっかり許していることが感じ取れた。
やがて几帳の内部から男と女の睦び合う気配がして来る。すると、室内の空気が微妙に変化し、あたりに淫靡な空気が流れるのである。恐怖のために体を硬くしていた女房たちが、目を油のように光らせ、やるせない吐息をもらし・・・・・
鴨継は毎日染殿に通って、鬼が短いときでも一刻(2時間)は几帳のなかにこもっていること、長いときには一日中、几帳から出てこないのを見ていた。その間、二人は飲まず食わずであい擁しているらしく、そのためか、豊かだった皇后の頬は透き通るようになって表情に凄艶の色が加わった。
しかし、こんなことが何時までも知られずにいるはずはなかった。綾戸式部も当麻ノ鴨継も後宮を監督する大納言に呼び出されて事情を聴取され、秘密は大納言を通して父太政大臣と天皇の耳にも入った。藤原良房は染殿に出向き、直々に強い口調で皇后を問いただした。だが、后は何も記憶にないと言い張るばかりだった。娘を溺愛してきた良房は、要領を得ないままに引き上げるしかなかった。
宮廷の憂色は深くなるばかりだった。難波の津に配置されていた衛士たちが動員されて、染殿の周辺を厳重に固め、殿中では加持僧たちが連日連夜祈祷を続けた。当麻ノ鴨継も、弟子の伊賀ノ鶴丸を従えて毎夜染殿に詰めきりだった。
鬼はぱったりと姿を見せなくなった。
鬼の不在が二ヶ月間続くと、皇后の様子も少しずつ落ち着いて、普段と同じようになった。この知らせを聞いて一番喜んだのは文徳天皇だった。天皇はお気に入りの臣下を連れて、久しぶりに染殿を訪れ、月見の宴を催すことにした。中秋の名月を賞しながら、皇后と親しく語り合おうという趣向だった。
天皇が染殿に到着して座に着くと、几帳から出て皇后もその脇に座った。二人の両側に男の廷臣が居並び、皇后付きの女房たちは、その背後に控える。天皇がご機嫌麗しく皇后に言葉をかけると、皇后は笑みを含んでうなずくのである。こうして明るい歓談が四半刻ほど続いた。
「おや、あれは何だ?」
廷臣の一人が、几帳を指さして声を上げた。几帳が揺れて、その向こうに人影が動いている。皆が一斉にその方に目を向けた。天皇・皇后も背後を振り返った。「明子――」
几帳のなかから錆び枯れた声がした。すると、皇后は無言ですっと立ち上がり、袖を掴んで引きとめる天皇の手を振り払って、几帳の中に入っていった。以下は、筑摩書房「古典日本文学全集」による現代語訳。
< と、その時、例の鬼が突如一隅から躍り出て御帳の内に入った。驚
きあきれ給う天皇を尻目に、后もまた例のごとく御帳の内にいそいで
入る。とばかりあって鬼は南面の所に踊り出た。大臣公卿よりはじめ
て文武百官はみなこの鬼をうつつに見たにかかわらず、恐怖のあまり
一人として手を出すものがいない。あれよあれよと驚き騒ぐなかに、后もつづいて御帳から出られた。
そうして衆人環視の中に、鬼と二人まろび臥し、えもいわず見苦しい
ことの限りを、はばかるところもなくせさせ給うのであった。やがて
鬼が起き上ると、后も起きて御帳の中へ入られた。天皇はそれを止め
るすべもなく、悲涙を呑んで還御された。>「今昔物語」によるこのへんの説明は誇張されすぎている。実際のところは、天皇が身内の廷臣を連れて非公式に染殿を訪れたとき、鬼が横合いから現れて皇后を傍若無人に几帳の中に引き入れたのだろう。突然のことで、殿上人は呆然と見ているしかなかったのだ。
この物語の不思議なところは、ストーリーがここで終わっていることなのだ。話を進行途中で放り出して、結末のない状態で終わらせている。読者が期待するような、鬼が退治されたり、皇后が正気を取り戻すというような結末になっていないのである。
「今昔物語」の作者も、話の締めくくりに苦労したらしく、末尾に妙な訓戒を記している。
< されば、やんごとなき女人は、このことを戒めとして、かくのごと
き法師をそばに近づけてはならぬ。このことはきわめて不都合で、公
開を憚らなければならぬ話柄ではあるが、将来の人の鑑戒として法師
に近づくことを強く戒めんがため、敢えてかくのごとく語り伝えたと
いうことである。>作者は、この物語を天皇・皇后が登場する公開をはばかる事件だと、遠慮しながら書いている。世界各国の宮廷秘話を探れば、こんな話はいたるところにあるのだ。明子皇后が祈祷僧を愛人にして、その関係をいつまでも続けたとしても、それは王妃がお人好しの国王無視して公然と情人を作るという世界によくある事例の一つに過ぎないのである。いささかシチュエーションは異なるけれども、日本にも道鏡という男がいたのだ。
明子皇后は、絶対的な権力を握っていた藤原良房の愛娘だった。彼女は、それだけでもう亭主を尻に敷く優位な立場に立っていた。加えて、彼女が眩いばかりの美女だったということになれば、無力な文徳天皇としては妻と愛人の不倫関係を黙認しているしかなかったのだ。
私は、中途半端に終わっているこの説話を、少しばかり手を加えて作り直せないものかと考えている。私の案では、主人公を当麻ノ鴨継の弟子伊賀ノ鶴丸にしたらどうかと思う。――彼が京の大学寮を退学して、当麻ノ鴨継のもとに弟子入りするところから話を始めたらいいと考える。
1章 伊賀ノ鶴丸にとって意外だったのは、当麻ノ鴨継がぱっとしない中年男だったことだ。鶴丸は当麻ノ鴨継に弟子入りするに当たって、相手が都で評判の名医だから、彼の風貌もさぞ立派だろうと想像していたのである。ところが当麻ノ鴨継は、顔も貧相なら体もやせこけた、しなびたような中年男だったのである。
「案じずともよいぞ。習うより慣れろと申す。わしはこのように足萎えの身だ」
と鴨継は入門したばかりの鶴丸に言った。
「おぬしの役目は、まず第一にわしの面倒を見ることだ。そうしながら、追々、見よう真似ようで医術を覚えて行けばよい」
「はい、心して勤めます」
「おぬしは、大学寮では評判の秀才だったと聞いている。どうして大学を中退したのかな?」
と尋ねながら、鴨継はちらっと鶴丸の顔を見た。とぼけた表情をしているが、目の奥に油断のならない光がある。鶴丸は、(成る程、これだな)と思った。「大学では明経道科で学んでいましたが、どうも四書五経は私の性に合いませんので・・・・・」
「それで医者になって後宮の女どもを診たくなったわけか」と言って、鴨継はにやっと笑った。「しかしな、後宮に出入りするには、おぬし、ちょっと男っぷりがよすぎるな。おぬしを見て女どもが騒いだり、熱を上げる馬鹿な女房が出てきたりしたら、取り締まりの老女はきっといい顔をしないぞ。男の廷臣たちも焼き餅を焼くだろうしな」
「・・・・・」
「後宮付きの医者には、本当はわしのようなカタワ者が一番いいのだが、師弟そろって不具者という訳にも行くまい。両方ともまともじゃないということになると、それはそれで問題になるからな」こうした問答の後で、伊賀ノ鶴丸は当麻屋敷の奥にある小部屋を与えられて、そこで寝起きすることになった。部屋は鴨継の居室の隣りにあったから、用事があれば鴨継はすぐに鶴丸を呼びつける。身の回りの雑用を処理するのは無論のこと、用便の都度鶴丸が鴨継を抱き上げてオマル(便器)にまたがらせてやらなければならなかった。かかえ上げてみると、鴨継の体は軽く、足は萎え縮んで子供の腕ほどの太さしかないのだ。
屋敷には、老女が二人の下女を使って家事に当たっていた。ほかに吉(よし)と呼ばれる屈強な下男がいて、外回りの仕事をしている。御所から迎えの牛車がやってくると、この下男が鴨継を背負って車のなかに運び入れるのである。
──鶴丸の新しい生活が始まった。彼が薬箱を抱えて牛車の後に従い、御所の門に到着すると、二人の舎人が待ちかまえていて、鴨継を担架仕立てにした板に乗せ、後宮に運び込む。鶴丸も、その後に従うのだ。
鴨継はまず染殿にいる皇后を診察し、それから別棟にいる中宮らの診察をする。診察といっても、相手は几帳の奥にいて、問診も老女を仲介にして行うから、カンを頼りの診断になる。処方が決まると、鶴丸は持参の薬研を出して、その場で薬を調合するのである。
鴨継はどの棟に行っても、女たちから歓迎された。風邪をひいた女房を診るときなど、「夜遊びが過ぎるからだぞ」とからかったり、下痢をした女ノ童には、「食いしん坊の罰が当たったな」と冗談を言う。そういうあけすけなところが、手当を受ける女たちの気持ちを楽にするのだ。
しかし後宮で鴨継の人気があるのは、それだけが理由でないことを鶴丸は知るようになった。鴨継は「術」を使うのである。
鶴丸が鴨継の術に気づいたのは、彼に命じられて本の頁をめくっているときであった。人使いの荒い鴨継は、本を読むときには決まって壁に寄り掛かる。そして書見台の脇に控えている鶴丸に頁をめくらせるのだ。鶴丸は、鴨継が「次」と命じるたびに頁を一枚一枚めくってやる。だが、鴨継が「次」という速度は一定していなかった。途中で考え込んだりすると、鴨継は何時までたっても「次」とはいわない。それがあまり長くなると、鶴丸はついうとうとして眠り込んでしまう。
ある日、そうやって眠り込んだ鶴丸がふと目を覚まし、薄目を開けて様子をうかがうと、誰も手を出していないのに、そして別に風が吹き込んでいるわけでもないのに、本の頁がひとりで一枚ずつめくられているのだ。
それは、鴨継が壁に寄りかかったまま、気合いのようなもので書物の頁を動かしているとしか考えられなかった。
「先生、それは何ですか。陰陽道の術ですか」
突然声をかけられた鴨継は、「見ていたのか」と言って、薄く笑った。「まあ、手妻みたいなものだな」
「冗談言ってはいけません。あれは手妻でも、オマジナでもないですよ。何か術を使っているんだ」
「何を怒っているのだ」と鴨継は、いきり立っている相手の心を見通しているような口ぶりで、「お前はああいう術を使えるのに、どうして他人に本をめくらせるのだと、わしのことを怒っているんだろう。しかしな、術を使ったあとは、どっと疲れるのだ。お前もためしてみると分かる」鴨継は書見台を片づけて床に筆を一本置くように鶴丸に命じた。そして鶴丸をその筆を挟んで自分の反対側に座らせた。
「筆を自分の方に転がしてみるがよい。きっと、お前にも出来るはずだ」鶴丸は目の前の筆をにらみ、こちらに引き寄せようと全身で力んでみたが、もちろん筆はぴくりとも動かなかった。
「そんなふうに力んでも駄目だ。雑念を捨てて、筆を静かに眺めるのだ。すると、まわりのものがすべて消えて、おぬしと筆だけになる。澄んだ水の中で、筆と向き合っているような気持ちになる」
続いて、鴨継は教える。
「よいか、心の中で筆に向かってやさしく語りかけるのだぞ、こっちにおいでとな」そんなことを言われても、筆を相手に優しい気持ちなどになりようがない。彼が苦心惨憺していると、温かな気配のようなものが心の中に滑り込んできた。明らかにそれは鴨継の方から鶴丸の心に流れ込んできたのだった。
その気配のような、液体のようなものが心を充たしはじめると、それが呼び水になったように鶴丸の内部にもあたたかな湯のようなものが湧いてきた。鴨継からやってきたものと、彼自身の内部から湧き出たものがひとつに融合した。
(こっちにおいで)と鶴丸は心の中でささやいた。
すると、内圧を高めて、はち切れそうになっていた温かなものが、ふっと前方に溢れ出て行って、筆を包んだ。筆はころころと生あるもののように鶴丸の方に転がってきた。
「おぬしにも、ちゃんと出来るではないか」
と、鴨継が鶴丸をほめた。おだてるような口調だった。
「いえ、先生の力が私の中に流れ込んだからです」鴨継は、意外な言葉を聞いたかのように顔を上げた。そして警戒するような目で鶴丸を見つめた。
「おぬしに、それが分かったのか」
「はい、水の流れのように先生の力が私の体の中に入って来るのが分かりました」と鶴丸は答えた。「すると、それが呼び水になって自分の力が後から湧いてきたのです」「わしは、これまでも多くの者に力を貸してきたが、それに気づいた者は誰もいなかった。皆、筆を動かしたのは自分の力だと自惚れたものだ。しかし、お前は・・・・」
と、言って鴨継は黙り込んでしまった。2章 伊賀ノ鶴丸の「術」は少しずつ進歩していった。あれ以来、彼は「術」を身につけるために懸命の努力を重ねたのである。
初めは、自室の机に筆を置いて転がそうとしたが、どう頑張っても駄目だった。そこでドングリなら簡単に転がりそうな気がしたので、庭から手頃なものを一つ拾ってきて机に乗せ、これを動かすことにした。鴨継から教えられたように、雑念を去ってドングリと正面から向き合い、心の中でやさしくドングリに声をかけ続けたのだ。だが、ドングリはぴくりとも動かなかった。
やがて鶴丸は、ドングリを動かそうとする気持ちが、体のどこかを緊張させ、心の中に働く「心気」を削いでいることに気づいた。最初に為すべきことは、体の各部署に配当されている肉体的な力を抜き去ることであった。次には、抜き取った力を内面化して「心気」に変換するのである。
大学寮に在籍していた頃、天地の間に「正気」があり、その正気には人や物を動かす力があると教えられたことがある。「心気」というのは、この「天地正大の気」の変種かもしれない。
やがて鶴丸は、一切の打算を捨ててドングリそのものを眺めるようになった。外側の皮を眺めていると、その裏側の繊維質の内皮まで見えてくる。さらに内視を続けると、その内皮に包まれている果肉も見えて来た。それだけではなかった。ドングリ全体の重みがどのように配分されているか、ドングリの重心が何処にあり、内部構造がどうなっているかということまで見えてくる。
机上のドングリを眺める鶴丸の目に、それと重なるようにして、もう一つの図像が映じて来た。透視されたドングリの内部構造図である。鶴丸には、ドングリの何処に力を加えれば、どの方向に転がるか、手に取るように分かった。
(そうか、これからが問題だぞ)と鶴丸は思った。
ドングリの何処に力を加えるべきかは分かった。だが軽々に「心気」を使ってはならない。心気を押す力として使うのではなく、ドングリを迎え入れる受容力として利用するのである。
(おいで)と、鶴丸はドングリに向かってやさしくささやいた。
ドングリは、ころころと鶴丸の方に転がってきた。彼はドングリを机の縁のところで止めて、今度は、(行け)と命じる。すると、ドングリは、反転して逆方向に戻って行く。彼は暫くの間、ドングリを机上であちこち動かしていた。疲労が意識され始めた。鴨継が言っていたとおりだった。心気を使うと、労働をした後のように疲れるのだ。そしてその疲労感は、心気を加圧力として使ったときに最も大きくなるのである。
ドングリで成功してから、鶴丸は一層熱心に練習を続けた。そして三ヶ月もすると、自分を虚にして心気を一点に集中すれば、手箱のなかのものもハッキリ透視できるようになった。こうなると、自分の能力を試したくなる。
――夕方、下男の吉が泉水の中に半身を浸して、水に浮かぶゴミを取り除いていた。
「ちょっと、話がある」と鶴丸が声をかけると、吉はざぶざぶ音を立てて泉水から出てきた。
「何だね?」
「お前は、今夜もバクチ場に出かけるだろうな。私も一緒に連れて行ってくれないか」
「お前様の来るようなところじゃねえよ」
「しかし、賭場には内裏の舎人なんかも顔を出すそうじゃないか」賭場に案内してくれれば、少しばかりだが謝礼を出すというと、吉すぐ承知した。
その夜、吉が連れて行ってくれたのは、当麻屋敷から十町程離れたところにある天皇の生母の住まう屋敷だった。賭場は、その屋敷の牛小屋に隣接した車置き場で開かれているのだった。土間には十数人の男たちが集まって、すでに勝負を始めている。
壺振りをしているのは、十歳になるかならぬかの童子で、この屋敷で牛の口取りをしている少年だった。子供なら八百長をしないだろうと相談の上、皆で雇い入れたのだという。
鶴丸と吉が男たちの輪のなかに割り込んだとき、反対側にいた小役人らしい男が片手をあげて鶴丸に合図をした。小太りに肥った色白の男である。舎人の守屋赤馬だった。彼は鴨継を担架に乗せて染殿に運び込む仕事をしていたから、面識がある。
壺振りが甲高い声で、「丁はありませんか、丁ありませんか」と尋ねている。丁を張る客が少ないのだ。吉が、「おう、丁に二枚」といって、銅銭二枚を投げ出した。壺を開けると、サイコロの目は四だった。吉が、「ちぇ」と舌打ちをした。
勝負は続いている。鶴丸には壺の中の賽の目がちゃんと読める。隣にいる吉が、鶴丸にも勝負に加わるようにしきりに勧める。それで、彼は何回か賭けてみた。賽の目は彼の透視した通りなのだから、こんなに簡単な勝負はない。
夜が更けてきて、灯明皿の油が尽きて来たらしく、ジ、ジと音を立て始める。何の商売をしているとも分からない半白の頭をした男が、「では、今夜はこの辺で」と声をかけた。この初老の男が、賭場の世話役のようだった。
吉と一緒に牛小屋をでたところで、うしろから守屋赤馬が追いついてきて、鶴丸に話しかけた。
「水際立った勝ちっぷりでしたな。あんた、素人じゃないね」それから半月ほどして、その守屋赤馬が内裏の渡殿で鶴丸に話しかけてきた。
「面白い賭場があるのですがね、御一緒しませんか」
「例のところですか」と鶴丸は質問した。
「いや、いや、あんな乞食バクチ場とは違いますよ。ずっと格が上で、二位の役人やら京の商人も集まります」その夜、守屋赤馬が迎えに来て、格上だという賭場に案内してくれた。今度のは、近衛の中将の住まう屋敷の邸内にあった。母屋とは離れて建てられた壺屋が賭場になっていた。この小屋は武具を修繕する工事場だから、壁際に修理中の弓や、胸当てなどが並んでいる。
集まってきた十数人の客は、皆、身なりがよかった。壺振りも目つきの鋭い若者で、賭け金も銅貨は少なく、大体が天平元宝銀だった。
守屋赤馬は、慎重に構えていた。すぐには勝負に加わらないで、一発勝負の機会をうかがっている。
そのうちに丁の側に賭け金が集まり、壺振りが、「半ありませんか、半ありませんか」と催促する局面がやってきた。守屋赤馬が体を鶴丸の方に寄せて、低い声で尋ねた。
「勝負していいかな?」この前の賭場ではサイコロは一つだけだったが、今度は壺の中に二つのサイコロがある。賽の目は三と六になっている。守屋赤馬は鶴丸が頷いたのを目にすると、持ち金の全部を半に賭けた。
壺が開けられた。――「半」
一座がどよめいた。
守屋赤馬はこれまでにない大金を手にしたのである。3章 明子皇后が「物の怪の病」に取り付かれたのは、鶴丸が医家の門に入ってから一年ほどたったころだった。長い梅雨が明けて、内裏の階に強い日差しが照りつけるようになったある日、鴨継と鶴丸は出仕早々染殿の老女綾戸から、昨夜、后が物狂いの発作に襲われたと告げられたのだ。
老女の話によると、皇后は夕食後几帳のなかで暫く臥せっていたが、やがて急に激しく泣き出した。 と思うと、几帳から躍り出て、髪を振り乱して寝殿の外に走りだそうとしたという。女房たちは総出で皇后を取り押さえ、何とか寝かしつけたが、夜が更けると、皇后は再び泣き出し、戸外に飛びだそうとする。それで、昨夜は女房たちが交代で几帳のなかに入り、徹宵で警戒にあたったというのである。
「お后さまは、物の怪に取り憑かれたのでしょうか」
と老女は、憂わしげな顔で度々鴨継に尋ねたが、鴨継は何とも答えようがなかった。なぜかと言えば、皇后が狂い出すのは鴨継や鶴丸のいないときに限られていて、二人とも物狂いの現場を見たことがないからだった。一度だけ、鴨継と鶴丸が染殿に足を踏み入れたとき、几帳の中で皇后が女房たちともみ合っているのを見たことがある。女房たちが、「お后さま」といって取りすがるのを振り払って、皇后は几帳から飛びだそうとしていた。このときも、皇后は侍医が来たと知ると急に暴れるのをやめて、静かになったのである。
実は、鶴丸は皇后が物狂いを始めたと聞いて、もしかすると后の顔を直接見ることが出来るのではないかとひそかに期待していたのである。後宮に出仕するようになって一年、彼はまだ、比類のない美貌の持ち主と噂されている皇后の顔を見たことがないのだ。同じく天皇の寵愛を受けている中宮のところに行くと、彼女らは広間で女房や女ノ童と話をしていた。そして侍医が来たからといって、几帳にこもることもなかった。だが、その点明子皇后はひどく神経質で、侍医にすら顔を見せないのだ。
当麻ノ鴨継としても、物狂いの実態を掴むことが出来なければ、手の打ちようがなかった。だから鶴丸に命じて、鎮静剤を調合させ、これを皇后に飲むように指示して様子を見るしかなかったのである。
間もなく皇后狂乱という噂が御所一円に流れるようになった。
このままだと実父の藤原良房の権勢にも影響しかねない。良房は天皇を動かして金剛山頂で修行中の葛木聖人のところに勅使を派遣して、彼を禁裏に招聘する手はずを整えた。医術が頼みにならないなら、後は祈祷にすがるしかなかったのだ。葛木聖人は、年の頃35,6、鷹のような目をした筋肉質の修行僧だった。老女をはじめ女房たちは、まず、聖人の猛々しい風貌に畏怖を感じた。彼はまだ少年の面影を宿している17,8の弟子を従えて染殿にやってくると、女房たちに命じて護摩壇を運び込ませ、広間の四隅に聖水を撒き、祈祷の準備を始めた。その間、几帳の脇に控えている鴨継と鶴丸には目もくれなかった。一切の準備が済むと、聖人は立ったまま女たちを見回して命じた。
「私はこれから退出して身を清めて参る。祈祷は夜に入ってからだ。おのおのがたも、それまでに身を清めておかれい」
それから、彼は鴨継と鶴丸の方をじろりと見た。
「お二人には、今晩、この場に列席されることを遠慮していただく。部外者がいては気が散るのでな」「私どもは侍医です。部外者などではござらぬ」
と鴨継が、反論する。すると、聖人は分かった分かったというように手を振った。
「今晩だけのことじゃ。明日になれば、私は修法をおえて金剛山に戻る。お手前は、その後に霊妙な手腕を発揮されるが良かろう」聖人から皮肉混じりにそういわれれば、押し返えすことも出来かねた。そして鴨継と鶴丸が当麻屋敷に戻って一夜を明かしている間に、聖人は修法によって皇后に取り憑いていた古狐を追い出し、物の見事に「物の怪の病」を直してしまったのだ。
翌日出仕すると、禁裏ではどこでもこの話で持ちきりだった。だが、鶴丸は女房や女ノ童が口々に語る昨夜の一件に、ひっかかるものを感じた。もし予め飼い慣らした狐を寝殿の床下に繋いでおけば、怯えやすい女たちを騙すのはわけないことだった。
昼食を取りながら、鶴丸がこうした推測を告げると、鴨継も同じようなことを考えていたらしかった。
「狐が乗り移ったという女ノ童を調べる必要があるな」
「はい、私が突き止めて来ましょう」と鶴丸は請け負った。だが、鶴丸が老女に問いただすと、問題の女ノ童は動揺が激しく泣いて家に帰りたいというので、親を呼び寄せて実家に引き取らせたという。鶴丸は山科にある女ノ童の実家を訪ねたが、土器を商う商売をしている父親は、言を左右にしてどうしても女ノ童に会わせてくれなかった。
御所に戻ってそのことを報告すると、鴨継は、苦笑いした。「まあ、よい。放っておけ」
鶴丸が山科に行っている間に、聖人はその後も染殿に留まることになっていた。皇后が再び物の怪に魅入られることをおそれ、天皇と良房が言葉を尽くして聖人に留まることを頼みこんだからだった。
(これは、ただでは済まないぞ)と鶴丸は思った。鴨継は毎日染殿に出仕している。聖人が殿中に泊まりこむことになれば、二人が衝突するのは必至だと思われたのだ。
鶴丸は、二人が顔を合わせた瞬間から、互いを憎み合って嫌悪し合っていることに気づいていた。聖人の方は見るからに弱々しい風体をした鴨継に侮蔑の目を向けていたし、鴨継が聖人の強靱な体躯と荒々しい性格に生理的な嫌悪を覚えていることも明らかだった。
二人は毎日、午後になって顔を合わせる。鴨継は当麻屋敷から出勤して来ると、まず皇后の病状を確かめてから中宮や女官たちの局を歴訪して女たちの健康状態を把握する。その際、病人がいればその場にとどまって手当をしなければならない。それらの仕事を済ませて、鴨継が染殿に戻ってくるのは午後になる。一方、徹夜で染殿に詰めていた聖人は夜が明けると客殿に下がって眠りを取り、昼食後に再び染殿にやってくる。こうして、両者は午後の数刻を皇后をはさんでにらみあうことになるのだった。
梅雨が明けてから、連日蒸し暑い日が続いた。午後ともなれば、染殿に詰めている女官たちは気だるげに扇子を使うだけで、口をきく者もほとんどいなくなる。居眠りをする者も多い。だが、聖人と鴨継の間では目には見えないけれども、火の出るような激しい争いが続いていた。
そんなある日のことだった。
鴨継の背後に控えていた鶴丸は、ふと、聖人の頭上二尺ばかりのところに透明な陽炎のようなものが浮遊していることに気づいた。それは透明ではあるけれど、精気を放って、今にも動き出そうとしていた。鶴丸が、目を転じると、これに対抗するように鴨継の頭上にも靄のようなものがふわりと浮かびあがっていた。
二人の頭上に生まれた透明なものが、精気を放って動き出そうとしているところは生魂のようでもあった。そして、実際に聖人の頭上の透体は、不意に鴨継の透体に向かって襲いかかったのである。
鴨継の透体も聖人のそれを迎え討って空中で激しく絡み合い、もつれ合った。二つの透体が宙で必死の戦いを演じているのに、鴨継も聖人も何事もないかのように静かに座ったままだった。変化といえば、聖人の首筋の動脈が今にも破れそうなほど怒張していることだけだった。
広間には20人を越える女たちが詰めているのに、聖人と鴨継の争いに気がついている者は誰もいない。聖人の弟子も、何も知らないでいる。二人の凄まじい争いを目にしているのは、伊賀ノ鶴丸一人だけだった。
4章 聖人と鴨継の間の争いは、日を追って激しくなった。両者が宙に放った生魂のようなものは、二羽の猛禽が空中で戦うようだった。。正面からぶつかったと思えば離れ、離れたと思えば絡み合い、絡み合ったままで床近くまで落下したりする。そんな終わりのない戦いが、広間の空間狭しと途切れることなく続くのである。眺めている鶴丸の目がくらくらしてくるほどだった。
その透明なものは、本当に二人の生魂だったかもしれない。両名とも何事もないかのように静かに端座している。しかし彼らは、急速に体力を消耗させていることは鶴丸の目にも明らかだった。鶴丸は、夜、鴨継を抱き上げて臥所に寝かしてやるとき、相手の体重が日ごとに軽くなって行くことをはっきり感じた。
鴨継の消耗ぶりはあまり人目につかなかったが、聖人の衰え方は誰の目にも異様に映った。彼の肩は肉が落ちて尖り、額には青筋が浮かび、血走った目だけがぎらぎら燃えるように光っている。女房たちは、祈祷のために聖人が心身をすり減らしていると信じていた。
二人が必死の争いを始めて十日ほどたった。このままでは共倒れになるのではないかと鶴丸が心配していた時に、事件が起きたのである。仕掛けたのは、鴨継の方だった。
その日、遣り戸をすべて開けはなった室内には、微風が吹き込んでいた。その風が几帳の紗を前後に動かしている。紗がふわりと宙に舞い上がったのを見て、鶴丸はおやと思った。紗そのものは軽く織られているけれども、厚手の総で縁取りしてあるので、ちょっとやそっとの風ではめくれることはない。鴨継が術を使ったのである。
鶴丸は、ハッと思って鴨継の様子をうかがった。しかし、この時聖人がふらりと立ち上がったのに気づいて、その方に目を転じた。聖人の背中の向こうに紗のはためく几帳があり、几帳の向こうに侍女に髪を梳かせている皇后が見えた。皇后は全く無警戒で、脇息に身を委ねている。その姿態が、変に誘惑的だった。
聖人は皇后に目をやったまま、よろめくような足取りで几帳に近づき、紗を排してその中に入ろうとした。
「あれ」
と侍女が声を上げた。そして慌てて聖人の前に立ちふさがった。
聖人は侍女を突き除け、逃れようと中腰になった皇后の背中に被さるようにして抱きついた。聖人の顔は、仮面のように表情がなかった。
「鶴丸!」と鴨継が声をかける。
鶴丸は無我夢中で聖人に飛びかかり、相手を羽交い締めにして引き倒した。聖人は、たちまち床に組み伏せられた。鶴丸は聖人の背中を片膝で押さえつけた。衰弱してふぬけのようになっている聖人は、子供のように無力だった。鶴丸は膝で聖人の動きを制しておいて、皇后の方を振り向いた。
「紐を──」
この時になって鶴丸は、初めて皇后の顔をまともに見たのである。噂の通り、皇后は美しかった。その美しさは、何か生まれつき体質がほかの女とは違っているような感じなのだ。
鶴丸に声をかけられて皇后は、ためらっていた。が、布の下から紐を抜き取って鶴丸に手渡し、急いで乱れた裳裾を掻き合わせた。皇后の切れ長の目元に含羞の色が浮かんだ。体温の残る絹紐が、鶴丸には人肌のように感じられた。
鶴丸が聖人を後ろ手に縛り上げている間に、女房たちが馳せ集まって来て、皇后を急いで次の間に連れて行った。女ノ童の通報を受けて舎人たちも集まって来る。警護の役人も、急報を受け部下を引き連れてやって来た。
役人に聖人を引き渡し、舎人らも立ち去ったあと、短い間、室内に鶴丸と鴨継のほかに僅かな女官しか残らない時間が来た。
鴨継は、いつもの場所に座ったまま、鶴丸に向かって薄く笑って見せた。術を使って聖人に几帳の向こうを垣間見せたときから、鴨継はこうなることを見通していたのである。
「一件落着だな。わしらも引き上げよう」
染殿を出たところで鴨継は、乗っていた担架を止めさせた。聖人の弟子の智海が途方に暮れたように、ぼんやりその場に立っていたのだ。
「どうした? 行くところがないのか」と鴨継が尋ねた。
「───」鴨継は暫く考えていたが、鶴丸に彼を屋敷に連れてくるように命じた。
──藤原良房と天皇は、聖人をどう処分したらよいか困惑していた。本来なら死罪に処すべきところだったが、葛木聖人は高徳の誉れ高い「聖者」であり、皇后の物の怪の病を治してくれた恩人だった。
鶴丸のところに守屋赤馬が訪ねてきたのは、事件の数日後だった。彼はあの騒動の日に、他出していてその場にいなかったのである。
「大活躍だったらしいな」と守屋はにやにや笑いながら言った。「いまや、あんたは人気者だよ。内裏の女どもは、おぬしの噂で夢中だそうじゃないか」
「馬鹿な」
「おぬしばかりじゃない、鴨継殿の評判も馬鹿にいいぜ。聖人の弟子を引き取って、面倒を見てやっているんだってな」
「ああ、行くところがないんだ」鴨継が聖人の弟子を引き取ったのは、善意からではなかった。彼は智海という小坊主を手なずけて、何かに利用しようとしているのである。鴨継は智海が何かいうたびに、「そうであろう、そうであろう」と同調する。そして、相手が言おうとしていることを、彼に先んじて語ってみせるのだ。鴨継には、智海の気持ちなど本を読むように分かるのである。
鴨継は、まず智海と聖人の関係を巧みに聞き出した。智海は金剛山麓に住む猟師の子供で、父親が弓で射殺した母狐の子供を大事に育てていたのである。それを知った聖人は、智海を貰い受け、この狐を加持祈祷の際に利用することにしたのだ。
皇后に対して行った修法も、何時も彼が地方の分限者を相手にやっていた詐術を繰り返したものだった。
数日すると、智海は自分の意志と鴨継のそれとの見分けがつかなくなって、鴨継の言うことを自分の発意のように感じ始めた。最早、智海は鴨継の意のままに動く人形であった。それを見澄まして、鴨継は意外なことを言い出したのだ。
「このままだと、お前の師匠は処刑されるぞ。お前はやさしい若者だ。師匠の死をむざむざ見過ごすつもりはあるまいな」
「はい」
「ならば、司直のところに出向いて、聖人と最後の別れをしたい、聖人と会わせてくれと頼み込むのだ。そして、聖人に会ったら、こういうがよい」鴨継は、このままでは聖人は必ず死罪になる、それを逃れるためには、聖人が死んで幽鬼になって皇后への想いを遂げようとしていると司直の役人らに信じ込ませなければならない──。
智海が伝令役になって鴨継の言葉を聖人に伝えると、聖人は牢役人たちが聞いているところで、皇后をわがものにするために今ここで死んでみせる、そして直ちに后の寝所に乗り込んで想いを遂げてやると呟いて見せた。事態は鴨継が予想したようにトントン拍子に進んだ。鴨継は、聖人が釈放されると智海に路銀を与え、二人で下野の国に住む鴨継の知人のところへ落ち延びるように手はずを整えてやった。
しかし、鴨継はなぜ聖人を京から追いやったのだろうか。鴨継の意図を読みかねている鶴丸に向かって、彼は「おぬし、鬼になれ」と言い出したのである。
5章 鶴丸にとって、いつもの日常が始まった。あれ以来、皇后は物狂いの兆候を見せない。
鶴丸は鴨継に従って後宮に伺候して、皇后・中宮・更衣を始め女官らの診療を続けたが、鴨継は体力がまだ回復しないらしく女房たちの診察を鶴丸に任せることが多くなった。
ある日、帰宅してから鴨継が鶴丸に尋ねた。
「守屋赤馬という男は、よくお前を訪ねてくるが、前座に使えそうか?」
「何の前座ですか」
「鬼だよ。お前が鬼になる前に、前座を繰り出しておかねばならんのだ」鶴丸は前々から気になっていたので聞き返した。
「私に鬼になれというのは、どういうことですか。ちゃんと説明してもらわないと・・・・」鴨継は、じっと鶴丸を見つめていた。
「これから話すことは、他言無用だぞ。后は今は小康状態にあるが、いずれは再発する。それを防ぐには、根本的な手を打たなければならんのだ」
「根本的な手?」
「そうだ。后は既に26歳になられるが、まだ生娘も同様なのだ。女の喜びというものをしらない。だから、それを教えてやる者が、必要になる。だが、それが人間だと紛議のもとになるが、鬼ならば問題はあるまい」鶴丸は、唖然とした。
「すると、私が后の───」
「そうとも。お前が、后の愛人になって、女の喜びを教えてやるのだ」鴨継は、皇后がまだ女になっていないことを音羽という老女から聞いたという。音羽は、皇后が生まれたときから世話をしてきた乳母で、皇后が輿入れする時に一緒についてきて寝食を共にしている。だから、皇后が初夜を迎えるときも、隣室にいて首尾をうかがっていたのである。
文徳天皇はその時16歳、皇后より数歳年少だった。しかもオクテで后の美貌に気圧されていたから、どうしても夫婦の交わりを果たすことができなかった。その後何度試みても失敗し、今では同じ部屋で寝ても何事もなく過ごしている。その皇后が物狂いの発作を示すようになったのは、皇后と同じ年齢の女御が妊娠したことを知ったからだった。自分とは不可能だった夫が、女御を相手なら、ちゃんと出来る。そして、妊娠までさせた───この事実が皇后を狂わせた。音羽も鴨継も、問題の背景をそう考えているというのである。
「后はこれまで男というものに関心を持っておられなんだ。ところが、お前が聖人を取り押さえるのを見て、后は生まれて初めて男を恋しいと思われたのだ。お前を鬼に仕立てて、后の閨に送り込むことを考えるようになったのは、それからなのだ」
あまり、途方もない話なので、鶴丸はいうべき言葉がなかった。
「私が鬼になる・・・・一体、どうやって鬼になるんですか」
「縫いぐるみを着るのさ」と、こともなげに鴨継は答えた、「その前に、縫いぐるみを着た男をあちこちに出没させておくのだ、そうすれば、女房たちは震え上がって、お前を本物の鬼だと思いこんでしまうさ」鴨継が前座といった意味は、このことだった。内裏の内部について隅々まで知っている舎人を選び、夜暗に紛れて鬼の扮装で出没させておけば、女房たちは縫いぐるみを着て染殿にあらわれた鶴丸を見て本当の鬼だと信じ込むはずだというのである。
「守屋赤馬という男は、見たところ女色にも弱いし、金にも弱そうだ。何とか奴を買収して、前座を務めさせるんだな」
鴨継は、守屋赤馬を取り込むために必要なら、いくらでも金を出すという。そして、鶴丸をそそのかすように、
「男と生まれて、ああいうお方に近づくことなど滅多にあるものではないぞ。世の男たちの見果てぬ夢を、お前は実現することができるのだ。しかも、后はそれを望んでおられるのだ」皇后もそれを望んでいるという言葉が、決定的だった。鶴丸は決意を固めた。
数日後、守屋赤馬がやって来たとき、鶴丸は連れだって賭場に出かけることを承知した。守屋が頻々と尋ねてくるのは、鶴丸を賭場に引っ張り出して、また、一儲けするためだったが、これまで鶴丸はその誘いを断っていたのである。
「今夜の賭場は、何しろ蔵人頭の別邸で開かれるんだからな、たいそうなお歴々が集まってくる。だから、ちっとやそっとではない大金が動くんだ」
と賭場に行く前から守屋赤馬は興奮している。賭場に行ってみると、成る程、客の半分は身分の高そうな公達で、まだ年若い貴族が多い。それが無鉄砲な金の張り方をして胴元を喜ばせている。怪しまれてはいけないというので、鶴丸は守屋赤馬とは離れたところに座り、丁の時には襟に手をやって衣紋を繕い、半の時には顔に手をやるというような合図を取り決めて勝負に臨んでいた。
守屋はなかなかの役者だった。時々、鶴丸の合図とは違ったところに金を張ってわざと負けてみせ、「ちっ、やられた!」などとぼやいてみせる。しかし、見る見るうちに彼は膝の前に金を積み上げていった。客の視線が守屋赤馬に集まり始めた。
「客人、調子がよろしいようですな。私とサシで勝負しませんか」
と、賭場の差配をしていた40がらみのでっぷり太った男が守屋に声をかけた。その細い目に居竦まされながら、守屋は黙ってうなずいた。彼は鶴丸に全幅の信頼を置いているのである。賭場の空気が一気に緊張した。誰も口をきく者はいない。守屋赤馬が持ち金の全部を差配の前に押しやると、差配の男も箱の中の金をあらかた掴みだして膝の前に置いた。
壺振りが、「参ります」といって慎重に壺を振る。二つのサイコロの転がる音が、静まりかえった室内にカラカラと響いた。壺振りが声をかける。
「どうぞ」
壺の中の賽の目が半と出ているのを透視して、鶴丸は守屋に合図を送った。すかさず、守屋が叫ぶ
「半」
すると、どういう仕掛けがあるのか、サイコロの一つがことりと動いて賽の目は丁に変わった。
「丁」と差配が野太い声で応じた。
「開けます」
鶴丸は、壺振りが壺を開ける寸前に、今動いたばかりのサイコロを回転させて元の賽の目に戻した。壺振りは、壺を開けて顔色を変えた。しかし、気を取り直して、
「半でございます」差配は憤怒の表情で守屋をにらみ付け、何か言おうとしたが、「やったな」「たまげたぞ」と口々に言い立てる客たちの声を耳にすると、無念そうに黙ってしまった。
───帰途についてから、守屋赤馬はずっしり重くなった胴巻きを手で押さえながら、おもねるように鶴丸の方を見た。
「この半分は、おぬしにやらんといけんな」
「いや、いい。あんたに預けておくよ」守屋は、ほっとしたような顔になった。
「じゃ、今夜は女を買いに行こうじゃないか。二条通りに行けば、町場の妻女が出張っているそうだよ。自分の家に連れて行って、やらせるそうだ。結構、器量よしの女もいるらしいぞ、もちろん御所勤めの女たちに比べたら問題にならんけどね」
鶴丸は、日頃、守屋赤馬が若い公達たちを羨望の目で眺めていることを知っていた。貴族の子弟は、夜になると女官たちの局に忍び込み、夜這いのようなことをしているのだ。身分の低い舎人は、それを指をくわえて見ているしかないのである。
「それより、二人で鬼に化けて、女たちの局に忍び込んでみたら面白いよ」と、鶴丸が誘い水を向けると守屋が直ぐに興味を示した。「局に忍び込んで、夜這いに来ている公達を脅してやるんだ。縫いぐるみを着て行けば、こっちが誰だか分かりっこないからな」
「そうだな。奴ら、腰を抜かして逃げ出すだろうな」と、守屋はほくそ笑んだ、「おぬしは、見かけによらずワルだな。気に入ったよ、やろうじゃないか」
「私は内裏の中のことは不案内だけれど、大丈夫だろうね」
「まかしておけ。何処にどういう抜け穴があるか、何処に隠れていれば、人に見つからないか、こっちは、すべて心得ているんだ」相談は、たちまち、まとまった。
6章 打ち合わせの時刻に、雑色用の通用門に行って戸をたたくと、守屋赤馬が待っていてなかから戸を開けてくれた。
「こっちだ」
守屋の後に付いていくと、木工寮の資材置き場に連れて行かれた。守屋は壁に立てかけてある材木の後ろから縫いぐるみを引っ張り出した。二人分の縫いぐるみを調達する費用は、鴨継が出してくれた。鴨継は、鶴丸が守屋と一緒に行動すると聞いて意外そうな顔をしたが、「守屋を見張っていないと、何をするか分からないので」と説明すると、「それもそうだな」と納得したのだ。実際、守屋には何をするのか分からないところがあった。
御所の構内には、ところどころに篝火が燃えているだけでひどく暗い。構内の砂利を踏んで行き過ぎるのは、急な連絡のため役所から役所へ走る雑色か、オマルの排泄物を捨てにくる樋洗の下女くらいのものだった。しかし、たまに女官の局に忍び込む色好みの公達や、知り合いの女官を訪ねる女房などもいる。守屋が脅そうとするのは、こうした公達や女房たちだった。
守屋赤馬は縫いぐるみを注文するのと同時に、彫り師に頼んで鬼の面も作らせていた。頭からすっぽり被る頭巾の前面に、この面を縫いつけておくと本当の鬼に見える。
物陰に隠れていて、通りかかる公達の前に不意に現れる。すると、たいていが、「わっ」と声を上げて逃げ出すのだ。夜暗に紛れるように全身真っ黒なぬいぐるみを着込んでいるから、相手には先ず鬼の面が目に入るのである。女房たちは、鬼の面を見ると、判で押したようにへなへなとその場に座り込んだ。「腰を抜かす」という言葉は嘘偽りではなかったのである。
鶴丸は、いつも表面に出ないで物陰から守屋を監視していた。「女房に抱きついてはいかんぞ。そんなことをしたら、すぐ、縫いぐるみのニセ鬼だと分かるからな」と守屋に釘を刺しておいたが、それを破る恐れがあるからだった。
数日もすると、鬼が出るという噂が御所一円に広がった。出入りの商人たちの口から御所の外の町にも噂が拡がったのである。噂好きの京童の口にかかると、鬼は大鬼と小鬼の二つがいて、大鬼は葛木聖人で、小鬼の方はその弟子の智海だということになった。皇后に恋いこがれた葛木聖人は、絶食して死んで鬼になり、智海も師匠に殉じて自死して鬼になったというのである。
鶴丸の姿が目撃されて小鬼と思われているのは意外だった。が、守屋が葛木聖人の化身の黒鬼だと噂されているのは、計算通りだった。
宮廷の警備が急に厳しくなった。御所内の篝火は数を増やされ、警備の役人が昼夜を問わず構内を巡回するようになった。女官たちは夜になると戸に掛け金をかけた。鶴丸は、守屋と相談して、当分、夜の行動を控えることにした。だが、鬼に化ける快感を一度覚えた守屋赤馬には、もう抑えが効かなくなっていた。
中秋の名月の夜には、清涼殿に百官を集めて月見の宴が開かれる。
その年も満月が空に上がると、天皇以下が清涼殿の廊に出てしばし月を眺めた。それが済むと、一同広間に戻り、にぎやかな宴席になる。灯明に火が一斉に点じられて、室内は昼のように明るくなった。宴がたけなわになった頃、酒を運んでいた女官が、真っ青な顔になって広間に駆け込んできたのだ。「鬼が───」
と女官の指さす方向を見ると、向かいの寝殿の屋根に黒鬼が腰掛けて、こちらを黙って眺めている。酒を酌み交わしていた廷臣たちは総立ちになった。騒ぎを聞いて警護の役人が続々と庭前に集まってくる。だが、鬼は、驚く様子もなく騒然となった眼下を無言で眺めていた。屋根の棟にまたがるように座った鬼の、くわっと開いた口や、金色に縁取られた目や、ざんばらな黄色の髪が、警護の役人たちが振りかざす松明のあかりでくっきり浮かび上がった。
その状況がどれくらい続いたろうか、やがて鬼をめがけて矢が一本、二本と射掛けられ始めた。すると、鬼はようやく立ち上がり、その場の光景を見回してから屋根を伝って姿を消した。
翌日、染殿に出仕してこの話を聞いた鴨継は、帰宅して直ぐ鶴丸を呼びつけた。
「守屋を何とかしなければならんな。このままだと、そのうちに捕まって、何もかも吐いてしまうぞ」
「私も気になって、帰りがけに守屋に会おうとしたら、彼は休みを取っていました。仲間の話では、彼は最近、加茂川べりに小さな家を借りて、そこに女を囲っているとかで・・・・」
「よくそんな金があるな。女というのは商売女か」
「いえ、小商人の妻女だそうです」
「ますます、危ないな。その女に、ぺらぺらしゃべるんじゃないか」
鶴丸が、「私から、きつく叱っておきます」といったが、鴨継はそれに耳を貸さず黙って何か考えていた。守屋の件をそのままにして、鴨継は話題を変た。こちらの方が、本題だったのである。「急な話だが、思い切って、計画を実行することにしたらどうかな。今夜、わしだけが宮中に出仕して、お前は屋敷に残るのだ。そして、夜が更けたら禁裏に忍び込めばいい。守屋がいなくても、御所に入ることができるな?」
「はい、守屋が、作ってくれた入り口があります」
「染殿にも、入れるな?」
「大丈夫です」
「では、今夜染殿に忍び込め。皆がおびえている今が好機だ」それから、鴨継は、「お前が鬼の扮装で出て行けば、女どもは震え上がって身動きできなくなる。その間に、几帳の中に入ってお后に頭巾をちょっとだけ脱いでみせるんだな。そして自分が何者であるか明らかにしておいて、おぬしの気持ちを伝えるのだ。いいか、お后の気持ちを動かして、次の日にも忍び込む許可をもらうのだぞ。お后がためらっていても、気にすることはない。『では、明晩』といって引き下がるのだ」
鴨継は、「長居は無用だぞ」と念を押した、「お前が、さっと引き下がれば、そのあとでお后はいろいろ考える。そして、次にお前が来たときの態度を決めるからな」
鴨継の話を聞いているうちに、鶴丸の気持ちも次第に動き始める。彼の話を聞いていると、鶴丸もそうするしかないような気持ちになってくる。ふと、鶴丸は思った。
(オレも、この師匠の操るままに動く人形になってしまったな)
夕餉を取ってから、鴨継はいつものように牛車を仕立てて出仕していった。鬼が出没する噂が出てから、鴨継主従は夜間に染殿に詰めているようになっていたのである。独り残った鶴丸は夜の更けるのを待って、屋敷を出て、守屋の作ってくれた通用口から御所の中に入った。そして、護衛の役人の目をさけ、物陰を伝って染殿にたどり着く。樋洗口を抜けて建物の内部に忍び込み、暫く片隅の暗がりに潜んで様子をうかがう。女たちは、就寝までの一刻を思い思いに過ごしている。
頃やよしと、鶴丸は暗がりから半歩踏みだし、闇を背に仁王立ちに立って、じっと女たちが気のつくまで黙って立っていた。だが、なかなか女たちは気がつかない。ようやく、一人がお喋りの切れ目に何気なく目を上げて鶴丸の方を見た。
「あ」と女が声にならない声を上げたので、話し相手の女も顔を上げた。すぐに、その女の目も恐怖で張り裂けそうになった。直ぐに女たちのすべてが黒鬼の存在に気づいた。鴨継は、皇后の寝所になっている几帳を斜めに見通す位置に、女官たちから少し離れて座っていた。彼も鶴丸の方を見たが、室内のすべての女たちと同じように凍り付いたような目を偽装していた。
「動くな」
と言って、鶴丸は明るみの中に歩み出た。彼は落ち着いていた。女たちが恐怖で凝り固まり、声も出せないでいることが分かったからだった。面を被ったままで物を言えば、正体を知られる恐れもない。声がくぐもって別人の声のようになるのである。
皇后は几帳のなかで、何か本を読んでいたらしかったが、鶴丸が「動くな」といって明るみの中に歩み出るのを見て、灯明を消した。
鶴丸が几帳のなかに踏み込むと、皇后は単衣の襟を掻き合わせながら、脅えたように鶴丸を見上げた。広間の明かりは紗に遮られて半減しているから几帳のなかは薄暗く、皇后の顔だけが白く浮かんでいる。その顔に向かって、鶴丸は低くささやいた。
「怖がらないでください」鶴丸は面を脱いで、素顔をさらした。皇后の全身から緊張が抜けて行くのが分かった。暫くして皇后は震える声で訊ねた。
「どうして、こんなことを───」鶴丸はその場に腰を下ろした。
「お后さまに会うには、こうした方法しかなかったからです」
「これまで御所を騒がせていたのも、お前かえ」
「そうです。ここへ忍び込む機会を探していたのです」
「馬鹿ねえ。毎日、会っているではないか」鶴丸は、抗弁する。
「ご存じないですか。向こうからは紗に邪魔されてお后の姿が見えないのです。お后さまの顔をじかに拝見したのは葛木聖人を取り押さえたときが初めてでした。それ以来、お后さまの面輪が頭から離れなくなったのです」皇后の顔から恐怖の表情が徐々に消えていった。鶴丸は、(ここは皇后に恋いこがれる気持ちを熱誠こめて訴えるしかない)と本能的に感じ取った。鶴丸が愛の告白を続けているうちに、皇后の口辺にうっすらと微笑が浮かんできた。鶴丸は膝を進めた。
「お后様のことが寝ても覚めても浮かんできて、とうとう鬼に化けるというバカなことを始めてしまったのです。」9月とはいえ、蒸し暑い夜だった。縫いぐるみを着ている鶴丸の顔に汗がにじんでくる。彼は皇后が手布をさしだしていることに気づいた。気が付かないでいたが、皇后は無言で彼に汗を拭けと言っているのである。その表情にすでに恐怖の色はなく、年上の女がうぶな恋人の口説を聞くような余裕のあるものに変わっていた。
額の汗をぬぐってから手布を返そうととすると、皇后は、「持ってお行き」という。もう、すっかり親しげな口調だった。
7章 翌日、染殿に出仕すると、老女の綾戸と音羽が待ちかねたように鴨継を囲んでひそひそと話し始めた。この三人は、昨夜から今後の方策を相談していたらしかったが、まだ結論が出ないのである。老女は両名とも脅えていた。なかでも殿中の女たちを束ねる綾戸は、紙のように薄い目蓋を引きつらせ、唇の端をぶるぶる震わせている。た。
相談は長引くばかりで、なかなかまとまらないようだった。鴨継が、鶴丸に声をかけた。
「回診は、お前がやってくれ。体の不調な者がいたら、症状を聞いておくだけでよいぞ」回診を早く切り上げるつもりだったが、何処の館に行っても女たちは一人で現れた鶴丸を珍しがって、彼を離してくれない。回診を終えてようやく染殿に戻ってきたときには昼近くになっていた。だが、老女二人はまだ鴨継と額を集めて相談を続けている。鶴丸が回診の結果を報告すると、鴨継はうなずいた。
「やはり鬼の正体は、死んだ聖人らしいぞ。鬼から一番憎まれていたのはおぬしだ。気をつけなけることだな」それからまた、老女たちの方を向き直った鴨継は、鬼が現れたら先方を刺激しないようにそっとしておくべきだと力説している。鬼は恋慕の情に駆られて、后に会いに来ているだけだから、鬼が几帳の中に入ったら、女たちはそれぞれ局に引き下がって邪魔をしないほうがよいというのだ。鴨継は、弟子の鶴丸が自由に振る舞えるように横車を押している。だが、鴨継の言い分は鶴丸の目から見てさえも、無理筋だった。
当然、綾戸の方も自説を譲る気配を見せなかった。
「皆に口止めして、秘密が外に漏れないようにすることはお約束できます。でも、鬼を残して全員ここを引き上げてしまうなど、そんな無責任なことは出来ませんよ」
「さっきから、音羽殿と私が残って見張りをすると申し上げているではないか」
「あなたは、そんな体だし、音羽は女です。せめて、鶴丸殿が見張りに加わってくれれば安心できるのに、あなたは鬼が鶴丸殿を目の敵にしているから駄目だとおっしゃる。それでは話になりませんよ」二人の問答が容易に終わりそうもなかった。音羽が遠慮がちに口を挟んだ。
「お后さまの考えを伺ったらいかがでしょうか。よろしかったら、私が───」
綾戸が、「いえ、私が聞いてきます」とピシリと言った。綾戸は、音羽が鴨継の肩を持つのに腹を立てているのだ。几帳のなかに入った綾戸は、長い間出てこなかった。ようやく鴨継と音羽のところに戻って来たときには、彼女の表情は無念そうに歪んでいた。
「鴨継殿の申されるように致しましょう。お后さまは、鬼と二人になっても心配ないと申されておられる」その日、屋敷に戻ってから、鴨継は鶴丸を呼びつけて、懇々と言い含めた。
「わしは夕方になったら、また染殿に参上して、鬼の行動を見張ることになっている。くれぐれも言っておくぞ、焦るな、焦って、后に手を出してはならん。ただ、后の美しさを褒めちぎるのだ、そして后への熱い想いを訴え続けるのだ。后にとっては、はじめて聞く男の口説だからな、待っていればそのうちにあちらから身も心も委ねてくる」夜になって、鬼の縫いぐるみを着た鶴丸が染殿に現れると、女官たちは目を伏せて部屋を出て行った。鴨継の主張を入れて、綾戸が彼女らに一斉に退出するように命じていたのである。室内には鴨継と音羽だけが残った。見れば、皇后は几帳のなかで灯明を灯して待っている。彼女は昨夜、鶴丸が再訪の許可を求めたときには、いいとも悪いとも言わなかったが、彼の懇望を聞き流していることで暗黙の許可を与えていたのだ。
鶴丸が几帳のなかに入り頭巾を脱いだときに、音羽が室内の灯明を消しはじめるのが見えた。鴨継に言われて部屋を暗くしているのだ。彼女はいつの間にか、鴨継の意を受けて忠実に行動するようになっている。
室内が暗くなったから、鴨継のところからは几帳のなかが蛍籠のように明るく浮かび上がって、鶴丸の行動が丸見えになるはずである。
鶴丸は、皇后の天女のような美しさを賞賛し始めた。鴨継の説によれば、褒められて喜ばない女はいないということだった。しかし皇后は、予想に反して、鶴丸の言葉を途中で遮った。
「私のことは、もうよい。それより、そなたのことを知りたい。そなた、今、いくつになる?」
「20になります」
と答えて、鶴丸は初めて自分の年齢が文徳天皇より更に一歳若いことに思い当たった。「実家は何をしておるのか?」
「父は伊賀の国衙に勤める小役人でして・・・・・」
「それで?」と皇后は先を促す。促されるままに鶴丸は、父の伝手で地方の国学に入学したこと、そこでの成績がよかったので京の大学寮に進んだことを説明した。皇后は興味深げに鶴丸の話を聞いている。「そなたはこれまで、男の学生ばかり過ごして来て、女性(にょしょう)のことはよく知るまい───」
「その通りです」
「それで、よく今の仕事がつとまるな」
「多分、図々しからでしょう」皇后は面白そうに笑った。そして、自分も女だけの世界で生きてきて、輿入れするまで男というものを遠目で見ているだけだったと打ち明けた。父親の藤原良房は、早くから娘の明子を天皇の后にする計画を立てていた。そのためには、文徳天皇が妻をめとる年齢になるまで、明子を無垢の生娘のまま残して置かねばならなかった。それで、父は彼女のまわりを女の使用人だけで固め、牡猫さえ近づけないほど警戒していたのであった。
そんな話をしているうちに、二人の気分は急速にほぐれて行った。
「鶴丸は楓が好きであろうな」と皇后はからかうように言う、「この中で見ていると、そなたがちらちらと楓の方に視線を向けているのがよく分かるぞ」
姉が弟を揶揄するような口調である。楓というのは皇后に近侍する女官で、鶴丸は確かに彼女にちょっと惹かれていた。
「楓殿に関心がないといえば、嘘になります。でも、お后をお慕いする気持ちと比べたら天地の違いがあります」
「そんな弁解をせずともよい」と皇后は、機嫌のよい顔で、「私が二人の間を取り持ってやってもよいぞ」いつの間にか二人は時間の経過を忘れて話し込んでいた。鶴丸は、これまでも同性の学友と親しくなったことがあった。ウマが合うというのか、肝胆相照らすというのか、たった一日話しただけで、互いに何もかも許し合う関係になったものだった。皇后に対しても、それと同じような気持ちになっている。仲間に対するような、屈託のない、のびのびした気分になっているのである。
深更を過ぎてから鶴丸はようやく、もう引き上げなければならないと思った。同時に自分が鴨継と音羽の存在を全く忘れて話し込んでいたことに気づいた。
その夜、鶴丸が屋敷に戻ってからも、鴨継は帰宅しなかった。音羽の世話を受けて、客殿に泊まったに違いない。翌日、鶴丸が遅くに出仕すると、鴨継は想像していた通り客殿に泊まり、既に午前の回診を済ませていた。
「遅くなりまして」と鶴丸が詫びるのを鴨継は不機嫌な顔で睨んだ、「あまり調子に乗ってはいかんぞ。昨夜のお前はちょっと行き過ぎていたぞ」
鶴丸が、分かりましたと低頭し、顔をあげて几帳に目をやった。目をやりながら、いま、皇后はどうしているだろうか、と思った瞬間に、紗の向こうに皇后が見えたのである。賭場で壺の中のサイコロが見えたように、皇后がありありと透視されたのだ。
鶴丸は、どういうときに自分に透視する能力が生まれるか、ずっと考えてきた。
まず、隠れているものを見たいという強い欲求がなければならぬ。しかし、その欲求は、為にする欲求であってはならない。壺の中のサイコロも、儲けを得る目的で透視しようとすると見えないが、そうしたことを意識しないでいると、ちゃんと見えるのである。吉と初めて賭場に出かけて、少し儲けたことがある。だが、あのときには金に対する執着はほとんどなく、「無心」に近い状態にあったから透視する能力が生まれたのだった。
彼はこれまで几帳の陰に隠れた皇后を見たいと思っていた。が、歴代の皇后の中で随一の美貌だという皇后の顔を見たいと思い、不純な好奇心を燃やしていたから見えなかったのだ。ところが、今は雑念を捨て、親しい仲間に対するような楽な気持ちで几帳を見たから、皇后を透視できたのである。
皇后は遅くなって出仕した鶴丸が、鴨継に挨拶し、鴨継から小言を言われているのを紗の向こうから眺めていた。すると、鶴丸が顔を上げ、二人の目が合った。皇后がハットしたのは、まともに目の合うはずがないのに、相手がまるで紗がないかのように彼女を見たからだった。彼女はまじまじと鶴丸を見返した。
8章 その夜、皇后が鶴丸に最初に尋ねたのは、昼間紗を隔てて二人が目を合わせることが出来た理由だった。
「あれは、どうしたのじゃ? 鶴丸には、この中が見えたのか? 外からは中が見えないはずではないのか?」
「はあ、見えないはずなのに、急に見えるようになったのです。きっとお后への想いが、そうさせたのでしょう」
皇后は、なお腑に落ちないような表情をしていたが、それ以上追求しなかった。鶴丸は皇后の前にいると、話題が無尽蔵に湧いてくるような気がする。いくら話しても、話し足りないように思われるのだ。皇后も同じような気持ちらしかった。鶴丸に対してなら、何でも話せるようだった。
例えば皇后は、牛車の中から見た道普請の男に強く惹かれたことがあると打ち明けたりした。男は30前後で、下人を4人ほど使って道路脇の水路に溜まった泥を浚っていた。その男のきびきびした所作を見ているうちに、皇后は「賤の伏屋」という言葉を思い出したという。あの男の妻になって賤の伏屋で共白髪になるまで睦まじく暮らしたらどうだろうかと思ったという。
昼間、皇后は几帳のなかから、鶴丸は広間の片隅から、互いを見つめ合う。夜、間近に座って話をしているときよりも、離れたところから互いを見つめ合っているときの方が、狂おしい気持ちになるのだった。だが、鶴丸の周囲には多くの人間の目があって、何時までも欲望に燃える目で皇后を見つめているわけにはいかない。皇后に向けた視線をさりげなくはずして、無関心を装わなければならない。
皇后には、それが不満らしかった。
夜になって鶴丸が訪れると、皇后は彼の気持ちが信じられないというのである。「どうして私をちゃんと見ていてくれないのだ。私はずっと鶴丸を見ているではないか」
「それはお后様のまわりに誰もいないからですよ」
「私は、まわりに誰がいようと構わぬぞ。鶴丸から目を離しはせぬ」
皇后が口をとがらせて不平をいうところは、はじめて人を恋することを知った少女のようだった。だが、間もなく几帳のなかで、そんな痴話喧嘩をしている余裕はなくなった。鬼が毎夜皇后を訪ねてくることが知れ渡り、染殿の周辺を衛士の一隊が固めるようになったからだ。いくら綾戸が箝口令を敷いても、鬼の一件を何時までも隠しおおせるはずはなかったのだ。最早、鶴丸が鬼に化けて染殿に潜入することは不可能になった。
鶴丸には、気になっている問題があった。守屋赤馬が中秋の名月の夜清涼殿の百官たちを驚かしたあと、不意に宮廷から姿を消してしまったからだ。夜の時間をもてあますことになった鶴丸は、本格的に守屋を探す仕事に取りかかった。
守屋が女を囲うために借りた家は、東洞院大路が加茂川に突き当たるあたりにあると聞いていたので、鶴丸はそのあたり一帯を探し回った。三晩通ってようやく探し当てたその家は、すでに空き家になっていた。近所に甘酒を売っている小店があったので事情を聞いてみると、初老の店主は、「いや、大変でしたよ」と顔をしかめた。
守屋赤馬が囲っていたのは鍛冶職をしている男の妻だったが、守屋がその女と夕餉を共にしているところに女の亭主が検非違使の役人を案内して乗り込んできたのだ。守屋は盗みの嫌疑をかけられていたのである。
「俺は、盗みなんかしていない」と抵抗したために、守屋はその場で斬り殺された。
「え、殺された?」
「お役人たちは最初からその積もりだったらしいですよ。抵抗したら切り捨てろと、上から命じられていたってことです」たかが舎人の身で、一軒の家を借り、他家の妻女を囲っていたのだから、盗みの嫌疑をかけられても不思議ではない。が、抵抗したら切り捨てろという命令が出ていたとは穏当ではなかった。その命令は、どこから出ていたのだろうか、それをたどって行けば当麻ノ鴨継の名前が出てくるのではないかと鶴丸は思った。守屋の話をするときの鴨継のにがい表情が思い出された。
鶴丸が疑惑を感じるような事件が、暫くするとまた起きた。
衛士たちが染殿を徹宵警護するようになってから、不眠を訴える女たちが何人も出てきた。一晩中、屋外で人の動き回る音がするため、安心感よりも恐怖感がつのり、一部の女たちが眠れなくなったのである。それで鶴丸は、鴨継の指示を受けて眠り薬を調薬し、5,6人の女たちに与えたのだった。そのなかに綾戸もいたのだが、薬を飲んだ他の女官たちにはそれなりの薬効があったのに、綾戸だけが痙攣の発作を起こして寝付いてしまったのだ。どういう方法を用いたか分からないが、鴨継は綾戸が飲む薬だけに別の薬を混入させたのである。
鴨継は邪魔になるものを片っ端から排除しようとしているのだ、鶴丸はそう思った。一体、彼は何の為にそこまでするのか。弟子の鶴丸を利用して皇后を「女」にして、皇后の物狂いを完全に治すという目的のためだけに、こんな非道なことをするものだろうか。
───衛士が染殿を警護するようになってから一ヶ月たった。この間、鬼は一度も姿を現していない。御所の内外に安堵の色が広がり、天皇は染殿を訪れて内輪の祝宴を催すことになった。侍医としてのこれまでの労をねぎらうために、祝宴には鴨継と鶴丸も呼ばれた。
天皇は夜になってから、身近かな廷臣を従えて、染殿にやってきた。皇后側も、この一行を全員で歓待する。鴨継と鶴丸は、廷臣たちの末席に座った。
皇后は、宴がたけなわになってから几帳の紗を排して現れた。皇后が天皇と並んで上座に座ると、天皇近侍の廷臣が口々に丁重な挨拶をする。皇后は、それに対して軽くうなずく。それから彼女は一座をぐるっと見回したが、この時には鶴丸を無視していた。
天皇が、「少しならよかろう」と皇后に酒を勧める。すると、女官がすり寄って皇后の盃に酒を注ぐ。鶴丸は下座から、天皇と皇后が親しげに言葉を交わすのを見ていた。
隣に座っている女房らが、天皇・皇后を眺めて、「お二人がこんなに仲睦まじくされるのは、はじめてよね」と話し合っている。皇后はまるで、鶴丸に見せつけるように天皇と顔を寄せ合っていた。そして檜扇で顔を半ば隠しながら、ちら、ちらっと挑むような視線を鶴丸の方に送ってくるのである。
鶴丸は無言で広間を抜け出した。皇后の挑むような視線を受けて、彼のなかで何かが崩れ落ちたのだ。鶴丸は材木置き場に走り、隠しておいた縫いぐるみと頭巾を身につけた。
染殿に戻って、いつもの樋洗口から室内に入る。几帳の中から紗をすかして眺めると、直ぐ間近に天皇と皇后の背中が見える。その向側に、こちらに顔を向けて女房や女ノ童の居並んでいる。鴨継は末席で所在なさそうに膳の皿をつついている。鶴丸は暫く祝宴の様子を眺めていた。
鶴丸が紗をもたげて顔を出した。たちまち、向こうに居並んだ女たちが硬直したように動かなくなった。女ノ童の一人が切り裂くような声で悲鳴を上げた。几帳に背中を向けていた廷臣たちも一斉に振り返る。彼らも顔色を変え、そのまま動かなくなった。鶴丸は皇后に合図した。皇后は立ち上がり、鶴丸の持ち上げている紗をくぐって几帳の中に入る。紗が下ろされ、几帳のなかは静かになった。
やがて、几帳が微妙に揺らぎ始めたと思うと、すすり泣くような女の声が聞こえてきた。その声はすぐに激しくあえぐ声に変わった。廷臣たちも女たちも、言葉を発する者は一人もなかった。几帳のなかで何が行われているか、女ノ童にさえ見当がついたのだ。
天皇が立ち上がった。そして、躓くような足取りで広間を出て行った。廷臣たちもあわててその後を追う。几帳の中の悦楽の声は、その間も絶えることなく続いている。
9章 祝宴の夜、染殿で起きた事件の影響は深刻だった。
これまで鬼が染殿に出没すると聞いても、宮廷人たちは皇后に恋慕した鬼が皇后恋しさに姿を現しただけだと受け取っていた。しかし、今度は、皇后が天皇・廷臣・女官の目の前で、公然と鬼と交わったのである。染殿の周辺には前に倍する衛士が動員され、鴨継と鶴丸は夜を徹して室内に詰めることになった。問題の夜に、鶴丸が座をはずしていたことは皆の知るところだったが、用便に行っていたという彼の弁解を疑う者は誰もなかったのだ。それで、この緊急事態に鶴丸も室内警護の任に当たることになったのである。男子禁制の殿中に出入りすることを許されるのは、医師しかいなかったのだ。染殿付きの女官たちも、毎夜交代で十人ほどが朝まで室内に詰めていた。
こうして又一ヶ月あまりが過ぎ、新年になった。染殿のまわりを固める衛士たちも、室内に詰めている女官にも疲労の色が濃くなった頃、またもや鬼が現れたのだ。今度は誰も鬼が室内に侵入して来たことに気づかなかった。深夜になって女官たちがうとうとしている間に、几帳のなかの灯が消え、ふと気がついてみたら男女の交わる気配がしていたのである。
やがて几帳のなかから前回と同じすすり泣くような悦楽の忍び音が聞こえてくる。だが、灯の消えた几帳の中の様子は分からない。女官たちが息をのんで几帳を見守っているうちに、中の灯明が再び点灯したのだ。重なり合って動いている男女の影が紗の向こうにぼんやり浮かび上がった。
几帳の中の男と女は抱き合ったままだった。灯明皿は支柱に支えられて人の胸の高さにある。どうして灯明が点ったのかと女官たちが疑念を抱いたときに、灯はふっと消えてしまった。これも不思議だった。几帳のなかの二人が立ち上がって明かりを吹き消した様子もないのに灯は消えたのである。
だが、それで終わりではなかった。灯は、点いたり消えたり、めまぐるしく点滅を繰り返し始めたのである。そのうちに、ついに灯明皿の灯は数回瞬いたのちに完全に消えてしまった。
灯明の点滅する現象は、次には広間に移って行った。室内には支柱に支えられた灯明皿がいくつも配置されていたが、それらが相次いで消え始めたのだ。すると、消えた灯明皿を再点灯する動きが起きて、皿に灯が点るのである。灯明がついたり消えたりするところは、灯が乱舞しているように見える。けれども、そのうちに二つの力が宙で争っているように見えはじめた。室内の灯を消そうとする力と、それを防ごうとする力が、上になり下になりして争っている、そんなふうに思われてきたのだ。
最初、几帳内の灯明皿に灯を点じた力は、程なく灯を消そうとする力によって追い出される。追い出した方は攻勢に転じて、室内の灯を片っ端から消しにかかる。それで防御に回ることになった力は、消された灯明をひとつひとつ再点灯しはじめる── 女官たちには、そんなふうに見えたのだ。
点滅する灯を呆然と見守っていた女官たちは、室内の灯がすべて消え、あたりが真っ暗になったので我にかえった。争いは灯を消す側の勝利に終わったのである。気がついたら、いつの間にか几帳のなかもひっそりしている。鬼は姿を消していた。
「灯を」
と頭株の女房が声を掛けた。数人の女官が灯明皿に火をつけて回る。あたりが明るくなった。頭株の女房が驚いたように声を上げた
「鴨継殿、どうなされた」息も絶え絶えになった鴨継が、弟子の鶴丸の手で支えられていた。──その夜、当麻ノ鴨継は牛車に乗せられて帰宅する途中、車の中で息を引き取ったのである。
数日後、慌ただしく鴨継の葬儀を済ませて鶴丸が御所に出仕してみると、鴨継は鬼に呪殺されたという噂が飛び交っていた。あの夜、鶴丸が座を離れ、室内を迂回して几帳のなかに忍び込んだことに気づいた女官は一人もいなかったし、鶴丸の不在に気がついた女房もまさか彼が几帳の中にいるとは想いもしなかったのだ。
当麻ノ鴨継の死後、鶴丸は官を辞して伊賀に戻る積もりでいた。自分が鴨継の跡を襲うことになるなどと全く予想していなかったのである。しかし、彼の留任を求める声が後宮全体に強かったうえに、典薬頭らによる口頭試問にも合格したので、彼は禁裏から逃げ出すわけにはいかなくなった。
正式に侍医となり、伊賀ノ鴨也と改名した鶴丸は、祝いの言葉を言上に来た老女の音羽から意外な質問を受けた。「あの夜、鴨継殿が術を使って几帳の中を明るくした理由をご存じですか?」
鶴丸は皇后と交わっているさなかに、灯明皿が点灯したのは鴨継が術を使ったためだと直ぐに気づいた。それで鶴丸も術によってその灯を消したのだ。
「私が勝手に暴走して几帳に入ったことを、罰する為じゃないですか」
「いえ、あなたになり代わるためです」鴨継は鶴丸の体を通して皇后と交わり、音羽は皇后の体を通して鶴丸と交わるためだったというのである。
鴨継はあのように自由のきかない体だったが、普通の人間と同じ体験をして、常人と変わらぬ快楽を得ようとしていた。彼は鶴丸を弟子にしてから、弟子の行動をつぶさに観察し、鶴丸の行動を心の中で模倣し再体験することに努めていた。彼は、弟子の行動を意識の中で遂尋することで、そのときに生まれる相手の感情と感覚を奪取しようとしたのだった。
つまり、こういうことだった。鴨継は女を抱くことが出来ないから、その方面の快感を味わうことが出来ない。そこで鶴丸に女を抱かせ、そのときの彼の姿勢や表情を心に模写することで、鶴丸の快感を自分のものにしようと思ったのだ。塩辛いものをなめたときの顰めっ面を意識内で真似すれば、こちらも塩辛さを体験できるという理屈である。
「相手の仕草や表情を真似すれば、相手のそのときの感情や感覚を味わえる・・・・そんな馬鹿な話は聞いたことがない」と鶴丸は異を唱えた。
「私も最初は、そんなことがあるはずはないと思っていたんですよ。そしたら、あの人は相手と密接な関係が保たれていたら、相手のものが自分のものになると言い張るんですよ。母親は、子供が喜んでいるのを見れば、自分もうれしくなるではないかと」鴨継はそう説明してから、音羽に相手に乗り移る術を教え込んだとというのだ。彼女は明子皇后の乳母として皇后に密着して生きてきた。それで、あの夜皇后が鶴丸に抱かれているところを心に描き出してみたら、皇后と同じ感覚を体験できたというのだ。
音羽には鴨継の気持ちがよく分かるというのだ。あの夜、鴨継が几帳のなかの灯明を点したのは、その場面をハッキリと見て、鶴丸の感覚を自分の中に取り込み、皇后の体を存分に味わうためだったのだ。
「私には、まだ信じられない」
「相手の感覚をわがものにするには、相手と身も心も一つにならないといけません。私はお方さまと何時も一緒でしたから、鴨継殿に教わった術を使ったら、直ぐにお方さまになり代わることが出来ました」そう言ってから音羽は、顔を赤らめて鶴丸の肌の感覚が今も自分の体に残っていると告白した。そして、これも音羽が心から皇后を愛しているからだと説け加えた。
「だが、私と鴨継殿の間にはそんな関係はなかった」
「いえ」と音羽は確信を持って断言した、「鴨継殿はあなたをわが子のように愛しておられた。ご存知なかったのですか。あなたをお方さまに近づけようとしたのも、あなたの気持ちを知ったからですよ」そうだったかもしれないと鶴丸は思った。そんなこととは知らなかったから、彼は葛木聖人との生魂争いで衰弱し切っていた鴨継に、灯を点滅させるという争いを挑み、ついに死に追いやってしまったのだ。
「音羽殿、私はこれからどうしたらよいのだろう。お后にどんな態度をとるべきか分からなくなった」
「もちろん、別れていただかなければなりません。お方さまは帝(みかど)のお后ですから」と音羽きっぱり言った。
「やっぱりな・・・・・」
「でも」といって音羽にやりと笑った、「そうなると、私も困ります。女の楽しみがなくなりますからね。ですから、あなたは、これからもお方さまから離れないでいて下さらないと困ります」それから、音羽は真面目な顔になった。
「お方さまはこれまでの心労を癒すために、有馬の湯に出かけられることになると思います。今年の冬は寒いので、そこできっと風邪をひかれるでしょう。私も風邪を引いて、お方さまの側に臥せることになります。侍医のあなたは、お方さまの治療のため、有馬に来て頂かなくてはなりません。泊まり込みで。よろしいですか」「はい、謹んで」
と言って、鶴丸はうやうやしく低頭した。(おわり)