耕治人(こう・はると)の「命終三部作」

耕治人(こう・はると)という作家がいることは昔から知っていたが、その作品を読んだことはなかった。だから、もちろん、その人となりのようなものも全く知らないでいた。多くの人にとっても、「命終三部作」と呼ばれる三作品が発表されるまでは、彼は無名に近い存在だったのではなかろうか。彼は戦前戦後の文壇にあってこれ以上ないと思われるほど地味な私小説作家だったのだ。

その耕治人が、昭和60年代に入ってから、「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」という三作品によって注目され、多くの批評家から激賞されることになる。

しかし、この「命終三部作」と呼ばれる作品は、いずれも発行部数が多いとは言えない文芸雑誌に掲載されたから、私は新聞の文芸時評に紹介されている簡単な記事によって、その内容を推察するしか方法はなかった。それによると、この三つはいずれも老人痴呆症になった妻を看護する老作家を主人公にした作品だということだった。

「天井から降る哀しい音」は、すっかり頭の呆けた妻が台所で調理の鍋をガス台にかけたまま放置して置くので、天井に取り付けた火災警報器が哀しい音をたてて鳴り続けるという話らしかった。「どんなご縁で」は、その妻がしばしば失禁するようになり、耕治人がその始末をしてやると、最早、夫を夫として認識できなくなった妻が、「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と礼を言う話を扱った作品であり、「そうかもしれない」は、やがて耕治人自身がガンで入院するようになったとき、看護人に連れられて見舞いにやって来た妻が、「あの方がご主人ですよ」と注意されて、「そうかもしれない」とつぶやく話を作品にしたものだという。

この三作品で有名になった耕治人は、妻に先んじて昭和63年のはじめに亡くなっている。彼が亡くなってから十ヶ月後の昭和63年10月に、NHKテレビが晩年の耕治人夫妻を描いた、「ある老作家夫婦の愛と死」という番組を放映した。私はこれを見たあとで、改めて耕治人の作品を読みたいと思ったが、彼の本を手に入れる方法がなかった。当時、どこの書店にも彼の作品集は売られていなかったからだ。

インターネットを利用して古本を購入するようになってから、これを利用して彼の作品を手に入れようと思い立った。それで、パソコンで古書目録を調べてみると、ちゃんと耕治人全集(晶文社)が売りに出ていた。

早速発注した。届いた全集は、造本も装丁も実に立派で、これが7巻合わせて1万5000円とは信じられないほどだった(原価は一冊4,800円)。おまけに、上質の用紙に大きな活字で印刷されていて視力の落ちた私にも読みやすかった。早速、第四巻に掲載された「命終三部作」を読んでみる。

その内容を紹介する前に、まず、耕治人夫妻が結婚するまでの経緯を見ておきたい。

耕治人は肉親のすべて(両親、二人の兄、妹)を結核で失ったあと、「主婦の友」社に勤務しながら独身生活を送っていた。この雑誌社の勤務は過酷を極めていたので、彼も間もなく結核の初期症状(肋膜炎)を示すようになり、長期間欠勤することになる。この時、上司の命を受けて見舞いに来たのが、同じ雑誌社に勤める腰山ヨシだった。昭和7年、耕治人が26歳のときのことだった。

耕治人は腰山ヨシとの関係をつづった「結婚」という作品に、後に妻になるヨシについてこう書いている。

<広子(ヨシのこと)は自分の好きな型ではない。年も自分とひとつより違わない。>

耕治人は彼女の見舞いを受ける前、編集室でヨシを、「なんというわざとらしい女だろう」と嘲笑をうかべて眺めていた。彼女は昭和7年という不況時代には、女性としては珍しいほど高額の月給130円取っている。それもヨシが仕事の出来る女だったからだった。ヨシには親兄弟の面倒を見ているという噂や、深い関係の男がいるというゴシップがあったが、それもこれも、すべて彼女が仕事をてきぱきこなす有能な社員だったからだった。

再び雑誌社に出勤するようになった耕治人は、憑かれたようにヨシを追い求め始める。だが、彼女は一生独身で過ごす覚悟を決めていて、誰とも結婚する気はなかった。その頃、彼女は雑誌社を辞めて大学に入学する計画を進めていたのである。

<自分は広子を好きでないと考えながら、広子を求めるのに狂気のようになっていた。>

彼はヨシを無理に鎌倉の安っぽいホテルに誘い出し、彼女が入浴しているところを盗み見たりした。

<肉の落ちた、魅力のない、色の褪せた広子の背中を瞬間見た。>

次に、彼は広子を沼津に近い漁夫の家に誘った。この家は学生時代から彼がよく泊まりに来たなじみの場所で、彼はここで数日間ヨシと過ごして、行くところまで行ってしまう計画だった。だが、肝心のところで、耕治人の男性が機能せずに計画は失敗に終わる。

そして最後に下宿に呼び寄せて、ようやく二人は男女の関係になるのだが、かまびすしかった社内の噂に反して広子は処女だった。

耕治人は、結婚してから広子が噂とは全く異なる女であることを知るようになる。彼女は外見とは全く逆な女だった。「結婚」という作品は、「自分はヨシは好きではなかった。しかし、嫌悪こそ真の恋の姿ではあるまいか」という何とも奇妙な言葉で終わっている。

耕治人は、自らの結婚生活について次のように書いている。

──

<ひろ子と結婚したときは、シャレた家にいた。新婚気分を楽しんだ。まったく新婚気分は素晴らしかった。

それは自分が得た妻の精神、肉体から生ずるものだ。フクイクたる香り。酔っばらって理性をなくした。そんな生活が二年ばかり続いたようだ。歓楽の空しさを知ったというと気がきいているが、無駄使いで生活が行きづまった、と言った方が当たっている。

三浦半島までハイヤーを飛ばしたこともあった。富士山麓のヤマナカ湖に行ったときは、運転手と車を四、五日借り切った。バカなことをしたもんだ。いまなら、そんなことはなんでもない。大阪、神戸までだっ車を飛ばす。日常茶飯事だ。

しかし、昭和十年ごろは事情が違う。えらい贅沢だった。賢い人間なら、そんな生活は一日でたくさんだろう。最初からやらないかもしれない。それを二年も続け、金がなくなって気づくのだから救われない。(「一条の光」)>

──

こういう贅沢な生活を可能にしたのは、夫婦揃って「主婦の友」社を退職し、手元に二人分の退職金があったからだし、また、耕治人は故郷の熊本に亡父が残してくれた田畑・山林を持っていて、これを少しずつ売り払っていたからだった。それらを彼は二年で使い果たしてしまうのである。

しかし耕治人は、この間、うつけたように金を浪費していただけではなかった。彼が熊本を出て東京にやってきたのは、画家になるためだった。それで「主婦の友」社に就職する前に美術学校を受験したり、中川一政画伯のもとで玄関番兼弟子になって修行したりしていたのだ。結婚後も彼は絵の勉強をつづけ、「新婚気分を楽しむ」かたわらで、画家として立つために懸命に努力していたのである。彼は雑誌社を辞めてから、作品を三回公募展に出品している。

にもかかわらず、彼の試みはことごとく失敗に終わる。美術学校を受験したら不合格になるし、公募展にも落選が続き、耕治人は遂に画家になることをあきらめ、文学への転身をはかるのだ。彼の無謀ともいえる浪費癖は、自分の才能への不安、居食いの生活への不安を忘れるためだったのである。

手持ちの金を使い果たした耕治人は、「シャレた家」の家賃が払えなくなり、安アパートに移ることになる。妻は生活費を稼ぐために、大学進学の夢を捨てて就職し、会社勤めをはじめた。耕治人は妻の稼ぎに依存しながら、今度は作家修行に骨身を削ることになったが、時代は太平洋戦争の前夜で作家志望の新人に発表の場を与えてくれるような雑誌社は、何処にもなくなっていた。

それでも彼は妻を勤めに送り出したあと、机にしがみついて原稿を書き続けた。こういう耕治人を中島和夫は、「聖なる愚かさ」と評している。耕治人をよく知る中島は、「耕治人には、おどおどして卑屈と取られかねない遠慮深さがあったが、他面、うとましいほどの押しの強さがあり、しつっこく自らを言い張った」ともいっている。この「うとましいほどの押しの強さ」でもって、耕治人は発表の当てのない私小説や詩をうむことなく書き続けたのである。

耕治人が無名時代から死に至るまで、飽きもせずに私小説を書き続けたのは何故だろうか。私は中野重治、藤枝静男、車谷長吉などの私小説を好んで読んできたが、彼らの作品は、私小説とは言いながら、いずれも立体的に構築され、濃密に着彩されている。けれども、耕治人の私小説は生活記録のような平面的な図柄で描かれ、水彩画のような淡泊な筆致でつづられているのだ。こんな写生文のような単調で平板な作品を、あえて生涯コツコツ書き続けた理由は何だろうか。

その秘密を解く鍵が、「一条の光」という作品のなかにある。

この短い作品の冒頭で、耕治人は人生の妙味について次のように語っている。

                 ──

<私の友人に釣り好きがいたが、獲物はいつも少なかった。ゼロのときが多かった。好きなら、それでよいわけだ。

ところが、ある日、会得した。なにを会得したか、ひとロには言えない。釣りの妙味とも言うべきだろう。それから釣りを楽しむようになった。態度でわかった。獲物にこだわらなくなった。釣れても釣れなくてもよいのだ。

ところが不思議なもので、そうなると、よく釣れた。しかし深入りはしない。いいところでやめ、腰を下ろし、あたりを眺めるのであった。悠々たるものだ。>

                ── 

彼は、この話を持ち出して、人の一生には「人生の妙味」を会得する瞬間があると証言してから、自らの体験を語りはじめるのである。

その日、耕治人はいつものように妻を勤めに送り出してから、机に向かってせっせと原稿を書き始めた。自らの体験やら空想やらを思いつくまま手当たり次第に書いているうちに、時間の観念を失い、一種の無我の境地に入った。これまでにも、こうした瞬間が何度かあった。

ペンを置いて、ふと四畳半の部屋の真ん中あたりを振り返ったら、小指の先ほどの鼠色のゴミが眼に入った。そのゴミが一条の光を放っていた。その光は、彼の過去と現在を、父母と兄妹を、彼の生涯を照らしていた。それは、静かな慈悲の光で彼の全生涯を照らし出しているのだった。

その瞬間の感動を彼はこう書いている。

<私はワナワナ震えた。身動きできなかった。コレダ!と思ったのだ。それまでも自分のことを書いたが、自信はなかった。そのとき必然性が生まれたのであった。>

若い頃に牧師になろうとしたこともある耕治人は、この時、憎嫉の念に突き動かされて生きて来た無惨な自分の人生を思い、その生涯を聖なる光が照らしていることをありありと感じたのである。

彼はこれまで事実そのままの小説を書こうとしてきた。それは実は、汚れた過去を浄化するためであり、生きることの中に潜む微妙な機微と神秘を表現するためだったのだ。彼が私小説に執着してきたのは、偶然ではなかったのである。

彼は自らの過去を包み隠すことなく書き留めているうちに、これまで自分とは無関係だと見過ごしてきたいろいろな人々から救われて来たことに気づいたのだ。彼らが恩人だったというのではない。一歩踏み出していたら、疾走してくるクルマにひき殺されるところを、脇にいる人間に気を取られて立ち止まっていたために助かったというような意味で、周囲にいた人々に助けられて来たのである。

成人してからの耕治人が、何か特定の宗教を信じていたようには見えない。だが、宗教的なものを全く感じさせない耕治人の作品は、それ故にかえって読む者をして宗教的な深いものを感じさせる。読者は、神と共に人間の生の営みを高みから俯瞰しているような気になるのだ。

「命終三部作」の人気が高いのは、こういう感じを読者に強く感じさせるからではないだろうか。

耕治人が社会的失格者といっていいほど生きることに拙だった点については、多くの証言がある。例えば、彼は知人の口車に乗って革命後のソ連に渡る計画を立てたことがあった。彼はロシア語が全く出来ないのに、ロシアに渡ったら、何かの仕事を探して、そこに永住に近い形で暮らそうと思ったのだ。

だが、彼は一度思い立つと周囲の忠告には耳を貸さず、パスポートの取得に走り回り、同行する仲間探しに奔走する。こういう常軌を逸した耕治人は、妻の支えがなければ到底生きて行けなかった。耕治人の友人のなかには、妻に全面的に依存して生きる耕治人を「女のヒモだ」と皮肉る者も現れた。

太平洋戦争が始まると、彼は徴用されて中島飛行機製作所の工員として働き始める。そしてこの期間に治安維持法違反のかどで逮捕され、70日間拘留されるのである。これは全くの冤罪だったが、耕治人の妻は夫の拘留期間中、差し入れその他で警察署に通いつづけている。

耕治人は、戦後になってようやく作家として認められるようになる。そうなってからも、彼のかたくなな性向は変わらず、「俗物」川端康成と借地問題で争ったときには、睡眠薬自殺をはかったほど、心身ともに疲労の極に達した。この時も、妻は、狂気を疑われて脳外科病院に入院した夫を、退院するまで献身的に看護している。

こうして妻に全面的に依存して生きていた耕治人が、80歳になったとき、妻の痴呆症発症という事態を迎えるのだ。

最初の症状は、買い物に出かけた妻が購入した品物をやたらに店に置き忘れてくることだったが、やがて門扉の鍵や財布をなくすようになった。そして台所で炊事をすれば、ガス台に掛けた鍋を次々に黒こげにして使えないようにしてしまう。耕治人は妻を台所に立たせず、自分でスーパーに出かけて調理済みのオカズを買ってくるようになった。

妻は「主婦の友」社に勤めていた頃、料理記事を担当していて、自分でも料理をするのが好きだった。それで時々、自分から料理をしたいと言い出して、またもや鍋を焦がしてしまうのだ。堪りかねて耕治人が、「何度焦がせばいいんだ」と怒鳴ると、妻はもの柔らかな口調で、「ごめんなさい」と詫びる。しかし、その目は、今まで見たことがないような感じで据わっていて、顔色も普段とは違う。耕治人は、事態が深刻になっていることを感じないではいられなかった。彼は、次のように書いている(「天井から降る哀しい音」)。

<結婚以来家内の温かい庇護のもとに、のうのうと暮らしてきた私は裸で放り出されたのを感じた。>

耕治人は、今度は自分が妻を介護するする番だと思い、17年前の自分を改めて思い出した。

<実は私は十七年ばかり前のことだが、頭がおかしくなり、昼間から雨戸を閉め、蝋燭をつけ、何日も過ごしたことがある。真夜中寝巻きのまま表に飛び出したことは一度や二度でない。
 家内はそんな私に少しも動ぜず、介護してくれた。
神経科の病院へ入院したとき、一日置きにきてくれた。>

耕治人は原稿を書くかたわら、積極的に妻の世話をするようになった。それを見かねたのか、ある日甥がやってきて妻をドライブに連れ出してくれた。妻のいない間に原稿を書うと机の前に座ったけれども、彼の気持ちは落ち着かなかった。書くべきことがすっかり頭に入っているのに、ペンを動かす気になれないのだ。

<首を振ったり、手をもんでみたりしたが、(文字が)浮かんでこない。それだけではない、私という人間の中味も消えてしまったように頼りないのだ。むくろという言葉がふいに浮かんだ。

六時間か七時間したら、(妻は)帰ってくるはずだ。どうしてこんな気持ちになるのか。いままでこんな気持ちを経験したことがない。>

妻のことで頭も心もいっぱいにしていたから、妻の不在が耕治人の内面を空っぽにしてしまったのだ。彼は執筆活動を続けるためには、妻を老人ホームに入れるよりほかにないと思っていたけれども、妻がそこに移ったら自分の中味もそっちに移ってしまうかもしれないと思った。

「天井から降る哀しい音」のなかの次の場面は、老年の夫婦の悲しみのようなものをよくあらわしている。耕治人がオカズを買いに出かけて帰ってきたら、妻が座卓の前で深くうつむいていた。

               ・・・・・・・

<「どうしたんだ」
 顔をのぞくと、眼に涙をためている。
「さっきまであんなに機嫌がよかったのに。朝から人が入って、疲れが出てきたんだ。横になって少し休みなさい」

 それには答えず、「あたしなにも出来ないのよ」といって泣き出した。
「急にそんなことを言い出して。どうしたんだ」
「手もこんなになってしまって」
 骨張り、しわのよった手を差し出したから、私は両手でもんだり、さすったりしながら「ぼくのせいだよ。ぼくのせいでこんな手になったんだ」


「そんなこと言ってるのじゃないわ。なんていうのか、ああ言葉が出てこない」
 自分の額を手でパンパン叩いた。

「死にたい」
 私は胸を衝かれ、家内の肩をもんだり、背中をさすったりしながら、私が留置場に入れられているあいだ一日置きに、差入れに通ってくれたこと、頭がおかしくなり入院したとき、一日置きに病院に来てくれたことなどを喋り続けた。>

                ・・・・・・

妻の痴呆はさらに進行し、深夜に起き出て台所で飯を炊き、耕治人を揺り起こして、「朝ご飯が出来たのよ。起きて頂戴」と言うようになる。こうしたことが続いて、やがて、天井から哀しい音が降ってくるようになるのである。

5 

「命終三部作」は、耕治人が亡くなる前に発表した三つの作品を指している。
その最初の作品が、「天井から降る哀しい音」であり、次に発表したのが「どんなご縁で」だった。「どんなご縁で」は、「天井から降る」を発表してから一年三ヶ月後に雑誌「新潮」に発表されている。この一年余の間に、妻の症状はさらに進んで、洗濯も出来なくなり、自分から入浴しなくなった。

耕治人は妻の代わりに洗濯をすることになったが、そうなって初めて彼は妻の下着(襦袢)が10枚ほどしかないことに気づく。それなのに妻が用意した彼の下着(Tシャツなど)は、上下合わせて何十組もあるのだった。妻はすべてについて自分のことを二の次にして、彼のことを優先して考えてくれていたのだ。

やがて耕治人の家にヘルパーが派遣されてくることになり、妻は区の配慮で入浴サービスを受けられるようになった。入浴に先立ってヘルパーはバサバサになっていた妻の髪を短く刈り、手の爪を切ってくれた。すると、髪型の変わった妻を見て、耕治人は動揺するのである。

彼は、「髪を切ったためか(妻が)幼い子のように見えた。その夜はどういうわけか私は淋しい気がして眠れなかった」と記している。

入浴サービスの日には、耕治人は迎えに来た区のクルマに自分も乗り込んで施設までついて行った。彼は裸にされた妻が浴槽で洗われるのを見ていた。

<家の湯殿でジャブジャブやっていた頃の家内もやせ細っていたが、いま目の前の家内は、その時より一層やせ細り、骸骨のようだ。それでいて、その体から後光がさすように感じられたのは、五十年も私のため、自分を棄て、尽くしてくれたためであろう。>

妻は夜中に失禁するようになった。

耕治人は妻の体を清め、寝室の床を拭き、洗濯しておいた襦袢、寝間着を着せながら、(あのきれい好きだった妻が)とみじめな気持ちになる。だが、その半面で、彼は「幸せな気持ちが湧いてきて、その気持ちはだんだん強くなっていった」のだった。

妻は、失禁したあと、低い、落ち着いた口調で、「あなたにこんなことをさせて、すみません」と言う。しかし、ある夜、耕治人が目覚めて枕元の電灯をつけると、妻は眼にいっぱい涙を溜めて静かに泣いていた。

状況がさらに進むと、妻は夫を夫として認識できなくなり、失禁後の後始末をしてくれる夫に、「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と言うようになる。耕治人は、遂に意を決して妻を老人ホームに入れることになる。

その頃から、耕治人は口の中に痛みを感じるようになった。物を食べたりすると口腔内の全面に刺すような痛みが走るのである。大学病院の医者に診て貰うと、手術の必要があるという。そこで彼は、大学病院に入院することになった。妻が老人ホームに入所してから三ヶ月後のことだった。

耕治人は病院に入院する前に、老人ホームにいる妻に会いに行っている。
ホームで彼女は、寮母の命じるままに従順な子どものようにおとなしくしていた。これが精神病院に入院した彼を、凛々しくも健気に介護してくれた妻なのだろうか。妻は彼が自分の病気のことを説明しても、彼の言うことを理解しているのかどうか、口元に笑みをたたえて聞いているだけだった。

「どんなご縁で」という哀切な作品は、耕治人の次のような述懐で終わっている。

<もう家内の手や足を拭くことは出来ない。家内を呆けさせたことに対する罪悪感は、私がH医大病院で、苦痛の日々を送ることで、いくらか薄らいでゆく気がする。>

「命終三部作」の最後の作品「そうかもしれない」は、前作から三ヶ月後に雑誌「群像」に発表されている。この作品によれば、彼は自力で食事が出来なくなってゴム管を鼻から食道に通して栄養物を注入されるようになり、それも出来なくなって血管に直接栄養を入れることになった。耕治人は、近くのポータブルトイレからベットに戻るときにも、直ぐベットに上がることが出来なくなる。うつぶせになったまま暫く休んでいなければならないようになったのだ。

そんな彼を老人ホームにいる妻が見舞いに来ると知らされ、耕治人は枯れかけた植物が水を得たように元気になる。妻が見舞いに来るのは、もちろん彼女の発意からではなかった。ホームの関係者が、好意から計画してくれたのである。それを知りながら、彼は少しでも妻に元気なところを見せたいとおもった。

耕治人の妻は、寮母らしい50年配の女性に付き添われて、車椅子に乗って彼の病室にやってきた。妻はよそ行きの着物を着て、血色もよかった。

耕治人は久しぶりに車椅子の妻の手を握った。彼女の冷たい手を握っていると、涙が溢れて止まらなかった。

妻はニコニコして何か喋っている。だが、彼女が何を言っているのか、耕治人には分からなかった。

付き添いの女性は、妻に向かって、「この人は誰ですか?」とか、「この方がご主人ですよ」とつげるが、妻は返事をしない。何度めかに、「ご主人ですよ」と言われたときに、妻は初めて低いがハッキリした声で、「そうかもしれない」と言った。
耕治人は、打たれたようにハッとして黙り込んだ。

妻がホームに戻って、何日かしたあと、耕治人はそれまでの一人部屋から元の多人数の部屋に戻された。彼が個室にいたのは病状が危険だからだった。多人数の部屋では、患者たちはカーテンで仕切られた内部で寝ている。ある日、カーテンの中でうつらしていた耕治人は、入ってきた看護婦が彼を見下ろして、こうつぶやくのを聞いた。

「よくなりたい熱意で、この部屋に戻れたんだわ」

それを聞いて彼は、自分がまたもや妻に救われたなと思った。彼が危篤状態から脱出できたのは、妻に元気なところを見せたいと頑張ったからなのだ。看護婦が出て行ったあとで、耕治人は点滴の身であることを忘れ、いつの間にかベットに正座していた。その彼の体は、自然に妻のいる老人ホームの方に向いていた。──「そうかもしれない」という作品はここで終わっている。そして、これが耕治人の絶筆になるのである。

「命終三部作」を読み終えて、私が思い出したのは、「ある老作家夫婦の愛と死」というNHKドキュメンタリーの一場面だった。車椅子に座った耕治人の妻が、亡くなった夫について問われ、笑いながらこう答えていた。

彼女は呆け症状が出てきてから、入れ歯をはめることを嫌って、自分の入れ歯を棄てたり隠したと耕治人は書いている。この時も彼女は上下の入れ歯をはずして、提灯の下半分を縮めたような顔をしていた。その顔に笑いを一杯浮かべて、彼女は耕治人のことを、「あのひとは、とても面白い人で・・・・」と言って、そこでくつくつ笑ったのであった。

彼女はもう、夫を支えて過ごした何十年のことも、その夫が死んでしまったことも、すっかり忘れているのだった。面白い人だったというときの口調には、「滑稽な人だった」という意味合いが含まれていて、耕治人のことを昔自分を笑わせてくれたおかしな隣人のように考えているらしかった。

耕治人の妻は自分に苦労をかけ通しだった夫を、いたずらなわが子を面白がって眺めている母親のように、余裕を持って見ていたのである。