アウグスティヌスの場合
アウグスティヌスの「告白」を読んで感じることは、回心前のアウグスティヌスの心情が昭和初頭期における日本のインテリのそれと共通していることである。
昭和初期の知識階級は、資本主義の破綻が間近いことを予感し、階級斗争の戦列に加わるべきかどうか迷っていた。プロレタリアの陣営に参加するには、中産階級の快適な生活を全面的に放棄しなければならない。彼らは、プチブルの生活に愛着を持っていたからこそ、かえってそれを自発的に投げ棄て「第一義の道」につくべきだと考えたのだ。
アウグステイヌスが生きた時代は、民族大移動の荒波に洗われた西ローマ帝国が、崩壊の危機に瀕している時期であった。この時代にアウグスティヌスは、北アフリカのタガステという地方都市在住の地主の子として生れ、中産階級の子弟に許された社会的上昇の階段をのぼって、ミラノの国立学校修辞学教授の地位についたのである。これは、わが国の地主の子供が、京都大学教授のポストを獲得したのと同様だったろうと思われる。
アウグスティヌスのような経歴を辿った青年達が、良心の間題として直面したのは、このまま栄達の道を進むべきか、それとも一切を放棄して聖職者の生活を選ぶべきかという問題であった。才能にめぐまれたローマ社会の青年達が、神と民衆への愛の故に貧しい聖職者に転身することは、注目すべき社会的風潮となっていたのだ。
アウグスティヌスの良心は俗世を棄てることを選んだが、彼の感情はこのことを肯んじなかった。この内面的葛藤の為に彼は苦しみ抜くのである。そして、最後にアプクステイヌスを決断させたのが、有名な彼の回心体験であった。
「告白」に基いて、この時の状況を再現してみよう。
当時、アウグスティヌスは三十二才で、ミラノ市内に友人と共同で一軒の家を借りていた。八月のある日、二人の共通の友人であるポンティキァヌスという同郷の男が訪ねて来た。クリスチャンだったその男は、アウグスティヌスの机の上に、パウロの著書があるのを見て大いに喜び、青年達が相継いで世俗を棄てて出家して行く社会現象について語り始めた。
この時に、彼は皇帝側近のある廷臣が、その友人と共に宮廷を棄てて修道士になるというホットニュースの詳細を告げた。やがて、ボンティキアヌスは用件を済ませて帰って行った。
同居している友人と二人だけになったアウグスティヌスは、昂奮のためか異様な顔つきになっていた。彼は、すさまじい形相で友人につかみかかりながら叫んだ。
「見ろ。学問をろくに積んでいない男達が、次々に決断して行くじゃないか。僕達には、学問はあるが心というものがないのだ。だから、奴らに先を越されてしまうのだ」
それからアウグスティヌスは、錯乱したように中庭へとび出して行った。友人も心配して、その後を追い、苦悶するアウグスティヌスのそばに行って、彼を見守り続けた。しかし、アウクステイヌスは再び友人から離れて行った。一人で声をあげて泣くためだった。
イチジクの木の下に身を投げた彼は、そこで心ゆくまで泣いた。そうこうしているうちに、彼の耳に隣家の子供が「取れ、読め」「取れ、読め」と繰返している声が聞えて来た。プウグステイヌスには、それが啓示のように聞えた。
彼は、友人のいる場所にパウロが置いてあったことを思い出し、取って返してページを開いた。目に触れる一節を読んでみると、「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと妬みをすてよ。主イエス・キリストを着よ。肉欲をみたすことに心をむけるな」とあった。
「告白」は、これに続く回心の場面を次のようにさり気なく記している。
「私はそれ以上読もうとは思わず、その必要もありませんでした。というのは、この節を読み終った瞬間、いわば安心の光とでもいったものが、心の中にそそぎこまれて来て、すべての疑いの闇は消え失せてしまりたからです」(中央公論社版「世界の名著」)
アウグスティヌス 彼の心の中にそそぎ込まれた白い光は、その寸前まで彼の心を引き裂いていた苦悶を、まるで魔法のように吹き消した。アウグスティヌスの動揺はおさまり、彼の全身をおだやかな平安が領した。劇的としか云いようのない変化であった。
アウグスティヌスの場合、救いは瞬間的に出現して即時に一切を成就してしまっている。彼の目が活字を辿って行くのに応じて「安心の光」が内面にそそぎ込まれ、読み終りた刹那心の闇は消失してしまったのだ。時間にして僅か一分聞程度の出来事であった。
これは白昼、しかもかたわらに友人がいるという状況下に起きたことだったからかもしれない。しかし、やはり原因はこの時点までに彼の内面的な準備が完了していたからだ。パウロの一節を読むという行為は「最後の一突き」に相当していたのである。ここに至るまでの彼の内面の歩みは、後退を許さない程、綿密で徹底しており、彼にはもう前へ進むしか道がなくなっていたのである。
アウグスティヌスのキリスト教入信をさまたげていた内部要因は、二つあったようである。第一は、彼の生得とでも云うべき合理主義的傾向であり、第二は、彼の反俗主義であった。
内省に長じていたアウグスティヌスは、障害がこの二点にあることを十分に自覚していた。彼は自らの手で合理主義の限界を徹底的に洗い出した。彼は又、反俗主義が彼にもたらしたものをも苛惜なくあばいた。にも拘わらず、彼は一歩も前へ踏み出すことが出来なかったのだ。
第一の要因であるアウグスティヌスの合理主義について一瞥してみよう。
アウグステソヌスは小学生時代を回顧して、目分はだまされることの嫌いな子供だったと言っている。自身で心底から納得しない限り、何物も受け入れまいとするのは彼の幼児期からの性癖であって、だから彼は母のモニカがいかに彼にキリスト教への入信を勧めても承知しなかったのである。
彼がマニ教を信じたのも、マニ教の持つ合理的な側面にひかれたからであった。彼は詩を作り、悲劇を愛好したが、彼の心には文学によっては決して充たされない醒めた真理への欲求がひそんでいた。彼は、7十3=10という数式と同じ確実性を持った認識でなければ真理とは認めないという姿勢を堅持していた。
マニ教は光と闇の二元的対立を説く宗教であり、人問の心にも善悪二つの力が争い合うていると主張する。アウグスティヌスの判断の基底にあるのは、そこに一つの現象があり運動があるとしたら、それを引き起した物体ないし物体的な力が必ずある筈だという唯物論的エネルギー論的な確信であった。
人間社会に正義をめぐる争いがあり、人の心に善と悪の対立があるなら、その背後に光と闇という相対抗するエネルギーが実在する筈である。彼はこの単純明快な論理を根拠として、マニ教の主張に賛同したのである。
マニ教から離れてキリスト教に傾斜しはじめてからも、彼の神解釈には合理的な傾向がしみついている。アウグスティヌスは最初、神とは光り輝く無限の物体で、目分もその物体の一片だと思っていた。ある時は、神とはこの世界を蔽い包んでいる空間の空間、いわば超空間のような存在だと考えた。
人間を含むすべての被造物は神の中にあるのだから、世界はこの超空間によって隅々まで浸透された海綿のようなものといえるだろう。こんな風に考えなければ、彼はキリスト教の説く神なるものを理解できなかった。だが、唯物論的な見方を徹底させ、合理的認識の根拠を追いつめて行けば、いずれは自己の立場を崩壊させるような現実にぶっからざるを得ない。
アウグスティヌスは、実人生が確実な認識の上にではなく、「信」の上に成り立っていることを認めなければならなくなった。地理・歴史上の知識、他人の見聞をはじめとして自分の親が誰なのかというようなことにいたるまで、ことごとくが伝聞に基く不確実な知識によって成り立っている。しかし、私達はそれを事実だと信じている。信じなければ、私達は一歩も前へ踏み出すことができないのである。
人間は真理の体系という海の中に住んでいるのではなく、信の体系という海の中に生きているのだ。
彼は非空間的非エネルギー的なものが実在することも承認せざるを得なかった。私達の意識にある心象は、物理的空間的なものではない。だが、これは物体に関するイメージである点で空間の規定を受け、その意味で空間的な存在であるともいえる。
しかし、それらの心象を操作する精神は、最早完全に非空間的な存在なのである。物的存在界に籍を持たない実在もちゃんとあるのだ。
こうしてアウグスティヌスは、魂のみが触知し信愛するもう一つの世界に近ずいて行った。肝腎なことは、すべて目に見えないことなのである。肉眼の目のほかに、魂の目のようなものがある。肉眼の論理で考えていけば、神はマ二教の説くようなものにならざるを得ない。だが、真の神は、肉眼の目ではなく、魂の目で捕えるものなのだ。魂の目が、魂の目を超えたところ、すなわち精神を超えたところに見る不変の光が神なのである。
回心前の彼は、すでにそこまで来ていた。彼は、もうそれ以上神に関する認識を得ようとは思わなかった。神についての知識はこれだけで十分だった。アウグスティヌスにとって、あとはこの神の中にしっかり留まることだけ、つまり現世を棄てることだけが残されていたのだった。
キリスト教への入信をさまたげていた第二の要因について、私達はこれまであまりにも型通りの見方をして来たのではあるまいか。アウグスティヌスは反世間的な人問であり、本質的に内面生活者なのである。
アウグスティヌス研究者は、キリスト教に入信する以前の彼の腐敗と堕落を強調することによって、その回生の意義をより鮮明に印象づけることができると考えている。だから、回心前のアウグスティヌスが十六才で女と同棲したことや、世間的地位を求めて奔走したことを誇大に書き立てるのである。
しかし、アフリカ北岸で暮す若者達がこの年令で女を持つことなど、当たり前のことだった。彼が地位を求めて奔走したのも、世間に執着していたからではなく、その地位を得たあとで世間と手を切ってしまうためだった。
事柄は単純明瞭なのである。精神の充足を何よりも尊重する彼の性行が、信仰生活に入ることをためらわせていた。信仰生活は精神のよろこびを放棄したあとに成立すると彼は考えていたのである。
ここで、キリスト教に入信するまでの彼の行動を、順を追って点検してみよう。アウグスティヌスは、カルタゴでの学生生活をおえてから、故郷のタガステに戻って塾を開いた。彼はここで二年を過しただけで、カルタゴに転居する。
その理由は、キリスト教徒だった母との不和という事情もあったらしいが、カルタゴの方がよい友人と弟子にめぐまれると思ったからだった。
二十九才になると彼はローマに移る。彼がローマ行きを決意した「ほとんど唯一のといってもよい理由」も、ローマの学生達の方が質がいいだろうという予想にあった。彼の動機は常に精神の充足にあって、世俗的な配慮や打算は二の次になっている。
三十二才までの彼は、友人との生活を愛していた。性愛の生活ではなく、友情に心をひかれていたのだ、このことは、裏返せば彼の「世間嫌い」を示しているかもしれない。カルタゴで塾を開いていた頃、彼は親友の病死という不幸に際会するが、この時に彼の見せた悲嘆の深さには驚かされる。
彼は、「自分の魂と友人の魂は、二つの身体の中の一つの魂だ」と思っていた。生前その友人と共有していたものが、友人なきあと、おそろしい責め具に変わって彼を苦しめるのである。
彼は友人が死んでしまったのに自分がなおも生き残っていることが不思議でならなかった。彼は昼も夜も続く激しい苦しみに打ちのめされ、泣いている時にだけ甘美なものを感じた。ついに彼は泣くことだけを生活とし、その中にだけ安らぎを感じるようになった。こういうナイーブな人間が、どうして名利の世界を愛し得るだろうか。
にも拘わらず、三十代に入ってから、彼は「堕落」しはじめるのである。「安全確実なよろこび」を求めて持参金つきの妻をもらい、県知事になるとことを夢見るようになる。
彼は「人々の気に入る」ような人聞になろうと努めた。世俗を軽侮していたアウグスティヌスが、その世間から愛され受容されようと足掻き始めたのだ。狙いは世俗と没交渉に暮らして行ける社会的条件を確保するためだったけれども。
それはバクチと縁を切る資金を得ようとして、バクチ場に出入りするようなことだった。
回心の前年、アウグスティヌスは皇帝に頌詞を捧げている。その準備を進めている間、彼の心は不安で一杯になり、身も細る思いであった。ある日、彼はミラノの街角で、一人の乞食が道行く人の幸福を祈って一杯の酒にありつき上機嫌にはしゃいでいるのを見た。
彼はこの時、わが身のみじめさを痛切に感じた。彼が辛苦に充ちた紆余曲折をへても、なお到達できないでいる「安全確実なよろこび」を、この乞食は通行人に叩頭するだけで易々と手に入れているのである。乞食は見知らぬ他人の幸福を祈って酒と歓喜を得ているのに、彼は皇帝・高官に心にもない讃辞を並べる代償として不安と恐怖の念に取り憑かれているのだ。
彼は名誉と富貴と結婚を焦慮して求めたが、これらの欲求は彼にただ苦悩をもたらしただけだった。アウクスティヌスは何もかも承知していたのである。喫煙者が喫煙の害を知りながら禁煙できないように、彼は世間の空しさを知りながら、どうしても世間を棄てることができなかった。
彼はその頃の自身について、「私は堕落を恐れて、いかなる同意もさしひかえるように心を保っていましたが、かえってそのために宙にぶらさがって殺され」っつあったと書き、又、「習慣の流れにおし流されて死にいたるにも拘らず、そこから救われることを死そのもののように恐れ」ていたと書いている。
彼は自身の錯誤を鏡にかけるようにはっきりと悟りながら、その錯誤から抜け出ることができなかった。アウグスティヌスは古い生活と訣別しようとしていたが、裏面にある感情はこれに同意しなかったのである。
私達はただ決意しただけでは動けない。その決意を支えるもう一つの自分が賛同しなければ、新しい行動に出ることは不可能なのだ。回心直前のアウグステノヌスは、新旧二つの感情の対立によつて動きが取れなくなり、彼の内部に心的エネルギーの異常な昂進が生れていた。
中江藤樹の場合と同じように、「鬼窟」に封じ込まれた心的エネルギーは、突発口を求めてその力を層一層加増して行ったのである。
入信をはばんでいた以上二つの要因を一挙に突き崩したのが、アウグスティヌスにおける回心であった。隣家の子供の声に従って読んだハウロの言葉は、彼にとって確かに最後の一突きであった。この一突きによって壁が崩れると、堰きとめられていたエネルギーが一気に噴出し、古い感情をあっという間に押し流してしまったのだ。
アウグスティヌスはこの体験を通して、心の底深くに、その心を越えた別種の心があることを知った。「内なる超越」をすれば、そこにはもう一つの心がある。そして神はこの心に宿るのである。この体験的事実から、後年の彼は「心を通って神へ」というテーゼを唱道するようになる。
回心後の彼は、修辞学教授の職を辞して故郷のアフリカに帰り、カトリック教会の司教になっている。そして75歳で死ぬまで、約50年間、旺盛な著述活動を続けた。アウグスティヌスの主著は「神の国」と「告白」である。けれども、このほかに彼は多くの論争文を残しており、アフリカでの50年は論争に明け暮れしたと言っていいほどだった。
これら論争のなかで注目したいのは、「愛の教会」の建設を訴えたドナティストとの論争である。ドナティストは「キリスト教会に属する者は、聖なる人々でなければならない」という厳しい立場から、一度棄教した人間は汚れているから教会に復帰できないと主張していた。
これに対して、アウグスティヌスは「教会は清浄な人間だけのものではない、善い麦と毒麦が混じっているからこそ、互いに欠点を許し合い、キリスト教徒としての聖性を増す助けになるのではないか」と説く。
イエスは、神の裁きの前では、一人の義人もなく、人はすべて罪人だと教えている。教会は確かに腐敗した部分を含んでいる。腐敗を内に含みながら、それを許し、それに耐えているからこそ教会は聖なる存在なのである。
「愛の教会」に関するアウグスティヌスの主張を見ると、「鬼窟」を抜けて「明珠世界」に出た人間に共通するヒューマニズムの匂いを感じる。