教育委員米長邦雄殿 現代日本の「愛国者」たちは、何か勘違いしているようである。
思い起こせば、旧正田邸の取り壊しを、体を張って阻止しようとした愛国者たちがいた。
「これは皇后様のご実家ですよ」
中年の女性をまじえた一群の愛国者たちは、こう叫んで解体に来た作業用トラックを追い返した。一部のワイドショウなども、こうした運動を積極的に支援し、おかげで正田邸保存の流れが出来かけたのだった。だが、皇后は実家を保存することに強く反対し、結局、正田邸は当初の決定通り取り壊されてしまった。皇后が保存に反対した理由を、昔自分が住んでいた家や自室を衆目にさらしたくなかったからだと解説する評論家もいたが、それはちょっと違うのではあるまいか。その理由は、私には別項の「正田邸解体問題」に書いておいたようなものだったと思われるのだ。
先日行われた天皇主催の園遊会での米長邦雄氏の発言も、天皇の気持ちを完全に取り違えていた。
彼は天皇が、「教育委員のお仕事、ご苦労様です」とねぎらわれたとき、得たりやおうと、こう答えたのである。
「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」米長委員は、すべての学校に国旗を掲揚させ、生徒・職員に「君が代」を斉唱させれば天皇が喜ぶと思っていたのだ。彼は東京都教育委員会の中にあって、国旗・国歌の問題では強硬派の一人だといわれている。われこそは国を愛する戦士、陛下のために先頭に立って戦う無二の忠臣という自負を抱き、従来から東京都を起点にして全国の学校に国旗・国歌を強制すると宣言していたのである。
ところが天皇の口から、思いもよらない言葉が返ってきた。
「強制になるということでないことが望ましいですね」周章狼狽した米長邦雄委員は、あたふたしてこう答えている。
「本当に素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうございました」私はテレビで放映されたこの場面を見ていて、米長委員はわが国の自称「愛国者」の一つのタイプだな、と思った。愛国を売り物にする運動家には、暴力団タイプとお調子者(跳ね上がり)タイプがあり、米長委員はこの後者の典型らしいのである。
米長委員のホームページには、園遊会の翌日の日記があり、天皇と交わした対話を紹介している
将棋のことをお話ししました。
「現役はやめました。将棋盤を挟んで親子が楽しんでいる家族は幸せだと思います。将棋の普及に務めております。陛下のお正月の昭和天皇と皇太子殿下とご一緒の写真は大切な我が家の宝でございます」
「あの、もう随分前のことになります」
「教育委員として本当にご苦労さまです」
「はい。一生懸命頑張っております」
天皇と対話したくだりについては、これだけしか書いてない。国歌・国旗についての彼の発言や、これに対する天皇の言葉を全部省き、その代わりに「はい、一生懸命頑張っています」と彼が答えたことにしてお茶をにごしている。場面場面で態度をころころ変え、その場限りの景気のいいことを言って歩くのがお調子者タイプの特徴なのだが、彼はその通りに行動しているのである。
戦争中に「日光の杉を切れ」と言って人気者になった政治評論家がいる。この国難の時代に徳川将軍家の神社の杉などは全部切り払って、木造船にしてしまえと言うのだ。右旋回した現代の日本にも、この種の放言をする阿呆な跳ね上がりが急激に増えてきている。
私が担任をしていたクラスに、東京都の養護学校教諭になった生徒がいる。
彼が手紙で知らせてくれたところによると、その学校では、毎年、生徒たちが卒業式会場の正面の壁を自分たちの制作物で飾っていたという。けれども、今年は都の教育委員会の指示で正面に日章旗を掲げ、「君が代」を歌うことになった。おかげで、これまでの家庭的な雰囲気が壊れて寒々とした卒業式になったという。米長委員らは、こうしたことを知っているのだろうか。石原都知事は、今度の問題について「東京都が国旗・国歌を強制したことはない」と言い張っている。何百人もの教員を処分しておいて「強制ではない」というのだから、その厚顔に驚くほかはない。勇将の下に弱卒なし。こうした知事の下だから、米長氏のような跳ね上がり教育委員が幅をきかせるのである。
知事はまた、天皇に靖国神社参拝することを求めている。
昭和天皇が、戦後、靖国神社に参拝しなくなった理由を知事は真剣に考えたことがあるのだろうか。靖国神社に戦犯が合祀されていることも理由の一つだろう。だが、ここで石原都知事に天皇も人の子だということを考えてほしいのだ。天皇の名においておびただしい人間が死んでいったことについて、天皇には忸怩たる思いがあった、と想像したことはないのか。
人が衷心から望む人間関係は、上も下もない対等な人間同士の関係、つまり親しい友人同士の間に自然に芽生えるような関係であり、人間が望む生活とは裏も表もない生地そのまま生活である。天皇・皇后、皇太子・皇太子妃などが望まれる生き方も、これと変わりはないのである。
自称愛国者や天皇主義者の願うところは、戦前の天皇制を復活させることである。三島由紀夫は、「すめろぎは、などて人となりたまいし」と天皇が人間宣言したことを責めている。彼らは、天皇が望もうと望むまいと、天皇を神格化したがっているのだ。だが、そうすることは、天皇を金正日化することなのである。
ヨーロッパの王室は急速に民主化して、買い物かごを抱えてスーパーに出かける王女がいたり、他国からの移民の娘と結婚する皇太子が現れたりしている。日本の皇族も雲井の彼方に押し上げられるのではなく、西欧王室風の庶民的なあり方を望んでいるかも知れない。少なくとも、天皇・皇后が、精神的にも経済的にも国民に過大な負担をかけまいと努めていることは疑いないと思われる。
にもかかわらず、テレビのコメンテーターのなかには、「日本の皇室は伝統も歴史もあるのだから、他国の王室の真似をすべきではない」と、ブレーキをかけるものがある。馬鹿をいいなさんな。その「伝統と歴史」によって、一番苦しんでいるのは皇室なんだよ。今、構造改革を一番必要としているのは、宮内庁なのだよ。
こんなささやかなサイトでも、HPの記事にクレームが付くことがある。天皇関連の記事や、公明党関連の記事に対してで、たとえば、「正田邸解体問題」や「善に報いるに、中傷をもってす」には匿名のメールがいくつか来たし、嫌がらせもあった。
たとえば、私が「天皇」と呼び捨てにするのは慎みに欠けているというのである。
確かに、近頃は、ほとんどすべての新聞雑誌が天皇に陛下という敬称を付けている。戦後の憲法では、天皇は首相と同じ職名として扱われているのだから、陛下という尊称をつける必要はないのではなかろうか。もし、天皇陛下と呼ばなければならないのなら、首相にも敬称を付けて「首相閣下」と呼ばなければならない。
天皇も首相も、同じ人間である。不必要な敬語を並べて特別扱いすることは天道にも人道にも反すると思うのである。
(04/10/31)