小泉人気の行方
世論調査に現れる小泉人気の高さには、評論家たちもとまどっている。鈍感で無神経
な森前首相の後だけに、小泉首相の人気が高くなることは、誰もが予想していたが、
支持率が90パーセントを越えたと聞けば、ちょっと開いた口がふさがらないという
気にもなるのである。新聞で、小泉首相は離婚してから、自分の実子に十何年も会っていないというような記事を読み、彼の私生活は一体どうなっているのだろうと首をひねった。そこで、週刊誌を買って読んでみたら、首相は二人の男の子をもうけてから妻と離婚し、その二人の子供は現在首相側で養育しており、彼が十何年も会っていない子供というのは、当時妊娠中だった妻が、別れてから生んだ子供だということが判明した。
その別れた奥さんは創価学会員だそうで、首相が三番目の子供に会っていないのには、いろいろな事情が伏在しているようなのだ。だが、彼が19年前に離婚して、国会議員という激職にありながら、その後ずっと再婚しないというのには、ちょっとひっかかる。この辺は、やはり世間的な常識を超えていると言わざるをえないだろう。
どうやら彼は一本杉のような単独型人間らしい。「大物」政治家のまわりには何人かの側近がいるのが普通なのに、彼はそうしたものを持たず、国会でも、一人で図書室にこもって本を読んでいることが多いという。彼が、一人でいても平気なのは、多方面の趣味を持ち、自分を充足させる手段には事欠かないためらしいのだ。
彼は多趣味で、好きな音楽もクラシックからオペラ、ニューミュージックにまで及んでいるそうである。
一本杉型の人間は、自分で自分を充たすモラルや趣味を持っている。樹木は自身の落葉枝を肥料として、必要な栄養を取っている。これを「自己施肥系を持つ」というらしいけれども、小泉首相も自己施肥系を持っているから独身でいても平気、側近がいなくても平気なのである。
日本の政治家は、一般に教養に乏しく、世俗的な価値ばかりを追い求める傾向がある。佐藤栄作などは、趣味といえばテレビでプロ野球を見ることで、テレビ放送が終わると、携帯ラジオを持参して風呂に入りながら実況放送の続きを聞いていたという。
東大を出て、高級官僚経由で、政治家になったようなエリート系人物でも、愛好するテレビ番組は水戸黄門というタイプがかなり多く、こういう人物の依って立つモラルが、御身大切の通俗的モラルになるのは当然といえる。
小泉首相は、過去に負けると分かっている総裁選挙に二度も出ている。こうした行動は、計算高いエリート系の政治家には到底出来ない。自己施肥系で培った独自の個性を持つ人間だけに可能な行動なのだ。独自のモラルを持った人間は、乞食をしても平気でいられる。
彼は人気が高くなろうが、低くなろうが、あまり意に介しないタイプなのだ。だからこそ自民党を牛耳ってきた橋本派に戦いを挑むことが出来たのである。小泉首相は、事やぶれて孤立無援の立場になっても、落ち込むようなことはあるまい。その意味では、彼は信頼に値する人物なのである。
「山藤章二の似顔絵塾」入賞作 中原信秀さんの作品
もう一人の人気者、田中真紀子外相は、小泉首相とは違って常識的なモラルの所有者である。彼女の発言が目立つのは、事なかれ主義の保守党政治家の中で、歯に衣着せず、思ったことを口にするからだ。彼女には、父田中角栄を裏切った橋本派とこれに媚びを売る党内諸派閥への強い憤りがあり、これが歯に衣着せぬ発言の背景になっている。
しかし、彼女のパーソナリティーは、橋本派会長の橋本龍太郎と酷似しているのだ。田中真紀子も橋本龍太郎も、父親の開拓した地盤を引き継いだ二世議員で、父親が舐めてきたような苦労を知らない。彼らは、父の身近にいて、政治家として生きて行く上で必要な処世法やらノウハウを身につけている。国政の場で、二人が見せるカンの良さや俊敏さは、これにもとづいている。
苦労知らずで政治の表舞台に登場した寵児たちが、威張ったり、傲慢になったり、と思うと、些細なことですねたり、ごねたりするのは、やむを得ないことだろう。彼らは、何時までたってもお坊ちゃまであり、お嬢ちゃんなのだ。二人がカメラマンなどに追い回されたときに、時折示す内に怒りを秘めたうるさそうな表情は、彼らの主我的な人となりをハッキリと示している。
お坊ちゃん、お嬢ちゃんは、マイナス面ばかり持っているのではない。挫折を知らないが故に、理想を追い求める純な情熱を保持しつづけるという長所を持っている。田中真紀子は、まだ無名の主婦だった頃に、教育問題に関する真摯な意見を朝日新聞に投書していたと言われる。行政改革にかけた橋本龍太郎の情熱も嘘偽りのないものだった。
田中真紀子には、お嬢さん的な理想主義と、それとは裏腹なオバン的な図太さが混在している。彼女の発言は、常識的なモラルに裏付けされていることで、その歯切れの良さと相まってこれまで歓迎されてきたが、父角栄と同様、やがて国民からそっぽを向かれる日が来るかも知れない。
人気が急降下したときに、彼女が小泉首相のように平気でいられるかと言えば、その見込みはあまりない。常識を頼りに行動してきた人間は、逆境に立たされたときに意気消沈したり、暴走したり、やはり常識的な反応を呈してしまうからだ。
世論というのは、実に読みにくいものである。
だから、有能な政治家は、みな、世論を恐れて来た。あの長期政権を維持した佐藤栄
作は、ライバル政治家との密室における1対1の対決では、常に相手をねじ伏せる剛
腕を持っていたといわれる。1対1で強かったことは、夫人との関係にもあらわれていて、彼はしばしば夫人を殴
ったそうである。そのため、アメリカのマスコミは彼のことを「ワイフ・ビーティン
グ」する男と紹介している。党内でも、家庭でも、強腕をふるったこの首相が、世論を前にすると、信じられない
くらいに臆病になった。彼は「待ちの政治家」といわれたが、それは世論を二分する
ような問題に結論を下すことができず、どちらか一方が優勢になるのを待っていたか
らだった。この点についてインタビューを受ける佐藤首相をテレビで見たことがある。質問者が、
「なぜ決定を先延ばしするのか」と質問すると、首相は照れたような笑いを浮かべて、
「私が臆病だからだろう」と答えていた。インタビューした記者は、党内腕力の強さで吉田茂に匹敵するといわれた佐藤首相が
臆病なはずはないと思ったらしく、それを冗談だと解してなおも質問を続けた。たが、
佐藤首相は、本音を語っていたのである。政治の世界が、「一寸先は闇」といわれるのも、世論がどう変わるか、誰にも読めな
いからなのだ。政治家に必要な能力は、党内腕力の強さと、世論をかぎ取る嗅覚の鋭
さである。しかし、世論の変化を予測することが、ほとんど不可能に近いとしたら、
有能な政治家は世論を恐れ、世論の行き着くところを全神経をこらして見守ることに
なる。森前首相は、党内や自分の選挙区の動向には臆病だった。彼が密室の談合で首相に選
ばれたのは、五人組の意向に忠実であることを見込まれたからであり、つまり彼の腕
力のなさを買われたからだった。その彼が、世論に対しては、打って変わって妙に強
腰になり、失言しても取り消さず、平然と鈍感な行動を繰り返したのだ。森首相の行動は、佐藤首相とは全く逆だったのだ。臆病であるべきところに強い姿勢
で臨み、強くでるべきところに弱腰だったのである。小泉首相は、目下のところ、党
内には強く出て、世論には柔軟な態度を見せ、森首相の轍を踏むまいとしている。しかし、彼が佐藤首相のような腕力で、党内を押さえ込んでいるとは思えない。また、
彼は右旋回の傾向を示す社会情勢に合わせて、右翼的な言辞をちらつかせている。が、
右に寄りすぎることは、危険なのだ。一国の首相ともなれば、国内世論だけでなく、
国際世論にも敏感でなければならないからだ。多少のタイムラグはあるけれども、現代においては、国内世論と国際世論は連動して
動くようになっている。国家主義的、右翼的な政権は、国際的には孤立しても、国内
では一時的に人気を得ることがある。だが、いずれは国内世論も国際世論を追随する
ようになるから、やがて政権は国民から見放されてしまうのだ(ユーゴのケース)。どこの国の人間も、国家主義的な意識と共に、人道的な意識を持っている。国益追求
を強調する国家主義は、国民各層の個人的利益をふくらませてくれるような幻想を与
えるが、国際世論に背を向けて世界と対立するようになったら、結局、国民に致命的
な損害を与えることになる(イラクのケース)。行き過ぎた国家主義は、その独善的な政策によって、かえって国民の眠っていた人道
意識を呼び覚ましてしまう。すべての人間は、私益追求の利己的な気分と個を超えた
人道意識の間で、バランスととりながら暮らしている。普段、自分のことだけでいっ
ぱいになっている人間も、どこかの国が人種差別政策をとって集団虐殺を行っている
と聞けば、自然に心を痛める。自分とは無関係の地の果てのような国の出来事でも、
耐え難い気持になるのだ。この人道意識が、世界の人々を結びつけているのだ。個人的に対立し合っている人間
が、災害に遭えば助け合うように、利害が対立する諸国家も、人道を尊重する念では
一致する。人々の心に眠っている人道意識は、一見微弱のように見えて実は世界全体
を動かすほどの力を持っているのである。政治家は、党内や自分の選挙区だけに目を向けず、世論の動きを見て行かねばならな
い。さらに国内世論の背後にある国際世論の動きをも頭に置いて行動しなければなら
ない。小泉人気が続くかどうかは、このへんにかかっているように思う。