女たちの皇室談議

女性のいいところは、男たちのようなキチガイじみた天皇主義者が少ないことではないだろうか。日本の男性が三島由紀夫を生んだのに反し、日本の女性は「君死に給うことなかれ」の与謝野晶子を生んでいることでも分かるように、女性は雲の上の天皇より身近な家族の方に愛情を向ける。この方がはるかに自然で健全なのである。

前にも書いたことだけれども、私の在職していた女子高の新聞部が天皇制に関する意識調査を行ったら、全校生徒の7割余が天皇制に反対していた。高校の女生徒ばかりではない。マスコミの全国調査によると、20代の若者の8割までが「皇室に関心がない」と答えている。男も女も人生の出発点に当たって、こうした反応を示すのは当然のことといえる。誰の目にも明らかなように、人間は本来平等に創られているからである。

男も女も最初は醒めた目で皇室を眺めていたのに、中高年になると俄然天皇制論議に血道を上げるようになる。そして男と女の差が出てくるのは、実はこの時期からなのである。

今月の文藝春秋(四月号)は、例によって雅子妃を中心とする皇室問題を取り上げている。私自身は、もうこの件についてはうんざりしていて読む気にもならなかったけれども、「女性たちよ、平成皇室を語れ」という記事にはちょっと興味をひかれた。このなかに佐藤愛子の「おいたわしや天皇家」というエッセーがあり、これが男性とは異なる中高年女性の思いをハッキリ示しているように思われたからだ。

愛国者を気取る右傾男性は、ことあるごとに「わが国の歴史と伝統」を守れと絶叫し、2665年続いた皇統を護持せよという。だが、中高年女性の代表佐藤愛子は、そんなことを一言も口にしないのだ。


 日本が戦争に敗れて六十年。その間に我々は自由と平等を得て、いいたいことをいいしたいことが出来るようになった。我慢をせず、欲望に走り、権利意識の権化となって文句のいい放題、自分さえよければいいという放恣な日を送るよぅになってしまった。

それでいて我々が捨てた美徳──我慢やつつしみ、抑制を皇室に求めているのである。強く求めはしないまでも、それを当然のこととしている。

(中略)何というお偉い方だろう。それでも今上天皇はお怒りにならず、黙って従っておられるその心のうちはいかばかりであろうか、それにひきかえ国民は・・・・。あれを思いこれを思いしていると私の心は熱く波立ってくるのである。

佐藤愛子は、天皇制の問題を歴史的な観点や制度の観点から見ないで、天皇個人の問題──その心情の問題に還元している。ところが男たちときたら、口では天皇を敬愛するといいながら、「天皇は男系であるべきだ」とか、「陛下は日本古来の芸能の継承者であられる」とか、「陛下は、常に国民のことを考えておられる」とか、結局は自身の身勝手な要求を天皇に突きつけるのである。

今度の特集記事を読んでいて知ったのは、中高年女性のなかにも結構、オヤジ的発想をする論者がいることだった。

こういう特集には必ず顔を出す櫻井よしこは、今日の皇室をめぐる国論の混乱をGHQ(連合軍総司令部)が十一宮家を皇籍から離脱させたことに起因すると断じている。皇統に男子が存在しない時には宮家から養子を取ってくる慣例になっていたのに、その宮家を廃絶したから養子の供給源がなくなり、そのため女系天皇論のような不謹慎な論議も出てくることになったと彼女はいうのである。彼女は、GHQと天皇制が不倶戴天の敵対関係にあるというイメージを描いているのだ。

だが、十一宮家を皇籍から離脱させたのは、進駐軍の陰謀などではなかった。このことは同じ文春4月号に載っている昭和天皇の侍従長入江相政の日記によっても明らかである。


「(十一宮家が)臣籍に降下されることになった。これも誠にお気の毒のことではあろうがやむを得ないことであり、今までが善すぎたのであり、そのほとんど全部が(二三の例外を除いては)皇室のお徳を上げる程の事をなさらず、汚した方も相当あった事を考えれば、寧ろ良いことであろう(入江相政日記)」

(注:学習院に学んだ里見クは某皇族の日常について紹介している。その「宮様」は別荘に行ったときにも五人の側妾のそれぞれ部屋を与え、夜になるとそのうちの一人の寝所を訪れる。どういう方法で、女を指名するかといえば、食事の際に10品ほど出るオカズを箸でつまんで、お相伴に居並ぶ側妾に分け与えるのだが、その配分の仕方によって誰が選ばれたか分かるようにしてあるという)

櫻井よしこも、当時の新聞が宮家の引き起こしたスキャンダルを盛んに書き立てていたことを知らないはずはない。宮家廃絶を決定したGHQの行動は、結果的に皇室を守ることに役だったのである。

櫻井よしこは、天皇制護持の立場からGHQを弾劾してやまないのだが、これほどトンチンカンな議論はない。当時、世界の世論に逆らって、天皇制を独り擁護したのは他ならぬGHQだったのだ。

日本に勝利した連合国側は、天皇制を廃止することで将来における日本の軍国主義化を予防しようと試みた。そのために彼らは昭和天皇を戦争犯罪人として訴追しようと努めたのだった。こういう流れを豪腕をふるって断ち切ったのが、アメリカのキーナン検事であり、連合国の反対を抑え込んで天皇制を存続させたのはマッカーサーだったのである。

櫻井よしこが蛇蝎のように嫌う新憲法にしても、天皇制を存続させるための規定をいかにして盛り込むかに腐心した。そして、冒頭に象徴天皇制に関する規定を載せることで、天皇制に反対する内外の諸勢力を宥和しようとしたのだ。

新憲法の基本原則は「国民主権」ということにあった。国民が直接国会議員を選び、その国会の選んだ内閣が国政を担当する。こういうシステムで国が動くことになれば、皇室は無用の長物になり、天皇の存在も必要なくなる。

新憲法を審議する戦後の国会でも、この点が論戦の的になった。野党の攻撃にさらされた憲法担当の国務大臣金森徳次郎は、天皇の有用性を説明するために「天皇は国民統合の象徴」という規定を持ち出し防戦に努めたのだった。

当時、私が理解したところでは、金森大臣はこう言って天皇制を弁護していた、国民は自分が選んだ国会や内閣を心から信用していない、だから、国会や内閣が国民の信任を得るには、国民から敬愛されている天皇による認証が必要になってくるのだ、と。

天皇は国事行為によって国会の開会を宣言し、内閣を認証する。これらは屋上に屋を重ねる重複作業のように見える、だが、天皇に登場を願ってこうした中間操作を加えることは、一連の政治過程に権威を与えるためにどうしても必要な「行事」なのだ・・・・。

新憲法は、こういう論拠によって天皇制に存在理由を与え、国民主権と天皇制の両立をはかったのである。櫻井よしこは、戦後史にかかわるこんな基本的な知識すら持たずに議論しているのだ。

そんな櫻井よしこにも、小娘のようにかわいらしいところがある。彼女はこの小論を次のような文章ではじめている。


なんと鮮やかな切り返しか。これはまさしく日本文明からの逆襲だ。秋篠宮妃紀子様御懐妊の第一報を聞いたとき、思わずこう唸ってしまった。

彼女は秋篠宮妃の懐妊を、「日本文明からの逆襲」だという。では、何に対する逆襲かと言えば、文脈から言って宮家を廃絶させたGHQへの逆襲を意味している。「日本文明」は、本当にこうした神秘的な力を持っているのだろうか。敗色濃厚になった戦時中、「今に必ず神風が吹いて米軍をやっつけてくれる」と書いていた評論家がいたことを思い出す。彼女は紀子妃の懐妊を、「GHQの暴挙」を粉砕する神風と見ているのである。

だが、驚くのは、まだ早すぎる。林真理子が同誌に書いたものときたら、この神秘的な力や奇跡への確信が山盛り大安売りで満載されているのである。林真理子も秋篠宮妃懐妊の第一報を耳にしたとき、思わず舞い上がったそうである。理由は、彼女が週刊誌のエッセーに、「いずれ奇跡が起こるはず」と書いたばかりだったから。

彼女は、喜色満面で、「(皇統の次の世代が女ばかりという)こういうときにこそ皇室の方々が黙って手をこまねいているはずはない、きっと何かおやりになるだろうと思っていた」と書くのだが、「皇室の方々が黙って手をこまねいているはずはない」というのは、関係の皇族がせっせと夜の営みに励んで子作りの成果を上げるということなのだろうか。

とにかく彼女は秋篠宮妃の懐妊を知って、


私はさすが・・・・・と感嘆した。

さすがと感嘆したあとで、彼女は次のような大胆な予想をするのだ。


紀子さまのお子さまはまだ性別がはっきりしていないはずであるが、私は男子であると確信を持っている。おそらく日本国民のほとんどがそうだろう。皇室の何人かの方々が、思いと祈りを込めて、世におくり出してくださる命である。男子でないはずはない。

末尾の「男子でないはずはない」というくだりを読むと、例の戦争中の「神風が吹かないはずはない」という言葉を思い出して、林真理子のためにいささか心配になってくるのだが、彼女はそんなことには一切頓着せずに「皇室というもののすごさ」について更に証言する。


これまた自慢話になりそうであるが、皇太子ご成婚の時、雅子さまという女性を得て、これで皇室が変わると皆が言っていた時、私はエッセイにこう書いた。

ひとりの女性が嫁いだからといって変わるほど皇室はやわなものではない。皇室は変わらない。雅子さまが変わるはずだ。いずれお子さまが生まれるはずであるが、雅子さまのぱっちりした二重にはならない。切れ長のひと重の目をお持ちだろう。そのくらい皇室というのはすごいものなのだ。

雅子妃の生んだ子どもが二重まぶたになるか一重まぶたになるかは、もっぱらDNAの組み合わせによると思っていたら、林真理子は「皇室のすごい力」によると断言するのだ。どうやら皇室には、生物学を超越した超自然的な力が宿っているらしいのである。

こうやって皇室の神秘的な威力を数えあげた林真理子は、自身を、「我々下々の者」と卑下して手放しで皇族を賛美する。皇族はおしなべて、「あの美しく気高い、特別な一族の方々」ということになり、皇太子の笑顔は、「高貴な方でないと出来ない、あの穏やかな暖かさ」ということになってしまう。

林真理子はミーハー族の代表として、アイドルにあこがれる女心をデリケートに書きつづって来た。だから彼女が小泉首相の取り巻きになったところまでは理解できるけれども、「特殊な高貴な血統が二千年も続いてきた」という理由で皇室を無条件に賛美するのは少し浮かれ過ぎではないかと思う。これでは、天皇を「現人神」と仰いでいた戦時中の意識と何等変わりがないではないか。

林真理子が櫻井よしこと違うところは、「教養ある女たち」から自分が白眼視されている事実を自覚していることだろう。櫻井よしこは石頭の確信犯だから、自分を客観的に見ることが出来ない。だが、林真理子の方は作家としての目を持っているから、自分が周囲からどんな目で見られているかちゃんと承知している。


今、私はとても淋しい。皇室のことを語ろうとしても、わかってくれるのは女たちの言うところの「頭の固いミギのおじさん」ということになってしまうからだ。

冒頭で記したように、女性にはキチガイじみた天皇主義者が少ないために、林真理子の言葉に耳を傾ける者も限られるのだ。そこで彼女はヒステリックになって、こんなことを口走ってしまう。

 しかし皇室が女たちの声をお聞きになり、健全さを持とうとなさる時、皇室はゆっくりと滅びの道へと向かっていくはずである。私はそれが心配でたまらない。

彼女は、皇室が、「健全さを持とうとして」女たちの声や世論に従うようなことになったら、きっと滅びると予言するのである。では、皇室を滅ぼす健全さとは何だろうか。どうやらそれは彼女の嫌いな女系天皇論であり、雅子妃シンパらによる皇室近代化論であるらしい。

林真理子は、別のところでこんなことも言っている。


私はかねがね、皇室問題を民主主義や男女平等という観点から論じてはいけないと言ってきた。皇室は理屈の通らない、摩訶不思議な世界である。

彼女にこう居直られてしまっては、何も言うことがなくなる。彼女が理屈の通らない特殊世界だといって皇室の問題を囲い込んでしまえば、批判する側はそれ以上口をはさむ余地がなくなるのである。

「あの美しく気高い、特別な一族」によって形成される皇室が、健全な世論を敵とし、民主主義や男女平等を否定しつづけるなら、林真理子の心配するように皇室が、「滅びの道」に向かって進んで行くだろうことは疑いを入れない。世界史の潮流は、人間平等論を基調とする民主主義を徹底する方向に滔々として進んでいるからだ。

もし林真理子が本当に皇室を愛するなら、ここは彼女個人の好みを捨てて皇室の脱皮を促すべきではなかろうか。歴代天皇の半分は、正妻以外の女の腹から生まれている。が、昭和以後、側妾制度は廃止されて天皇も一夫一婦制を守るようになった。皇室も世界の大勢に従うようになったのだ。この流れを推し進めることが、皇室大好き人間である林真理子の義務ではなかろうか。皇室が民主主義と背馳するような制度・慣習を何時までも維持しつづければ、世界の物笑いの種になるだけでなく(男系天皇論は既に欧米で日本人のアナクロニズムとして滑稽視されている)、やがては国民も皇室の存在を恥じるようになるのだ。

今回の特集に採録された文章の中で、一番面白かったのは池田晶子の「皇太子妃の人格とは」だった。

池田晶子は連綿とつづいてきた天皇制が、国民の支持を得て今後も連綿とつづいて行くであろうことを前提に議論をすすめている。だから、彼女は天皇制反対論者ではない。だが、彼女は独自の方向から照明を当てることで、天皇制のもつ奇怪な側面をあらわにするのである。

池田晶子によると、天皇家の仕事は古来生産に関する祭祀を行うことであり、つまり天皇は神主なのであった。「あの家は、古い古い神主の家である。神主の仕事を長きに亘り世襲しつつ、この現代までこられたわけである」と彼女はいう。

神主としての権威は、代々絶えることなくこの仕事を世襲してきたその連続性によって保たれる。だから、国民も天皇家も、この連続性に意味を認め、その他のことは軽視するようになる。天皇・皇族の資質・人格はあまり問題にされず、次の世代を確保するための各人の生殖能力が重視されるのだ。


紀子様御懐妊のニュースに、私はある種の感動を覚えたものだ。おお、なんとプリミティブな。

あの方々は、生産すなわち生殖の祭司を司るという、天皇家本来のお仕事に励んでおられたのだ。男女の行為をさして「お祭り」と呼ぶこともあるらしいが、まさにそれこそがあの方々のお仕事だったのだ。

天皇が天皇家連続の一構成要素であり、永遠なるものの一部だとすれば、天皇の人格を問うことは無意味になる。人格を持つのは、時間のうちに生滅する個人だけだからだ。

天皇は人格を持たず、神主であると同時に日本古来から伝承されてきた芸能の担い手「芸能者」としてのみ存在する。国民は天皇に神主業務を委託するかたわら、芸能者としての天皇・皇族を眺めることを楽しんできた。

こう述べてきて池田晶子は、雅子妃に自分には人格などない、ただロールプレイをしているだけだと考えるように勧める、皇室が国民の関心の的になるのは、「芸能者」の宿命といってもいいのだから。

──さて、今回の文藝春秋誌の特集を含め、今や皇室論議が花盛りなのに天皇制否定の意見が絶えて現れないのはどうした訳だろうか。「朝日ニュースター」というチャンネルに、あらゆるタブーに挑戦すると謳った「ウワサの真相」という番組がある。この番組が天皇制を取り上げていたので覗いてみたら、最も過激と思われる意見も「天皇は京都に移り、皇居を国民に開放したらどうか」という程度のものだった。

これはあまり健康な現象とは言いがたい。
何かの調査によると、天皇制を否定している日本人の比率は、20パーセント内外だという。この層の意見がマスコミに全く現れないから、櫻井よしこ等が図に乗って暴論を振りまき続けるのだ。(06/3/18)

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