療養所にて
私は東京での教員生活を僅か二年間で終りにして、長野県の実家に引揚げて来た。結核がかなり進行していることが判明したからであった。私は実家の二階で二年間療養した後に、近くの病院に移り、そこから東京の療養所に転じ、そこで左肺を摘出する「大手術」を受けた。
その療養所は患者数が千名に近い日本でも有数の結核療養所であった。肺に空洞ができてしまうと治療は難航する。所内には十年を越す長期療養患者がざらにいた。そうなると家族の見舞いもとだえ、残された家庭自体も崩壊し、患者は天涯孤独の身になってしまう。特に哀れをそそるのが既婚の女達であった。
どんな愛妻家でも、妻が長らく入院を続けているうちに見舞の足が遠のき、間もなく妻を離別して新しい女をめとる。妻の不在に男が耐え得る限度は三年間であった。男とは、それだけの時間的許容量しか持たない器械のようなものなのだ。
療養所の生活が長びき、ここを自分のついの棲家として生きなければならない患者達は、療養所の中に自己完結的な世界を作る。所内には様々なサークルがうまれ、講演会や文化祭が開かれ、患者自治会が組織されていた。サークルにはギリシャ語研究会まであるのだ。
実際、療養所は古代ギリシャのポリスのようなものであった。そこにはソクラテスのような美徳とユーモアをかねそなえた名物男もいれば、才知と美貌にめぐまれたサッフォーのような女流詩人もいた。一度この世界に入りこむと、もう二度と健康人の社会に戻りたくないと思うほどの濃密な魅力が療養所にはあるのである。
私は療養所に入所して暫くして、久保田冬扇という名前を自然に覚えた。この男は患者自治会が定期的に印刷・配布する機関紙に様々な提案をよせる常連投書家であり、所内で発行され回覧されるサークル刊行物の多くに執筆する多才な寄稿家であった。
この男の書く文章は、ストレートに要点に切りこむ歯切れのいいものだった。それらは大抵、所内で論議の的になっている実務的な、あるいは人生論的な諸間題を取り上げて、それに対する彼自身の態度を明確に打ち出し、具体的な解決策を自信をもって提示するというスタイルで書かれていた。一読して筆者の颯爽たる風姿を連想させるに足る文章であった。
私はこの男を、活力に充ちた若い軽症患者だと思いこんだ。ところが、久保田冬扇という人物は、私の予想とはまるで違った男であった。
入院して程へて、所内の俳句サークルの一つに加入した私は、生原稿を綴じ合わせたサークル回覧誌を久保田冬扇のところへ届けに行った。彼も同じサークルに加入しており、回覧順が私の次になっていたからだった。
看護婦控室で彼の病室を教わり、洗面所の隣りにある個室をノックした。個室にいるのは、手術直後の手のかかる患者か、重症者に限られている。それ以外の患者は、大部屋に雑居しているのだ。
久保田冬扇は、見るも無惨にやせ衰えた四十男であった。布団の下の身体にまるで嵩というものが感じられない。後に、彼が付添婦から身体を拭いてもらっているところへ行き合わせたが、太股の太さが腕の太さしかなかった。徴兵検査の前後に発病し、この療養所に入ってから十五年間、ほとんど病床で過しているうちに足の筋肉が退化してなくなってしまったのである。
だが、余分な肉が内側からすっかり落ちてしまった顔には血の気がさしている。彼は初対面の私を値踏みするように眺めた。
「あなた、随分大きな身体してるね。それで病人ですか」
人なつっこい口調であった。
私はこの療養所に入所して間もなく、十年以上寝たきりの患者が収容されている大部屋に行ったことがある。患者達は仰臥した姿勢で、部屋に迷い込んだ私の方に顔を向けた。この瞬間の異様な印象を忘れることができない。
どの顔も感情の描かれていない廃墟のような顔つきをしているのだった。「無欲顔貌」である。ところが久保田冬扇は、それとは全然違う好奇心のかたまりのような顔つきをしていた。
久保田冬扇と知り合った途端に、私は早速、彼から在家仏教の「伝道」を受けることになった。
「これはとてもいい本でね。あなた、試しに読んでみませんか」
.久保田冬扇はそう言って.知りあったばかりの私に、「般若心経講議」(林田茂雄)なる本を借し与えた。私が一週間後にその本を返しに行くと、彼はすかさず、読後の感想を所内の仏教研究会機関誌に出してほしいと要求した。
私はこの本を面白く読んだので、言われるままに五・六枚の感想を書いて彼に届けた。こんなことをしているうち、私は知らない間に久保田冬扇の弟子になっている自分を発見したのだ。
久保田冬扇の生活を間近で眺めていると、息をのむような想いをすることが多かった。彼は藁半紙を綴じ合わせた粗末な個人雑誌を発行していた。ザラ紙を四分の一に折りたたんでホッチキスでとめた、中学生の作る「旅行のしおり」といった形式の印刷物である。この印刷物を作るのに、寝たきりの病人が、ガリ版切りから印刷まで全部自分でやるのである。
原紙を切る為に、彼はヤスリの鉄板を葉書大に切断してもらい、それを胸の上に置いて鉄筆を動かしていた。これを刷るには、小型印刷機を胸の上に乗せて、空中に固定した手鏡をバックミラー代りにしてローラーを動かすのだ。正に、鬼気迫る光景といってよかった。
久保田冬扇は独自の仏教理論を持っている訳ではなかった。私は彼が道元について語るのを聞きながら、しばしば退屈し、時には眠気を催したほどである。彼がこれは出色の本だと言って私に借し与える仏教書も、最初のものを除いてあまり興味を感じるようなものはなかった。句歴十年を誇る彼の俳句も、おおかたは凡庸な出来栄えであった。
だが、彼がペンを取って何か書きはじめると、その文章にはある種の精気がこもり、読んでいて飽きないのである。
療養所に古くいる患者によれば、久保田冬扇は傲慢不遜の独善家で、立腹した付添婦から頭にバケツの水を浴せられたこともあるそうだった。だが、彼は私には親切でやさしい男であった。仏教精神を身に帯して生きている素晴らしい男であった。
仏教は必然を洞察することによって、必然の外に出るという解脱術を教える宗教である。
この世界を構成する素材は、不増不減の色(物質)であって、これ以外に世界の基質はない。私達が内外に認める諸存在や現象は、定量の物質が無限に関連し合って生み出した変化相なのだ。
宇宙を巨大な万華鏡と考えれば、この中に投げ込まれた色紙断片が物質に相当し、万華鏡が回転するにつれて鏡胴に移り動く多彩な絵模様が現実世界に相当する。世界は定性・定相を持たず、千変方化する絵模様に過ぎないと観ずることによって、私達は世界への執着から解き放たれるのである。
こういう後腐れのない唯物論的明快さが原始仏教の魅力であって、ここから仏教者のさかんな活力も生れてくるのだ。仏教者の前には、障害はない。彼らの前に立ふさがる壁は、二重の意味で障害とは感じられない。
第一に、その障害物は、全体的関連の中に生じた一時的現象であって程なく変化するからであり、第二に、それを「壁」と見る個人の立場も変化し、それをプラス条件と見る反対の立場に容易に移り得るからだ。
自由への道
「病むゆえに青春ながし冬銀河」
これは、私が属しているとは別の俳句サークルのメンバーの作った作品である。私はこの作品を、回覧されて手許に廻ってくるおびただしい印刷物の中から発見し、ひそかに心にとどめた。
私は長い病気で自分の青春を浪費しているという焦慮に襲われることがあった。しかし、この誰とも知れぬ患者は、多分私と同じ焦慮に駆られながら、その感情をやり過し、事態をより高い立場から再把握することに成功している。私は病気の中でこそ、青春が純粋に保持されて行くのだという考え方に意表をつかれた。
私は健康と病気、青春と老年を一時に視野におさめ、両者を等価と見る遠視点のあることを察知した。病気も健康も、生の多様な現れ方の一つであり、病気は健康の欠除状態ではなく、それ自体で積極的な意味を持つ何かなのである。在家仏教論者の久保田冬扇には、通俗的に言えば「病気を生き、病気を体験する」というような姿勢があった。
私もようやく凹型が反対側から見れば凸型にほかならないことを悟りはじめたのである。私は自由への道を歩きはじめたのでった。
病棟の内部には、あらゆる経歴の患者がいた。朝から晩まで、ラジオの歌謡曲を聞いている工員出身の若者もいれば、開業医・新聞記者・芥川賞作家(同じ病棟で吉行淳之介が療養していた)もいる。様々な階層の人間をまるごと呑みこんでいる点で、療養所は軍隊に似ていた。ここは「人生の大学」なのである。
「病気になったことは、私にとって悪いことじゃなかった」と述懐したのは、東大建築学科出身で、都内で建築事務所を経営している中年の患者であった。以前は陸上部の選手をしていたのではないかと思わせる引き繁った長身の持ち主で、聡明で静かな目つきをし.ている。
「事務所を持っていると、何しろ時間がなくてね。考えたいことも出て来ていたし、読みたい本も溜っていた。病気で一・二年休めるのは望外の幸せですよ」
彼が問わず語りにそんな話をしたのは、二,三人でベランダに出て、若い無謀な患者の噂をしている時であった。若い患者の中には、折角手術がうまく行ったのに術後の安静を守らず、再手術しなければならない羽目に追いこまれる者もいたのである。
「若い人達はかわいそうですよ。彼らは過去というか、経験というか、こういう閑な時に考えてみる素材になるものを持っていないのだから」
と、建築事務所長はいたわるような口振りで言った。
私は世の中のことは何でも判っている積りで、まわりの人間を無遠慮に観察していた。しかし、私の見方は浅く、中年の患者の老熟した判断には到底及ばないのである。彼らの目は冷静であった。しかも同時に温かな同情を含んでいた。
当時、甲種看護婦と呼ばれていた高等看護学院出の正看護婦が病棟副主任看護婦として赴任して来た。彼女は黒瞳がちの整った顔をしていた。ほかの看護婦にはない知的な雰囲気を漂わせていた。
だが、彼女は患者達が甘えて薬をねだりに行っても、あれこれ冗談口を叩いて何とか彼女との接点を作ろうとしても、それらを皆手きびしくはねつけてしまった。
患者達は、あれは高慢ちきで嫌な女だと言いはじめた。副主任は患者達のそうした空気を敏感に感じ取って、いよいよ守りの姿勢をかため、病室で隙を見せなくなった。
患者達が集って、副主任の「優越感」について論じているところへ、四十を過ぎた研究所勤務の患者が口を挟んだ。
「それは見方が逆だな。彼女は何か劣等感を持っているのさ」と彼は言った「だから彼女は他人の好意がよくわからないんだ。飼犬の中には、撫ててくれる手を叩く手だと思って噛みついてくる奴があるじゃないか」
この会話をそばで聞いていて、一応成る程とは思ったが、私には研究員の言葉が信じられなかった。ほかの患者達にとっても、この見方は意外だったらしく皆ちょっと黙りこんだ。
暫くして、研究所員の慧眼に舌を巻くことになる。副主任が恋人にした患者は二重三重の悪条件を背負った身体障害者だったのである。彼は、何かの事故で片腕が肩のところからなくなってしまっている30男で、口やかましい母親と二人で暮らしている安サラリーマンだったのだ。副主任はこの男と結婚の約束をしたのだ。
この後日談も信じがたいものだった。このことを知った患者の母親が、看護婦風情なんかと結婚させられないと強硬に反対して、息子を退院させてしまったのだ。
男性の方で高く価値しているのに、本人の自己評価が自虐的なばかりに低い女がいるものだ。私達がそのことに気づくのは、彼女らの異様ともいえる異性選択の仕方を目の当たりに見た時である。副主任のケースだけでなく、看護婦の中にはこういう風な「劣等感」の所有者が割りに多かったような気がする。これには、彼女らのナイチンゲール精神が関係しているのであろうか。三月の中旬にもなると、何処の病棟でも一日中、病室の窓を開け放って外気の流通をはかるようになる。手術後の経過がいいというので、私が大部屋のベランダに移されたのはその頃であった。
そこからは向い合いの内科病棟が見え、病棟間をつなぐ通路やそこを通る看護婦・見舞人が手に取るように見えた。そのうちに私は、向うの病棟の二階にいる一人の女子患者に特に注意をひかれるようになった。
彼女は23,4才の若い娘だった。さえざえと澄んだ化粧気のない細い顔が、清潔な感じがして美しかった。彼女は安静時間の外は、何時もペットの上にキチンと端坐して習字をしていた。その静かに筆を運ぶ彼女の上体が、四角な窓枠にキッカリはまり、丁度私の真向いのところに見えるのである。.
時々、彼女は横を向いて、隣りのペットの患者と口をきいたり笑ったりする。その笑い方に癖があって、女の気質の奥にある手強いものを予想させた。私は閑があると、ベットに寝たまま、この若い娘を飽かずに眺めた。私ばかりではない。ベランダで暮している若い患者達は皆、彼女を眺め、似たような愛情をその細身の身体に寄せていた。
私達は最初から、その感情が何も生み出しはしないことを知っていた。毎日を無為のうちに過している私達は、「窓の女」への愛を共同で守り育てることで、自分達の心を仮空の充足状態に置いているのだった。その娘の素性や趣味・嗜好は何時となく私達の知るところとなったし、彼女の病状の起伏も誰かが調べて来て皆に伝えた。
だが、自分の虚構した感情の空しさに気がつくような時には、私達は白々しい気持になって、いちいち私達の視線を意識して行動している娘を酷薄な目つきで眺めたりするのだった。
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私は娘が習字に取りかかる前、ひっそり墨をすりながら沈んで眼差でこちらを眺める顔が好きだった。食事のあと、湯呑みを作法にかなったやり方で口に運びながら、娘がこちらへ投げてよこす視線にも、男達の気持をすべて見透かした冷徹さと、たじろがずに相手を見返す不敵さがあって、心をそそられた。
彼女はこれまでに、若い娘にあるまじき修羅場をいくつもくぐり抜けて来たにちがいない。
ある日、私は遊びにやって来た若い俳句友達(*)に「目に青葉窓の女をひたに恋う」という自作の俳句を見せた。
「若い俳句友達」谷敬 彼は高校在学中に発病し、二十二才になるその年まで、療養所でずっと暮して来た青年であった。素質にめぐまれた少年が、大学なんかに行かずに病床で一人で考え勉強して行ったらどんな人間になるか、その見本を見るような若者であった。
この青年はどこにあっても真率に行動したが、それは彼が学校出の才子にありがちな小さな対抗意識に捕われないからだった。俳句の合評会でも自説をほとんど主張せず、他人の発言に彼の言葉を添えるというような喋り方をするだけだった。これは彼が自らの鑑賞眼に自信を持っているからだった。
彼はクリスチャンであった。だがそのことについて、かって自分から触れたことは一度もない。自らの信仰を口にしない信仰者というのは、何となく気になるものである。彼はその若さにも関わらず、サークルの内部で皆から重んじられている一人であった。
「これは・・・」と青年は口ごもった。「作者と窓の女には、何か黙契があるみたいだけれど」
私はそんなものはないと否定した。この俳句は同じサークルに属しているS氏の作品に「真向いのひとを恋いをる薄暑かな」という面白いものがあったので、それを頭に置いたパロディーだったのだ。
「しかしこの作品だけだと、そんな風に見えるんだけど」
青年は問答を続けている間、向うの女子病棟に背を向けて立っていた。それは、「窓の女」を私の目から隠そうとしているかのようだった。
私は間もなく退院した。この青年とはその後も文通を続けた。そして私は彼の手紙によって次のような事実を知ったのである。
青年と「窓の女」は恋愛関係にあったのだった。青年は自分より数才年長の女の、きつい性格やくっきりした顔立ちに心をひかれた。
二人の関係は、最初から男が追いかけ女がそれをかわすという攻防を基軸に展開した。女は自分が「年上の女」であるため、男に対して弱い立場にあることを感じている。だから女は男はその弱味を見せまいとして、男への無関心を装ったりする。
男は女の気強さにひかれて接近したが、女がしっかり者だという周囲の評価に応えるために、いろんなポーズを取っていることに気づき、それをこわしてしまいたいと思う。男は女がその.ポーズの下に、案外俗な女心を隠していることも知るようになったからだ。
すると、女は「ずるい」「ずるい」と言って逃げ廻り、防禦の姿勢を崩そうとしない。そして、二人だけで黙っていると静かな親しみで一杯になるのに、口をきいたり手紙を書いたりすると、どうしてそんなに意地悪になるのかと嘆くのである。
やがて女は略治で退院し、子供相手の書道塾を開く。彼女があれ程習字に熱心だったのは、こうした将来の計画を控えていたからだった。だが、無理がたたって彼女は結核を再発し、また療養所へ戻ってくる。とんぼ返りするように彼女が戻ってきたのは、男が療養所に残っているからだった。
が、女とは入れ違いに青年は退院し、雑誌編集者になり、詩を本格的に書きはじめる。二人は、最初に形成した人間関係を転換できないままに、次第に離れて行くのである。
青年は間もなく詩壇の新人賞を取り、詩人としての地位を確実なものにする。新しい交友がひらけ、「窓の女」よりもっと知的な女とつき合うようになる。やがて彼は別の女性と結婚する。相手はお茶の水女子大出身で、既に著書すら持っている極めつけの才女だった。
私は療養所を退院してから、六・七年後に「窓の女」について触れた青年の最後の手紙を読んだ。
その頃「窓の女」はかれこれ三十に近い年令になっている筈であった。手紙の内容は残酷なものであった。結婚しても子供のない詩人夫妻は、連れ立ってよく公園や遊園地を歩いた。そしてある日、詩人は某遊園地の切符売場で、青い上っぱりを着て切符を売っている「窓の女」を発見するのだ。
ガラスの支切りの向うにいた女も詩人に気づいた。女は昔と少しも変っていなかった。彼女は平静を装って、黙って切符を夫妻に渡してよこした。強情な女であった。しかしその時、「彼女の瞳の中にネズミ花火のようにクルクル動き廻るものがありました」と詩人は書いている。
私はこの手紙を読んで、「窓の女」を哀れだと思った。相手が交渉のなくて終った「窓の女」だったからこそ、私は安心して彼女のために一掬の涙を注ぐことができたのだ。
自分の態度をこわさなければ、若い恋人との関係が発展して行かないと知りながら、彼女は自分を変えることができなかった。彼女は一家もろとも結核に感染し、難破離散した家族の一員で、弟と一緒にあの療養所に打ち上げられて来たのである。
彼女はその癖のある美貌が周囲の人間に呼び起す親和と反発を計算に入れて、常に注視にさらされる自分をそれに耐え得るように塩配しなければならなかった。彼女は、柔かな肉を納める甲羅のようなものとして緊密な自我を築いたのだ。だが、この硬い「自我」が裏目に出て、若い恋人は去って行ってしまった。
「小町娘」のおごりと空虚さのようなものが彼女の内部に育ち、これが因となって愛情の素直な成長をはばんだのだ。退院して若い恋人とも別れ、転々と職を変えた後に、切符売場の窓口で老いて行く女の閲歴はまことに痛ましかった。
だが、こうした運命は彼女だけのものではなかった。療養所内の多くの名士達、あの「ソクラテス」や「サッフオ」の運命もこれと大同小異なのであった。
(追記:「窓の女」の恋人だった青年詩人は、2000年の3月に急逝している。この詩人については、別掲のホームページ「畑に家を建てるまで」の日記欄に詳しく書いてある。ここにその記事を三分の一ほど削って転載することにした)
若き詩人
谷とは、療養所内の俳句サークルに加入したときに知り合った。
「二十日会」と名付けられたそのサークルでは、毎月20日に作品を持ち寄り、ナマ原稿をとじ合わせた回覧誌上で互いの作品の合評を行っていた。
回覧誌に出す草稿は、各自が直接当番の会員のところに届けるか、人を介して届けるかする。谷と知り合ったのは、私が当番になったときに、彼が作品を持参して私の病室にやって来たからだった。
私は当時20代の終わりで、彼は20代に入ったばかりの年齢だった。顔から穏やかな微笑を絶やさない静かな若者で、若いのに似合わず余裕のある人柄を持っているように見えた。話をしていると、時々、穏やかな微笑が消えて、考え込むような表情になる。すると、自然に、思い詰めたような生真面目な表情に変わるのだった。誠実な人柄がその表情の変化に表れていた。
そのうちに、私はほかの会員とも親しく行き来するようになった。一日中、起居を共にする療養所の中だから、交友の過程で、それぞれの経歴も、主義主張のようなものも自ずと明らかになる。
ところが、谷とはグループ内で一番親しくしていながら、彼について知ることは僅かしかないのだ。彼が自らについて語ろうとしないからだった。私は、谷が高校に在学していた頃に発病したこと、クリスチャンであること、実家は浅草の玩具問屋であることなどを、間接に聞き知っているに過ぎなかった。
「二十日会」の会員には、在家仏教の信者や女性のクリスチャンがいて、それぞれ自分の信仰について語ったり、信仰をバックにした作品を発表したりしていた。だが、谷は自らの信仰について触れたことがない。自身の経歴についてと同様、信仰についても固く沈黙を守っているのである。
青年期にある人間の常として、私たちには内にあるものを一刻も早く表白してしまわないと気が済まないようなところがあった。そんな中で、谷だけが大切なものを静かに守り育てて人に告げないのだ。彼は痛切な想いや感動を心の底深く秘めて、人にはその周辺部だけを言葉少なに語るだけなのである。
私は谷のこうした「持ちこたえる能力」に、敬意を感じた。実際、彼の表情も所作も何かをうちにじっと持ちこたえているように静かだった。私の病室にやってくるときにも、気がついたらそこに彼が来ていたというような、音のない現れ方をする。谷と話していると、教養とか知的理解力が学歴とは無縁であることが分かるのだった。私はこれまでに、彼ほどの深い理解力を持った人間を数えるほどしか知らなかった。
肺の摘出手術を済ませた私は、程なくこの療養所を退院した。これ以後、私は彼と文通によって互いの消息を知らせ合うことになる。
谷もやがて退院し、スカウトされて雑誌の編集者になった。彼は、俳句と平行して詩を書くようになり、詩壇の新人賞を獲得している。
その頃のことだった。谷は手紙に近作の俳句をいくつか書き送ってきたが、その中に、次のような作品があった。
五月の水流れ水底に石ぎっしり
えご咲くや背高き女らはかなし
この二句を読んで、私は直感的に彼が恋愛をしているのではないかと思ったのだ。それで、その旨を問い合わせてやると、谷は、「窓の女」と愛し合っていることを告げてきたのである。男女別々になっている療養所の病棟には、男子病棟の患者がマドンナのように仰ぎ見ている「窓の女」がいた。谷は、その女子患者と恋愛中だったのだ。
「窓の女」との恋愛についても、こちらが質問しなければ、彼は沈黙を守り続けたに違いない。やがて、この恋は実ることなく終わり、谷は同じ詩人仲間の女性と結婚する。相手は大学で教鞭をとっている、とびきりの才媛だった。
この結婚を知らせる手紙で、谷は新婚旅行の際、私のところに立ち寄りたいと言ってきたが、結局、これは実現しなかった。
谷はその後、父のあとを継いで、玩具問屋の経営に当たるようになる。私は詩人肌の彼が、玩具業界でちゃんとやって行けるかどうか、一抹の不安に襲われたものの、彼ならば大丈夫だろうと思い返した。世に出てからの彼は、堅実に身を処して誤らなかったからである。
しかし谷の会社は倒産した。会社がつぶれるまでには、友人に裏切られたり、いろいろな修羅場があったようである。が、彼は手紙で淡々と倒産の事実を告げ、すべての残務整理を終えた後で、口辺に苦笑いを浮かべているような筆致で「今では、関係の公庫に月*万円ずつ払っているだけです。倒産のことについて口にする者は、もう誰もいません」と書いて来た。
私は、谷が倒産によるショックを軽く受け流して、素早く「平常心」に戻ることができたのは、育ちがいいからに違いないと思った。ああいう人柄は、普通の家庭からはなかなか生まれてこないものだ、すべてに行き届いた温かな家庭で育ったから、苦難に臨んでも取り乱さない心豊かな人間になったのだろう。
その後、谷と私の間の文通は途絶えた。谷が転居し、私の方も転居して、互いの住所が分からなくなったからだ。その谷の訃報が、今年の5月18日に届いたのである。
詩人の裏面
谷は、既に3月14日早暁に急逝していたのだった。谷夫人によれば、音信不通になってから、彼はそのことを気にして私と連絡を取ろうとしていたという。だが、それを果たさないうちに亡くなってしまった。それで、夫人は私の以前の住所宛に夫の死を告げる手紙を書き、宛先不明でそれが戻って来ると、夫人は当地の新聞社宛に問い合わせの手紙を出して、ようやくこちらの現住所を探し当てたのだ。
夫人は、谷の死顔が俗事を超えてもう一つの宇宙に旅立つかのように穏やかだったと言っている。そして、夫が献体登録をしていたので葬儀は行わなかったと、付け加えていた。谷はいかにも彼らしい死に方をしたのである。
これを機に、夫人と私の間に数回の手紙の往来があり、私は彼女から谷夫妻が関係していた詩の同人誌を贈与され、更に谷が書き残した日記のコピーを送ってもらった。私はそれまで、漠然と彼はいいところで育った苦労知らずのお坊ちゃんではないかと考えていたが、思い違いをしていたのである。
出生の時点から、谷の前には悲しみと苦しみが待ち受けていた。彼の母親は、彼を生んでから十日後に死んでいる。実の姉も小学校6年で病死しているから、結核による家庭内感染という事情があったかも知れない。母の死後、父は死んだ妻の妹を後添えにしている。叔母が、彼の第二の母になったのだ。
昭和20年3月10日の東京大空襲で、谷の家は焼け失せてしまった。父は、焼け跡で露天商をして再起を図り、まだ少年だった谷もその手伝いをしている。一家協力して家業を再建して、ようやく一息ついたと思ったら、谷は結核を発病して療養所に入ることになるのだ。
療養所で彼は、肺の摘出手術を受ける。が、合併症を起こして長い間、死線をさまよっている。気管支瘻(気管支が腐る病気)と膿胸を併発し、手術をしなかった方の肺にも結核菌が転移したのだ。 彼は再手術を受けることになり、個室のドアには「面会謝絶」の札が掲げられた。強心剤やらブドウ糖やら、日に5,6本注射される日が続いた。結核という病気の特色は、最後まで意識が混濁しない点にある。彼は自分でも(もう、駄目かも知れない)と覚悟を決めた。
私が谷と知り合ったのは、綱渡りするような危険で長い療養の末に彼がようやく回復した頃だった。この頃、彼は信仰の面でも新しい段階にさしかかっていた。
それまでの彼は、祈ることが出来なかった。それは彼が神に正対していなかったからだったが、手術後の死線をさまよっている時期に、彼は苦しい息づかいの下で何度か主の名を呼んでいる。胸の中に居座っていた不安の塊が、ふと崩れ始める瞬間とか、不意に瞼の裏を、影を引きながら光が通過するのを感じたときに、彼は主の名を呼んだ。
彼が自分の信仰について語ろうとしなかったのは、神との関係が微妙な段階に入っていたからだった。谷夫人は、「夫は結局クリスチャンにはなりきれなかった」と見ている。慎重だった谷は、あの頃、おのれの信仰についても誠実に見守る姿勢をとり、他に口外することを避けていたのだ。
彼の詩には、「崖」とか「壁」をテーマにしたものが多い。谷が自分の前に立ちはだかる「壁」を最初に感じたのは、家族が力を合わせて焼け跡から立ち上がろうとしていた時に違いない。彼の姉も、この苦闘のさなかに死んだのだろう。
次に彼がぶつかった壁は、病気との闘いだった。ここで危うく彼は敗北しそうになるが、ついにこれを乗り越えて退院することに成功する。
最後の壁は、倒産だった。私は、谷がこの危機を平静な気持ちで乗り切ったと思っていた。しかし、夫人の意見は違っていた。彼女は倒産前後に彼が味わった苦悩が、今回の病気の遠因になっていると考えている。ショックは、それほど大きかったのである。
谷と40年間生活を共にしてきた夫人は、夫の「持ちこたえる能力」に注目し、夫の生涯は耐え続けた生涯であり、肉体がその負荷に耐えなくなったときにくずおれたと考えている。
ほぼ半世紀前に、私は療養所で谷という若者に出会った。彼と親しくしていたのは、一年にも満たない短い期間で、当時、私は相手の人間の外側を見ていただけだった。しかし表皮を撫でただけでも彼の優れた人柄が分かり、谷という男は私にとって終生忘れがたい人物になっていたのだ。
その彼の生涯のあらましを、50年近い時間を経て、私は今やっと知ることが出来た。谷は、ようやく私にその実像を見せてくれたのである。
在家仏教論者の久保田冬扇の辿った行路には、格別に悲惨なものがあった。私が退院してから五年後の昭和三十四年、彼の属していた病棟が移転・改築されることになった。これが完了するまでに多くのトラブルがあり、重症者達の病棟主任看護婦に対する不満が強くなって行った。
この時、久保田冬扇は重症者グループの代表者として、先頭に立って主任と戦った。気負った彼の行動に多少の行き過ぎがあったことも事実らしい。十月一日、彼は突然注射を打たれ、療養所の入口に待機していた輸送車の中ヘタンカで運びこまれた。そして、ロボトミー手術をすることで精神病者達に恐れられているS精神病院に移されたのである。
この病院に一年半「監禁」された後に、久保田冬扇は精神病の疑いも晴れて別の結核療養所に移された。この頃、彼は手札型の写真を手紙の中に同封して送ってきている。車椅子に坐り、膝の上に毛布をかけ、カメラの方に向って微笑している写真である。
彼はこんなに元気になったから、そろそろ年来の計画である舟上生活の実現に取りかかりたいと書いていた。彼は将来、小さな屋根つきの和舟を買い、これに中古のエンジンを取りつけて東京湾で漁業をして暮すという夢を頑強に抱き続け、これが彼を精神病と認定させる原因の一つになっていたのである。
それから数年間、久保田冬扇の消息は絶えた。そして久し振りに年賀状が彼から来たので差出人の住所を見ると「神奈川県横須賀市何々通り何々商店前に繋ぐ久保田丸」とあった。私は驚いて、その住所にあてて手紙を書いたが、それは宛先不明の付箋がついて返送されて来た。私はそれ以後、今日まで久保田冬扇の消息を知らない。
久保田冬扇の消息を知ろうとして、私なりに手を尽くしてみたが、現在に至るも成功していない。6年前、はじめてパソコン通信に手を染めたときにも、まず、佛教関係のフォーラムに参加して、「尋ね人」のメッセージをアップした。それを読んで、協力を申し出てくれた会員もいたけれど、やはり、未だに彼の消息は掴めないでいる。彼が生きていてくれるとしたら、90代の半ばになるはずである。