カエルの鳴き声
朝日新聞には、「声」という投書欄があって、政治・社会に関する読者の投稿が載っている。5月13日の「声」には、65歳になる森信子という主婦の投稿が載っていた。
「田のカエルの鳴き声に包まれて」
という題名の、政治とも社会とも関係のない投書である。カエルの鳴き声にからめて人生の哀歓を記した、しみじみとした投書だった。
この人がカエルの鳴き声を深いところで受け止めた最初は、検査入院をしている母を見舞って家に戻るときだった。母に告げられた病名は重いものだったから、筆者は不安と悲しみで泣きながら車を運転して自宅に帰り着いたのである。
車を降りた途端、辺り一面でカエルが鳴き始め、私を包み込んでくれました。地の底からわき上がるような鳴き声は、あっけらかんとしていました。私の顔は思わずほころび、慰めと励ましを感じました。
その母も亡くなり、ようやく悲しみが癒え始めた頃、息子が始めて恋人を家に連れてきた。その夜もカエルが鳴きしきっていたので、息子の恋人はびっくりしていた。やがて、初孫が誕生すると、その日もカエルたちは、それを祝うように喜びの合唱をしてくれた。
この主婦は、そういう思い出を記しながら、最後にこう書いている。
都会育ちの嫁は「カエルがやかましくて眠れない」などとこばしますが、私はカエルの鳴き声を子守歌代わりに、平穏な生活に感謝しながらぐっすり眠ります。
これを読み終わってから、私も20年ほど前、購読している地方紙の「生活雑記」欄にカエルの鳴き音について投書したことを思い出した。だが、何を書いたのか、おぼろげにしか思い出せない。その切り抜きを探し出して読んだら、以下のような内容だった。題名は、「音楽と蛙の声」となっている。
(変色した切り抜き)
農作業の終わった昨秋から、音楽漬けの毎日を送っている。 朝食を済ませ、新聞を小脇に抱えて二階の自室に入ると、まずステレオにオーディオテープをセットし、クラシックをかけてから新聞を開く。そして午前中は音楽を聞いているのだ。
それ以後も暇があれば、FMやテープを聞いている。家の中のどこに行っても音楽が聞けるように、去年の暮れに新たにミニコンポを2セット買い足して、各部屋に配置するようなこともした。
テープは六年前、自分でFMの番組から録音して作ったもので、カセットケースにぎっしり詰まっている。私の場合音楽に対する関心は、四、五年の間隔を置いて定期的に起こって<る。前回の熱中期に私は、これはと思う曲を片っ端からテープに取り、そのままケースの中に眠らせておいたのである。それを退職して五年たった今、一本ずつ取り出して聞いているのだ。テープを聞くことには、一種、センチメンタルジャーニーといったおもむきがあるのである。
昨日の昼近く、自室でカセットを取り替えてスイッチを押したら、いきなりスピーカーから蛙(かえる)の声が飛び出してきた。一瞬あっ気にとられたが、すぐにこれは去年の春、家内と一緒に夜の田んぼに行って録音してきたテープだということに気がついた。
家内の母親が病床について、しきりに「カワズの声を聞きたい」と言っているというので、蛙の声をテープに取って持っていくことにしたのだ。八十五歳になる義母は東京の自宅で何十年も幕らして今はすっかり都会人になっている。しかし、病気になってから子供のころ信州で聞いた蛙の声をなつかしく思い出して矢も盾
もたまらなくなったのだ。夜の田んぼにでかける時、買い置きのテープがなかったのでカセットケースの中のオーディオテープを持っていき、上京して義母に聞かせたあとでそれをまたケースに戻しておいた。今聞いているのはそのテープなのである。私はテープが終わるまで、沸き立つように鳴きたてる蛙の声を聞いていた。あの時の暗い水田や早苗の下に映るアパートの灯が思い出された。
一日中音楽漬けになって、西欧の響きに浸っている私の耳に蛙の声はいかにも土俗的だった。しかし、その土俗的なもので私は蘇生生したような気にもなったのである。
(伊那市・無職・65歳)朝日新聞に投書した林信子さんが書いているように、田植え後の田んぼで鳴きしきるカエルの声は、都会育ちの人々の到底想像できないほどの賑やかさである。一度、聞いてみることをお勧めしたい。
(注:カエルのことを、カワズというのは伊那地方の方言)