切れ味抜群のエッセー
久しぶりに切れ味のいいエッセーを読んだ。今日の朝日新聞に、池澤夏樹の「終わりと始まり」と題するエッセーが載っていたのである。
池澤夏樹の小説は、芥川賞受賞作品の「スティル・ライフ」を「文藝春秋」で読んだだけだが、これは作者の明晰な頭脳が一目でわかるような作品だった。生来魯鈍な私は、こうした知的な小説やエッセーを読むと、すぐ感心してしまう癖がある。その後、彼の明快なエッセーや評論を新聞紙上などで読んでいるうちに、ますます池澤夏樹という作家に惹かれるようになった。
今回のエッセーで、彼は目下の政治情勢を取り上げている。
池澤夏樹は、「政治家は悪党か無能かのいずれかだと思っていた」と書いておいて、こう続けるのである。
「この国民にしてこの政府、というのならまだ納得できるが、どうも政府のレベルは国民のそれを下回ってきたようだ。」
政府や政治家のレベルが国民の平均値以下にまで落ちこんだのは、政治家の二世三世が跋扈するようになったからではないかと、彼は考える。そして、アメリカでも政治家の二世が増えてきたために、こんな冗談が語られているといって、その冗談を紹介するのだ。
「あの人たち、自分が三塁にいるから三塁打を打ったと思っているけれど、違うのよ、三塁で生まれただけなの」
彼はこの面白い話を紹介した後で、話題を国内問題に移し、ここ数代、日本の首相はみな三塁で生まれた人たちだったと指摘する。そして、彼らの誰もホームベースを踏めなかった、全員残塁、と続ける。この辺が、余人の追随を許さぬ辛辣なところなのである。
池澤夏樹が、最も厳しい目で裁断するのは小泉純一郎なのだが、これも首肯できる。彼は次のように書く。
「小泉政権はあからさまなリバタリアン(自由至上主義者)だった。
儲けられる立場の者はいくらでも儲ければいい、政治はそれを応援するという姿勢。好況になれば富は下の方まで流れてくるというトリクルダウン理論だが、これはまったく機能しなかった。
下流で待っていても何も来ないという悲しい流し素麺」
実際、小泉純一郎は、狡猾で自分本位の政治家だった。正真正銘の「悪党」だったのである。彼が首相だった頃は、デフレで国民は財布のひもをしっかり締めて金を使わないようにしていた。一方で、財政赤字はふくれあがる一方だった。
この状況を見て当時の経団連会長が、消費税を毎年1パーセントずつ上げていったらどうかと提言したのだった。消費税が毎年上がるということになれば、国民も値上がりを警戒して財布のひもをゆるめるだろうし、財界が一致してこの政策を支援するというのだから、金持たちも政府が所得税の累進税率引き上げても文句を言わないはずである。
だが、経団連の折角の提言を、小泉はすげなく拒否してしまう。そして、「わが内閣は、在任中に消費税を引き上げない」と揚言したのだ。過去の例をみると、消費税を上げた内閣はいずれも、次の総選挙で敗北している。彼は自らの内閣延命のために、みすみす国家財政立て直しのチャンスを逃がしてしまったのである。
小泉元首相の常套手段は、自分の得にならないことには手を出さず、ツケを次代にまわすことだった。私はこんなに小狡い政治家を見たことがない。
池澤は、菅内閣の目指す「最小不幸社会」実現政策を、小泉政治を完全否定するものとして支持している。だが、手放しで民主党を支持しているのではない。彼は民主党に対しても、厳しい目を向けている。
「民主党は雑多きわまる烏合の衆であるし、中でどれだけの利害の力学がうごめいているかわからない」
と一太刀浴びせた後で、彼は、「せめてこの国に不幸な人の少なからんことを目指したい」と述べて、この切れ味のいいエッセーを終わりにしている。
池澤夏樹の言っていることに、特に目新しいものはないけれども、比喩は巧妙だし、行文もなめらかで、読後に爽快感が残る。私は久しぶりにすっとした気分になったのである。