宗教者の戦い

某宗教団体のリーダーが、世界各国から勲章やら**博士というような称号をかき集め、その数が合計200に達したという記事を読んでため息をついた。そのリーダーは仏教者を名乗り、その組織も仏教信者の団体なのだから、仏教が名聞利養を何より嫌っていることを知らないわけではあるまい。にもかかわらず、このリーダーは名聞の餓鬼になって、勲章集めに日夜奔走しているのだ。仏教について少しでも知識のある者は、このリーダーを見て恥を知らない人間のこわさのようなものを実感するに違いない。

これに比べたら、フランシスコ会日本支部の管区長だった本田哲郎のいさぎよさが目を引くのである。

本田哲郎は、「釜ケ崎と福音」という自著の中で、自分の過去は「名聞」への欲求に対する戦いだったと語っている。次に、以前にブログに載せた文章の一部をここに再録して、同じ宗教団体のリーダーでも、その資質に天と地ほどの違いのあることを知ってもらいたいと考える。

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本田哲郎は1942年に台湾で生まれたが、日本が戦争に敗れたため両親の故郷の奄美大島に引き揚げてきた。引き揚げて分かったことは、父親には7人の兄弟がいて、そこに何故か7人位ずつの子供がいることだった。つまり、本田のイトコが40数人もいたのである。奄美大島には昔からクリスチャンが多く、一族も皆カトリックの信者だったから、本田は何の違和感もなく教会に通うようになった。

田舎のこととて、子供達はおじさんやおばさんの家を自分の家のように思って遊びに行った。そして、飯時になれば当然のようにその家でイトコたちと一緒にご飯を食べた。何処の家に行っても、大人から聞かされるのは、「クリスチャンらしくしなさい」ということだった。だから、本田は子供心に、「まわりからさすがにクリスチャンの子だと褒められるようになろう」と思うようになった。

彼は、学校に行けば友達の喧嘩を仲裁をし、教会に行けば神父の望むような受け答えをする模範的な子供になった。そんな自分を本田は「よい子症候群」にかかっていたと述懐する。

「そういう育ち方をしたわけですよ」と本田は語る。「それは別に悪いことではないのではないかと思われるかもしれませんけれども、よい子というのは、実は、裏を返すと、顔色を上手に見る子ということです。

そして、まわりからよい子を期待されると意識せずによい子を演じてしまう。要するにわたしは心理学者がいう、いわゆる「よい子症候群」にかかっていたに違いありません。自分自身の本音の部分をいつも抑えてしまう。そして、まわりに合わせよう、合わせようとする。そうすると、まわりの人たちは、『この子はすなおだ。穏やかで、判断力もある。なかなか立派じゃないか』と見てくれる。

だけど、自分自身の中ではいつも、どう期待に応えようかと、自分がどこかへいなくなってしまうわけです。私はそんな子でした」(「釜ケ崎と福音」)

模範生気質がすっかり身に付いた本田は、反抗期を一度も経験することなく高校に進み、それからカトリック系の上智大学に入学する。そして、「ひとからよく思われたい、さすがと一目置かれたい」と願い続けながら大学を卒業するのだ。

大学卒業後、カトリックの修道会である「フランシスコ会」に入会した彼は、相変わらず「人からよく思われたい、さすがといわれたい」と思い続け、「よい子症候群」に一段と磨きをかける。大学を出てからも彼の研鑽は続き、上智大学神学部修士課程を終了後、ローマ教皇庁立聖書研究所に入学するのである。

本田の頭にあるのは、教授達に認められたい、チャンスがあったら抜擢して貰いたいということばかりだった。だから、ローマ教皇庁の研究所に派遣されることが決まったときなど、ヤッターと踊り上がるほどうれしかった。

「しかも仲間の同級生などにはそぶりも見せず、自分だけはくそえんでいるようないやらしい自分でした。そんな調子で神学校を卒業し、わたしは神父になりました。

神父といえば、それなりの宗教家のはずです。その宗教家の一人である自分が、何とまあ、人の思惑ばかり、どんなふうに見てもらえるかといった、そんなことを気にしながら、自然と陽のあたるところを選んでいる。そんな神父だったわけです」(「釜ケ崎と福音」)

帰国した本田は、神父として信者に説教する立場になる。説教が終わると信者たちが寄ってきて「お説教はとてもよかったですよ」「目からウロコでした」と褒めてくれる。すると、彼はうれしくて仕方がない。次にはもっと褒められるような話をしよう、聴衆を仰天させるような説教をしようと思う。

信者から尊敬される優秀な神父になるためには、それ相応の努力が欠かせない。本田神父は懸命に努力を続け、その努力の甲斐があって、彼は選挙によってフランシスコ会日本支部の管区長に選ばれるのである。

管区長になったら、フランシスコ会に所属する220名の神父・修道士を指導監督しなければならない。本田は、北海道から沖縄まで全国に展開する教会や福祉施設を泊まりがけで視察して歩いたが、最も強い印象を受けたのが釜ケ崎の教会施設だった。彼は管区長としての6年間の任期を終えると、志願して釜ケ崎に赴任するのである。

管区長まで上りつめた本田が、一転して釜ケ崎に赴任したのはなぜか。何が彼の出世主義的な人生コースを変えさせたのか。この本の書かれたポイントもそこにあるような気がするのに、彼はこの点について何も語ろうとしないのである。そこで私は、その理由について次のように考える。

教区長に選ばれた本田神父は、内心で一種の恐怖に襲われていた。周囲の目ばかり気にしている世にも卑小な自分が、日本における「フランシスコ会」の責任者になっていいものだろうか。自分は子供の頃から引きずってきた「よい子症候群」から、何としても解放されなければならないのではないか。

彼は祈りによって自分のイヤな性格から抜け出そうとして、必死になって祈った。一年、二年、いくら懸命に祈っても効果はなかった。

自己の性格改造に取り組むようになってから、本田はキリスト教の信者の中にも自分と同型の人間が数多くいることに気づくようになる。本田は口を緘して語ろうとしないけれども、彼はキリスト教界全体が自分と同じ病を病んでいるのではないかと思うようになったのだ。特に、保守的で富裕な信者の多いカトリック教徒には、貧者や弱者への慈善を誇示する偽善的な信者が目立つように思われた。

自分にもキリスト教界にも嫌悪を感じるようになった彼は、次第に上品で偽善的な教会に背を向けて、それとは反対の世界に目を向けるようになった。彼は教会視察のため大阪の西成地区に赴いた際、「フランシスコ会」の経営する福祉施設「ふるさとの家」に泊まりこんで、自ら奉仕活動に参加するようなこともはじめた。

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本田神父は教区長の任期を終えてから、釜ケ崎に赴任し現在に至っている。

彼は神父でありながら、教会の信者を増やそうとは思っていない。それどころか、彼のところに洗礼を受けたいといってくる者があると、「洗礼を受けない方がいいんじゃない? 信者みたいなもん、ならん方がいいよ」というのである。

彼がこんな態度を取るようになったのは、洗礼を受けたホームレスが同じ仕事仲間、野宿仲間を、「あいつら」といって見下げるようになるからだった。彼等は、洗礼を受けて信者になったことで、仲間より一段偉くなったような気になるらしかった。

本田神父は、現在、「ふるさとの家」で散髪の奉仕をしている。週に4回、一回に30人くらいの散髪をしているから、月に500人の頭を刈っていることになる。こうした彼の活動を背後から支えているのは、イエスに対する彼の独特な見方だった。

次に「釜ケ崎と福音」を読まれた向阪夏樹さんの論評も、ここに転載させてもらうことにした。われわれの考え及ばないような斬新な着想に満ちた論評です。

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さて、(「釜ケ崎と福音」を)一読したとき、「神は自身の創作の瑕疵(=原罪)を繕うためにイエスを遣わしたこと、すなわちそれを基本的なコンセプトとして人間によって編まれたものが聖書ではないか。」と、そんな想いに至りました。そうした感慨は必ずしも著者が懐いているものと同じものではないかも知れません。それは、とりわけ山上の説教の一節「心の貧しい人々は幸いである」(新共同訳)での「心」に関する新しい理解の提示に表れています。著者は「心」を「霊」(神とコミュニケイトできる存在様態)と位置付け、「貧しい」とは「霊」として満たされていない状態を云い、神がそうした「霊」と共にあり力づけることを「幸い」と解釈します。すなわち、「霊」として貧しいからこそ神は寄り添い力づけてくれる、だから願っていることの実現のために行動を起しなさい、そうイエスは自身も貧しき人々の中にあって説き明かしているのだと、それが著者の覚醒であったのでしょう。

この著書の特筆すべき価値は著者が自身の信仰(生活)を対象化していく過程が描かれているところにあり、おそらく司祭叙階のキリスト教者の手になるものとしてはやはり異例の部類の内に入るのではないでしょうか。それが却って、読者をして、少なくとも私にとっては福音にたいする理解を深めることになったと云えると思います。確かに、自らの信仰(生活)を対象化し、より宗祖の教えの真髄に忠実に生きようとする宗教者は少なくはないと想われます。ただし、同時に創造論までを対象化することは難しいのではないかとも想われ、それが本田氏の活動の限界性を浮上させることにもなり兼ねないのではと推察しています。何故なら、創造論の対象化とは信仰の根拠に対峙することと同義であり、それには本田氏にとって時間もエネルギーも最早残ってはいなのではないかと想われるのです。

ところで、「V いま、信頼してあゆみ始めるために」に提示されている活動の個別的成長論は、より大きな運動体を如何に組織するかと云った組織論の欠如を除けば権力に対抗していくための姿勢(構え)を説いたものとして、今も尚色褪せぬ重要な見識であり、例えば権力の横暴を感受したときには何人も中立であることはできないこと等、まさしく良識派の真情を言明していると感じます。聖書の再読及び再点検を契機としたエネルギーを駆動力に本田氏がこうした認識に辿り着いたことは、元来(原始)のキリスト教の本質が救済というよりはむしろ抵抗のイデオロギーと云った側面が強かったからではないかと改めて意識しました。勿論、強固なハイアラーキーを築いてしまっている現在の多くのキリスト教会が最早そうした本質とは全く無縁のものであることは言辞を必要としないでしょう。

私流に解釈しますと隣人愛の本義は生きるための糧を他者に与えることではなく、現代社会においては仕事を分かち合うことだと考えています。多くを得ている者から奪おうとするのでなく、例えば平均よりも5割多くを得ている人が全く仕事がない一人にその5割分の仕事を分かつことでよいのです。つまり或る一人が他の一人に仕事を分かつことが隣人愛の基本的なモメントになります。しかし、何故人間はそうできないのでしょうか。キリスト教者はそれにどう答えるのでしょうか。仏教者もまたはどう答えるのでしょうか。私は宗教的認識でこの問題を捉えることが可能かどうか疑問視しています。寧ろ発生学的な見地を基本にした生物の行動学的考察が重要ではないかと思っています。ただし、それによって歓迎できない結論が導かれることがあり得ますし、そのときには宗教に再登場を願うのもよいかも知れません。

追伸

私の考えがユニークなのではなく、しかしもしそうであるとしてもその根源の大部分は本田氏の聖書解釈に負うているのですが、著書の文脈の延長線上にあるものを類推することによって自ずと導かれ得る結論ではないかと想っています。神父としての存在理由を自身に問うたプロセスがよく描かれている著書ですし、「神は自身の創作の瑕疵(=原罪)を繕うためにイエスを遣わしたこと、すなわちそれを基本的なコンセプトとして人間によって編まれたものが聖書ではないか。」は、おそらくイエスが振舞う手となり足となって伴にあるということに本田氏が自己の存在理由を見出したであろう根拠を推察してみたときに到達した全くの私見です。

人との出会いは勿論のことすが、時々事物との出会いにも妙なるものがあると感じることがあります。人は身辺的な事情の理不尽さに苛まれて信仰に救いを求めるか、あるいは社会的な矛盾や不条理に気づいて思想的に目覚めるか、本田氏の問題意識の本源を辿れば宗教的生活は却って回り道になってしまっているのではないでしょうか。古くは内村鑑三もそうだったのかも知れません。自らの意識下に潜む日本的なもの(日本的アナキズム)と西欧的なもの(キリスト教的アナキズム)との融合化を志向したものの、二つの文化にある原初的な捩れを修正することに成功しているようには想われません。寧ろ生来的な思想的特質がダイレクトに社会主義思想に結節していったならば、内村鑑三にとってもっと早い時期に大きな業績を遺せたのではないかと想われるのです。

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