広津和郎の光と影

(1)

広津和郎の「年月のあしあと」を読んで感動してから今日までに、44年がたっている。この間に、本の内容はあらかた忘れてしまった。けれども、印象に残っている点が三つほどある。

一つは、島村抱月に関する記述で、広津和郎は早稲田大学の学生だった頃、抱月が講義の合間にふと漏らす溜息のような言葉を忘れられないと書いている。抱月は、例えばこんなふうに感想を語ったというのである。

「知人から手紙を貰う。返事を書かなければならないと思いながらいたずらに時間が過ぎて行く。こんなところにもディケイの形があります」

抱月の口ぶりからは、日々自己が崩壊して行くのを眺め、それをじっと見守っている虚無的な姿勢が感じられた。子供の頃から自分がこの世に仮に住んでいるという虚無感を抱きながら生きていた広津和郎は、島村抱月のなかに自分と同質のものを感じたのだった。

もう一つ私の印象に残っているのは、父の広津柳浪に関する記事だった。文壇は硯友社時代から自然主義時代に移り、父の活躍舞台はなくなってきたが、娯楽的な読み物を書けば、まだ原稿料を稼ぐ余地があった。だが、父は一家の経済がどん底に落ちてもペンを取ろうとしなかった。広津家はしまいには電灯料が払えなくなって電気を止められ、ランプで夜を過ごさなければならなくなったが、にもかかわらず、広津柳浪は家族に向かって弁解がましいことは一言もいわない。彼は執筆していた頃の習慣を守り、深更まで自室にこもり、机の前で物も言わずにじっと座っているだけだった。

広津和郎は、「自分が金のないことにコンプレックスを感じないで済んでいるのは、父が貧乏の弁解や繰り言をいわないところを見ていたからだ」と語っている。広津は父広津柳浪に絶対的な信頼を寄せていたのである。

兄俊夫に関する記録も、印象的だった。

広津の兄は、子供の頃から盗癖があって近所の家や友人宅からこっそり金品を持ち出していた。両親は苦情を持ち込まれるたびに、その返済と謝罪に追われていた。それに兄は病的な虚言癖を持っていたから、二人だけの兄弟だった広津も、しばしば兄から煮え湯を飲まさた。

兄弟の実母は、広津が8才のとき病死し、その四年後に父は後妻を迎えていた。作家が後添えを貰うと、「不良性のある息子」が歯をむいて反抗するところは、どこの家でも同じらしかった。広津の兄が義理の母に激しく反抗したところは、幸田文の弟が義母に反抗したのに似ている。

中学生の兄が、朝になっても何時までも寝ているので義母が起こしに行く。すると、兄はさもうるさそうに義母の顔をにらみつけて寝返りを打ち、後は布団をかぶって不貞寝をしてしまうのだ。旧派の和歌を詠むことを唯一の楽しみにしていた義母は、和綴じの日本古典全集を大事にしていた。その本を古本屋に売り飛ばして小遣い銭にかえてしまったのも兄だった。

広津は、兄と違って一度も父から注意されたことがなかった。それは、兄があまり無責任なことばかりしでかすので、自分が兄に替わって責任を負わねばならず、「いい子」として生きざるをえなかったからだと、広津はいう。「兄が先鞭をつけてしまうので、私は兄と同じ道を行けなくなってしまった」と彼は「兄弟」という作品のなかで打ち明けている。事実、広津和郎の夢は、世俗に拘束されず、竹林の七賢人のように怠け者として生きることだった。

今度、「広津和郎全集」を手に入れたのを機に、私は埃まみれになっている「年月のあしあと」を棚から探し出して再読してみた。そして自分がこの本の枢要な部分を記憶からスッポリ脱落させていることに気づいたのだ。私が記憶している三つの話は、むしろ本筋から離れた周辺部の挿話であり、中心は本の函にまかれた広告文にあるように「自伝的文壇史」たることにあるのだった。

この本には、作家になろうとは思っていなかった広津が、同人雑誌「奇蹟」のメンバーになり、宇野浩二や葛西善蔵や芥川龍之介と交わりを深め、次第に文壇で重きをなしていく過程が描かれていた。そして、その中には、作家仲間をながめる広津の眼識の確かさが随所に見られた。読んでいると彼の稟質の高さが改めて再認識させられるのである。

人間を見る広津和郎の目は、単に正確であるだけではなかった。情理を兼ね備えているのである。大岡昇平をはじめとして人間を見る目の確かな作家は多いけれども、それらは理に偏してふくらみを欠いている。しかし広津和郎の視線には、相手を柔らかく包む余裕と温かさがあった。人間通としての視野の広さがあるのである。

彼は16才になったとき、早くも尊敬する父に対して苦言を呈している(「兄弟」)。父は長男と二番目の妻が争うのを見て、息子の味方をするのが常だった。不貞寝をしている兄を義母が起こすのを見て、兄を注意する代わりに「お前の起こし方が悪い」と義母を叱ったりしていた。すると、家の中の空気が目に見えてとげとげしくなるのである。

 「父さんが誰よりも母さんを庇うようになさらなけれ
 ば、家の中がうまく行かないと思います。兄さんや僕は
 これから育つて行く身ですから、ほっといて下さっても
 育って行きます。しかし母さんは父さんが庇って上げる
 以外に、仕合せになりようはない方です」

広津は16才でそんなこざかしい助言をしていた自分を嫌悪しているが、この聡明さこそ広津の持ち味だったのだ。後年、松川事件を徹底的に調べ抜き、無罪判決を勝ち取った明敏さが、すでに少年の段階からあらわれている。

ほかに「年月のあしあと」を読んで見落としていたものに、広津和郎の女性問題があった。彼は下宿していた頃、二才年長の下宿屋の娘と体の関係を持ってしまう。広津は、この関係を、「およそ愛情というものとはほど遠い一種衝動的なもので、はげしい後悔がすぐ後を追っかけてくるようなものだった」といっている。確かにこれは、「私がした(生涯)最大の不始末」と彼が書いているような関係だった。おそらく広津和郎は、毎朝彼の部屋に朝食を膳に乗せて運んでくる下宿の娘と、衝動的にその場で関係してしまったのである。

聡明だっただけでなく、ストイックでもあり、人間としても立派だった広津和郎が、どうしてこうしたあやまちを犯したのか、全く魔がさしたとしかいいようがなかった。しかし、これがきっかけに彼は、作家として大きく飛躍していくのである。

(2)

「年月のあしあと」を再読しているうちに分かったことは、この本には著者と宇野浩二・直木三十五・芥川龍之介らとの交友がいきいきと描かれていて、それが私のこの本を愛読した理由の一つになっているということだった。

私達が、誰か特定の作家を愛するようになるのには、それぞれに特有の事情がある。私の周辺には、直木三十五や宇野浩二を愛読しているような者は一人もなかった。が、私の場合、自宅に直木三十五全集の端本が数冊あったからそれらを読んでこの作家を愛するようになったのだし、宇野浩二も旅先で読む本がなくて困っていたとき、偶然その地の古本屋でこの作家の作品集を買ったのが機縁になって宇野の愛読者になったのだった。その古本屋にはろくな本がなかったから、仕方なしに宇野浩二の本を買ってきたのだったが、宿屋に戻って読んでみたら、意外に面白かったのだ。

反対に広津と縁がなかったのも、偶然の仕業だった。今回、私は広津の全集で、彼が朝日新聞に連載した「泉への道」という長編小説を読んだ。もし当時、私が元気で新聞を読んでいたら、これがきっかけで広津和郎に関心を持つようになったかもしれなかた。だがその頃、私は肺切除という生きるか死ぬかの大手術を受けていて、新聞を読むどころの話ではなかったのだ。つまり、私の読書歴には、エアポケットのような穴があるのだ。入院期間中は映画館に行くことも出来なかったから、この時期に製作された映画も見ていない。だから、映画鑑賞にも空白の期間があって、この時期に活躍していた成瀬巳喜男の監督作品をほとんど見ていない。

さて、広津と宇野浩二の46年余に及ぶ長い交友は、何時どのようにして始まったろうか。松川事件裁判の際にも、宇野は広津の盟友として共同戦線を張って戦ったほど二人は生涯にわたる親友だったのである。

発端は、広津と下宿屋の娘との関係にあった。

広津は、女と別れるべきかどうかで悩んでい。この迷いは、二人の間に子供が生まれ、やがて結婚してからも続くのだが、その煩悶はいかにも広津和郎らしい論理に導かれていた。

彼には女と別れなければならない明白な理由が二つあった。第一に彼は相手を愛していなかったし、第二に彼は大学を出て就職していたが、その薄給の中から知多半島で療養している父に仕送りをしなければならず、とても女と世帯を持つような余裕がなかったのだ。ところが女と手を切りたいという一念が、あまりに明瞭でありすぎたから、かえって広津は躊躇してしまったのである。彼はこの間の自分の心境を次のように記している。

「若し自分が彼女を愛していたならは、目下の自分の境遇を
彼女によく打明けて、そして彼女に別れて貰う事も、出来る
かも知れない。
 
何故かと云うと、若し彼女と別れても、彼女をほんとうに
愛していたという事のために、二人の間に不快な記憶が残
らないで済むからだ。

併し自分は彼女を真に愛してはいなかった。真に愛せずして
罪を犯したのだ。それだから、自分は彼女と別れるわけには
行かない。何故かというと、若し此まま別れたならば、二人
の間に一生不快な記憶が残るからだ。

自分のしなければならない事はたった一つしかない。つまり
、今から改めて彼女を愛そうと心掛ける事だ」

こういう持って回ったような論理の背後には、広津式のストイシズムがある。彼は、ストイックな人間だった。それは不眠症に対する彼の態度にもあらわれていた。彼の不眠症は極めて頑固で、日に二、三時間しか眠れないのは普段のことで、朝まで眠れないことも珍しくなかった。同じような症状に悩んでいた芥川龍之介は睡眠薬を常用していたが、広津は意志の力で薬を飲まないようにしていた。ついに耐えかねて市販の睡眠薬を買ってきたときにも、薬を机の引き出しに入れたまま、結局、最後まで飲まずに済ませている。

広津が、宇野浩二を誘って三保の松原に出かけたのは、表向き翻訳の仕事をするためだった(宇野浩二は、早稲田大学では広津より一年下級だったが、広津の仲介で植竹書院に就職していた)。最初に就職した新聞社を辞めて、植竹書院という出版も手がけている本屋に転職した広津は、翻訳の仕事をするため旅に出ることを許されていたのだ。植竹書院では、トルストイの「戦争と平和」を出版することになり、社員が手分けして本の翻訳をしていたのだった。

だが、三保の松原に出かけた広津の本当の目的は、女との関係に決着をつけるためだった。その時分、女との間に子供がまだ生まれていなかったから、広津がそのつもりになれば相手と別れることも可能だったのである。彼は東京を離れた見知らぬ土地で、自分の気持ちをしっかり見定めようと思ったのである。

翻訳の仕事を終えて、東京に帰ることになったが、まだ広津の気持ちは決まらなかった。そこで彼は下宿に戻ると、必要な手回り品を鞄に詰めて、宇野の家に出かけた。彼は玄関に鞄を置いて、いきなり宇野に声を掛けた。

「当分、僕をここに置いてくれないか」
「ああ、いいとも」

と宇野は二つ返事で、承知した。

その頃、宇野は老母と脳膜炎にかかって廃人同様の兄を抱えて、せまい家で苦闘していたのである。広津は宇野と6畳間で枕を並べて寝ることになり、こうして半世紀に及ぶ広津と宇野の交友がはじまることになる。

その宇野の部屋に、さらに広津の兄が転がり込んで来るのだ。広津の兄は、早稲田大学の政治経済学科を卒業後、名古屋の会社に就職していたが、会社の金を使い込み、身の置き所がなくなって弟を尋ねて来たのである。かくて、6畳間に大の男が三人、すし詰めになって寝ることになったが、そうなっても宇野浩二はイヤな顔一つ見せなかった(広津の兄は、その後、広津の留守中に弟の所持品をすべて売り払って姿を消している。この兄とは、父の葬式のときに顔を合わせただけで、広津はその後ずっと会っていない)。

今度、「年月のあしあと」を読み返してみて、宇野浩二を文壇に送り出したのは広津であることを知った。宇野の文壇へのデビュー作は、「蔵の中」という短編小説で、宇野にこの作品の素材を与え、出来上がった原稿を雑誌社に売り込んでやったのは広津和郎だった。

私は旅先の古本屋で購入した宇野の作品集を読んだとき、「蔵の中」の主人公は作者自身ではないかと思った。この作品は、次々に着物をこしらえては質に入れてしまう衣装道楽の男が、虫干しのシーズンになると質屋の主人に頼んで蔵に入れて貰い、自分の手で着物の虫干しをするという話である。これは広津が雑誌の編集者から近松秋江の逸話として聞き込んだもので、広津はこれを宇野向きの題材ではないかと作品にすることを勧めたのである。

宇野を文壇に送り出してやった広津は、宇野が発狂したときにも親身になって世話をしている。宇野浩二が発狂したときの光景には、哀れをそそるものがある。

(3)

宇野浩二が発狂したのは、昭和2年のことだった。この時、宇野浩二も広津和郎も36歳になっていた。

異変を感じた宇野の妻からすぐ来てくれという連絡を受けて、広津が宇野の家に駆けつけてみると、旅支度をした宇野が、「おお、広津か、これから伊香保に行こうと思っているんだ」と話しかけた。宇野の妻が一生懸命止めても、「いや行く。行くといったら、行くんだ」の一点張りだった。

広津は、「それでは僕も一緒に行こう」といった後で、「その前にちょっと、新潮社に寄っていきたいんだがな」と誘い水をかけてみる。すると、宇野の気持はころっと変わって、「新潮社には、僕も用事がある」と広津の後をついてきた。それから、広津は一日中、宇野をあちこち連れ回して観察を続けた。やっぱり宇野のすることなす事すべておかしかった。

広津は、心の中で嘆息した。──やれやれ、この長い間の道ずれも、とうとう頭が狂ったか。朝から、贔屓目に、いい方へいい方へと解釈してきたが、結局、気休めにすぎなかったな。

帰宅した宇野は、忘れていた伊香保行きのことを思い出して、これから伊香保に行くと言い張り始めた。そして、さっさと家を出て行くので、「そうか、じゃあ僕も一緒に行こう」と広津もあわてて後を追った。往来に出ると、宇野は急に、「俺は、母親がかわいそうでね」と沈んだ声でつぶやいた。広津が、「そうだな」と相槌を打つと、突然、宇野は四つ角で立ち止まった。

「広津、僕の母親を呼んできてくれ」
「うん、呼んでこよう。ここで待っているんだぞ」
「うん、待っている」

広津は家まで走っていって、宇野の母親を呼んでくる。すると、宇野は母親を抱き寄せて、今度は、「広津、女房を呼んできてくれ」と命じ、広津が宇野の妻を連れてくると、次は兄を呼んでこいという。
「広津、かわいそうな兄貴なんだ」

母、妻、兄を呼び寄せた宇野は、三人を抱きかかえて、

「これだけが、宇野浩二の家族だぞオ」

と叫んだ。三人の家族は宇野に取りすがって、悲しそうな目で狂った宇野を見上げている。道を通る人々は、叫び続ける宇野をいぶかしそうに眺めた。

広津和郎は、宇野をなだめすかして家に連れ戻し、その晩、二階の書斎で宇野が寝入るまで枕元で見守っていてやった。

その日から広津は毎日宇野の家に通って、精神病院に入るように宇野の説得を続ける。宇野と親しい芥川龍之介も、毎日様子を見にやって来た。頑として入院を拒んでいた宇野をようやく病院に入れてから、広津と芥川は、もう一人の友人と連れだって帰途についた。上野公園を突っ切って帰途をたどるうちに、彼らは何とか気分を変えたくなった。

「亀戸の魔窟を探検しようじゃないか」

と言い出したのは芥川龍之介だった。そこは娼婦街で怪しげな店が並び、一人で立ち入ることをためらわせるような路地があるのだった。三人は亀戸の魔窟街に踏み込み、そこらの路地を歩き回った。やがて彼らは疲れてきて、喉もかわいた。そこでお茶でも飲ませてくれる店はないかと芥川が先に立って物色を始め、一軒の店をのぞき込んだ。

「お茶だけでいいんだ。休ませてくれないか」
「いいですよ」

中にいた女がそういって立ち上がった。

その瞬間に、芥川はさっと顔色を変え、脱兎のようにその場から逃げ出した。
「おい、どうしたんだ」と広津が、後を追って行くと、芥川は十間ほど先の電信柱にしがみついてぶるぶる震えていた。

「見たかい、あれは幽霊だ」

と青ざめた顔になって芥川が教えた。彼がいうには女が立ち上がって顔の全面を見せた瞬間に、相手が幽霊だと分かったというのである。広津の目には、どこといって変わったところのない、ありきたりの女に見えたが、芥川は幽霊だと信じて疑わないのだった。広津には、そういう芥川の方が幽霊に見えた。芥川の顔はすっかりやせ衰えて、ただ唇ばかりが赤かったのである。

広津和郎が、芥川龍之介に会ったのは、それが最後だった。その一ヶ月後に、芥川は自殺している。

広津が親しくしていた作家仲間は、この頃、次々に悲運に見舞われている。広津も下宿屋の娘と衝動的な関係を持ったり、出版業に手を出して借金を背負い込んだり、人並みの苦労をしていたけれども、そのことで乱れたり、おかしくなることはなかった。私はまだ広津和郎全集の評論編を少し読んだだけだが、何となくその理由が分かったような気がしている。

彼は、トルストイとチェーホフを読み比べて、チェーホフの方に親近感を感じる。広津はトルストイを硬直した理想主義者、チェーホフを柔軟な現実主義者として見ているらしかった。広津はチェーホフを師として仰ぐことによって、理想を追求するあまり、「人間の自然性」を踏み出してしまうことの危険性に気づくようになったのだ。

彼は理想に呪縛されることなく、人間世界の現実相を冷静に眺める。そして破綻した友人や仲間に温かな手をさしのべる。「年月のあしあと」を読むと、あの性格破綻者の葛西善蔵さえも、広津を頼りにしていたのである。

葛西善蔵は、広津に批判されたことで腹を立て、広津とは絶交状態になっていた。広津は、そういう相手に逆らわず、葛西に近づかないようにしていた。だが、葛西が久しぶりに雑誌に発表した「蠢く者」という作品を読んで、これは捨て置けないという気持ちになった。その小説には、肺患が重くなって喀血した葛西を、同棲している愛人のおせいが殴ったり、いたぶったりするさまが描かれていた。

葛西善蔵は、相手をいじめながら、作品の中で相手からいじめられたと書き、加害者の癖に被害者を装う癖のある男だった。だから、広津は「蠢く者」のすべてを信用したわけではなかったが、とにかく一度様子を見に行く必要があると考え、夜、本郷にある彼の下宿を訪ねたのだ。

部屋に入ると、やつれて髭ぼうぼうになった葛西が、編集者を呼びつけて口述筆記をさせていた。

葛西は広津を見るや否や、立ち上がって抱きついてきた。

「おお、広津、とうとう来た、広津はやっぱり来た」

そう言いながら葛西は、広津の顔をぺろぺろなめ回すのである。葛西がおせいに殴られているというのは嘘らしく、おせいは部屋の隅にいつもの従順な様子で、ひっそり座っていた。

その葛西が、相談したいことがあるから来てくれと広津に電報をよこしたのは、芥川が自殺した翌年のことだった。行ってみると、葛西は丹前姿で布団に寝ていた。彼は前よりさらに衰えて、眼鏡の底から、目をぎょろりと光らせて、重症の結核患者特有のかすれ声で話しかけてきた。

「もう、おれも駄目でのう」

相談したいことというのは、その頃、円本を出版していた改造社に行って、これから刊行されるはずの自分の本の印税4000円をもらってきてくれという依頼だった。4000円というのは、当時としては破格の金額だった。

「どうして一遍にそんな大金が必要なんだ?」
「おれも死に場所が作りたくなってな」
「死に場所?」
「ああ、田舎に行って、林の中に小屋を作って、そこで死にたいと思ってな」
「おせいさんも、連れて行くつもりか?」

と広津は声を潜めて訊ねた。隣室には愛人のおせいがいて、どうやら二人の間に子供が生まれているらしかった。

葛西の田舎には、正式な妻も子供もいるのである。そんなところに愛人を連れて行って、葛西が死んでしまったら、どうなるか。孤立した愛人と赤ん坊は、見知らぬ土地で生きて行かねばならないのである。

広津和郎は、懇々と葛西に説き聞かせた。

葛西の妻と子は、実家に引き取られて暮らしているそうだから、今は愛人と赤ん坊の将来を第一に考えるべきではないか。もし印税のあてがあるとしたら、それはできるだけ大事にして二人のために取っておくべきではないか。

そういって葛西を納得させた後で、広津は改造社に出向き、月々葛西の愛人に生活費を払ってやるように頼んでいる。葛西善蔵は、この二、三ヶ月後に亡くなった。

これがチェーホフを愛した広津和郎のやり方であった。これが、終生の主義としていた散文精神による彼の生き方だった。彼は数多くの盟友を見送った後も、戦後に「異邦人論争」を展開し、松川事件が起こると不撓不屈の粘りを見せて戦い、独り衰えることを知らない頭脳の冴えを見せつけた。広津和郎は、76歳で没するまで現役の作家であった。

(4)

「年月のあしあと」が好評で毎日出版文化賞などを受けたために、広津和郎はこの続編を書くことになった。前作が宇野浩二の発狂・芥川龍之介の自殺のあたりで終わっているので、「続年月のあしあと」の方はそれ以後からスタートして太平洋戦争が終わるまでの期間を取り上げている。

前作には主として宇野浩二ら作家たちの生態がいきいきと描かれていて興味が深かった。だが、「続」を読んで興味をひかれたのは、広津和郎の女性問題だった。

広津の盟友宇野浩二は、ヒステリー女にいかに悩まされたかを「苦の世界」で事細かに語っている。広津もまた、40代の数年間をヒステリー女に付きまとわれ、心の安まる日がなかったのだ。宇野浩二は相手の女について書くとき、真偽を取り混ぜて描き、「真と偽の比率は、3対7」といっていたけれども、広津は事実そのままを書いている。その点、広津和郎は、愚直なほどに正直なのである。

広津和郎全集の年譜を調べると、広津44才の項に、「この頃、<続年月のあしあと>にX子として登場する女性との関係が始まる」とあり、そして、49才の項に、「この頃、漸くX子との関係を清算する」とあるから、X子との関係は足かけ5年間続いたことになる。時代からすると、昭和10年から、昭和15年に至る期間である。

X子は、「続」では次のような形で登場する。

< 彼女は数え年22で、女学校を卒業して丸の内の某会社
 に勤めていた.学校時代も優等生だった彼女は、一種の才媛
 といってよく、よく本を読む女であった。女学校を卒業後、
 その女学校で「源氏物語」を研究したのが始まりで、その後
 も引続き始終「源氏物語」についての文献を調べていた。或
 現代訳の 「源氏物語」を読んで、「この中では和歌が一番好
 いわ。何故かというと、和歌は訳してないから」などといっ
 たことがあったが、そういうところには、東京生まれらしい
 ウィットも覗かせた。>

子は最初ボーイフレンドの大学生と一緒に広津を訪ねてきたのだが、そのうちに一人でやってくるようになり、間もなく広津とX子は男女の関係になった。この辺のいきさつについては、広津は触れることをさけている。

X子と広津の関係は、彼女の同級生の間で評判になり、やがて女学校の教師の耳に入った。それで教師は、同窓会の席上でX子に忠告を試みた。すると、勝ち気なX子は、昂然とした表情でこう言ってのけた。

「私はきっと広津と添い遂げて見せます」

X子の態度がおかしくなったのはそれからだった。彼女は急に会社を辞めた。そして、広津の妻が広津に扶養されているからには、自分も広津に扶養される権利があると言い出した。これに対して広津が態度を決しかねているうちに、彼女は睡眠薬自殺を決行するのである。

広津がX子のアパートに行ってみると、彼女は布団を敷いて寝ていた。
(ああ、眠っているな)と近寄ってみたら、枕元にカルモチン(睡眠薬の名前)の箱がいくつも空になって散乱していた。広津はぎょっとして、かかりつけの医者に来て貰った。やって来た医者は、直ぐ胃を洗浄しなければならないが、手元にはそれに使うゴム管がないという。それで広津はゴム管を買いに夜更けの街に飛び出し、薬屋を片っ端から叩き起こしてみたが、目当てのゴム管を売っている店はなかった。

そこで再びアパートに引き返し、看護婦にも来て貰って大学病院前の薬屋でようやくゴム管を手に入れることができた。こんなふうにして徹夜で手当をして、やっとX子の命を取り留めたのである。

広津は、翌日X子の母宛に電報を打ってアパートに呼び寄せ、これまでの事情を説明した。X子の母は、早くに夫と死別し、女手一つで土産物店を開いて三人の子供を育ててきたしっかり者だった。彼女は広津の説明を、無表情で黙って聞いていた。そして、全てを聞き終わってから、ひとこと「それはご迷惑なことで」といった。

母の声を聞いて目をさましたのか、X子が甲走った声で叫んだ。


「お母さん、何しに来たのよ。さっさと帰ってよ」
「そうかい、帰れというなら帰りますよ」と母親は冷たくいって、広津の方に向き直り、「娘がああいいますから、帰ることにいたします」

そして彼女は何事もなかったように帰っていった。その後、X子の自殺未遂は何度となく繰り返されたが、母親をはじめX子の兄弟の態度は、何時でもこんな調子だった。結局、X子の問題は広津和郎が引き受けるしかなくなったのである。

X子は自殺を企てて広津を脅かすだけでなく、密かに広津の家に忍び込んだりするようになった。ある日、女中が二階で物音のするのを怪しんで調べに行った。すると、二階から真っ青な顔をした女が階段を下りてきて無言で外に出て行った。女中が、「この家には幽霊が出る」とすっかり脅えて語るのを聞いて、広津は暗然となった。彼には直ぐX子の仕業だと分かったのである。

そして、ついにX子は白昼堂々と広津の家に乗り込んで来るようになった。
広津が座敷に出て行ってみると、X子がにやにやしながら座っている。広津の妻が夫に尋ねた。


「こちらは、どういうお知り合いの方ですの?」

広津が苦り切っていると、X子がキンキンと響くような甲高い声で、


「広津さんとわたしは、愛し合っていますの」

広津の妻が、弘津に質問する。


「あなた、それはほんとうですの?」


それには答えず広津が黙っているのを見て、広津の妻は大体の事情を察したらしかった。


「これは三人で静かに話し合いましょうね」とX子に話しかけた。
「イヤです」

広津和郎は、この時になって、X子がとろんとした目つきをしているのに気がついて、詰問する。


「また飲んできたのか」


広津の妻が、怪訝そうに、


「どうなすったんです?」
「カルモチンだよ」と広津は噛んではき出すように答えた。


X子は睡眠薬を飲んで、乗り込んできたのである。

広津はX子の問題でへとへとになりながら、彼女を突き放してしまうことが出来なかった。彼が何より恐れたのは、X子が本当に自殺してしまうことだった。彼女は睡眠薬を飲むことから一歩進めて、砒素を飲むようになっていたのだ。それで彼は、相手が自暴自棄にならないように生活費に加えて小遣いまで与える。そのせいか、X子の金遣いが急に荒くなった。

広津が顔を出すたびに、X子の部屋にタンスや三面鏡が増えていく。注意をすると、「だってこれは市価の半値よ」と弁解する。


「いくら安くても、前もって相談してくれなければ困るじゃないか」
「だって、買ってしまったもの仕方がないわ」

X子の金遣いが荒くなったのは、物欲のためというより、広津が自宅に金を運ぶのを阻止する為らしかった。経済封鎖をして本宅の家計を破綻させる狙いなのである。広津は、自分がしばらく所在をくらませばいいかもしれないと考えた。X子が自殺騒ぎを起こすのも、彼の関心をつなぎ止めておくためだから、自分が姿を消せば相手も落ち着くのではないかと考えたのだ。

広津は、以前から東北の白河に行ってみたいと考えていた。それで執筆場所に使っていた「新宿ホテル」をひそかに抜け出して、汽車に乗った。そして白河に着いてから人力車を雇って、静かな旅館に連れて行ってくれと頼んだ。案内された昔風の旅館は彼の気に入った。これなら身も心もボロボロになっている自分を休養させることができそうだった。

久しぶりに熟睡して広津が目を覚ましてみると、何とX子が枕元に座ってにやにや笑っているのだった。彼女は、いつか広津が白河に行ってみたいと言っていたのを覚えていたのである。再び、地獄への逆戻りであった。

(5)

広津和郎がX子に悩まされている頃、広津家は別の悲劇に見舞われていた。
息子の賢樹が重い結核になり、腎臓の一つを摘出したものの、結核菌は残りの腎臓をも冒していたのだ。人工腎臓がまだ出現していない時代のことだ。腎臓を二個失えば、人間は死ぬしかないのである。その上、義母も乳ガンにかかり、遠からず亡くなることが予想されていた。そんな苦境にある広津を、X子は容赦なく追い回すのである。

息子の賢樹が亡くなった時、広津がX子に、「葬式を出すから一週間は家を出られない。どうか、その間はおとなしくしていてくれ」と、休戦を申し入れると、さすがに彼女も承知した。だが、二週間後に、今度は義母が死んだので同じ依頼をしたところ、X子は目を青く光らせ、鼻にせせら笑いの小皺を寄せた。

「また、一週間?──いいわねえ、その間、おうちで奥さんとチンチンカモカモ・・・・」

広津は、「バカ!」と言いかけたが、それを言ってしまえば速射砲のような早口でX子が口汚く逆襲してくる。彼はこらえているしかなかった。

X子の狂態は、日を追って激しくなっていった。
ある日、広津家のガラス戸めがけて、垣根の外から二つの石が飛んできた。その一つがガラスをガチャンと壊した後で、もう一つの石が飛んできた。

三日ほどたって、広津はX子のアパートに出かけて強く抗議した。しかし、X子はケロリとして、


「女の感情が動けば、破壊に決まっているわ。フロイドだってそういっているわ」
「一体、君はこんな生活をどこまで続けようというんだ」
「三人の一人が死ぬまでね」
「なに?」
「あなたか、あなたの奥さんか、わたしか、三人のうちの一人が死ぬまで」

その後、X子は広津が別れ話を切り出そうとすると、「何いってやがるんだ」というような罵声を投げつけるようになった。広津は書いている。

< そして興奮すると、彼女は立上って、髪をふり乱し、どう
いうわけか、着ているものを一枚々々脱ぎ捨てて、まっ裸
かになって、両手を拡げ、「さあ来い!」といって、今にも
掴みかかって来るような気勢を示し出す。それは一物も身に
つけない完全な真っ裸かなのである。彼女の歯については前
にも述べたことがあるが、前歯二本は普通の平たい前歯であ
るが、その両隣りの小前歯は、糸切歯と同じように先の尖っ
た犬歯なのである。一体が細面で鼻筋の通った整った顔立で
あるが、それが蒼白になって、ふり乱した髪を額に垂らし、
尖った四本の歯を剥き出して、痩せた丸裸かで、両手を掴み
かかるように拡げて向って来る恰好は、一種妖怪味を帯びた
異様な感じのするものであった。>

やがて、X子が教養も何もかなぐり捨てて、「こんなキズモノにしやがって」などと叫ぶようになったので、広津は相手と縁を切るため最後の手段に出るしかなくなった。世俗の定法に従って、あいだに人を立て手切れ金を払うことにしたのである。

彼は早稲田大学の後輩作家丹羽文雄に仲介を頼むことにした。広津は以前に、丹羽の一身上の問題について相談を受けたことがあったのである。丹羽が引き受けてくれたので、広津は当時としては大金の千円を工面してX子に渡すことを頼み、日本を後にした。作家仲間の真杉静枝の誘いを受けて台湾に渡ったのである。丹羽が交渉してくれている間、日本を留守にしていた方がいいと考えたからだ。

こうして足かけ5年に及ぶX子との関係を、広津はようやく精算することが出来たのだった。

広津和郎のような聡明な男が、どうして女性問題で何度も苦汁をなめることになるのだろうか。広津と親交のあった志賀直哉は、「広津君は年中、女という貨物列車を引きずっているみたいだ」と呆れていたし、身近な友人からも、「君のような浮気者の人情家というのが、一番困る」と苦言を寄せられていた。

広津は24歳の時、下宿屋の娘神山ふくと関係し二人の子供が生まれたので三年後に正式に結婚している。だが、その翌年には二人の関係は破綻し、ふくは二人の子供を連れて実家に戻り、夫婦は別居状態になった。二人は離婚しなかったから、形式上の夫婦関係は最後まで続いているが、以後広津が神山ふくと顔を合わせることはなかった。

広津和郎全集をとびとびに読んだところでは、広津は終始ふくに厳しい目を向けている。彼は一点の同情を示すことなく、ふくの無知やだらしなさを数えあげる。衣類はまるめて押入に投げ込み、ぬれたオムツを縁側に放っておいてシミを作る。そしてベットルームでの彼女の鈍感な所作まで作品の中に書きこむのである。その身勝手な叙述を読んでいると、これが周囲へのデリケートな目配りを忘れない公正でストイックな広津和郎の書いたものかと、驚かずにはいられないほどだ。

広津はふくと別居した後で、有楽町のカフェーで働いていた女給のM子を家に入れ、夫婦同様に暮らしている。広津と同居していた両親も、明るくて初々しいM子が気に入り、息子の嫁として温かく迎え入れている。

M子は信州伊那の貧農の家に生まれ、子供の頃から苦労を重ねてきた。小学校二年生の時、母親にそそのかされて他人の山に入り、栗を盗もうとして追跡され、転んだ拍子に木の根で額の生え際を突き刺してしまうという事故に遭っている。そして小学校を出ると直ぐ製糸工場へ働きに出され、繭を煮る熱湯を両手に浴び腕に引きつりを作るという災難にも遭った。

M子との生活も、6年しか続かなかった。広津が銀座のカフェー・ライオンで働いていた松沢はまと親しくなったからだ。この時期、出版業を始めていた広津は、信頼していた部下に現金その他を一切持ち逃げされて窮地に立っていた。広津が女性に溺れていったのには、こうしたことが背景になっている。彼は松沢はまだけでなく、新橋の待合「松竹」の女将をしていた白石都里や、N子と呼ばれる「情熱的な女」とも関係を持っていた。

錯綜する広津の女性関係は、結局、M子が家を出て行き、代わりに松沢はまがその後釜に座るという形で決着した。広津は両親を鎌倉の家に残し、はまとの住まいを東京の郊外の馬込村に求めて、新しい生活をはじめた。そして、はまとの関係は、彼女が亡くなるまで40年近く続き、世間的にははまが広津夫人ということになっている。ヒステリーのX子が敵意を燃やし続けた「広津の奥さん」は、このはまだった。

(6)

広津和郎には、未完に終わった「青桐」という奇妙な作品がある。
これは彼が4人の女性との関係を同時平行的に進行させていた頃、その女性関係の内実を率直に記した作品である。彼がこうした作品をおおやけにしたのは、彼の女性問題が新聞沙汰になり、

「作家広津和郎が失踪 心中の恐れあり」、

「第二の有島武郎事件か」

などと、書き立てられたためであった。

「青桐」によると、「失踪事件云々」の真相は次のようなものだった。
──広津は画家である友人Yに勧められて、白石都理が女将をしている待合を執筆場所にして原稿を書いていた。そのうちに、彼は女将と親しくなった。女将は長い間、Yを情人にしていたが、広津と親しくなると、彼女はYと別れると言い出したのである。

女将には正式に結婚している夫がいた。広津に恨みを抱いたYは、女将の夫に広津と女将が不倫をしていると告げ口したのだ。怒り狂った夫は、妻の経営している待合に乗り込んで大暴れする。それで広津は女将のために隠れ家を用意してやり、自身も宇野浩二のいる菊富士ホテルに移ることにしたのだった。

広津は女将と自分が姿を隠せば、いずれ夫の興奮も冷めるだろうと予測したのだったが、女将の夫とYは二人が姿を消したので心中するのではないかと心配しはじめた。彼らがあまりおおげさに騒ぎ立てたため新聞にかぎつけられ、紙面をにぎわすスキャンダルになったのである。

「青桐」を読むと、広津は女将のために過剰と思われるほどの配慮をしている。友人たちは、こういう彼の性癖を「広津の弱者擁護癖」と呼び、広津の女性関係がやたらにもつれてしまうのは、弱者を放っておけない彼の「男気」に起因すると見ている。

大体、広津和郎はすでに学生時代から一家を支える精神的支柱になっている。貧乏、兄の不行跡、継母と兄との感情的な対立などで、実母の死後、広津家は修羅場のようになっていた。評論家の松原新一は、こんな風に家庭が深刻な問題を抱えこむと、そのシワ寄せがしばしば家族の成員のうちの誰か一人のところに、かたよってやってくるといっている。

家族全員に対する冷静な目配りがあり、最後まで自分を持ちこたえる強さを持った人間のところに、シワ寄せが集中的にやってくるというのである。広津家の場合、女のきょうだいがいれば、姉か妹がその役割を引き受けたかもしれない。だが、広津の家では、そういう損な役まわりを引き受ける人間がいなかったのである。

学生時代の親友谷崎精二の語るところによれば、家庭内の地獄のような葛藤に疲れ果てた父の柳浪は、ある日、ひそかに広津和郎を呼んで、こうささやいたという。

「うちでは母さんなんか必要ないな。私はお前と二人だけで暮したい。二人で関西へ逃げて行こう。関西には知人がいるから二人で暮していける」

広津はこの時、父をいさめて一家の崩壊を防いだという。こうした彼の家父長的な責任感が女性との関係にもあらわれ、あまたの女性たちとの関係を必要以上に長引かせることになったのだった。

下宿屋の娘との関係を断つことが出来ず、そしてまた、ヒステリー女X子との関係をずるずる引きづり続けた広津は、4人の女との同時進行的な関係も適当に処理できなかった。N子は他の男と結婚して去っていったが、同棲中のM子、待合の女将白石都理、カフェー・ライオンの女給松沢はまとの関係はその後も続き、彼はそのどれをも切ることができなかった。彼は「青桐」のなかで、「M子とは妹として、白石都理とは親友として、松沢はまとは愛人として、三人の女との関係を持続させて行くことは出来ないものか」と虫のいい希望をもらしている。

広津はこの三人の女の中では、松沢はまへの執着が最も深かったらしい。「青桐」では、はまは、「淋しい、イタイタしい表情をした、じっと深く思い沈んでいるようなところのある女」として描かれている。

松沢はまは、かなり大きな宿屋の娘で、16,7の頃、同郷出身の有名な日本画家のところに行儀見習いのため住み込んでいた。しかし、家人の留守中に画家から暴力で犯され家に逃げ帰ってきた。家に戻ってみると、父は死亡し、残された母と弟二人が途方に暮れていた。はまは、どうせ汚れた身体だからと、金持ちの老人の妾になって家族を支えることにした。

覚悟して妾になったものの、毎日が辛かったから逃げようとすると、老人は短刀を見せて、「逃げたらこれで殺すからな」と脅す。はまは、その短刀で胸を刺して自殺を試みている。

傷が治ってから、はまは老人と別れ、母・弟と一緒に東京にやって来てカフェーの女給になり、一家の生計を支えてきたのだった。広津は、「この世では自分は幸福になれない」と信じているはまの、微笑がそのまま泣き顔に変わってしまいそうな表情に惹かれ、深い仲になったのである。

広津は、はまに正式な妻という名称を与えることが出来ないまま、40年近くを共にすることになった。「彼女は40年の間に、一つの不快な思い出も私に残さなかった」と広津は語り、彼女は空気や水のように自分を生かしてくれていたと感謝している。

はまは、つつましい女だったから、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左右衛門のエピソードを愛していた。松永安左右衛門は夫人に死なれたときに誰にも通知せず、一人だけで通夜をして、静かに茶をたてて夫人の霊前に捧げたのである。はまは、この話を持ち出して、


「まあ、何ていいんでしょう。私もそんなふうに送って貰ったら、どんなにうれしいでしょう」と言っていた。

その松沢はまが、64才になって、まるで不意打ちのように心臓発作で死んだのである。告別式が終わり弔問の客が帰ってしまったあと、広津は二階の自室ではまの遺品を整理していた。遺品の中に、鉛筆で短歌などが記した手帳があった。広津の目は、書きかけらしい二行の文字の上でとまった。

「よき人に逢いよき思い出のみのこりたり
     わが生涯は幸いなり・・・・・・・」

この文字を目にした瞬間に、広津は、「おれの生涯もこれで終わったな」と思い、階下に降りていった。階下にははまの甥の松沢一直がいた。松沢一直は語っている。

「伯父はひとりで二階にいました。二階の八畳の部屋に伯母の位牌と写真が飾られていましたから、たぶん伯父はその前でひとりになって、いろんな思いに耽っていたのでしょうが、夜遅くなって、下へ降りて釆ましてね、突然私の前で泣き出した。体をふるわせてワアッと大声で泣き出した。号泣でしたね、それは・・・」

この時のことを、広津自身も「春の落ち葉」という作品に書いている。

        

「わが生涯もこれで終ったか」
とそんな気がして来た。もし四十年の彼女
との生活に、彼女によき思い出をのこせたなら、そして彼女
をほんとうに幸福に思わせたなら、若し一人の人間に、一人
の女にほんとうにそう思わせたなら、それは一つの仕事をや
り遂げたと言っていい。

私は涙が出て来た。それが止めどがなくなって来た。いつ
私はこんなに泣いたろう。しかし妻に死なれた良人は泣いて
も好いのだ。誰にも遠慮することはない。これが人生で一番
悲しいことではないか。──実際、七十歳を越えて、こんな
に泣けるとは思わなかったほど私は泣いた。

        

広津和郎というのは、こういう男だった。しかし老年になって、妻を亡くした男の気持ちは、このようなものであるに違いない。